第5話
「そうか…」
一郎はポツリ、つぶやいて、ビール缶を握り一気に喉に流し込んだ。
「叱られるかもしれないけど…」
麗美は赤ワインで口を湿らせ、
「どこか遠くで預かってもらうとか…捨てちゃう?」
まさか!
遺言なんかどうでもいいんだろう。所詮は赤の他人…
……一郎は脳裏に浮かんだ言葉を慌てて止めた。
「僕がどうにかする。とりあえず、会社のロッカーにでも置いてどうするか考えるよ」
「ありがとう、会社なら犬もカラスもいないし…人間だって吠えるかしら」
「そうなるかも!」
日記に向かって大の大人が吠える姿は確かに滑稽だった。
二人で思い切り、無理強いかもしらない笑いをあげた。
「あと一押しなんでね、課長さん」
3回目の暁とのミーティングだった。さすがに毎回、料亭というわけにもいかず、今回から居酒屋の個室に変わった。それでも暁は遠慮せず、高い酒を何杯も頼んだ。本性があらわになったというか、他人の懐をあてにただ酒をくらっている。
専務は、おそらく提携会社との懇談と称して、経理にまわしているに違いなかった。
副社長は1か月もすると、会社に戻り、ただしやつれた顔でしぼんだ目をしながら会議に出席していた。
「女ときたら、カネですよ。しがない役人風情が上場企業の役員に抜擢されたわけでね、カネの使い方もわからず大金が入ってくるわけだから」
「暁さん、仮想通貨って知ってます?」
「ビットコインとか、イーサリアムとかいうやつですか」
「そうです、副社長、それに投資しているみたいです」
「ほぉ、そりゃまたなんで」
「うちの課の女の子がいってました。彼女は小金を趣味程度に投資しているようなんですが、たまたまネットの情報サイトで副社長と知り合ったと聞いてます、女性だから気を許したんでしょうね」
「それでうまくいってるんですかねぇ、その仮想通貨とやら」
「どうやら最近の不景気の波におされて、大損しているようです」
「ほぉ、そうですか。で、いくらくらい?」
感嘆の時、口をすぼめる癖のある暁はその後も、何度か、「ほぉ」と口にして懐から取り出した手帳にメモをした。
具体的な額まではわからないが、その社員によると、
「外車が一台買えるくらい、とかいってましたから、どうなんでしょう。数百万ですかね」
「なるほどね、それでその社員の名前を教えてもらえますか」
「それはちょっと…」
「いや、大丈夫ですって、課長さんに迷惑はかけません。こっちもプロですから安心してください」
暁はそういって、徳利を傾けたが、もう残っていないのをしると、ぺろぺろと舌を出して、徳利のフチを舐めまわした。
「これ以上、酒入ると寝ちゃうから、これくらいでお開きとしましょう。情報ありがとうございます、またおいしい酒、のみましょうヤ」
「キミ、あの日何があったのか詳しく教えてくれ」
「いかがしました、専務」
「だから!先日、暁と飲んだろう、その時何があった」
電話向こうの男の声に焦りと怒りが滲みでていた。
「副社長の件で、仮想通貨の話をしました」
「それだけか、他になにかなかったか」
「うちの課の女の子の名前をいいました」
「もっと他にあるだろう、例えば、暁の体調はどうだった?顔色がわるかったとか、覇気がなかったとか、」
「いえ、いつものように元気で、お酒もすすんでいました、専務、暁さんに何か」
「もういい、わかった。いったんこの件は中止だ…死んだんだよ、暁は!今警察が自殺、他殺の両方の線で調べている」
「え?本当ですか!」
「こんなこと、冗談でいうものか。キミの所にも警察がくるかもしれない、あいつのことだ、誰と約束したか、記録に残しているだろう。わかってるね、キミ!」
専務は一郎の携帯にかけてくる。「専務」の表示が出るたび、誰にも聞かれないよう、トイレに駆け込む。廊下を出てすぐの所にほとんど使われていない、便座つきの狭い男子トイレがあるのだ。
一郎は震えていた。
暁が死んだこと、についてではなく、あの日記が運命を示唆していたことに。
麗美にいわれて、日記を会社の事務机の奥に入れてしまっておいたのだが、他の書類を上からかぶせておいたのに、ある日のぞいてみると、なぜか紫の風呂敷がほどけていて、ここを引っ張れとでもいうように顔を出していた。
仕方なく、日記を取り出し、ページをぱらぱらとめくったが、何もない。
何もないと確信し、箱を閉じようとしたのに、もう一度確かめようと、右腕を強制されるようにページをめくらされた。
そこには赤い文字で、
溺
とあった。
デキ?オボレル?
「せ、専務、ひょっとして暁さん、溺れたんですか」
「オボレル?!酒をのんでバスタブの中に沈んでいたんだよ」
やはり…
専務が一郎をよどみなく、が鳴りたてていたが、もはや耳に入っていなかった。
暁が死んでのち、副社長の様子はふつふつと変わった。しがない役人上がりも、半年、1年と経ち余裕がみえてきた。そうした空気の転換、は彼の態度にも表れた。
「わたしのような者に会社経営が務まるはずもありません。気づいたことはお知らせください。そしてこの戯け者を叱ってください」
腰は常に低かった。けして偉ぶらなかった。創業者の指図なのか、あるいは長年の習い性なのか、か細い声でつねに周りを窺うように話した。
ただし…
こういう人間こそ、何を企んでいるかわからない、と猜疑心のつよい人間は考えた。その筆頭がかの専務である。彼は豹変し、周囲の嘲笑を物ともせず、副社長の後ろに並ぶことも厭わなかった。
月1の幹部会議がはじまった。
ヒゲをきれいに剃りこんだ創業者の満足気な顔が、隣の副社長の評価を物語っていた。
・・・またその話か。
挨拶がわりの社長の言葉はいつものごとく空気を濁した。
「・・・引退の身ではありましたが、創業以来の危機に株主様に押されるように復帰せざるを得ませんでした。・・・しかし私には昔のような活力はありません。年寄が保守的になるのは生物的な宿命です。だからこそ、いずれはここにいる誰かが会社を引き継ぎ、発展させてもらいたいのです。副社長と私はあくまでつなぎに過ぎない。会社の存続は皆さまの肩にかかっておるのです」
確かに、昔の眼光するどいガツガツした細い目は消え失せていた。しかし幹部の多くは創業者の発言の中に、老人なりの執拗さを感じていた。
どうせ身内で回すつもりだろう、社長の椅子を。
それが会議の空気が出した結論だった。
警察はどうやら事故死と判断したようで、一郎への事情聴取はなかった。
麗美に日記の件は話していな。話題にすればまた家庭に暗い影を落とす。
社内戦争が終わり、平凡なサラリーマン生活が復活し、帰宅後のビールでほっとする。子供の成長がなにより楽しみだし、義父の会社のプレッシャーはあるが、今はいい、なるようになるだろう。
あの日記は…
あいかわらずデスクの奥に仕舞ってある。上に、重石のように、プリントした会社の古いデータの束を積み重ねてある。捨てられない気持ちに矛盾を感じるが、みないでほっておけば、母の遺言を捨てたことにはならない。
「課長、今、よろしいでしょうか」
課で最も若い女性社員が一郎の前に立っていた。
「どうしました」
「明日から3日間、お休みいただきたいんです」
年末、年度末の繁忙期は過ぎた。景気の悪化がはじまっており、取引先との折衝案件もいくつか中止になっている。
真面目な社員で休みを申し出るのは珍しい。
「問題ないよ、総務に届け出してもらって、明けの出勤は来週の月曜からで」
「ありがとうございます」
ペコリと頭を下げた後、彼女は紙を1枚、そっと机に置いた。
{内密にご相談があります、退職の件です。今夜、駅前でお会いできませんか}
その文面を思わず口に出すところだったが、一郎が目を上げる前に彼女は自分の席に戻っていた。
運がいいのか、悪いのか、麗美と子供は実家で夕食をとることになっていた。その女性社員はあらかじめ、洒落たイタリアンの店を予約していた。
目立つような美人ではなかったのに、私服に変えたとたんに、いや新年会や忘年会でも何度も見た姿だったが、今日は各段に映えて見えた。
耳もとの小粒のダイヤが七色の光を照り返して綺麗だった。
「課長とこうやって食事なんて、光栄です」
え?何いうの?おっさん、べつに下心、ないよ。
とはいえ、男性優位の古臭い社風であっても不適応を起こさず、無難に仕事をこなしている様子には好感を持っていた。
「退職を考えているの?」
「ええ、長いことお世話になりました」
「理由を聞いたら、まずいかなぁ」
「私、結婚するんです」
「けっこん、結婚か、それはおめでたい。でも結婚しても仕事は続けられるんじゃ…」
「難しいですね、私のような女は…」
私のような、の意味がわからないまま、
「ボクは評価してたつもりなんだが、キミの仕事ぶり、社風もいずれ変わっていくから、年功序列なんて古いし…」
と、男女共同参画をそのまま書き写したようなセリフをいってみたものの、彼女は顔を少し崩しただけで、前菜のタコのカルパッチョを口に運んでいた。
入社8年目だから、大卒で今年で29歳、のはずだ。
「…実家は私がいうのもなんですが、真面目なごく普通の家庭です。父が銀行員で母は音楽の教師やってます。3人姉妹で、上二人はすでに家庭があって、子供もいます。二人とも中学の教員をしてます。私だけ、はずれて、企業に就職して、それでも父親はなんだかんだいって末の子がかわいいのか、実家に置いてくれて…それで行き遅れてしまったのかも…もう32ですし、数字が合わないですよね、私、高校卒業して、俳優を目指していたんです、3年がんばって、大学に入ってからも劇団員やってたんですけど…」
確か、某国立大学を出たと聞いていたが、ろくに受験勉強もせずに入学できたのだからよっぽど地頭が良かったのだろう、それにしても、女優志望だったってことか?道理で、あの会社で演技が通せたわけだ。
妙に納得して、メインのカモ肉をむしゃりと口に入れて、2杯目の赤ワインを飲み干した。
「もう、決めたので、引き留めても無駄、で、す、よ、課長」
酔いがまわってきたようで、饒舌で明るい本音がプンプン飛び出した。案外、明るい女だ。
一郎はそのたびに、残念だなぁ、の繰り返しで、気の利いた言葉は返さなかったが、それでも女は一切、つまらない顔はしなかった。
「課長、そろそろ、帰らなくて大丈夫ですか」
「ん?あ、え?ここは?」
デザートでコーヒーを飲んでいる、夢?あれは夢だったのか。
------部屋の明かりが目に優しい。というより、薄暗い。
天井に何の光か、白い点滅が丸をつくっている。
ここは…ここは一体、どこなんだ。
「課長、タクシー、呼びます?」
スマホの画面が1秒おきに光っていた。
「ちょっと、キミ、ここはどこなんだ」
一郎はあろうことか、薄いシーツをかけただけで、全裸であおむけになっていた。
それは、あなたが自分に聞くべきでしょう、女はそういう顔をしていた。わかっているくせに白を切る、おどけた子供の無垢な薄笑いだった。
そこはおそらく、ラブホの一室だった。麗美と結婚する前に、何度かいったことのある、程度の経験しかない、ピンクで品のないスタンドライトが壁の四隅を照らす所だった。
「キミは、僕に何を…」
「課長…もう、帰りましょう、タクシー、呼びますから」
女は何もまとわない上半身を背に、バスローブをさっと羽織って、ベッドから立ちシャワー室へ行った。
やったことのない、朝帰りに、麗美は黙っていたが、玄関を出る際にようやく、
「どこ行ってたのよ」
と不機嫌な顔を向けた。
「何度も電話したんだから、返事くらいよこしなさいよ」
「ごめん」
あれこれ、理屈をいえば玄関で立ち往生して、会話が伸び、喧嘩になる。
実際、今日は朝から取引先とのリモートの打合せがあった。
「帰ったら説明してよね」
バタンとドアを閉める音が一郎の後ろで聞こえた。
実際、一郎自身も何があったのか、ほとんど覚えていなかった。
出勤すると、彼女は来ていなかった。
そうか、休みをとっていたな…
翌日に顔を合わせる、妙な空気が発生しないだけ、バカみたいだが少し安堵した。
事務机に鞄を載せると、ごくわずかに三段目の引き出しが出ているのを見た。
鍵をかけているわけではないが、重要なものは一段目の引き出しで鍵をかけてあるし。
しかし座って後、想い出したような二日酔いのむかつきが出てきた。
またあの日記が顔を出していた。
女、女
日記にはそう書かれていた。
止めたくても、また、やはり、吸い込まれるように表紙をめくった。
「昨日、どこに行ってたのよ。困るじゃないの。食事、用意してたのに」
どうせ、実家の残り物だろ、といいかけて、
「ゴメン、上とのつきあいで変なところ連れていかれて、その店で酔いつぶれて寝てしまって…」
「変なところって、どこよ」
「変なところっていうか、ほら、京都にお茶屋さんって、あるでしょ、一見さんお断りみたいな敷居の高い所」
学生の頃、京都に遊びに行った記憶を何度も思い返しながら、必死にニセの情景をつなぎ合わせていた。無論、お茶屋の中は知らないし、友人が観光ついでに解説してくれたのを創作しただけだ。
「そこで日本酒をしこたま、飲まされて。多分、専務の2号さんか、なんかだとは思うけど…」
「もぉ、変なことに巻き込まれないでよ、あなたは不器用なんだから、下品な色に染まってもらっても困るわ」
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