第3話 曾ババの声。夢幻の憎悪。

私がデジャヴを見る様になり、てんかんで苦しみだした時期はハッキリしていた。

曾ババが死んでからだ。

あの時、小学校に向かう先で、曾ババが僕を引き留めた声が聞こえた時から、悪夢の夢を見続けているのかもしれない。


曾ババは、完全な寝たきりである。

トイレはオムツ。

食事は食べさせてもらう。

着替えも当然家族の手助け。

風呂は無理なので、数日ごとにふきふき。

今の世の介護施設の職員が、どれほど厳しい事を「やらされている」のを、小学生だった自分は、40年も前から、よく見ていた一人だった。


そんな僕は、介護の苦労など気にもしないで、曾ババにお小遣いをせしめるクソガキだった。

100円だけと言い張り、目がよく見えない曾ババを騙して500円をせしめる程度にはクソガキだった。

チリも積もれば山。

100円が毎日では1月3000円だが、500円ならばどうか?1万5千円である。

当時の小学1年程度のお小遣いは、普通は1月1000円もあれば、貰いすぎな状況で、自分は500円である。

そら、クソガキの性根は歪むであろう。

見事、私の少年時代は歪みまくっていた。

常に近所の駄菓子屋(もどき)に菓子を買いに行き、当時は「オシャレ」なコーヒーゼリーを買って、悦に浸るバカの権化であった。

ただこのコーヒーゼリーは、未だに売っているもので、かっこいい「足」のある上皿にコーヒーゼリーがあり、下の「足」に、その形に合わせた専用のクリープが付属していたのが、当時はおしゃれだった「らしい」。

ただ自分は、コーヒーゼリーがおいしかっただけだったのだが。


脳が腐る前から、既に精神が歪んでいたのだから、当時も今の私も救われないし、救われてはいけないのだが。

そんな自分が、お財布・・・では無くて、曾ババとの最後のさようならを「家の外で」済ませた自分は、学校から帰った時に「曾ババは死んだの?」と、家族に聞いた時に「誰から聞いたの?」と聞かれたから、「曾ババから聞いた」と、素直に答えたが「またデマか」という扱いだった。

まあしょうがない、大ぼら吹きだったのは事実なのだし。

だが現実問題、曾ババの言葉は「言葉では無かった」のもあって、「話した」と言うのは間違いでもある。

どちらかと言うと「思いが届いた」のだろう、あまりうれしくも無いのだが。


曾ババからすれば、私は曾孫であるのだし?かわいいはずであるとは思うが、毎日毎日金をせびる孫に、心を痛めたのかもしれない。

お財布・・・いや、曾ババとのさよならは、きっと自分から財布を手放した・・・いや、曾ババを天に召させたのは、自分が原因だったと思う。

そしてきっと、これからの私の試練は、曾ババからの贈り物だったのだろう。

私のデジャヴとてんかんは、曾ババが召されてから起こったのだから・・・


今日はデジャヴも口の周りを赤くするのも関係なく、曾ババが伝えたかったことは何だったのか?である。

内容知ってるんだべ?

・・・と、思われるかもしれないが、言葉では無かったので、言葉に出来ないのだ。

イメージぐらいできるべ?

・・・と、思う人だっているけど、実際に「あの時」の曾ババの言葉は「ものすごい圧縮」されているかのようなもので、それを紐解くのは難しい。

ただ表層に有った一言だけは鮮明に覚えている。

それは私の名前だ。

「○○-」。

この時私は小学校に向かう児童の前の方(年齢が低いと前のほうに並ばされる)だったので、丁度交番がある場所(今現在は無い)の横に有る墓場の前を通った時に「○○-」と、声を聴いたのだ。

だが、その声で振り向けたのは数秒で、後ろの高学年から注意されて、前を向いて歩かなければならず、その時に財布を失っ・・・曾ババが死んだ事を知ったのだった。

・・・だが、本当に私の聞いた声が曾ババだったのか?

当時の通学路には、色んな昔の建築資材やら生活雑貨などが、至る所に放置されていた時期である。

田舎だったので、それが当たり前だった時代でもあるが。

私は、当時通学路の帰りに、その交番がある横の墓場前の廃棄物置き場(ただの農家の土地)にある、色んなものを拾っては、動かしたりして遊び場にしていた。

その中の一つには、いわゆる「人力式の糸操機」や、人力式のミシン機が放置されていた。

いまでは、ただのばっちいものでしか無かったが、当時の子供の好奇心にとっては、手で動かせば、回転するものは、夢が広がる体のいいおもちゃでしか無かった。

そんなものの中に「良くないもの」があったとして、誰が否定出来るのかと・・・

曾ババが伝えた「言葉は確かに名前だけ」だったが、伝えられた複数の「想い」の中で、ただ一つ感じられたのは「悲しみ」だった。

それ以外にも、複数あったのだが、言葉に出来ない複雑な思いで、ただ文章にすれば「憎悪」でしか無くなってしまう。

曾ババは、当然戦争経験者で、当時の憎しみや「生きる絶望」を経験した一人だった。


爺様?ああ、爺様は遊び人だから、どうだっていいよ。

いや、爺様も帝国の軍学校を首席卒業していて、優秀だったけど、卒業して、フィリピンに行ってゼロ戦の製造にかかわる段階で戦争が終わってしまったくちで、エリート階級に登れなくなって、ヤケッパチになった屑だから。

まあそんな曾ババ様にとっては、生きる事自体が絶望だったと思う。

当然曾ババ様の旦那様やその兄弟が、戦争で死んでいるしな。

ただきっと、曾ババ様の絶望は、根底からだとは思う。

聞いた話で又又聞きではあるが、うちの曾ババ様は「大地主の姫様」だったというのは有名だったらしい。

その当時、ものすごく勤勉で優秀だった丁稚がいて、それが曾爺様だったらしく、曾爺様は丁稚の身分だったのに、曾ババ様(お姫様)を嫁に貰う快挙を成し遂げた。

・・・ただこれで、一番絶望したのも曾ババ様である。

いきなり最底辺の生活がスタートしたら、誰だって戸惑うだろう。

ただ曾爺様はとても優秀で、「○○饅頭屋」としては、本当に有名だった。

一応曾ババ様の持参金として、それなりの資金と、定期的な援助もあって、それなりの生活は営めていたのだが、曾ババ様にとっては納得は出来なかったのだろう。

曾ババ様の死後に曾爺様に対する恨み辛みがびっしりと書いた遺言状の様なものが出て来たらしく、それは神社に持って行って「お炊き上げ」してもらったらしい。

自分は流石に小学生でかつ低学年ですからね、読めませんとも。

まあ、又聞きレベルでは「曾爺様が無能だったら、別の金持ちに嫁げたのに」と言うものだったらしいけど、無能を願うって・・・どんだけ恨んでいたのかと。


ただ、曾爺様が優秀だったからこそ、曾ババ様だって生きて行けたのも事実で、戦争が酷くなってくると、曾ババ様の実家も立ち行かなくなり、土地を小作人に売却して生きていくようになり、GHQが占領した後では、GHQが土地を分割させるほどの土地を持っていなかったほど衰退していた。

だから、援助も最初だけで、後は曾爺様が饅頭屋として切り盛りして、7人ほども子供をこさえたら、赤紙によって出兵して、帰らぬ人になっていた。

一番喜んだのは曾ババ様かもしれないが、一番苦しんだのも曾ババ様だったと思うよ?

ただ、子供は沢山居たので、そのうち上2人は戦争で亡くなったが、5人は戦争に行く前か、生き残って帰って来たので、生活自体は何とかなっていた。

末っ子だったうちの爺様は、未来を失って遊び人になり、婆様を働かせて、好きに生きていたらしいし。

そんな「生の絶望」を生きてきた婆様の憎しみの怨嗟が詰まった「想い」である、表層はただの「悲しみ」であっても、そんな訳が無いでは無いか。

私がてんかんになり、我が家全体がパニックになり、壊されていく姿を、歪んだ世界の中から見ていた自分としては、ああ、婆様の願いは叶ったのかな?・・・と、薄れる意識の中で感じたのだった。

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デジャブと生きた少年時代 デジャヴの旅人 @kazanari0000

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