第3話
「緊急招集がかかったよ」
部長級以上の幹部がフロア奥の小会議室に呼ばれたらしい。社長、創業者の会長を含め、幹部に召集がかかったということは、今後の経営に何らかの問題が起こった証左だろう。
やはり株の暴落の影響を免れなかったようだ。
「課長、ちょっといいかな」
どこの会社にも派閥はあるもので、れいの鰻事件以来、ノンポリを貫いていた一郎にも、かの専務がなにかと引きをいれてきた。
「部長以上は減俸だよ。さすがに先物ヘッジくらいじゃ、損失をふせげなかったみたい。まったく購入部の連中ときたら、世界的な株安なのでどうしようもありませんって、開き直ってね。もうちょっと殊勝な態度ならこっちとしても助け船を出してやろうとも思ったが…」
ようは購入部が敵対派閥なので、あたかも彼らに非があるようにこちらに伝えて、社内に広まるのを待っているのだろう。
無論、一郎はこうした秘密ネタを社内に喧伝するつもりはない。
「それはそうと、課長、れいのレアメタルの海底探査の件は?」
「丸一との共同出資に関して、来月あたりに合同の会議を開く予定です」
「たのむよ、鰻事件の名誉挽回だからね、あ、そういえば、あの部長、ね、キミ、新聞読んだかね」
「いえ、」
「ほら自殺したろ、旦那」
「え、そうなんですか」
知っていながら無理やり忘れ去ろうとしていた弾みで、反射的にウソをついた。
「それで、先方から連絡があって担当が変わるって、どんなのがくるだろうね、お手柔らかにいきたいねぇ」
専務は自殺の件よりも、会社のプロジェクトに気が向いているようだった。というか丸一商事の関係者とはいえ、証券会社の社員の自殺なんて、株の変動でよく起こることで気にも留めていないようだった。
そうだ、関係ないのだ。一郎にも、家族にも関係ないのだ。
専務の態度が正しい。関係ない。
「とりあえず、社としても葬式には出ないと、キミお願いできるかね」
「え、私がですか、わたくしごときでは…」
「いやいや一人じゃないよ、社長と私と君とで」
「社長まで…承知しました」
「何もなかった」
麗美は安心したようにたわめたていた肩を落とした。
少なくとも、うちの家族には関係なかった。
「ねぇ、今日は…」
一郎がビールをとりに冷蔵庫に向かった時だった。
あれか、排卵日の…
何もなかったのだから。そう納得して、二人ともリラックスしている。
子作り中のお酒はよくない。知り合いの産婦人科の医者がいっていた。
「シャワー浴びてくるね」
その日は二人の安堵とともに無事一日が終了した。
よくもそんな、いけしゃあしゃあと…
証券会社の利益なんて現場が稼いでなんぼだ。その責任者にプレッシャーをかけないわけがない。
弔辞を読んだ人物が涙ながらに、早すぎる死をいかにも悔恨するように演技する一方で、会社がどれだけ保守的な経営方針だったかを言い訳がましく述べていた。弔問客の間にも、欠伸やら薄笑いやらがぽつぽつと浮かんでいた。
一郎の心の内がおそらくその場にいた多くの人間の感想だろう。
幹部二人のかばん持ちで緊張の連続だったが、社長まで苦笑するのを見て、一郎も気持ちを緩めた。
「うちの会社の反面教師にしたいものですな」
誰にきかれているかもわからないのに、専務は社長に耳打ちした。
社長がどの派閥に気持ちが向いているかは今日の所作でわかったが、狸親父とか社のラスプーチンとかいわれて、創業者の前社長から後継指名を受けた、手練手管の名人であろう現社長が容易に専務に肩入れするわけがない。
「帰りは蕎麦でも食べていくかね」
「良いですねぇ、社長、あ、キミ、ハイヤーを」
「ハイヤーねぇ、明日から普通のタクシーに格下げかもしらんなぁ」
社長のため息を尻目に一郎は配車の予約をした。
よくこんな店を知っているなぁと感心するほど、町の隅にある小汚い建付けの蕎麦屋だった。
「看板にだまされちゃいけないよ」
社長は常連らしく、
「来たよ、旦那」
と白髪交じりの、苔のような髭面の主人に、暖簾をくぐって声をかけた。
後から聞いた話だが、専務が子飼いに調べさせた所では、社長が2号さんとよく来る店らしい。そして来る時は10しかない席をすべて貸切って人払いをするという。確かにその日も他の客はいなかった。
「盛りで、いいよね?ま、それしかない」
社長はそういって笑った。
店の主人は、はい、とかすれた声でいったきりで、愛想も振りまかず、奥へ引っ込んでいった。
「さすがに財務省から監査が入るだろうね、どうせ社員の誰かがレバかけて、他にも損失が出てるはずだから。うちのようなのんびりした先物取引を心がけている会社がこういう時は強いわな」
専務はまったく、おっしゃる通りで、と、蕎麦の味を褒めると共に茶渋のとれていない急須を自らとって社長に継いだ。
「あ、すいません」
一郎が恐縮すると、
「蕎麦の味はどうだい?」
と湯呑を持ち上げながら聞いた。
「ええ、大変美味しかったです。十割なのに喉ごしがしっかりしていて、つゆもカツオだしが効いて…はい、大変美味しく頂きました」
「君、蕎麦の味がわかってるね」
「義父の家でよく頂くものですから、はい…」
「そば粉の選定から打ち方、蕎麦ってのは芸術品みたいなものでね」
それから社長の蕎麦談義がはじまり、その目がどちらかというと一郎に向いていたのを
(貴様、案外、取り入るのがうまいな)
専務の一瞬の苦笑いが現れたのを見て、一郎は
「そろそろ、次の予定が…」
と切り出した。確か会長も参加する緊急会議パート2だ。
「社長、そうでした、2時から会議が入っております、キミ、会計すまして」
「あ、いやいや、ここは自腹だよ。そういうのごっちゃにしちゃいかん」
社長はごそごそと椅子を引いて、奥へいって、
「じゃ、行こうか」と
へりくだった二人を後ろにした。
かの、10日目が終わろうとしていた。
考えすぎだったのだ。もともと日誌に書いてあったもので、読み飛ばしで気づかなかっただけなのだ。くるま、も、べんとう、もただの偶然だ。
2夜連続の夜の営みだった。3人目が早くできるといいな、年齢的にも今年、来年あたりが限界だろうし…
二人は互いに安心しきったように、行為の後、スヤスヤと寝入った。
夜中の3時過ぎだった。
夢が紛れ込まない深い睡眠のせいで、呼び出しの音がなかなか耳に入らなかった。
「おい、キミ…」
専務だった。
「大変なことになったよ…社長が…自殺した」
沈黙する一郎を覚醒させるように怒声は続いた。
「だから、死んだんだって、社長が!」
社長?社長がどうしたって?
昼間、蕎麦を、ズルズル、3人そろって、食べたばかりじゃないか。
雄介が寝返りをうつのが目に映り、そっと寝室を出る。
「よく聞いてくれ、購入部の奴ら、でっかい損失を隠蔽していたんだよ。社長まで咬んで!あろうことかその損失が公になる前に、空売りかけてたんだよ、社長が自社の空売りかけるって、どこまで汚ねぇんだ!会長が隠密で調査して、昼間の会議で見張り役の秘書が曝露したんだよ、え!、キミ、わが社は…」
いつの間にか、生まれ言葉の抑揚でまくしたてる。これを耳にしたのは数年前、経理部の課長が会社のカネを横領した事件があって以来だった。
「専務、申し訳ありません…私には…事情が…いかようにしたらよろしいでしょうか…」
電話向こうの声は裏返り、とめどなかった。
「ったく、こん畜生!あの社長、うちの株を、インサイダーじゃないか。許しがたいよ、裏切者だ。それで噂に感づいたファンドに踏み上げくらって…大損して…悪者退治してくれたからよかったが…まったく、あの野郎!狸じじいが聞いてあきれるよ、死ぬなら勝手に死んでくれ、なんで会社まで道ずれにするんだ!…ババ引いたよ…畜生!」
息粗く、肩で呼吸しているのが目に見える。
創業者の独裁体制の名残だとか、面従腹背だとか、株式公開にそぐわないとか、罵詈雑言は収まる気配がなかった。
罵声を塞ぐように一郎の魂は会話を離れ、その何もかもが、どこか遠くで聞こえているような気がしていた。
しかしいくら経っても、相変わらず怒鳴っている向こうの声が強力な引力で現実を突きつけていた。
「バツ」って、つまり仕事を失うということか、会社がなくなるということか…
「ところでキミ、至急、社長宅へ出向いてくれるか」
電車の始発はまだ先だ。薄給サラリーマンにはつらいが、後で会社が清算してくれると淡い期待をして、タクシーを予約した。
「だからどうしたのよ」
専務の怒鳴り声…いくらなんでも壁伝いに聞こえるはずがない。
いや、声はなくとも、麗美も心のどこかで不安を共有し、目覚めたのかもしれない。
なにもいわない一郎の寝巻の袖を麗美はしつこく引いた。
今でいうべきだろう。
「社長が死んだらしい。今、専務から連絡があって…至急、社長宅に出向くようにいわれた、喪服とってくる」
麗美は悟ったように一度頷き、朝食の用意に台所へ向かった。
「あ、いいよ、時間ないから」
「10分くらいはあるでしょ。コーヒーと目玉焼きくらいは食べなさいよ」
「…そうだね、そうする」
少し命令口調の、自分中心の抑揚がいつもの麗美だった。
まずは落ち着く、落ち着いて、毎日の習慣をこなす。
子供たちの安眠に気遣って、スタンドのルームライトの薄暗さの中、一郎は醤油の粒が浮いた2個の卵を、そそくさとかき込んだ。
「会長にとっては、会社は自分の子供みたいなものだから。信じてた社長に裏切られて、茫然自失だろうな。実直に育てたつもりが、これだからね」
通夜の後、居酒屋に連れ立つと、饒舌な専務はほんの10分も経たないうちに、3杯目のビールジョッキを頼んでいた。
「近々の問題は刑事事件に発展するかどうかだ。わが社、創設以来の危機だよ。軽く考えちゃいけないよ。まさに生きるか死ぬか、の瀬戸際だ」
専務は口角泡を飛ばし、付け出しの和え物をくちゃくちゃいって箸で運んだ。
「僕は社長に近いと思われているから、しばらくは厳しい。キミも覚悟したまえ」
え、なんで俺まで。
これだから無党派でいたのに。義父のいうことは正しかった。
義父は会社勤めの経験こそなかったけど、経済の生末が見えない時代だから、一つの派閥に足を突っ込むのは止めた方がいいと。歴史でしか知らない高度経済成長を体現している義父は一郎の性格をも、み越したようにアドバイスをくれた。
いざとなれば、うちの不動産会社を継いでくれ…
「時代だろ、時代。会社も古い体質から脱皮しないければ…」
それは暗に院政をしいている会長の追い落としを示唆しているようだった。
「ご苦労様」
夜中から駆け付けた一郎を他の社員が気遣って対応してくれ、夕方には社長宅を出て、専務の相手をして8時頃、帰宅することができた。
今日は義父宅で食事の予定だったが、麗美は子供たちを預け、家で待っていた。
「会社、危ないかもしれない」
淡々と夕食の小皿をそろえる麗美を前に、一郎は疲れもあって、蛍光灯の照り返す食台を見つめ首を挙げなかった。
「食べてから迎えにいこうかな」
「子供たちは後でタクシーで送り届けるって。ゆっくり食べてよ」
「ありがとう」
「会社なんて…家族がいれば十分じゃない。ね、そうでしょう」
家計の心配なぞしていない、おそらくは実家からもいざとなればウチに来いと言い含められている、裕福な妻ならではの、いいぐさ。それも大黒柱的な、昭和の人間的な、素質が自分にはまるでないことを見透かされて…
そして麗美は先走ったように一郎を気遣う。
「いざとなったら私も働くし、心配ないよ」
いざとなったら実家に援助してもらうよ、だろう。
ああ、いやだ、いやだ、そんなひねった考え方の自分が嫌だ。
一郎の消沈に反して、さっきから麗美はまるで沈んだ様子はない。表情は和らいで、今朝まで共有していた不安がなくなった感じがする。
一郎の横で、そそくさと炒めものを作るついでに、
「私、飲もうかな、いいかしら」
「え?ああどうぞ」
冷蔵庫に置いたことのない、缶酎ハイを取り出し、氷をいれたグラスに泡を立てて注いだ。
ゴマ油の香ばしいにおいがこちらにも届く。
豚バラ肉、八宝菜、人参、ニンニクを軽く炒めて、案外料理上手な妻だったと改めて思い起こす。
男のプライドなんて逆に疎ましい。家族が元気なら、どうにかなる。
俺がどうにかしてた。
大皿に載った中華風の野菜炒めに、木ヘラを添え、麗美は
「夫婦、水入らずもいいわね」
といって、グラスを一気飲みした。
「おいおい、お酒大丈夫なの。弱いのに、ホラ、アレも」
「赤ちゃん?今回はきびしそうだから、来月ね、よろしく」
「一体、どうしたの」
「え、どうしたのって、何が?」
「良いことでもあったのかって」
「だって暗くたってショウガナイじゃない。私たち、最近おかしかったよ。あの日誌に篭絡されて。おかしいよ」
「そりゃ、そうだけど」
「だから、もう1回、勇気をだしてめくって、お寺に預けてきた」
「…また見たの」
「そう、でも大丈夫だった」
「どうして」
「だって、まる、って書いてあった。バツの5ページ後くらいに。それでおしまいにしようと思いついたわけ。お義母さんの遺品だけど、ねぇ、その方がお弔いになるでしょう。あなたに無断でしたことだけど、私たち、最近、ほら、オカシカッタし」
口の中で2種の野菜の触感が広がった。お腹がすいていたことに今さらながら気づく。早朝の目玉焼き以来、ほとんど口にしていない。
「うん、そうだ。キミの言う通りだ。忘れよう」
「ビール、どう、ほらカンパイしよう」
第1章
了
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