第4話

「一郎さん、最近どう?」

用をたして冷蔵庫のビールを覗き込んだ時、後ろから姑が問うた。

多分、あのことだろう、とは思ったが、

「ええ、まあ」

と濁す。

もう何度同じことを聞かれたかわからないが、その都度飽きもせず変わらぬ態度で返している。姑もわかっているのか、忘れているのか一郎が訪ねてくるたびに最初の質問は一緒だ。

「うちの、も、そろそろねぇ。何分、血圧が高いし…女の城なんて世間様が呼んでるし」

(あなたがきてくれると頼もしいわ)

前は確か、そう続けて唇を緩めた。

麗美は下に妹が二人、どちらも見合った男と結婚し家庭を築いていた。ただ遠方に住んでいるため、実家を訪ねるのはもっぱら一郎の家族が中心だった。義父は麗美を溺愛しているし、跡を引き継ぐのも彼女だといっている。

一郎の方は跡を継ぐだの、長男、第一だの、田舎の因習とはかけ離れた典型的な核家族で、両親の生まれも東北かどこかで、とうに無縁仏になっていると聞いた。

下に弟がいるが、自由気ままに暮らしており、仕事を転々としているようでここ数年、会ったことがない。

確かに昨今の不況で会社は傾きかけていた。しかしそれはどこの会社も一緒で、金利があがって儲けているのは大手の銀行くらいだ。

景気のブレはもう何度も経験しているし、リーマンショックの時でさえ、リストラや早期退職を募集しなかった、そういう手堅い会社であったから、ボーナスの減俸は覚悟しなければならなかったが、先行き、そうそう不安を感じてはいなかった。


いつもの様子で終わるかとおもいきや、今晩は違った。

「うちのが、ね、あとでちょっと話があるって」

確かに今日はいつもより、食事が豪勢だ。覚悟を決めてなにか申し伝えたいのか、どことなく空気が引き締まっている。


「父はああいうけど、気にしないで」

「…そうだなぁ」

不動産業なんて、興味もなけりゃ、もちろんやったこともない。学生時代の引っ越しももっぱら手数料のいらない学生課の紹介に頼った。

「だけどいずれ、誰かが引き継がないといけないでしょ、案外、キミの方が向いてるかもよ」

「まさか、正社員でさえしたことないのに」

「いやいや、血は争えないから」

義父とはいえ、他人の城でいまさら新入社員として丁稚奉公をするのも気が引ける。なにしろ落ち着かないし、安月給でも大勢に囲まれた組織の方がまだいろんな緩衝が効く。

「あと5年、10年してさ、子供がちょっと手を離れたら、お父さんの所で働くのもいいんじゃない。少しずつ仕事を覚えてさ…」

「3人目もあるし、私じゃ無理」

運転役はいつも麗美と決まっていた。お古のワンボックスカーでは後部座席で子供たちが黄色い声で騒いでいる。

仕事より家庭を優先させる、麗美の物言いはそれをはっきり宣言していた。

結局、役回りは自分になるのか。

「それとね、母から聞いたんだけど、うちの父、この前病院いって、検査結果悪かったらしいの」

「悪いって?酒、飲んでたし顔色もよかったけど」

「大腸が良くないらしいわ」

麗美は信号を前にゆっくりと停車し、

「ちょっと、ちょっと、静かにしなさい。あんまり騒ぐと夜、寝れないわよ」

といったものの、育ち盛りの二人には耳に入らないようで、キャッキャと車を揺らし続けていた。

「今時、ガンだったとしても治るらしいから。とはいえ焦りが出てきたと思うのね」

いつもの雑談まがいのあいまいさで、結論の出ないまま、30分程の帰路は終わった。



「世襲はしない、とかいったのにな」

社長の不正、自死という会社の危機の中、創業者の会長はどこの誰とも知らない男を突然、副社長として抜擢した。

結局、身内以外は信用できないと踏んだのか、事業経験皆無の、もと役所勤務の甥を会社に入れたのである。

量販店で売っているようなグレーと白の、地味な格子のネクタイがその男の以前の職場での地位を物語っていた。薄い灰色のゴマのついた顎はたるみ、見るからに改革不要の、毎日ハンコをつくだけの定型業務に埋もれた役人の顔だった。

会長は社長に舞い戻り、会議の場では甥を右横に、かつての辣腕を振るうようになった。


部下は他にもあろうに、なぜか一郎はかの専務に呼びだされ、月に1度、多いときは毎週末、愚痴を聞くはめになっていた。

どの派閥にも属さない、欲のない男、無風の男として安心して社の悪口をいえる、とでも言いたげだった。

「甥の出番とは恐れ入ったよ。会長は3人の娘とはいずれも不仲だ。あの性格じゃ、身内も怖くて引き受けられないだろうて。挙句の果て、風采の上がらないあの男にお鉢がまわってきたということだろ。しかしキミ、こんなことで上場会社が成り立つかね」

専務は、ぐい飲みを布コースターに押し付け、恨みを晴らすようにゴリゴリと回した。一郎は毎度、毎度の聞き役でうんざりしていたが、これもサラリーマンの宿命と諦めて、適度に調子を合わせながら、苦いビールを口に入れていた。

社長就任のコースから外れ、もはやヘッドハントされる気配もなく、あとは60歳の定年退職を待つだけの悲しき初老の末路。

憐みの一方で、己を振り返れば、何年勤めようが専務になれるはずもなく、せいぜいお情けで部長に昇格させて定年というところが、精いっぱいの将来。

「キミ、何かないかね」

「あ、お酒が…今、店員を呼びます」

「そうじゃない、アイツの弱みだよ、あのもと役人の!変な趣味があるとか、社内で聞かないか?噂でもいいから。あんな、目に艶のない人間のことだ。自慢じゃないが、人間の査定は社長より勝っているつもりだよ。こうなったら、社長もろとも追い出すしかない。副社長が退任となれば株主も黙っていないだろう」

「うわさとか、そういうものは…」

「なら、探したまえ」

「探すって、私がですか」

「そうだよ、興信所なり使いたまぇ」

「…専務」

「このままではキミも危ないよ」

お人よしが仇になる。

のらりくらりとノンポリを貫いてきたのに。

酒を飲み干す専務の上唇が妙に黒かった。悪魔と密約でも結んだのだろうか。最後の戦いに巻き込まれてこっちまで危うくなる。

どうにか避ける方法はないものか。

「キミ頼んだよ」

タクシーを待つ専務はネクタイを緩めて一郎の肩を叩いた。


「いっそのこと会社辞めたら」

「…困ったよ」

「興信所なんて、なんでそんな探偵みたいなことまでするのよ。雇われ人の限界を超えてるわ」

そうはいっても会社は傾きそうだし、倒産はないにせよ、ひょっとして創業以来のリストラはあるかもしれない。

家庭での最近の話題はそろそろ朱莉に習い事でもさせようかという、無邪気なものだったが、一郎が無理に笑顔を作ってもうつむいた身体は次第に家の中を暗くする。細かいことを気にしない麗美だが、そろそろ限界だろうと声を優しくする。

「無理にとは言わないけど、父の会社もあるから…そこまでストレスかけられては身を亡ぼすことだってあるのよ、そんなの私、納得できない」

そういわれると、辞めて無職になっても、糊口を凌ぐ手段はあるのだからと妙な安心感の一方、会社がヤバい時に自分だけ逃げるのかと後ろ指をさされそうで、そっちも気分が乗らなかった。

結局、その優柔不断が仇となった。



「もしもし、私、アカツキって者ですが、課長さんですね。専務さんから伺ってます。ついては打ち合わせしたいんで今晩どうです?」

専務は勝手に興信所の手配をしていた。

電話越しのだみ声は、たばこ臭い容姿がすぐ目の前にいるような幻影を抱かせた。人の裏ばかりみて、世間を拗ねた目でみる卑しいヤツ…が脅してきた。


会ってみると、案外、こざっぱりしており、無精ひげも、ヤニの黄ばみもなかった。紺色のツイードジャケットを羽織って、インナーはモスグリーンのポロシャツに、ボタンをかけずに焼けた鎖骨を表にしていた。

「いやいや、課長さんも大変ですね、昨今、中間管理職の悲哀は仕事がらよく耳にしますよ」

「例えばどのような」

「ま、大抵はオンナですよ、女」

仕事の話に入る代わりに、暁は業界裏話を続けた。

普段なら多少の興味はもてようが、酒が入ってもそんな気分にはなれない。

「ホテルのラウンジのソファーじゃ、こんな話もできないですがね。あんなフカフカしたもんじゃあ」

ということは当初はそういう場所を選んだのだろうか。

中四国の出身らしく、語尾に学生の頃きいた地方出身者のなつかしい響きが混ざっている。

どうやら専務がこの、興信所の男に気をつかって、個室の料亭を用意したみたいだ。それだけカネをかけているということが何を意味するか…さすがに背中に汗が走った。

「わたしゃ、このビールってもんがどうにも口に合わなくてね、最初っから日本酒で失礼しますよ」

と一郎がまだビールのコップを一杯と空けないうちに、冷やのとっくりをうまそうに飲み干した。

「というわけでね、課長さんの立場もよおくわかりますよ。だからなるべく負担をかけないように、場合によっては助手もいますんで、心配なさらないでください。ターゲットのちょっとした様子でかまわないんでね、時々教えてもらえますか。いえいえ、今日は専務さん、こないですよ。僕らだけです。安心して、酌み交わしましょうや」


意外にも結果は早かった。

例の不甲斐ない副社長が突然、会社を休むようになった。

専務が小躍りする様子が目に浮かんだ。「天罰だね」などと一郎にメールを送ってきたりもした。

これで一山越えたかに見えたのだが、家庭に戻ればまた新たな難題が待ち受けていた。

「お坊さんが日記、預かれないっていうのよ」

久し振りに旨い酒を思う存分飲もうかと思っていた矢先だった。

小皿を運ぶ麗美が不貞腐れたように、

「まったく、私も飲もうかしら」

といった。

「預かれないって、だってお墓もあるし檀家のお布施もそれなりに出してるじゃないか」

「そうなの、なのにどうしても返すって。原因は犬らしいの、お寺で飼ってる犬が日記に向かって吠えてしょうがないって」

「なんで日誌になんか吠えるんだ。人に反応してるだけじゃないのか。寺なんだから出入りも多いだろうに」

「それが日記を移動させると、またその方向に吠えるんだって。別のお寺さんに相談して、試しに移動させたらピタッと納まって、代わりにその寺ではカラスが集まるようになって鳴き声だけじゃなくて境内が糞だらけになったって。結局、どこも預かれないということで、家族はおろかお弟子さんまで皆、返せ、返せの大合唱っていうから。お坊さんは平謝りしていたけど」

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