ノアの旅

彩瀬あいり

ノアの旅


 朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。

 だからノアは、今日が「旅立ちの日」だとわかりました。

 ホログラムのキャスターが言葉を続けるなか、準備を始めます。


 ――ワシがいる場所へまでは、ここから七日ほどかかるだろう。世界が終わってしまうまえに、こちらへ来なさい。


「はい、ハカセ」

 今は近くにいないひとに向かって、ノアはそう答えます。

 日野イタル博士。

 ノアにとって、たった一人の家族です。

 ハカセは優秀な研究者だったので、「世界の終わり」について考えるため、遠くの町に行ってしまったのです。

 残されたノアはハカセの帰りを待っていましたが戻ってくることもなく、世界は終わりを迎えてしまいました。

 ノアは言いつけどおり、ハカセが待つ「昼の町」へ向かうことにしました。



 バス停へ向かいます。

 世界は動くことを止めてしまったので、この辺りはずっと「夜」です。

 誰もいないまっくらの町を歩き、バス停に辿り着きました。しばらくすると、箱型のバスがやってきました。

 ノアの前でバスは停まり、扉が開きます。タラップを踏んで入ると、内部はとてもカラフルでした。座面の布は前から順番に、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫となっており、七色のグラデーションをつくっているのです。

 さて、どこへ座ろう。

 ノアしか乗っていない、貸切バスです。

 やっぱりいちばん先頭に座って、行先を見ながら旅を楽しむのがいいと思い歩いていったところ、運転席に誰かがいました。

 無人運転のバスに運転手がいるなんて、驚きです。

「あなたはだれですか?」

「見てのとおり、迎えの運転手さ」

「ですが、あなたは山羊ヤギの頭をしています」

「それを言うなら、キミの足は機械でできている」

 たしかにそうです。

 ノアはハカセが作った機械人形です。

 機械のノアが動いて話しているように、山羊頭の男だって、動いて話したっておかしくはないはずです。

「さあ、座るんだ。立っているひとがいたら、バスは出発できない」

 ノアは先頭の席に座りました。

 運転席のあちこちにあるランプが、緑色に光ります。

 コンディション・グリーン。問題なし。

「出発進行」

 山羊頭の男がそう言って、バスは動きはじめました。



     *



 目的地を設定したあとは、すべて自動で動きます。昼の町行きの箱バスは、ノアの知らない道を走っていくため、すべてが新鮮でした。

 おもえばノアは、ハカセと暮らしていた町から出たことがありません。ハカセがいなくなってからは、外へ出ることすらなくなりました。

 次の町に入って最初の停留所が近づいたとき、バスが速度を落としました。乗車意思を示した「誰か」がいる証拠です。

 乗りこんできたのは、一匹の猫でした。


「まあ、驚いた。まだ残っているひとがいただなんてね」

「こんにちは、わたしはノアです」

「ワタシに名前はないわ。野良猫ですもの」

 猫は言いました。

 自分はかつて、幸せな飼い猫だったのだと。

 美しい毛並みが自慢だった白猫は、長い野良生活のおかげで、すっかり毛玉にまみれた、薄汚い灰色猫。

 近所の雑種猫たちはみんな飼い主と一緒に旅立ちましたが、白猫は違いました。

 お金持ちのご主人さまは、キラキラ光る宝石やたくさんの美しい洋服を準備しましたが、猫には見向きもしませんでした。


 ――持っていけるものは、限られている。余計なものはここへ置いていこう。


 白猫はひとりになりましたが、自分ぐらい美しい猫ならば、きっと誰かが連れていってくれると思っていました。

 まだら模様の猫、黒ぶちの猫、片足をなくした猫、目に傷がある猫。

 少しずついなくなり、猫は苛立ちました。


 ――ワタシのほうがよっぽど美しい猫なのに。


 すべての猫に嫉妬して、爪を立てました。

 そうしているうちにひとの数も、猫の数も減っていき、猫はたったひとりで残されたのでした。


「ニュースを聞いたわ。世界の終わりまで、あと七日なのでしょう? この世界に残っているのはワタシだけだと思っていたけど、バスが来て、あなたがいた」

「ねえ、猫さん。一緒に行きませんか? わたしはハカセに会うために、昼の町へ行くのです」

「昼なんて随分と見たことがないわ。最後に昼を見るのも素敵ね」

「猫さんは昼を知っているのですか? 光がなくてもまわりが見えるって本当ですか?」

「そうね。でもワタシの目は特別だから、夜だって平気よ」



     *



『おはようございます。世界の終わりまであと六日になりました』


 車内モニターに映されたニュースキャスターの言葉を、ノアは椅子に座って聞いていました。猫は座席のひとつを占領して眠っています。

 ゆっくり静かに走り続けるバスは、すこし斜めに傾いています。坂道を登っているようです。

 やがて周囲は、鬱蒼と茂った木々に囲まれました。枝を掻き分けながら進み、速度を落とします。次の停留所が近いようです。

 乗りこんできたのは、夜のような毛並みをした狼でした。


「なんと、驚いた。まだ残っているひとがいたとはな」

「こんにちは、わたしはノアです」

「俺に名はない。孤高の狼だからな」

 狼は言いました。

 自分はかつて、この山を統べていたおさだったのだと。

 逞しく力強い狼は、たくさんの動物たちを従えました。皆の前に立ち、戦いました。仲裁しました。人間たちを追い出したことだって、一度や二度ではありません。

 しかしあるとき、人間が仕掛けた罠に引っかかってしまい、足に怪我をしてしまいました。

 動けない狼は助けを呼びましたが、動物たちはみな逃げてしまって、誰も来ません。


 ――威張ってばかりいるおまえのことは、本当は嫌いだったんだ。


 この俺がいたからこそ生きていられたくせに、なんと薄情な奴らだ。

 狼は憤怒し、吠えました。

 そうしているうちに動物たちはいなくなり、狼はたったひとりで残されたのでした。


「ニュースを聞いた。世界の終わりまであと六日だと。この世界に残っているのは俺だけだと思っていたが、バスが来て、おまえがいた」

「ねえ、狼さん。一緒に行きませんか? わたしはハカセに会うために、昼の町へ行くのです」

「最後に昼を見るのも一興か」

「狼さんは昼を知っているのですか? 光で照らさなくても、遠くまで見ることができるって本当ですか?」

「暗いほうが獲物を狩るに向いた刻だがな」

 猫は狼を見ると毛を逆立てて、フシャーと鳴きました。狼はそれを見て牙を剥き、いまにも襲いかからんとします。猫は網棚へ逃げて、狼はいちばんうしろの席に陣取りました。

 山羊頭は運転席で言いました。

 出発進行。



     *



『おはようございます。世界の終わりまであと五日になりました』


 ニュースキャスターの言葉が響くなか、バスは山をくだり、ふもとに広がる大きな森に入りました。その昔、野生の動物がたくさん暮らしていたようですが、いまは静まっています。

「ここいらも俺の陣地だったのさ」

 狼が不遜に言うと、

「こんなジメジメしたところなんて、美しくないわ」

 猫が顔を洗いながら言います。

 ノアには「美しさ」がわかりません。整っているかどうかの判断はつきますが、数値化できないものは、どう解釈すればいいのかわからないのです。

「まあ、あなたってばイヤミね。そんなに美しい姿をしているくせに」

「わたしは美しいのですか?」

「ワタシは飼い猫だったのよ。人間の美醜にだって詳しいの。あなたはとても綺麗な女の子だわ」

「わたしは、女の子なのですね」

「雄か雌かも知らないなんて、おまえは変わっているな」

 狼が呆れたように言って、ノアはうなずきました。

 ノアは、自分が人間でいうところの十四歳の身体をしていることは知っていますが、いつ生まれたのかは定かではないのです。

 バスの速度が落ちました。どうやらまた乗客がいるようです。

 はたして次に乗りこんできたのは、リスでした。大きなしっぽを揺らしながら駆けこんできます。


「まあまあまあ、驚いたことですね。まだ残っているひとがいたとは」

「こんにちは、わたしはノアです」

「アタシはリス。みんなに置いていかれてしまった、可哀想なリス」

「置いていかれてしまったのですか?」

「そうそう、そうなの。ひどいことだと思いませんか?」


 リスは言いました。

 世界が終わるということで、備蓄に備蓄を重ねておこうとあちこちに食料を隠していたところ、動物たちに糾弾されたそうです。


 ――そんなに小さいくせに、ひとりで食料を独占しようというのか。分け与えるということを考えない、暴食者め。


「アタシはいつもうっかり隠し場所を忘れてしまうから、だからたくさん、あちこちに備蓄をしておくの。世界の終わりがいつ来るかわかりませんし、そのとき近くに備蓄があれば助かるでしょう?」

 頬に木の実を詰め込んで、モグモグしながらリスは泣きます。野良猫生活で食事の大切さを知っている猫は、リスに言いました。

「そんなにたくさん持っているのだから、他の動物たちに分けてあげてもいいじゃないの」

「なにを言うの。アタシのぶんがなくなってしまうじゃないの」

「リスが正しい。自分の獲物は自分で確保すべきだ」

 狼が牙を剥き、猫とリスをちろりと睨んだので、ふたりは網棚の上へ逃げます。

 山羊頭は運転席で言いました。

 出発進行。



     *



『おはようございます。世界の終わりまであと四日になりました』


 山を下りて森を抜けて、大きな町に入りました。ノアが暮らしていた町よりも、ずっとずっと立派な建物が並ぶ都市です。

「とても立派ですね」

「そう見えるのかい? 灯っていないネオンライトなど、なんの意味もありゃしない。車内のほうがよっぽど立派さ」

 山羊頭の男が言い、ノアは座席を眺めます。

「七つの色が並んでいますね」

「虹だ」

「ニジとはなんですか?」

「空にかかる光の橋だよ」

「夜空の星とは違うものですか?」

「夜に虹は見えない。昼間の世界で見るものさ。ノア、虹は好きかい?」

「見たことがないのでわかりません」

 ノアが言うと、山羊頭は沈黙しました。

 バスの速度が落ちます。次の停留所が近いようです。

 そうして乗りこんできたのは、虹のようにカラフルできらびやかな孔雀クジャクでした。


「やあやあ、なんてことだろう。我以外にも残っている者がいるなどと夢にも思っていなかったさ」

「こんにちは、わたしはノアです」

「我は孔雀だ」


 孔雀は言いました。

 他のなによりも美しい羽を持っている孔雀は、たくさんのひとに愛されていました。孔雀を見て感嘆の息をもらしたものです。

 しかし、世界の終わりが宣言されてから、事情は変わってしまいました。

 昼間がなくなり、夜の闇に包まれて、孔雀の鮮やかな色彩はすっかりくすんでしまったのです。

 そのかわり、夜を照らすライトがたくさん点灯しました。

 ただ光っているだけではつまらない。人間たちは、色とりどりのライトを並べて美しく彩りました。孔雀の羽を模したイルミネーションはひとびとを楽しませます。

 闇に没した孔雀は、すっかり目立たなくなってしまいました。


「我はここにいる。我こそが色彩のすべて!」

 孔雀は大きく尾羽を広げます。車内いっぱいに広がって、狼は顔をしかめました。

「邪魔なものを仕舞え」

「ふん、まっくろいいぬが偉そうに吠えておる」

「なんだと!」

 驚き固まっているノアに、山羊頭は言いました。

「あれは雄のみに許された求愛行動」

「求愛?」

「自分を選んでくれとアピールするのさ。僕に言わせれば、選ばれる側に立っている時点で、立場が低いと言わざるを得ないがね」

 それを聞いた孔雀は、キリリと鋭い眼差しを向けます。

「面妖な分際でなにを偉そうに」

「こう見えても僕はモテるんだ。女のほうが寄ってきたものだ。僕が選ぶ立場だったのさ」

「動物なのか人間なのか判らぬ者め」

 孔雀と山羊頭の会話を聞きながら、ノアは思いました。

 愛とは、なんだろう。



     *



『おはようございます。世界の終わりまであと三日になりました』


 色分けされた席に、それぞれ動物たちが座っています。狼は猫とリスを追いまわすのをやめたようです。

 ノアはいちばん前の席に座って、進行方向を眺めています。山羊頭の男は、ときおりハンドルから手を放して余所見をしていますが、目的地が設定されているため問題なくバスは進みます。

「山羊頭さんは、どうしてバスに乗っているのですか?」

「いきなりどうしたんだい?」

「ハカセは言いました。世界が終わるまえに来なさいと。わたしはひとりでバスに乗るつもりでしたが、そうはなりませんでした」

「このバスは、真に望んだ者の前に現れる。彼らは皆、それぞれの町から旅立ちたいと、最後の最後で本気で願った。口では否定しても、心は違った」

「こころ。わたしにはわかりません」

 ノアが言うと、山羊男は沈黙します。なにかを言いかけたとき、バスがまた速度を落としました。どうやら次の停留所が近いようです。

 開いた扉の外には、誰もいませんでした。

 ノアが首をかしげたとき、扉のふちでなにかが動いていることに気づきました。

「あら、なんてことかしら。無人ではない場所なんて、ひさしぶりね」

「こんにちは、わたしはノアです」

「わたくしは蜘蛛です」

 たくさんの足を動かして、ワサワサと動いた蜘蛛が車内に入ってきました。

 蜘蛛は言いました。

 ずっと糸を編んでいたけれど、誰の目にもとまらないことで、やりがいが感じられなくなってしまったと。

「わたくしの糸はとても丈夫ですし、美しいと評判です。離れた場所を繋ぐことだって得意ですの」

 蜘蛛は糸を吐き、座席と座席のあいだ、天井と網棚のすきまを繋ぎます。透きとおるほどに細い糸が、ピンと張りました。

「人間ときたら、わたくしを毛嫌いしましたわ。せっかくの芸術品をあっというまに壊していくのです。ひどいと思いません? ですからわたくし、ありとあらゆる場所に糸をかけて差しあげましたわ。誰にも壊されないから、たくさんたくさん作ったのですが、気づいたのです。壊されることで、もっと良いものをとやる気を出していたのかしらと」

 以来、元気がなくなってしまい、沈んでいました。

 しかし、世界の終わりが近づいてきたとき、最後にもういちど作りたいと願ったのだとか。

「そうしたら、バスがやってきたのですわ」

「このバスは、真に望んだ者の前に現れるのだそうですよ」

 ノアが言うと、猫が、リスが、狼が、孔雀が、黙りました。

 ですからノアは言いました。

「わたしがお誘いしてしまったため、みなさんも昼の町へ行くことになってしまいました。ですが、もしも望むのであれば、別のところへお連れします」

「おまえはなにを言っているんだ」

 狼が怒りを滲ませた声で言いました。

「俺は、俺のために行くと決めたのだ。昼を見ると決めているのだから、おまえのことは無関係だ」

「ワタシだって同じだわ。ワタシはご主人さまよりもっと素敵な人間に出会うために、新しい場所へ行きたいの」

 猫も言いました。頬袋を縮めたリスも同意し、あの孔雀までもが尾羽を畳み、鷹揚に頷いたのです。

 山羊頭の男が言いました。

「ノア。キミの望みはなんだい?」

「わたしにあるのは目的だけです」

 ハカセが命じたから、ノアは動き出したにすぎません。

「バスは望む者の前に現れる。それはキミも例外ではない。バスは、キミが真に望んだからやってきたのだよ」

 みんなが見つめるなか、ノアは沈黙しました。



     *



『おはようございます。世界の終わりまであと二日になりました』


 いつもと変わらない声色で、ニュースキャスターが言うのを、ノアは無言で聞きます。

 周囲の景色は、変わりはじめていました。いままでずっとまっくらでしたが、前方の色がほんのりしらんでいるのです。

 応じて車内の空気も明るくなりました。

 反発しあっていた動物たちは、自分の考えばかりを主張することをやめ、誰かの意見を聞くようになっていました。

 ですから、バスの速度が落ちたときも、次の乗客を出迎える気持ちになっていました。みんなで一緒に行こうと思っていたため、停留所で待っていた乗客に驚いてしまいました。


「……なんと、豪華な車だねえ」

 地面に伏したまま、枯れた声で驢馬ろばが言いました。

「こんにちは、わたしはノアです」

「ご丁寧に。儂は見てのとおり、老いぼれたロバだ」

「ロバさん。わたしたちは世界が終わるまえに、昼の町へ行くために旅をしているところです。ご一緒しましょう」

「ありがたい申し出だが、儂は耄碌もうろくした。乗り込むことも難しかろう。捨て置いてくれ」

「ですがロバさん。バスは停まりました。このバスは、真に望んだ者の前でのみ停まるのだそうです」

「そうか……。儂はまだせいにしがみついているのか、嘆かわしい」

 ロバは吐き捨てました。

 いままでの動物たちのように、他の誰かを羨んだり、蔑んだり、妬んだりするわけではなく、年老いたロバは、己自身に向けて言葉をぶつけました。

 会話をすることすら辛そうなロバを見て、狼はバスを降りると、ロバを背負おうとして失敗します。猫とリスはそれをなんとか手伝おうとしますが、うまくいきません。

「わたくしに任せてちょうだい」

 蜘蛛が糸を吐き、細かくて頑丈な網を作りはじめました。

 どこからか吹いてくる風のせいで、ゆらゆら揺れて紡ぎにくい網を案じて、孔雀が大きく尾羽を広げて風を遮ります。完成した頑丈な網をつかって、ロバを包みます。狼だけでは大変ですので、ノアは彼を手伝うために手を差し伸べました。

 それでもやっぱり、身体の大きなロバをバスに乗せることは困難でした。

「キミの身体は重量物を運ぶようには作られていないのだから、無理をしてはいけないよ、ノア」

 太くて長い男の腕が伸びてきて、ロバを支えます。

「山羊頭さん、運転席から出られたのですね」

「あの場所から動いているのを初めて見たぞ」

「いささか疲れますので、あそこから動くことはしたくないのですが、可愛い女の子の願いごとは叶えてあげるのが男というものです」

「雄の本能として分からなくもないが、あの雌では子孫は望めまい」

 孔雀の言葉に、山羊頭は返答を避けました。

 頑丈な蜘蛛糸の網でしっかり支えて、みんなでロバをバスへ乗せると、ふたたび走りはじめました。

 バスの中では、みんなが話しかけます。蜘蛛が作った柔らかな敷布に横たわるロバに、リスは備蓄の食料を分け与え、猫と狼は舌を使ってロバの毛並みを整え、孔雀は羽根を広げて風を送ります。ノアはロバの近くに腰を下ろし、話し相手をつとめました。

「ロバさんは、どんなロバですか?」

「駄馬にも等しいロバであった。馬に比べて儂は動きが鈍くてな。怠惰なる日々を送っておったよ」

「私の持つデータに照らし合わせても、ロバと馬は異なります。性能に差は生じますし、個体差もあると考えられます」

「ああ、そうだね人間のお嬢さん」

「わたしはノアです。わたしは機械です」

「だが、おまえさんからは生命のエネルギーを感じるよ。それは、人間が持つ生きるちからだ」

 ロバは疲れたのか、瞳を閉じました。

 ノアがもういちど話しかけようとすると、狼が制止します。

「寝て治すのが、生物のさがだ」

「……眠りから目覚めることは、あるのでしょうか」

「あるさ。それが、生きるちからだ」


 ――わたしにも、そのちからはあるのでしょうか


 身の内に湧いた疑問を口にすることもなく、ノアはロバの近くで座ったままで過ごしました。



     *



『おはようございます。世界の終わりまであと一日になりました』


 ゆっくりと上下する躰は、ロバがまだ生きている証です。

 バスは速度を上げます。昼の町が近づくにつれ、前方はどんどん白みはじめます。

 それまで平坦だった道は悪路となったのか、バスは振動を繰り返しました。

 ノアは、運転席の山羊頭のもとへ。気配に気づいたらしい男は、くるりと頭部をこちらに向けて問いかけました。

「大丈夫かい、ノア。痛くはないかい?」

「わたしは機械です。痛覚はありません。ですが、ロバさんが心配です」

「彼のことを案じているのだね。困った。良い傾向なのに、妬けるな」

「なにが良いのでしょうか」

「ロバのことを心配するのは、キミの心だ。感情だ」

「感情?」

 ノアは機械で作られているはずなのに、どうしてそんなことが起きるのでしょう。

 さざなみのような動きが、ノアの体内に広がります。

 イレギュラー。

 視界になにかがちらつきました。

 見知らぬ誰かの声が聞こえてきました。


 ――これは人類にとって新しい挑戦。

 ――しかし機械の臓器を埋め込んで、身体のほとんどが人工物で、それでもこの少女は人間といえるのか。


 人間と機械の中間点。


 ――それでもワシは、おまえがいることを嬉しく思うよ、ノア。


 ハカセの声を、顔を、思い出しました。

 日野ひのいたる博士。

 ノアを作った、ノアの家族。祖父のような存在。



 ノアは十四歳のとき、とてもめずらしい病におかされ、命が危ぶまれました。

 奇病の専門家にして第一人者であった日野博士により、ノアは損傷した臓器をすこしずつ機械に置き換えていきました。皮膚を培養し、血管を繋ぎ、義足を用い、ノアは命を永らえながら、十年のあいだに、すこしずつ人間の部分をなくしていきました。

 奇異な目で見られるうちに、感覚を遮断することを覚えました。

 身体とはうらはらに、心は死んでいきました。

 それでも優しい博士がいれば、ノアは幸せだったのです。


 ふたりだけの生活に、ある日から闖入者が加わりました。年老いた博士をサポートする助手の男です。

 男はノアに興味を持ち、あれこれ質問を重ねました。

 ノアは二十四歳になりましたが、身体は十四歳のままです。二十八歳の彼と並ぶと、どこか親子のようです。

 彼はノアを慈しみ、その想いはいつしか、患者に対するものでも、娘に対するものでもなくなりました。

 それに気づいたとき、ノアの心は何年ぶりかに動いたのです。


 さざなみ

 エラー

 感情

 愛


 機械の自分には要らないものだと捨てたはずのもの。

 ノアは混乱し、思考を閉ざし、現実から逃げ出したのでした。

 すべてを忘れ夢の世界で暮らしていましたが、博士の手によりこうして覚醒に向かっています。


 人間か、機械か。

 目覚めたとき、自分はどちらを選択するのか。


 ノアは思考しました。



「ノア?」

「……あなたは、誰ですか」

「僕は山羊。色欲に狂った罪人だよ。そして、キミを日野博士のもとへ導くためだけにここにいる」

 表情は伺えないけれど、哀しそうな声色で答える山羊頭の男に、ノアは手を差し伸べて触れました。

「わたしはずっと怖かったのです。ハカセ以外に、わたしを人間として見てくれるひとがいることが、嬉しいと同時にとても怖かった。わたしは半分以上、人間ではないのに、あのひとはすべてが人間です。誰もが誉めそやす美しい顔をした男のひとです」

「どんなに顔が美しくとも、心が醜ければなんの意味もない」

「そうでしょうか。誰しも変わることができるのだと、動物たちに教わりました。心をなくした機械だったわたしに、空にかかる虹の美しさを教えてくれたのは、助手さん、あなたです」

 ノアが告げると、山羊頭の男はピクリと肩を震わせました。

「わたしが望んだからバスが来たのだと言いましたが、その中にいたのはあなたでした。わたしが真に望んだのはハカセではなく、あなただったのです」

「ノア、そんなことを言うと、僕は愚かな勘違いをしてしまう」

 山羊頭の男は運転席から立ち上がり、ノアの両手を握りました。

 じわりと熱をもった、生きる者のあたたかさに心が震え、ノアは瞳を閉じました。



     *




『今日でこの世界は終わりとなります。おはようございます』


 ニュースキャスターが告げる声とともに、車内にたくさんの光が射しました。




     *



 あんまりにも眩しくて、まばたきを数回。

 瞼の向こう側にある光を感じながら、しばらく待機。


「おはよう、おかえり。待っていたよ、乃愛のあ

「はい、博士」

 目を覚ますと、見慣れた病室にいました。

 ベッドの傍には、両側に二本、角のように突き出した部分に配線を繋いだゴーグルをした男がいて、ノアの手を握っています。

 だから乃愛は、彼に言いました。

「おはようございます、八木やぎさん」

「おはよう、乃愛」


 今日から、新しい世界の始まりです。




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