第2話

「べんとう」のページから「バツ」のページまで10枚離れていた。

10日後に、なにか起こるってことか。バツって、罪と罰のバツなのか、ダメってことか、否定なのか。

いずれにせよ、悪いことが起こる。これまでとは違う、何かもっと衝撃的なことが起きる、そう考えるのが自然だった。



{日経平均株価の下落率としては過去10年間で最大です。多くの関係者から驚きの声が上がっています。中国の不動産景況が影響しているといわれ、世界的な不況が…}

「おかえりなさい」

一郎の顔つきは、恐らく、「バツ」はなかった、とうかがわせる。

麗美はテレビを消すと、ビールといつもの肴を盆にそえた。

「なにも、ね?ないでしょ?」

「うん…」

「よかった…」

それは10日後だから、と二人とも口に出しそうになりながら、相手の様子を気遣って、黙っている。

「今日はビールはいいや、ありがとう」

「食中毒の件は落ち着いたの」

「ああ、あれ、うん…社長がじきじき、詫びをいれてくれて」

課長になってから帰るのが遅く、土日といえば子供の相手もしなくちゃならないのに、麗美は気をつかって子供たちと実家へと流れ、大抵夕食まで食べて帰る。その間、一郎はぼーっとテレビをつけたり、スマホをいじりながらゴロゴロして身体を休める。

あちらはお金持ちの、孫が唯一の楽しみの不動産屋だから、このところ、ほぼ毎週の娘と孫の来訪によって、時折、夫婦仲を心配されるが、「仕事盛りの年齢だから」と義父がかばってくれて、その実、一郎抜き、を歓待している、と解釈している。

「1970年代に迫るインフレと共に不況がくると予想されています。その先行指標として、株の暴落が起きたのでしょう」

テレビや配信の映画をみながら、ごろ着くのが日曜日昼からの日課だった。

株の暴落は何度もニュースになっていた。経済に無頓着な一郎ではあったが、貴金属メーカーである会社の業績に影響することはわかっていた。調度10年前の、リーマンショックとやらの時はボーナスが半分カットされた。今回も業績悪化となれば減俸は避けられまい。

しかし、家族経営主義の会社は基本、従業員を解雇することなく、のらりくらりと、亀のような速度でそれなりに規模を成長させながら、スタンダード市場上場まで果たしていた。景気の上振れ、下振れはこの業界の宿命で、いちいち気にしてもしょうがない、そう思っていた。


カウチソファーのゴロゴロも、子どもたちが帰る時間となると、腰をあげなければならない。そういえばお腹がすいてきた。ビールのせいか、体重はふえてないが、お腹周りはふえてしまった気がする。中年の宿命だろうか。

麗美はいつも、実家での残り物を折箱につめて持って帰る。残り物といっても、大抵、お取り寄せか、お手伝いさんが作った、豪勢な夕食で、それはそれで楽しみなのである。

「新鮮なイカだねぇ」

格子の切り目の入ったイカの刺身、丸オクラの出汁ポン酢かけ、キャベツと小松菜の太白ごま油炒め…おそらく、すべて産地限定のお取り寄せ素材…自慢たらしくなるので麗美はいつものように、ただの残り物だといいはっていた。しかし学生時代、和食料理屋でバイトしていたからわかる。

子供たちは好みではないようだが、健康に気をつかって、義夫婦はいつもヘルシーな献立を用意してくれた。

「たまには一緒にいきましょうよ」

「そうだね、挨拶にいかないと」

食事と家族と、休息とで、いつの間にか、心配事も、「考え中」の不安から消えようとしている。

「おじいちゃんが勉強がんばったら、ゲーム買ってくれるって」

「ボクも、ボクも」

朱莉や雄介のちょっとばかりの笑顔で、引っ掛かって取れそうになかった心の淀みが流れていきそうな気がした。

しかしそれはつかの間の安心だった。


「今回は災難だったねぇ、幸い、部長さんも退院できたし、まったくあの鰻屋ときたら、3か月間の営業停止にくらったらしい。僕は軽症だったがね、それでも賠償金、ほしいくらいだよ」

「一時はどうなることかと、肝を冷やしました」

「まあ、次、いこ、次」

楽天家の専務は、かしこまる一郎の背中を軽く叩いた。

「専務、そういえば、株価の暴落で…うちも…」

「そうなんだよ、困ったもんだよ。先物でヘッジしてたからさぁ、傷は浅かったが…それでも大損だよ。これから緊急会議なんでね…あ、そういや、例の部長のとこの旦那さん、三村証券だったろ、なんかヤバいことになっているらしいよ。あの証券会社、親方日の丸でさんざん不祥事おこしているくせに、つぶれないんだよねぇ」

まだ新聞報道には至ってないが、景気敏感の会社に勤めていれば他社の不祥事はすぐ噂になる。


れいの「べんとう」の日から8日目だった。

「アっ!」

出勤前のゆったりとした朝をむかえ、一郎は煎れ立てのコーヒーを口に入れていた。

普段はたいして見もしない新聞を、欠伸をしながら両手で広げた時だった。

三村証券の社員の自殺記事、それもあの部長と苗字が同じ男が顔写真入りで載っていた。

「どうしたの?」

昨日の昼間、電車に飛び込んだらしい。


「バツ」の文字が心臓を射した。

関係ない。俺たちには関係ない。

麗美は一郎の目線に気づいて、記事を見た。

「そういえば、お父さんも最近、不動産の売れ行きが悪いって、こぼしてた。自殺だなんて…」

…景気後退から巨額の損失を生じ自殺した可能性がある…憶測が憶測を呼び…

でも、あなたに何の関係があるの、麗美の目は一郎に無言で問いかけていた。

「…旦那かもしれない」

「旦那?」

「この前話した、部長の…」

「でもうちには…冷た言い方だけど、関係…ないよね、そうでしょう」

二人とも同じ不安に侵されていることをわかっていながら、その言葉を口に出さなかった。

「関係ないわよ、関係ないはずだわ」

念を押す麗美の涙声が今にも悲鳴に変わりそうだった。

「…そのはずだ、…もう止そう」

一郎はカップの取っ手に絡んだ手をどうにかはずした。

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