豆腐小僧がゆく

彩瀬あいり

豆腐小僧がゆく

 そもそも善吉ぜんきちは、人前に出ることがたいそう苦手である。

 店の売り子程度ならばともかく、声をあげながら市中を売り歩くには、向いていないのだ。

 されど、父が足を悪くしてしまったのだから仕方がない。

 水を張ったたらいに豆腐を沈め、おそるおそる通りを歩くが、他の声に完全に負けていた。

「おや、いつもの親父さんじゃないんだねえ」

「へえ……、怪我、しまして」

「なんだい覇気がないねえ」

 父の馴染みらしい客が買ってくれることはあるが、気づかれなければ意味がない。多くの町人に需要があるはずの豆腐だが、歩いているだけでは売れやしないのだ。

「とーふ……」

 かぼそい声は、通りの逆を歩いている貝売りの声に掻き消える。

 もとより、他者を押しのけて我を通す気質でもない。気の弱い男である。

 善吉は肩を落としながら、とぼとぼと棒を担いでいた。



   ◇◆◇



 父の倍の時間をかけて歩いても、結局豆腐は売れ残った。

 持って帰って、家で喰うしかねえよなあ。

 両親にどう申し開きをしようかと思案していると、道の端でうずくまっている童の姿が目に入った。

 もうすぐ日も暮れようかという刻だ。善吉は、童に声をかける。

「どうしたい、小僧」

「とうふ」

 すると童は顔をあげ、善吉に言う。

「ああ、豆腐だ。なんだいおまえ、豆腐を買ってこいって言われたのか?」

 手に握る器には、なにも入っていない。

 買い逃したのであれば、ちょうどいい。余りものではあるが、ここにまさに豆腐がある。

「ほれ、持って帰れ」

「とうふ!」

「うちの豆腐はうめえぞ」

 豆腐と善吉の顔をかわるがわる見て、にかりと童が笑った。

 家路を辿る善吉のあとを、なぜか童がついてくる。豆腐の入った器を抱えもち、危なげなくこちらの後を追ってくる。

 はて、同じ方角なのだろうかと頭を捻るうちに家へ着く。童もぴたりと足を止めた。

「おいおい、おめえの家はどこだ?」

 迷い子か? と頭を抱えていると、奥から母が姿を現した。

「帰ったのかい」

「ああ。だがしかしよう」

「なんだい、ぼーっとひとりで突っ立って。さっさと入りな」

「ひとり?」

 善吉の足もとには、童。

 腰のあたりにある頭を撫でると、たしかにその感触はある。

「母ちゃんよう」

「なんだい」

「この小僧……」

「おまえ、二十歳になろうってのに、まだ子どものつもりなのかい?」

「いや、そうでなくてよ」

 善吉は頭をひねる。

 どうやら、この童は己にしか見えぬらしい。



 井戸端で顔を洗いながら話を訊くが、どうも要領を得ない。発する言葉は、常にひとつである。

「とうふー、とうふー」

「そんなに豆腐が好きかい」

「とーふー」

 豆腐の入った器を掲げ、ぐるりと一周。また一周。

 見ている善吉のほうが、目をまわしてしまいそうであった。

 ぽてん。

 案の定、童は転げる。

 器は落ち、白い豆腐は土にまみれた。

「とうふぅぅ」

「洗えば喰えねえこたーねえよ。売りもんにはなんねーけどな」

 拾い上げ、井戸水でさらす。べそをかく童を伴って、善吉は家の中へ戻った。

 包丁を取ると、豆腐を切る。落ちて角が取れたあたりを落とし、別の皿へ置いておく。

「どうした」

「悪い、残った豆腐、落としちまった」

「洗えば喰える」

「だよなあ」

 のそりと顔を出した父の声に、善吉も頷いた。

 両親の作る豆腐は、旨いのだ。



   ◇◆◇



 親子三人で膳を囲む。

 善吉の傍らには、童が鎮座しているが、両親の目には映っていないようであった。

 ――こいつぁ、いったいなんなんだ?

 当の本人はといえば、焼いた豆腐をはふはふと口に入れて笑っている。

 葉物と絡めた白和えに瞳を輝かせ、善吉をじいと見つめるのだ。小皿に分けてやると、ぺろりとたいらげる。

 それでいて、なぜか誰の目にも映らぬのだから、まったく不思議なものである。

 なにかの未練がある幽霊か。

 欲していた豆腐をたいらげたのであれば、成仏するだろう。

 そう考えていた善吉だったが、この童は翌朝も家にいたのである。

 そして、売りに出かける善吉についてくるではないか。

「とーふ、とーふー」

 善吉を先導するように歩いている。幼子があげる甲高い声が、拍子をとるように弾んでゆく。

「とーふう、とうふ、とうふやーい」

 くるくる楽しげに、善吉の周囲をまわりめぐり、豆腐豆腐と声をあげるのだ。

 こいつは本当に、豆腐が好きなんだなあ。

 善吉の顔もうっかりゆるんでしまう。

 慣れぬ行商に疲れたこころが、ほぐれてゆくような心持ちだ。常なら気になる他の棒手振ぼてふりの声も、童のそれに消えて耳に届かない。

 おかげで今日の売りは、とんと疲れなかった。

 売れ行きは変わらず悪いけれど、棒を担いで歩くことが苦には感じられなかったのだ。

 それは、この童のおかげなのやもしれぬと、善吉は思う。家路を辿りながら、声をかけた。

「まこと、おまえは何者なのだ。幽霊け?」

「ゆーれ?」

「うーぬ、なんというかなあ」

 齢にして五つほどの童だ。死の概念など、理解に及ばぬだろう。

 幽鬼のたぐいには縁のない善吉である。彼らが成仏するための秘策など、知ろうはずもない。

 ――まあ、いいかあ。

 小さな手を握り、のんびり歩きながら問いかける。

「今日の晩飯は、なにかねえ」

「とうふ!」

「豆腐は毎日だな」

「とうふ、おいしい」

 田楽でも作るかなあ。

 童が喜ぶ顔が見たくて、善吉はそんなことを考えた。



   ◇◆◇



 不思議な小僧が現れて、いかほどだろうか。

 善吉以外には見えぬ童にもすっかり慣れて、決まった刻になれば、ともに豆腐を売りにゆく。

「とーふー、とーふぅ、おいしいのー」

 元気に声をあげる小僧の歩みは、今日も元気だ。

「ふう太、あぶねーぞ」

「ぜんきちー。あっち、とうふ」

 とうふう、とうふうと連呼する小僧に『ふう太』と名づけ、声をかけているうちに、ふう太もまた善吉の名を覚えたらしい。豆腐以外にも語彙が増え、されどやはり豆腐を連呼する声はとまらない。

「豆腐~、豆腐~」

 ふう太の陽気な声に調子を合わせているうちに、善吉もまた節に乗せて売り声をあげるようになった。

 はじめはほんのすこしこぼれる程度だった声は、ふう太が喜びはしゃぐ声に合わせて、だんだんと大きくなってゆく。

「とーふ、とーふぅやあ」

「豆腐や~、豆腐や~」

 声を合わせているのが楽しく、善吉の顔にも笑みが広がる。

 たのしげな声はひとの耳に届き、皆が振り返る。若い男がひとり、口上をあげながら豆腐を売っていることに気づくと、ひとりふたりと近づいては買ってゆくようになった。

「豆腐、おくれ」

「へい、ありがとうございやす」

「あんた、いい声してるねえ。聞き惚れちまったよ」

「へ、へえ。それはどうも」

「ついでに、豆腐も旨い」

「そっちを一番にしてくだせえ」

 世間話なんてもってのほか。売って銭を受け取るだけだった商いも、二言三言と言葉が増えると、重かった口も軽くなってゆく。

 もともと、声は良いと言われていた善吉だ。気の弱さを克服してしまえば、人の気は引けるのである。

 売り切る時間も短くなり、自然と早く家路につく。朝に昼に夕に、売りに出る回数も増えた。すっかり足の怪我も治った父は、売り歩く役目を息子にゆずり、作るほうに専念する。店にいたほうがずっとましだと思っていた善吉だったが、すっかり慣れたものだ。


「ふう太、今日も行くか」

「とうふ、とうふ」

 ふう太が手にしているのは、味噌を合わせた豆腐をすり、串に刺して焼いたもの。食べ歩くにはちょうど良い。どうせ誰にも見えぬのだ。

「とーふ、とーふ」

 先導して歩くふう太。辻を折れて姿が消えたと同時に、「とうふ!」と大きく声があがる。ひどく驚いたような声色だ。

 なにかあったのかとあわてて歩を進めると、地面を見つめるふう太と、その脇に腰を落とす娘の姿がある。足音に気づいたか、娘が善吉を振り返り姿勢を正した。

「すみません、この子とぶつかってしまいまして」

「……あ、いや」

「とうふ……」

「うん、ごめんね。弁償するわ。あの、おいくらかしら」

「や、かまわねえ。そいつが喰ってたのは売りものじゃねんだ」

 善吉はあわてて頭を振った。べそをかく童は、善吉の姿を見ると走り寄り、袖を引いて「とうふ」と泣く。その姿を見て、娘は手を鳴らした。

「どこかで聞いた声だと思ったら、あなたがあのお豆腐屋さんね」

「へ、へえ」

「うちは、こちらの通りをすこしばかり先に行ったところなの。買い物に出ていると、たまに声が聞こえていたのだけれど、こちらまではこないでしょう? 気になっていたの」

 娘の家は料理屋を営んでいるという。商いをするにも領分というものがあり、善吉はその料理屋にまでは足を伸ばしていなかった。最近は豆腐売りが近くまで寄らなくなり、自らの足で買い求めに行っていたらしい。

「噂は聞いていたのよ。ねえ、豆腐屋さん。くださいな」

「へえ、まいど」

 はきはきと話す声に押され、善吉はついに問えぬまま娘と別れた。

 はて、あの娘はどうしてふう太の姿が見えたのやら。

「変わった娘だなあ……」

 棒を担ぎなおし、道を戻る。

 明日からはこの道の端までは来よう。もしかすると、あの娘がまた買いにくるやもしれぬから。



   ◇◆◇



 父がひどく気に入ったのよ。

 料理屋『木の屋』の娘・つゆの口利きにより、善吉が売る豆腐は店の料理として並ぶようになった。長屋の住人を相手にしていたころよりも、必要な数が増えることとなる。

 特定の店に贔屓にされるのは、職人としても誉れである。

 両親は喜び、善吉もようやく孝行ができたような気がして、嬉しさがこみあげる。これもすべて、ふう太のおかげだ。


「ふうちゃん、どうぞ」

「おいしー」

 豆腐を納品する、ほんのひととき。店の裏で、つゆと話をする。

 ふう太の姿が常人には見えぬらしいと告げた折には、まさかと笑っていたつゆだが、店主である父や母は善吉ばかりを見据え、その足にまとわりつく童には目を向けぬさまを見ては信ずるしかない。不思議なものだと思うたが、見えるものは見えるのだ。

 目を合わせ、話をする。

 手を握ることもできるし、抱きしめればきちんと温かい。

 ならば、それで良いのではないかと思うことにしたらしい。

「善吉さんは、名のとおり、よい父になるのでしょうね」

「俺の子にしては、ふう太は大きすぎやしないか」

「そうね。ではお兄さんかしら。どちらにせよ、面倒見の良いおひとだわ」

「――どうだろうな。はじめは俺にしか見えぬから、どう扱ってよいか途方に暮れた」

 過ごすうちに当たり前となり、すっかり日常だ。

 ともに声をあげ、豆腐を売る。ふう太がいなければ、今もきっと豆腐は売れ残り、重い天秤を肩に家路を辿っていただろう。

 それになにより、こうして商売が広がった。あの時、ふう太がつゆと出会ったおかげで、今がある。料理屋が休みでないかぎりは豆腐は入用で、こうして日々、つゆに会いに来られることが、善吉は嬉しい。

「とうふー、もっとー」

「豆腐の料理、たくさんあるのよ。うちの父さん、すっかり豆腐に傾倒しちゃってるの。数を増やしてもいいかしら」

「そりゃあ勿論。ありがてえ話だ」

「とーふ、おいしーくなるの」

「ふうちゃんが言うと、本当においしく聞こえるわ」

 つゆが笑い、善吉も笑う。

「きっとふうちゃんは、豆腐小僧ね」

「なんでえ、それは」

「豆腐が好きな妖怪らしいわ。幽霊ではなくて、きっとそちらよ」

「とうふー、とうふー」

「まあ、なんだっていいさ」

 さまざまな縁を運んでくれたのだから、むしろ神さまのような気もするが、このなりだ。小僧というほうが、よほど相応しかろう。

「そろそろ、戻る。明日もまた来るよ」

「ええ、また明日」

 またねと手を振り別れるよりも、もっと一緒にいてえなあ。

 そんなことをぼんやり考えながら、善吉は通りを歩く。

「とーふ、とーふぅや」

「豆腐や~、豆腐や~」

 弾んだ心はそのまま声に乗り、高く空へ上がる。

「とーふ、とーふぅや」

「豆腐や~、豆腐や~」

 豆腐売りと豆腐小僧は、今日も町をゆく。






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