ルミエール~卒業する君へ~
雨ノ川からもも
パピーからの卒業
カートにのせられて運ばれてきた、ラブラドールレトリバーの子犬たち。皆、愛らしくしっぽを振っている。
長女の
弟の
最近になって、「犬が飼いたい!」とせがみ始めた子供たち。
とはいえ、真由奈は九歳になったばかりだし、龍太郎に至っては、まだ保育園の年中さんだ。
もちろん犬はかわいいとは思うけれど、夫も何かと怠け者だし、今飼っても、どうせ全部私が世話をする羽目になるだろう。
だが、言い聞かせて納得してくれる子供たちではない。
そこで思いついたのが、盲導犬のパピーウォーカーだった。
パピーウォーカーとは、生後五十日から約一年間、盲導犬のたまごを預かって育てるボランティアのこと。
ただ単に「かわいいペット」ではなく、期間が限られている上、「自分たち以外の
そんな、ちょっと大きすぎるかもしれない期待からだった。
というわけで、「室内飼育ができること」「先住犬がいないこと」「訓練センターの近くに住んでいて、移動手段として車を所持していること」「月一回、各訓練センターで開催されるレクチャーに参加できること」など、様々な条件を満たし、晴れてパピーウォーカーとなった私たち一家は今日、委託式のために盲導犬協会までやってきたのだ。
程なくして、訓練士さんから、委託される子犬――パピーとその名前が発表された。
我が家にくるのは、オレンジのカラーをつけ、クリーム色の毛を持つ、ルミエール。女の子だという。
パピーの名づけについては、あらかじめ、協会のほうから頭文字となるアルファベットを指定され、いくつか候補を提出する形だった。
今回の頭文字は、【L】
すでに使われている名前は使用できないし、委託されるまでパピーの性別も分からないので、そのあたりの雰囲気や候補数のバランスも配慮しなくてはならない。
目が不自由な方の人生をよりよくしてくれるようにと、辞書やネットで調べ、様々な国の言葉で「光」や「明かり」を表す名前を考えた。
ドイツ語で、リヒト【licht】
フランス語で、ルミエール【lumiere】
イタリア語でルーチェ【luce】
結果、フランス語が採用されたというわけだ。
繁殖犬ボランティアの家族から、それぞれパピーを受け取る。
腕の中に収まった小さな体からは、ほっとするようなミルクの香りがした。
見守る人たちの中には、親犬らしき成犬の姿もある。
今日ここにきたパピーたちは全員、同じ親から産まれた、きょうだいだという。
しっかり育てます。
これからよろしくね、ルミエール。
*
まず始めたのは、トイレトレーニングだった。
目が不自由な方は、犬が自由に排泄してしまうと、後片づけが難しいため、合図されたときにできるようにするのだそうだ。
ルミエールが落ち着きなくウロウロしたり、床のにおいを嗅ぎ始めたりしたら、協会からケージとともに貸し出されているトイレサークルへ連れていき、「ワンツー、ワンツー」とコール。うまくできたら、「Good!」と褒めてあげる。
これを繰り返すことで、「ワンツー=トイレ」「上手にできたら褒めてもらえる」と理解し、「お出かけするから、ワンツーしよう」などといった、声かけのみでも応じてくれるようになるのだ。
簡単なトレーニングなので、夫や子供たちも協力的で、楽しそうにしていた。
パピーによるだろうが、ルミエールはたった二日でトイレを覚えた。
なんという優等生!
一度マスターしたら、場所や時間を問わずにできるし、遠出の際におもらしする心配もないので、とても助かった。
*
二回目のワクチン接種が終わるまでは、パピーを地面におろしてはいけないことになっているので、しばらくの間はこれまた協会から貸し出されたスリングを使って、抱っこで散歩した。
毎日の朝と夕方、私がスリングを肩にかけ、念のためにリードもつけて、真由奈と龍太郎に挟まれる形で歩く。
子供たちは、朝の散歩に行きたいがために、たとえ早起きだろうとパッと目覚めるようになった。うん、いい習慣。
朝のすがすがしい風に吹かれながら、あるいは眩しくあたたかな夕陽に照らされながら、ルミエールはスリングの中でキョロキョロと辺りを見回す。
車の音に耳をそばだて、ときどきしゃがんであげれば、道端に咲く花のにおいを嗅いだ。
夫は専業主婦の私と違って仕事があるため、なかなか散歩に行けず残念がっていたが、ワクチン接種を終えてからは、家族そろって海や川などいろいろなところへ行った。
ルミエールとの思い出をたくさん作った。
人間とともに生きる楽しさを教えるのが、私たちパピーウォーカーの役目だから。
*
比較的利口だったルミエールが、私たちを唯一悩ませたのが「甘噛み癖」だった。
盲導犬のパピーにかかわらず、ほとんどの子犬が通る道だ。
甘噛みとはいうものの、子犬の歯は鋭く、勢いもあるので、噛まれるとかなり痛い。
実際、龍太郎の手にじゃれついて泣かせたこともある。
最初は、噛んではいけないものを噛むたびに、大声で「ルミエール、No!」と叱りつけていたが、効果は皆無。
そのうち、室内の家具までかじってボロボロにするように。おかげで家の中がめちゃくちゃだ。
どうしたものか、とお手上げ状態で訓練士さんに相談してみると、思いもよらないアドバイスをいただいた。
「名前にいいイメージを持たせるために、叱るときは呼ばないで。『No』ばかり言うのはやめて、いいことをしたときにたくさん褒めてあげるようにしてください」
そうか。名前を呼ばれたら叱られるなんて、そんな悲しいことはない。
他にも、名前を呼んで寄ってこさせた後に、その子が嫌がること――ルミエールの場合は爪切りやシャンプーなど――をすると、次第に呼んでも近づかなくなってしまうので、要注意とのことだった。
また、噛まれたときに騒ぐと面白がって余計にやるようになる場合もあったりするので、過剰に反応しないように、とも。
名前を呼ばれるのは、いいことが起こる前兆、にしてあげなければ。
後日、アドバイス通りにしつけの方法を変えたら、人の手や家具を噛む癖はピタリとおさまり、噛んでもいいおもちゃで遊ぶようになった。
犬は、私たちが思っているより、ずっと賢い。
*
はるか先だと思っていた一年後は、あっという間にやってきた。ルミエールとの日々が充実していた証だと思う。
修了式を一週間後に控えたある日、リビングに家族全員が集まっているとき、私がお別れの事実を告げると、龍太郎は案の定「つれてっちゃだめぇ~」とぐずり始めた。
「でも、目が見えない人のお手伝いをしなくちゃいけないから……」
「やだ、やだぁ~……」
カーペットに座り込んだまま、ついに泣きだしてしまった龍太郎の顔を、ルミエールがペロペロと舐める。
その姿にもう子犬っぽさはなく、人間をリードできるだけの骨格と肉体が備わっている。
うまく説得する言葉が見つからない私に助け舟を出してくれたのは、真由奈だった。
「リュウちゃん、泣かないの」
並んで座った彼女は、弟の手に自分の手を重ね、優しく諭すように言う。
「ルミも心配してるよ?」
しつけの際にはきちんとした名前で呼ぶけれど、少し長めということもあり、普段は親しみを込めて「ルミ」と呼ぶことが多かった。
「大丈夫。しばらくお仕事に行くだけだから」
娘の口から出た、分かりやすく明確なたとえに、心の中で「なるほど」と感服する。
真由奈は、この一年足らずで本当に成長したと思う。
自分だって寂しいはずなのに。
「おしごと?」
目に涙をいっぱいためた龍太郎が訊き返す。
「そう。パパと一緒」
すると、背後でソファーに座って子供たちの会話を聞いていた夫が、体を前へ乗り出して「マユの言う通りだぞ」と加わる。
「二度と会えなくなるわけじゃない。かっこよくお仕事したら、また帰ってくるさ」
そうだ。今生の別れより、よほどいい。
無事に盲導犬になれるかまだ分からないけれど、合格して引退してからだろうと、不合格で戻ってこようと、可能ならば、ルミエールは引き取るつもりでいた。
この子は、うちの子だから。
夫も同じ気持ちなのだと、今、確信した。
「ほら。だから、みんなで『いってらっしゃい』って見送ってあげよう? ね?」
やっとのことでそれだけ告げた私に、龍太郎は涙をこぼしながらもうなずいた。
そして迎えた、パピーウォーキング修了式の日。
目覚めたとき、室内はやけに薄暗く、しんみりと静まり返って感じた。
私たち家族の思いが反映されたみたいに。
ルミエールに、いつもと同じようにワンツーさせ、朝の散歩をし、フードを与える。彼女も、いつもと変わらぬ穏やかさ。
しかし、出かける準備のため、協会に返却しなければならないケージやトイレサークルを片づけ始めると、不安げにクーン、クーンと鳴きだした。
――ねぇ、なんで? どうしてわたしのもの、しまっちゃうの?
まるでそう訴えかけるかのように。
普段なら喜ぶリードも、渋々つけます、といった雰囲気。
きっと、ルミエールなりに何かを感じ取っていたのだろう。
協会に到着すると、センター長さんから感謝の言葉が述べられた後、家族ごとに修了証書が手渡され、周囲から拍手が沸き起こる。
違う、とむなしさに唇を噛みしめた。
私たちが欲しいのは、こんなものじゃない。本当は。
修了式が終わったら、外へ出て記念撮影。
何度も名前を呼ばれ、音の鳴るおもちゃでカメラ方向へ気を引かれたルミエールは、いつも通り明るい表情をしていた。出かける前の動揺が嘘みたいに。
このときばかりは、私たちも笑顔を作った。
犬舎の前で、最後のお別れをする。今日でパピーを卒業するルミエールには、これからいよいよ、盲導犬になるための訓練が待っているのだ。
子供たちも私も夫も、みんなで泣いた。
ルミエールを抱きしめ、撫でながら、みっともないくらいに。
声を上げて泣く、子供たち。
静かに涙を流す、私と夫。
「だいすき」
と涙ながらに呟く真由奈。
過呼吸にならんばかりに、ただひたすら泣き続ける龍太郎。
「家族になってくれて、ありがとう」
私も、かすれた声で感謝を告げる。
あなたがきてくれたおかげで、私たちはすごく成長できたよ。
かけがえのない時間を過ごせたよ。
本当にありがとう。
しばらくすると、歩み寄ってきた男性の歩行指導員さんから「それじゃあ、お預かりしますねー」と声がかかる。
――はい、と返事して、苦渋の決断をするように、夫がリードを渡す。スムーズな動きだったけれど、私には分かった。
別れという現実を拒絶するかのごとく、ルミエールと過ごした日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡りだす。
毎日欠かさず、一緒に歩いた散歩道。
子供たちと寄り添いあって昼寝する、かわいらしい姿。
あぁ、本当に行ってしまう……
離したくない。離したくない。でも……
そう思ったとき、指導員さんにリードを引かれながら、一度だけ、名残惜しむかのようにこちらを振り返ったルミエール。
けれどすぐに向き直り、そのまま立ち止まることなく、犬舎へと向かう。
とたん、龍太郎の泣き声が一段と大きくなった。
後を追って走り出しそうな勢いの彼を、夫が背後から抱きしめて引き止め、くしゃくしゃっと頭を撫でる。
私も「ルミっ!」と叫びだしたいのを必死にこらえて、涙で滲んだ、遠ざかっていくその背中に、胸の内でそっと、はなむけの言葉を送った。
――卒業、おめでとう。
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