盲導犬からの卒業
肌にまとわりつくような、夏の熱気。
歩を進めながら、左手に伝わる振動。
その手や額に、じんわりと汗が滲む。
ふと、相棒が立ち止まる。聞こえてきたのは、騒がしい車の走行音。
足先を前へ出せば、わずかな段差があることが分かった。交差点に差し掛かったのだろう。
「ルミエール、Good」
段差を教えてくれたことをすかさず褒めてやり、僕らはその場でしばらく待つ。
ややあって車の騒音がやみ、音声信号が鳴ったのをしっかり聞き届けてから、
「ストレート、Go」
左隣の彼女に指示を出して、再び歩き始めた。
すっかり恐怖心を感じなくなっているとあらためて実感し、飽きもせず嬉しくなる。
君がいてくれるから、僕は安心して歩けるんだ。
なのに、かれこれ八年も一緒にいるのに、僕はかけがえのないパートナーの顔を知らない。知ることができない。
それだけが少し、残念だ。
*
今からおよそ九年前――二十代がそろそろ終わろうとしていたある日、僕は突然、視覚障がい者になった。
事故だった。
自転車で外出中、きちんと降りて押しながら交差点を渡ろうとしたとき、左折した車が突っ込んできたのだ。
全身に感じた、とてつもない衝撃。甲高く、けたたましい音。
とっさには、何が起こったのか分からなくて。
はっと目覚めたときには、何も見えなくなっていた。
感じるのは、身じろぎするのも辛いほど激しい体の痛みと、かたい――ベッドのような感触。
それと、薬っぽい臭い。
ここは、病院……?
何が起こったんだ……?
いったい、どうなってるんだ……?
取り乱す僕に、「目が覚めましたか?」と問いかけた男性の声――医者は、「落ち着いて聞いてください」なんて意味のない前置きをしてから、淡々と説明した。
彼いわく、車に轢かれてどうにか一命は取り留めたものの、両目にガラスの破片などが入り、加えて脳の視野に関する部分が大きなダメージを受けたせいで、全盲になってしまったらしい。
全盲?
僕が?
嘘だろ?
信じたくなかったけれど、意識を取り戻してすぐに突きつけられた明らかな変化に、信じざるを得なかった。
失明。
その残酷な言葉通り、事故を境に、僕の毎日は完全に明るさを失った。
視野だけじゃなく、心までをも。
突如訪れた暗闇の世界に怯えて塞ぎ込み、そのうち退院してからは、車の音を聞いただけで過呼吸を起こすようになり、外を出歩けなくなった。
ずっと、カーテンを閉ざして仄暗い部屋に引きこもり、デリバリーした食品を貪る日々。
いっそ、あのとき死んでいればよかったかも、なんて思ったりもした。
仕事にも行けていないから、いずれ貯金も底をつくだろう。そうなれば、引きこもり生活すら、まともに送れなくなる。
大学進学を機に東京でひとり暮らしを始めて長いけれど、今の体じゃ、どのみちひとりでは生きていけないし、実家に帰ろうか。
そう思って母に電話で相談してみたところ、返ってきた反応は意外なものだった。
『あのねぇ
はっとした。
突き放すような言い方だと思う人もいるかもしれない。
だけど僕は、母の一言で、心身ともに弱っているのをいいことに、年甲斐もなく親に甘えようとしている自分に気づかされたのだ。
変わる努力をしようともせず。
『不安なのは分かるけど、今さら出戻って養ってもらおうったって、そりゃ無理があるってもんよ。もう私も父さんも若くないんだから、いつまでも当てにしてもらっちゃ困るわ』
たしかに僕はひとりっ子だし、遅くにできた子供ということもあり、母方の祖父母も父方の祖父母も、僕が中高生の頃に他界している。
両親以外の身内といえば、年に数回会う遠い親戚くらいだ。
『あんたもいい歳なんだし、それに――』
母はそこで一度言葉を切り、覚悟したように、言った。
『こんなこと言いたくないけど、よっぽどのことがない限り、私たちのほうが先に逝くんだからね』
また胸を打たれた。
よっぽどのことがない限り。
おそらく僕は、母の言う「よっぽどのこと」をすでに経験している。
親不孝にも順番を覆さなくてよかったと、このとき初めて思った。
生きていることに絶望していた自分を、心底恥じた。
「でも、じゃあどうすれば……」
反省しつつ、なおも泣き言を言う僕に、母は呆れたようにため息をこぼして、こう続けた。
『盲導犬、希望してみたら?』
そうして翌年、僕のもとへやってきたのが、当時まだ二歳で、盲導犬になったばかりのルミエールだった。
クリーム色の毛を持つ、ラブラドールレトリバーの女の子だという。
初めてハーネスを握ったときの感動は忘れない。
左手に伝わる振動が心地よくて、頼もしかった。ひとりじゃないんだって、思えた。
――大丈夫だよ。わたしがいるよ。曲がり角や障害物があったらサポートするから、行きたい方向だけ教えてね。
常にそう語りかけるかのように、堂々と隣を歩いてくれる彼女のおかげで、僕を支配していた負の感情は少しずつ薄れていった。
暗闇が怖くなくなり、頭の中に景色や地図を描きながら行動できるようになった。
一般企業の障がい者枠で仕事に復帰し、日常的な買い物はもちろんのこと、あちこち旅行へも出かけるように。
旅先で、三歳下の女性――
目が見えない僕をけっして憐れむことなく、だけど献身的に支えてくれている。
ルミエールが、殻に閉じこもっていた僕の心に風穴を空け、世界を明るく照らし出してくれたんだ。
フランス語で「光」を意味するという、その名前の通りに。
*
盲導犬は、十歳前後で引退する。
出会った頃はまだまだ先の話だと思っていたのに、気づけばもう八年。
ルミエールも今年、無事に十歳の誕生日を迎え、引退日が翌日にまで迫っていた。
当時三十そこそこだった僕も、今では四十路手前のおっさんだ。
パピーを卒業して僕のもとへやってきた君は、今度は盲導犬を卒業する。
同時に僕も、君から卒業しなくてはならない。
彼女と過ごす、最後の夜。
「ルミ、おいで」
午後七時過ぎ。
暑さが少し落ち着いた頃合いを見計らって、僕はルミエールをベランダに誘い、最後のブラッシングを始めた。
心の中でつい、「最後」とつけてしまう自分にむなしくなる。
けれど、抗いようのない運命であることもまた事実で。
外出中は頼もしく目となってくれる盲導犬も、ひとたびハーネスを外せば、安心したようにくつろぎだす。
とても大切な、家族の一員だ。
むんとした夏の夜風に混じって、ルミエールのにおいがした。
おひさまみたいな、ふわっと包み込んでくれるにおい。
「気持ちいいか? ルミ」
声をかけながら、優しく丁寧に、毛並みを整えていく。
その、少しパサついた手触りからも時の流れを感じて、また、なんとも言えない気持ちになる。
僕が歳を重ねたのと同じぶんだけ、彼女も歳を重ねているのだ。
毎日隣を歩いてくれていた君が、明日からもういないなんて。
まだ、実感が沸かない。
想像できない。いや、したくない。
本音を言えば、ずっとそばにいてほしい。
ルミエールの引退話が持ち上がったタイミングで、思いきって和美にプロポーズした。
付き合って七年。ずいぶんと待たせてしまったが、ずるずると先延ばしにしていた結婚に踏み切れたのも、ルミエールのおかげだった。
君がいなくても僕はもう大丈夫だと、もちろんいてくれたらうれしいけれど、いなくてもちゃんとやっていけるよと、別れの前に伝えたかったから。
ルミエールを見送ったら、両家の顔合わせや入籍、新居探しなど、本格的に動き出す予定だ。
引退した後も、引き取ってふたりで面倒を見たいという和美に、僕は首を縦に振らなかった。
ルミエールがいなくなったら、いずれ新しい盲導犬がやってくるだろうし、何より――彼女は僕のモノではないから、と。
ルミエールの育ての親である、パピーウォーカーのご一家も、引退後の引き取りを希望しているという。
彼女を愛情いっぱいに育て、人間とともに過ごす楽しさを教え、素敵な名前を授けてくださった方々。
彼らがいなかったら今のルミエールはいないし、僕より先に家族だったのだから、ここは相手方の意思を尊重すべきだと思った。
自分の気持ちを押し殺してでも。
盲導犬とともに暮らす人のことを、一般的には「ユーザー」と呼ぶのだけれど、僕はこの呼び方があまり好きじゃない。
盲導犬は「使うモノ」ではないし、僕も「使っている」という認識はない。
言うなればやはり、「家族」であり「相棒」であり「パートナー」だ。
こうしてブラッシングをしている間にも伝わってくる、ルミエールの息遣い。
姿形は見えなくても、僕には分かるんだ。
彼女が何を感じ、どんな気持ちでいるのかが。今もきっと、穏やかに目を細めていることだろう。
今夜は、星が瞬いている気がした。
翌日は、容赦なくやってきた。
ついに迎えた、引退――盲導犬卒業の日。
和美も、朝早くから僕の家に顔を出し、見送りの準備を手伝ってくれた。
やがて、幼い頃からルミエールをよく知るという男性の訓練士さんが訪れると、みんなでリビングのテーブルを囲んで、しばし語り合う。
和やかに思い出話をする和美の声は、時折、涙をこらえるように震えていた。
僕ほど四六時中一緒にいたわけではないけれど、付き合ってから今まで、旅行やデートのときにはいつもお供してもらっていたので、ルミエールに対する想いは計り知れないだろう。
それでも、最後の最後に心配かけまいとしていたのだと思う。
話を終えたら、ルミエールを外へ連れ出し、車に乗り込ませる。
僕の目は、光すら感じ取ることができないので、視野だけでは、今日が晴れなのか雨なのかさえも分からない。
ただ、水の音や感触はないし、ほんのりとしたあたたかさがあるから、きっと晴れているのだろう。
昨日とは打って変わって、真夏にしては優しい日。
お天道様も、ルミエールを祝ってくれている。
でも、風のにおいがかなしい、と思った。
これで、本当にお別れだ。
「元気でね。ルミ」
と和美の声。
「じゃあな。ルミ」
僕もそう言って、彼女の頭に手をのせる。
「長生きするんだぞ?」
盲導犬は、通行人と触れ合うことも、吠えることも、許されていない。
パピーウォーカーだった人たちのところへ帰ったら、もっと感情を表に出して、たくさん遊んで、はしゃぎ回れるといい。昔を思い出して。
「今日まで、本当にありがとう」
心から告げて、頭にのせた手をそっと動かす。
八年もの間、僕を守り続けてくれたぬくもり。
母に尻を叩かれて、君に出会っていなかったら、僕はどうなっていたか分からない。
光の見えない未来に絶望するあまり、和美とも巡り逢わないまま、自ら死を選んでいたかもしれない。
逆を言えば、目が見えなくなったからこそ、君に出会えた。
君と踏み出した先で和美と出会って、一生添い遂げる覚悟まで決めた。
そう考えると、自分の身に降りかかった不幸さえ、愛おしく思えてくるから不思議だ。
僕はこれからも、僕のままで生きていく。
君がくれたパワーで。
たとえ新しい盲導犬がきても、僕は君のことを思い出してしまうだろう。けっして忘れられないだろう。
君は、僕の救世主だから。
一番初めの出来事は、この先、何があっても塗り替えられないから。
「じゃあ、幸せにな」
僕はもう一度別れの言葉を告げると、後ろ髪を引かれる思いで、ルミエールから離れた。
ゆっくりとドアが閉まる音に続いて、人が乗り込む気配。
窓の開く音。そして、訓練士さんの快活な「ありがとうございました!」が聞こえて、また閉まる。
ついにこらえきれなくなったのか、すすり泣き始めた和美。
僕はその腕につかまって、だんだんと遠ざかっていく車の音に耳を傾けながら、胸の内で、元相棒に祝福の言葉を贈った。
――卒業、おめでとう。
ルミエール~卒業する君へ~ 雨ノ川からもも @umeno_an
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