第6話

下品な色か。

酒を飲んで、デザートを食べて、さあ帰ろうか、といった…確かにそういったはずだ。

だが俺は裸であの場所に居た。

なぜ、あそこへ…

覚えていない。



「昨日、入院しちゃったのよ、お父さん」

盆からテーブルに料理を移す中、麗美が、つぶやいた。いつもより低い声だった。

「食事の後、気分が悪いって。先生の話ではあまりよくないらしいわ、転移もみつかっちゃって。今日のお昼に話を聞きにいって…」

食事を終えた子供たちの黄色い声がリビングから聞こえる。

「ゴメン…」

電話をとらなかったのは…とれるわけもなかったが…

「悪かった。具合は?」

「こっちの心配をよそに案外、元気にみえるし、すぐ退院だとは思うけど。母も心細くなってるから、しばらくは時間のある時、行ってあげようと思って」

「そうだね、そうした方がいい」

「毎回、子供たち連れて行くのもなんだから、時々は世話お願い。早く帰れる時はメールして頂戴、食事は作り置きするから」

「わかった、とにかく昨日はゴメン」

ほぐした鮭を身にお茶漬を啜り、腹が温まったのを期に、食べた食器を重ね、シンクへ立った。

「ほらほら、部屋に戻りなさい。お風呂もあるでしょ、宿題もあるでしょ」

「ママと入る、お風呂」

雄介がとことこと麗美に近づき、エプロンの袖を引いた。

「一郎さん、お風呂、先にいいかしら」

「どうぞ」

「私もママと入る」

朱莉もそういって、着替えをとりに奥へ行った。


いよいよ年貢の納め時かもしらん。

昨日のホテルの室内がよみがえり、女のことでウソをつきとおす程自分が豪胆でないことを理解する。しがないサラリーマン体質だ。

なら、調度いい。

会社を辞めようか。


一つ、気になるのは、あの日記に、女の文字が二つあったこと。

なぜ二つなのだ。ひょっとして、また誰か俺に美人局でもするのか。

彼女のほかに課の女性といえば、50過ぎの雑用係のおばさんがいるだけだ。まさか…


梅雨晴れの日曜日。

朝から騒ぎ立てる子供たちを連れ、まだ横になっている麗美を置いて、タクシーで10分程の公立公園に来ていた。クヌギや楠が雑多に整列する、見る風景もない公園だったが、中央に位置する芝生の平地がだだっ広く、ボールやフリスビーが遠慮なく投げられて、子供を遊ばせるのに適していた。

ネオングリーンのフリスビーに向かって、雄介は一目散に駆け出した。朱莉は一郎の投げたボールを手にとり、5年生になったらソフトボール部に入るんだ、と息のきれた声で、運動神経の鈍い両親から生まれたとは思えないほど、早い玉を投げ返してきた。

「ボクも、お父さん!」

まだ小さい、二人とも。麗美にまかせっぱなしの子育てだが、いいとこどりといわれるかもしれないが、これならずっと子育てしていたい。

ボールもフリスビーも、ふたつ相手にしても、40手前の父は息切れしないんだぞ。

大学まで続けていたテニスのおかげで、基礎体力はまだまだ残っている!、すごりだろ!父は!!

…勝手に喜ぶ。


「課長さん…」

え?

振り向いたが誰もいなかった。

「課長さん?ですよね、覚えてます?」

背中に接するように女が立っていた。気配が消えて、気づかなかった。

目が合った瞬間につよい動悸が走る。

「お世話になりました」

「…いえ…この度はご愁傷さまでした」

「ごめんなさい、お子様ですか…かわいいこと、邪魔してもうしわけありません。近くで用があってウロウロしていたら、課長さんをお見掛けして」

「そうですか…」

次の言葉が思い浮かばない。

面影はあった。

…つまり、あまりにも変わっていた。化粧と飾り物で見栄えをよくしていた。しかし今は、どこにでもいる、疲れた皺の刻まれた中年に堕ちていた。

女は、かの鰻弁当事件の被害者、丸一商事の部長だった。

「またご連絡差し上げてよろしいでしょうか」

「ええ、私は。全く…かまいません」

唾を飲んだ。

「それでは」

軽い会釈の後、やはりその面影はあったのか、ミディスカートをさっと翻しながら踵を返した。


翌日、さっそく職場に連絡があった。

今晩、会えないかという。仕事のことなら先方の会社に行くところだが、なぜか就業後に外で面会したいという。

月曜日から帰る時間が遅いと体にこたえる。なんとなく気が進まないが、丸一商事の部長の依頼とあれば断れない。


一郎は指定されたホテルのラウンジにつくと、ミルクティーを注文し、スマホを取り出した。

約束より20分早くきていた。麗美にはメールをしておいた。

彼女は電話で要件をいわなかった。また鰻事件をぶり返されるのか、あるいは死んだ旦那と、何か関係があるのか。すごみや嫌みはなかったが、暗い声で前のイメージとは程遠く、不安だった。

「お待たせ…」

女は気配を消して、突然、やってきた。

「しました」


「私、会社を辞めましたの」

彼女はコーヒーを啜って後、そういった。

そうですか、それ以外に答えは思いつかない。

「課長さんには関係ありませんわね、失礼しました。単刀直入にも申し上げます。これ見ていただけます?」

それ、を見た瞬間、全身から血の気が失せた。

顔がはっきり写っていた。男女が折り重なるようにブレもなく写っていた。

「ご自宅に投函させていただきました」

「僕はなにも!なにも覚えていないんです、何かの間違いです」

「事実ですわ」

精気のない顔で無表情に女は言い放った。

「どうして僕にそんなことを!」

「奥様、もうご覧になっていると思いますわ」

無機質な薄笑いで女はまたコーヒーを啜った。


誰もいなかった。子供たちの気配も。

薄暗い中で、遠く北の方角から、犬の鳴き声がした。主人が帰宅したのだろう、いつものようにキャンキャン、吠えている。

音のない暗闇のリビングで、その歓喜の遠吠えが一郎をぐさりと刺した。

女の文字が二つ。

日記はまた家族を狂わせていた。



「信じてくれるかわからないけど、覚えていないんだ。退職するから相談にのってくれって食事をして後、まるで覚えてないんだよ、信じてくれ」

麗美は黙っていた。絞りだしたような涙声が聞こえたが、言葉はなかった。

「頼むから帰ってきてくれ、嵌められたとしか思えない」

「…いまは無理」

電話は途切れた。

麗美が子供たちと出て行って、10日になる。

義父からは何も言葉はなかったが、家庭人だが豪快の所のある人だったから、男の浮気は甲斐性だ、くらいいってくれないか、などと馬鹿な考えも浮かんだ。

義父を通じて取り直してもらっても、後味が悪い。

麗美の性格からいって、ここは待つより仕方ないだろう。



昼休みが長く感じられる。早くデスクに戻って仕事をしていたほうが気がまぎれる。課長が休憩をとらないと部下には無言の圧力になるから、会社の方針として緊急でない限り50分の昼休みをとるように規定がある。

あれから、部長、いやもと部長か、から連絡はない。

何のために俺をワナに嵌めたのか。

辞めたうちの部下とどういう関係なのか。

頭が混乱し、落ち着かずに顔を上げると、喫煙の集団が煙を囲んで楽しくくつろいでいた。

学生の頃、1年だけ吸っていたタバコ、なぜか無性に吸いたくなった。

社ビルの屋上でバスケットコートで入社したばかりの、男女の社員がボールをパスしながら笑い声を交差させている。そこを隔て、喫煙組の野外灰皿が置いてある。以前は彼らをみるたび、税金ばかりとられて、依存からぬけきれないバカなやつらだと蔑んでいた。

顔見知りの3期後輩の男が目に入った。

「1本いいかな」

「課長、お久しぶり、どうしたんですか、急に」

「ちょっと…」

「課長がうちらの喫煙仲間に加わってくれるとは嬉しいなぁ、でも随分吸ってないでしょう、大丈夫ですか」

男はハッカの効いたタバコを1本、差し出した。

「これ」

一郎は100円玉を出した。

「いいんですよ、そんなけち臭い」

「たばこ、高いし」

「それより、ほら」

と男はライターをかざし、火をともした。

「どうです」

恐々と煙を口に入れたが案外、せき込まずに、ガムでも含んだような感覚になった。

だが、一分も経たないうちにめまいがしてきた。

「クラクラします?大丈夫、大丈夫、2本目もいきますか、お酒も欲しくなるでしょ、今晩行きますか、みんなで」

集団は、はじめてタバコを吸う悪ガキでもみるように、ニヤニヤとイタズラな笑みをとった。

中に一人、女がうまそうにタバコを斜めに向けて吸っていた。

タバコを吸うような顔にはみえなかったが、珍客に愛想をふりまくようにやはりニッと笑顔を一郎に向けた。タバコを吸う女は、普通、肌が荒れて化粧が濃い印象があったが、その女の容姿は随分、色が白くて歯の黄ばみも見えない。

「課長さん、飲み行きましょうよ、喫煙組は肩身が狭いから仲良くしてるんですよ」

女は赤くなったフィルターをこつんと叩いて、灰をきった。



「かんぱーい」

「くわぁーーウマ、まじでうまい」

タバコをくれた後輩は仕事の顔からずっとほどけて、ジョッキを一気飲みした。電気代高騰を理由にクーラーの設定温度を高めにして以来、社内が蒸し暑くなってしまったので、冷たい液体はより仕事の重圧を開放させる。

ビジネス街の近くの居酒屋、似たような客が詰め込まれたように席を埋めていた。店の側もわかっているのか、冷気をフルで効かせている。満席なのに一郎の目は風のせいで、乾いて何度も瞬きしないといけなかった。

「課長が来てくれてうれしいな、みんな知ってると思うけど、課長はね、筆頭専務と親しいんだよ、恐れ多い」

「へぇーそうなんですか」

女は相変わらず、タバコのフィルターを赤くして、うまそうに煙をはいていた。

「ってことは幹部候補生、そいで社長も狙えますね、すごいなぁ。その際は是非、タバコ派閥ってことで課長を応援しますよ。」

一郎は笑ってタバコを吹かし、身体が慣れたのか、めまいはなくなって、霜の粒が入ったビールを流し込んだ。

「課長の奥さんって、どんな方なんです、さぞかしお綺麗で…」

「あ、オレ、実は1回みたことあるんだ。ねぇ課長、あんな綺麗な奥さん、どこでつかまえたんです?スマホの壁紙にしてるでしょう、見ましたよ」

「へぇ、どれどれ」

酔いにかまけて、隣の男が内ポケットをまさぐりだした。

「ちょっとちょっと」

「見たい、見たい」

暖簾で隔てているだけで、喫煙エリアでは煙が天井にむかって濛々として、おそらく近くの客は閉口しているはずだ。皆、酒ばかりすすんで、なかなかツマミを口にいれようとしない。会社の不良連中はいかにも傍若無人にみえる。タバコもそうだが酒までどっぷりハマっている奴らだ。

からまれついでに気が大きくなったのか、一郎は指紋認証を押してスマホを渡した。

「ん?アレ?なんすか、課長、コレ?」

「ワタシにもみせてよ…」

奪い取るようにスマホを持った女が不思議そうに一郎に受け持ち画面を向けた。

太い、赤い、落書きのような、汚い印が画面を覆っていた。

それは忘れもしない、間違いなく、あの筆使いだった。

麗美と子供たちの顔を切れ味の悪い日本刀で、

「×」

が、赤い×が、無残にも画面を刻んでいた。

「返してくれ」

奪い取るようにスマホをつかむと、一郎は一万円札を2枚おいて、席を立った。

「悪い、もう帰る」

周りのタバコを吸う手がとまった。

隣にいたかなり出来上がった、男がかろうじて、

「課長、そんな水くさい…」

と腕をつかんだが、振り切るように一郎は踵を返した。

早足で出口に向かう一郎を追いかけるように、女が駆け足で肩を止めた。

「課長、また来てください」

とりなす女の表情は不思議なくらい柔らかかった。

怒ったことを少し後悔した。

「悪い、急に用事を想い出したから、みんなにも伝えておいてくれ」

「…さっきの写真、もし何か憑いているとしたら…ごめんなさい、でもご家族の写真をあんなふうに課長がするわけないから…」

気にしていない、そんなことじゃない、と装うのは無理だった。一郎の心労を理解しているように見える。はすっぱなタバコの絵とはまるで違う、優しい女だった。

「負けちゃだめですよ、課長、また飲みましょうよ」

「ありがとう」


あの、がらんどうの家に戻るのは憂鬱だったが、彼女の一声で淀んだ雲に、わずかに光が見えたようだった。

あの日記から始まった、すべては…

「負けちゃだめですよ」

呪いとか祟りとか、そんなもの信じるものか。

考えてみれば、日記といいながら、書かれているのは、きっかいな文字と赤く汚れたバツ印だ。

破り捨てればいい。破って燃やしてしまえ。

遺言とか形見とか、関係ない。守るべきは家族だ。


普段なら曇り空を気にして傘を持ち、足取りは重いはずだが、今朝は湿った歩道にいらつくこともなかった。

朝礼、会議、短くしろ。

これだから日本は労働生産性が低いっていわれるのだ。


デスクには昨日までとりかかっていた商社との折衝案件の書類が散っていた。仕事おわりに放っておくなんてあり得なかったが、タバコのせいで…いや、日記のせいでどうでもよくなったのか。

まあいい。

一郎はさっそく、獲物を捕らえるように引き出しをガサっと開けた。


日記はまっすぐ風呂敷の中に納まっていた。

「課長、お電話ですよ」

さっきからデスクの電話が点灯しているのに、気づかなかった。うるさいので音を一番小さくして点滅で合図できるように設定してあった。

しびれをきらした左向かいの部下が声をかけた。

「あ、すいません、はい、お待たせしました」

「キミね、困るじゃないか」

唐突だった。威圧的なその声が一郎を腰折れさせた。

「昨日、奥さんから直接、連絡があったんだよ。家庭で何かあったのかね…」

人事部長からだった。入社以来、大会議室でしか会ったことのない、社内で誰もが知る横柄な男だった。役職付きの社員だけに緊急用に幹部の連絡シートが配布される。

「奥さんから電話で、お義父さんが危篤らしいよ、すぐ連絡しろよ」

「それは…すいません、お手数かけました…」

電話口で深々と礼をいって、おそるおそるスマホを見た。せっつくような青い点滅が鞄の中で待っていた。

「もしもし、オレ、ゴメン…」

「…一郎さん…」

すすり泣きが漏れた。

「……済まなかった。すぐ行くから、病院なの?」

「…家にいるわ、これからお通やの準備」

「わかった」


弔問客がすでに線香をあげていた。義父の従兄弟らしい。しかし、この人物、なぜか盆も正月も出くわしたことがない。

「この度はご愁傷さまでした」

喪主の麗美に礼をした後、

「一郎さん、お久しぶり、結婚式以来だね」

すっかり失念していた。あわてて頭を切り替える。

「お久しぶりです、ご足労頂き、ありがとうございます」

「麗美さんから聞いてはいたけどねぇ、生前、お義父さんはね、キミがきてくれて安泰だっていってたよ、会社、是非よろしく頼むよ」

麗美と玄関口まで見送ると、

「大丈夫、大丈夫、ここで。色々準備あるでしょ、じゃまた落ち着いた頃に」

背筋の伸びた、随分、快活な男だった。

70はとっくに越えていると思うが、身のこなしが若いししゃれた礼服の着こなしも嫌みがない。

「品の良い方だね」

「最近まで大学の先生してたのよ、実はそんなに父とは仲良くなかったんだけど」

「え?そうなの」


弔問客は案外、多かった。

義父の顔の広さが窺えたし、実際、世話になった人も多かったのだろう、すすり泣きもぽつぽつと聞こえた。

「疲れてない?しばらく僕が応対するから休んだら、お義母さんも」

「そうね、子供たちをそろそろ寝かさないと」

線香の臭いが礼服に染みていた。麗美は空気を入れ替えるために、居間に据え置かれた仏壇と遺体の間を横着に飛び越えて、簾カーテンを半分上げ、窓を開放した。遺影の柔らかい顔が、はすっぱな麗美の行動を笑ったように見えた。

「悪いけど、お願いね」

9時近くになり、ようやく弔問は途切れた。腹はすいていたが、虚脱で食べる気がおこらない。

「忌中札とか灯りを見てきて。お腹すいたでしょう。奥で用意してあるから」

「ありがとう」

いつもの、といえば勘繰りすぎかもしれないが、喧嘩になる前の麗美の素振りに戻っていたように見えた。すぐにやり直せるわけではないが、義父の遺影の柔和さを見る限り、時間が解決してくれるように思う。

結局、麗美は戻らなかった。

義母への配慮もあろうが、会社の事務処理等、麗美が対応しなければならないという。

毎日、メールはくれた。子供たちの写真も送ってくれた。


待つしかないのだろう。

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