満ちる、季節
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満ちる、季節
もしも。もしも、人間になれたら。髪を結ったり、お化粧をしたりしてみたい。
「……今日も、透明だわ。」
朝から重いため息をついたエレゼッタ・エシルは侍女のリズに呼ばれてクローゼットの前に立つ。
「今日はどれにいたしましょう?」
「今日も冷え込むので……その、赤いドレスにします。」
身支度を済ませると、鏡を見てもう一度大きなため息をついて、食堂に向かった。
エレゼッタは人間ではない。肉体の形は限りなく人間の形をしているが、頭の形は大きく違っていた。大きなガラス製のビー玉のような形や色をしている。“球頭族”と呼ばれている種族の一員だ。
そんなエレゼッタの家「エシル家」は、この国の筆頭の貴族のうち1つで、王宮の巨大書架の管理を担っている。
食堂に着くと、両親と兄、姉たちが談笑していた。急いで席に着く。
「おはようございます。遅くなって申し訳ありません。」
「おはよう、エレゼッタ。大丈夫よ、みんな今集まったところだから。」
笑っているであろう母につられてエレゼッタも微笑む。しかしそれは、相手には伝わらない。球頭族には表情を伝える術がない。
「ほらエレゼッタ、ベーコン好きでしょう?私の分も食べなさいな。」
「いいんですか、イライザ姉様……」
「いいのいいの。ほら、エレゼッタはまだまだ成長期でしょう?」
姉のイライザが球の中身を揺らす。どうやら、笑っているらしい。エレゼッタは、その美しく揺れる球の中身に羨望を抱いた。
球頭族は、12歳頃から球の中身が透明から変化する。中身の液体に色がついたり、花や星が浮かんだり……。どんな色になりどんな物が浮かぶかは個々の影響を受けたものによって変わる。その変化はだいたい15歳くらいまでに終わるのだが、エレゼッタは14歳になっても透明なまま、何一つ変化していない。優しい家族は何も言わずに見守ってくれているが、エレゼッタにとってはそれが逆に苦しかった。いっそ誰かに責められれば……エシル家の、球頭族の面汚しだと言われれば、自分が自分に対して持っている感情に相応しくなるのに。でも、家族から送られてくる視線は、柔らかく温かいものだった。
(私も、早くみんなみたいに……)
エレゼッタは、ちらり、と姉を見た。星月夜のような色が揺れて、浮かぶ星々は今日も輝いていた。兄を見る。コーヒーのような香ばしい茶色に、歯車がゆっくり回っていた。母はマゼンタ色の花が浮かび、父は夏のような若葉が踊っていた。エレゼッタただ1人が、何にも染まらせてもらえずに、透明な球のままだった。
午後、イライザ主催の、兄妹たちだけのお茶会がティールームで開かれた。エレゼッタがティールームに入ると、いつも主催者よりも先に来ているはずの兄イアンの姿は無く、イライザが1人でお茶の用意をしているだけだった。
「いらっしゃいエレゼッタ。さあ、座って。」
ティールームの円卓には、主催者であるイライザが好きな茶菓子のジャムタルトが並んでいる。宝石のように輝くジャムは、とても美味しそうだ。
「あの、イライザ姉様。イアン兄様は?」
「イアン兄様は仕事が片付かないんですって。もしかしたら来ることができないと仰っていたわ。いただきましょう。お茶が冷めてしまうわ。」
イライザは、エレゼッタのティーカップに温かいお茶を注ぐ。寒い冬に合わせたディンブラのミルクティーに、シナモンを少々。
「おいしいわ。冬の味がする……」
エレゼッタの言葉に、イライザはふふふ、と球を揺らした。
ティールームの窓から庭がよく見える。薄く曇った空を見て、エレゼッタはまるで自分みたいだと思った。庭には雪が積もっていて、周りの音をも白く染めていた。
やはりイアンが来ることはなく、しかしお茶会は和やかに終わった。
エレゼッタは、平穏に安心しながら自室に帰っていった。途中、廊下に設置された鏡の前を通ったとき、視界に自分が映った。何にも染まることができていない、透明なままの自分。そして、思い出すのはゆらゆらと輝く姉の球。
(どうして……私だけ……)
思考は振り出しに戻る。
(もしも人間なら、こんなことで悩まなくていいのに。)
顔がはじめからある人間なら、透明ではない顔を持つ人間なら、こんなことで悩む必要なんて無い。おまけに、表情も伝えられるし、髪を結ったりお化粧をしたりと、おしゃれの幅も広い。それは、今のエレゼッタにとっては何よりも甘い蜜のようなものだった。
そんな考えが残ったまま3日後、エレゼッタが主催をするお茶会の日になった。2日前からお茶とお菓子の取り合わせや場所についてしっかり考えて、少しでもいいお茶会になるように努めた。
会場である温室のテーブルにジャムサンドクッキーのお皿を並べていると、エレゼッタの肩に蝶が止まった。
透明なガラスの半球でできた温室では年中蝶が舞い、色とりどりの花が咲いている。エレゼッタはこの場所が好きだった。この場所にいる間だけは、自分が空っぽであることを忘れられた。
(今日も、綺麗ね……)
温室に咲く花の甘い香りとはちみつを入れたアールグレイはよく合うはず。エレゼッタはぼんやりと考え事をしながら、兄妹たちが来るのを待った。
イアンとイライザが揃ってお茶会は始まった。甘い紅茶に酸味の効いたジャムサンドクッキー。そして、温室に静かに響く談笑の声。それは、平穏そのものだった。
3人が平穏を享受していると、外からメイドたちの騒がしい声が聞こえてきた。
「何事かしら。」
「せっかく静かだったのにな。」
イアンとイライザが何事か、と立ち上がる。つられてエレゼッタも立ち上がると、そこにメイドの1人が飛び込んできた。
「お逃げください!大変です!」
何が?─そうエレゼッタが口を開きかけた時……
ガッシャーン!
ガラスが割れる音。その向こうに、武装した人間。イライザが青ざめた……ように見えた。イアンはイライザとエレゼッタをかばうようにして、2人を逃がそうとする。
背の高いイアンが目の前に立った時……エレゼッタは思い出してしまった。
「セシル姉様……」
ぐらり
傾いた視界は平行に戻ることはなく、暗闇に飲み込まれていった。
目を覚ますと、夜になっていた。窓の外が暗くなっている。
寝台の横のサイドチェストに置いたランプが辺りを仄かに照らしていた。ランプの隣に「報告書」と書かれた紙の束が置いてある。なんとなく気が進まないけれど、エレゼッタはそれを読むことにした。
そこには、大方エレゼッタの予想通りのことが書かれていた。
球の中身が不老不死の薬になるという伝説を聞いた人間がそれを追い、攻め込んできたということ。警備の交代時間に生まれる隙を狙っていたということ。全員が縄についたということ。今後は警備の交代時間を工夫して隙が生まれないようにすること。
ぽたぽた、と紙束に雫が落ちる。
(私は……なんと恐ろしいものに憧れてしまったのでしょう。)
人間は、私たちの命を狙う存在だったのに。1滴、また1滴、と涙を溢す。そして、思い出したセシルの存在について、回想を始めた。
セシル・ヘリオトロープ・グランは、イアンよりも少し年上の従姉だった。セス、という愛称だったのをエレゼッタは覚えている。上品な薄紫色で球の中身を染めた彼女は、兄妹たちと仲が良く、頻繁にエシル家に遊びに来ていた。特にエレゼッタと仲が良かった。
あの日はセシルをエレゼッタたちの屋敷に招いてお茶会をしていた。お茶に甘いお菓子に談笑。エレゼッタに、懐かしい記憶が甦る。
そして……あの日も、今日と同じように人間が襲ってきた。まだ幼かったエレゼッタは、襲撃をうまく理解できずに逃げ遅れてしまった。
(そして、あの日……セシル姉様は、……)
キュッと胸が締め付けられるような感覚がした。嫌な記憶が濁流のように流れ込む。
セシルは、今にも命を奪われてしまいそうなエレゼッタを庇い、重傷を負ってしまった。そして、そのまま……。
(誰よりも私を愛してくださったセシル姉様は、私と人間たちのせいで……)
セシルが亡くなって以降今日までの約10年間、エシル家が……いや、球頭族が命を狙われる事件は起きなかった。まるで、人間たちがセシルの球で満足したかのように、静かな時間が続いたのだった。
涙が止まらない。何てことだ。憎い存在に憧れてしまった。セシルは自分が殺したも同然なのに、それを忘れて……。
自分が憎い。自分が憎い。自分が憎い。
自分が憎い。自分が憎い。自分が憎い。
自分が……自分の全てが……憎い。
エレゼッタの思考が黒に染まっていく。溢れる涙で寝間着や寝具が濡れていく。それも構わず、エレゼッタは涙を溢し続けた。
泣いた。朝が来るまで泣いた。朝を迎えても……昼が過ぎても……夜が更けても……。全身から全ての水分が無くなってしまうほど泣いた。それでもエレゼッタの気分は落ち着く気配を見せない。
泣いて、泣いて、泣いて、泣いて……泣き続けて残ったのは、曇った磨りガラスのような球だった。
鏡を見たエレゼッタは、自分が透明ですらなくなったことが悲しくて……それ以上に、セシルが再び透明な球を色で染めることができないことが悲しくて、自分が憎くて、涙を溢す。
「リズ、鏡台を撤去してちょうだい。」
「……分かりました。」
何か言いたげなリズの目に背を向けたまま、エレゼッタは全てを悲観して泣いていた。
エレゼッタが部屋にこもりきりになって、1週間が経っていた。
晴れた日の午後、エレゼッタの元にイライザが訪れた。
「エレゼッタ、今日は天気がいいわ。ティールームにでも行きましょう?」
「……嫌です。」
弱々しくもはっきりとした拒絶。今までに見たことのない反応を見たイライザは驚き、今までにしたことのない反応をしたエレゼッタは緊張で手が震えていた。
「分かったわ……。でも、エレゼッタの好きなジャムサンドクッキーを持ってきているの。せめて、部屋でお茶だけはさせてちょうだい。」
「……はい。」
エレゼッタは、しぶしぶとイライザを招き入れる。部屋は、掃除が行き届いているのにも関わらず空気がどこか重たく無機質だ。
2人はソファーに腰を下ろす。イライザがバスケットに入れていたジャムサンドクッキーのお皿を、目の前のローテーブルに並べた。リズが持ってきたお茶は、温かいダージリンのストレートだった。
「いただきましょう?」
「はい。」
エレゼッタの声に温度がない。重そうに曇った頭では、何を考えているかも分からない。
「エレゼッタ、何があったの?みんなあなたを心配しているの。」
「私は、みんなに心配される資格なんてありません。」
「ど、どうして……?」
「私は……命を狙ってくる存在に憧れてしまったんですよ?」
「そんなの、エレゼッタを心配する理由とは関係ないわ。」
イライザは、はっきりとエレゼッタの目を見る。エレゼッタはそれに緊張してしまって、目を伏せた。
「例え関係がなくとも……、私が、憎い存在に憧れたことや、それで自分が憎くて大嫌いだ、ということには変わりないわ……」
「人間が憎いのは分かるわ。私だってそうだもの。でも、私たちを狙う人もいれば、そうじゃない人だっているでしょう?そういう人にだけ、憧れたら?」
いい人にだけ?そんなことができるの?エレゼッタはそう思ったが、それを口にすることができなかった。
イライザが帰ってからも、エレゼッタはその言葉について考えていた。
(いい人なんて、本当に存在するの?)
だって人間は、勝手に嘘の伝説を作って命を狙ってくるじゃないか。それが原因で、もう残っている球頭族もエシル家とグラン家だけじゃないか。
思考はぐるぐると平行線を辿る。これに終わりが来ないであろうということはエレゼッタもよく分かっていた。それでも、やめることができなかった。
飲み込むことのできない言葉が、その場で宙に浮いていた。
(いい人間って……どんな存在なんだろう。)
エシル家には、純粋な人間はいない。侍従たちも人間以外の種族だったり、人間と人間以外の種族のハーフだったりしている。
(ハーフといえば……リズよね。)
リズは確か、悪魔と人間のハーフだったはずだ、と思い返す。リズはどちらの種族からも受け入れられずにいたため、逃げるようにエシル家で働くことに決めた、と言っていて、その話はエレゼッタも聞いたことがある。人間の血も引いているけれど、でも、絶対に私の命を狙ったりはしない。むしろその逆で、私にとてもよくしてくれている。
(つまり……リズみたいになればいいのかしら。)
以前読んだ小説を思い出す。確か、主人公は憧れの人物の生活を模倣していたはずだ。
(じゃあ、私も、リズの生活を模倣すれば、いい人に近付ける?)
模倣する、といっても何を?エレゼッタは考える。いくら主人とて、自分の侍女のプライベートにまで踏み込めないし、エレゼッタだってそこまでする気はない。となると、残りは、リズがエシル家で担当している仕事。
「そうだわ……!私が、リズの仕事を手伝えばいいのよ!」
そうと決まれば、明日からでも。若干短絡的な思考ではあるけれど、今のエレゼッタにはそれが一番の策だった。
リズに自分の考えを話すと、リズは快くそれを了承してくれた。
リズは、エレゼッタの侍女の他に、温室の管理も担当している。床を磨いて、植物と蝶の世話をするのが主な仕事だ。危険な作業はないためエレゼッタが手伝っても大丈夫だ、と判断したのだろう。
「こうして見てみると、エシル家の温室って結構広いのね。」
「ええ、これだけの数の花を植えるとなると、かなり広くなくてはいけませんからね。」
植物に水をあげて床のモップがけを終わらせると、花がら摘みをして回った。ふと見ると、割られた部分のガラスは修繕されていた。1週間。部屋にこもりきっている間に、家の中は落ち着きを取り戻していた。兄妹たちは再びお茶会を始めて、エレゼッタの元にもその招待は届いていた。エレゼッタは1人、その平穏から隔絶されたような気分になった。
(……ううん、揺らいじゃ駄目。私は、リズみたいなしっかりした人になるんだから。)
温室の手入れを終わらせた2人は、食用花で淹れたお茶を飲みながら休憩した。
「本当に、平穏に戻ったのね。」
「ええ、私もそう思っています。騎士団の編成も変わった、と聞いていますし、もう大丈夫だと思います。」
時間は止まってくれない。嫌でも進んでいく。エレゼッタは、それをひしひしと感じた。
エレゼッタは、温室の手入れが終わった後も温室に入り浸るようになった。花の香り、舞う蝶。綺麗で大好きな場所。イアンやイライザも、エレゼッタのために、お茶会の場所を温室以外の場所にするようにした。お茶会の招待は届くけれど、エレゼッタは参加したがらなかった。今のエレゼッタにとっては、温室の手入れと読書が一番楽しいことだったから。
自室の掃除と温室の手入れが習慣になってきた頃、エレゼッタは温室の鍵の複製を渡された。
「これで、エレゼッタ様もいつでも温室に出入りできますよ。」
こうして、更に温室に入り浸る時間が長くなった。深夜に温室から見える星空はとても綺麗だった。こうして、花や星を眺めているうちに、本当に平穏が戻ってきたことを肌で感じた。
(この平穏に……、少しなら身を預けてもいいかしら。)
まだ平穏を信じる勇気なんてないけれど。それでも、少しなら頼ってもいいような気がした。
1週間。2週間。3週間。
エレゼッタの掃除の手際がよくなっていく。
4週間。5週間。6週間。
花の植え替えを1人でするようになった。
7週間。8週間。
温室の管理人が、リズからエレゼッタに変わった。
エレゼッタが温室の管理人になって、約1か月半が経った。季節はいつの間にか春になり、柔らかく暖かい日差しで庭が満ちるようになった。庭木のレンギョウやミモザ、ユキヤナギ等が溢れんばかりに咲き、花壇ではチューリップやネモフィラ、アネモネがふわりふわりと咲いている。
「今日は、庭のあずまやで朝食ね。」
「はい!行ってらっしゃいませ!」
リズがやたらとにこにこしている。何かいいことでもあったのだろうか。それとも、春の陽気で浮かれているのだろうか。
「では、行ってきます。」
庭に出ると、イライザが既に席についていた。彼女はエレゼッタを見ると、まあ!と叫ぶような勢いで声をあげた。
「エレゼッタ、鏡は見ていないの?」
「ええ、見ていません。」
昨日も今日も鏡は見ていない。鏡を部屋から撤去した日以降、一度も、見ていない。
「今すぐ鏡を見て!」
「と言っても、ここに鏡は……」
イライザがすぐに自分の服のポケットを探ると、手鏡が出てきた。
「あったわ!これ、貸すから早く球を見なさいな。」
「そんな、私の球は曇っているのに……」
嫌々ながら鏡を覗き込むと、そこに映ったのは
晴天のように透き通った球だった。
(曇っていたのに……!)
それだけではなかった。まだ液体は透明だったけれど、その中に、小さな小さな蝶が舞っているのだ。
「イライザ姉様!見て!蝶だわ!」
「本当ね。綺麗よ、エレゼッタ。」
まだ、よく目をこらさなければ見えない程度の大きさだが、その蝶は確かにエレゼッタの球の中を舞っていた。
「私だけ置いていかれていたと思っていたけれど……、ちゃんと私にもこの時が訪れてよかったわ。」
エレゼッタは、心の底からそう思った。まだ人間に対する自分の感情の落としどころも見つかっていないし、人間に憧れた自分への憎悪も片付いていないけれど。それでも、ゆっくりと時は進む。ゆっくり進んで、変化していく。エレゼッタの球が変化したように。置いていかれる心配なんて、する必要はなかったのかもしれない。だって、時と一緒に、自分も進んでいくのだから。
エレゼッタがそんなことを考えているうちに、イアンが来た。両親が来た。そして、朝食の時間が始まった。
久しぶりに揃って食べる朝食はいっとうおいしく、ようやくエレゼッタは、自分が平穏に身を預けていることに気が付いた。
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