1-34 紺碧の空の下で

【side princess】


 アシュリーが出立するという朝、空はよく晴れていた。


 兄に連れられクリスティナが城の裏口にやって来ると、既に第四騎士団の面々が準備を終えて控えていた。

 帰りは寄り道せずに真っ直ぐ帰るらしい。既に赤の皇国との国境辺りには、皇国からの出迎えが待機しているとの事だ。


 旅装に身を包んだアシュリーは、見送りに出たフィニアス、ルイス、クリスティナを見て、名残惜しそうに笑った。国王達とは既に別れを済ませている。


「楽しかった。礼を言う」


 その言葉に合わせ、少し離れて控えているハリルとナディラも頭を下げた。

 黒い布の塊でしかないが、多分下げたと思う。


「リラにも別れぐらい言いたかったがな」


 残念そうに付け加えられた言葉は、クリスティナも同意である。

 結局じっくり話す機会は得られなかった。


 気付けば姿を消していたリラは、アシュリーにも挨拶せずに白の神殿に戻ってしまったらしい。


灰白かいはくの大図書館へ行けばまた会えるだろ」


 別れの挨拶をしたらしいフィニアスはそう言うが、アシュリーはどこか不満そうにしている。


「それはそうだろうが、これからは、そうそう出歩けん」


 アシュリーの含むような言葉に、フィニアスは頷いた。


「そうか」


 そうか、ともう一度頷いて、フィニアスは笑顔を浮かべた。


 アシュリーとフィニアスが、皇太子と王太子として顔を合わせるのは、きっとこれが最後になる。

 国を背負う王となる二人は、お互いを激励して肩を抱き合った。


 クリスティナの隣にいるルイスが、ハリルをじっと見ている。そして、裏がありそうな、それでいて溶けそうなぐらい極上の笑みを浮かべた。

 こういうところが、ルイスとレイモンドはちょっと似てると思う。


 黒い布の塊、その一方が僅かに引くように身体を揺らした。多分そちらがハリルだろう。


「一年後に、ハリルを王女として連れてくる」


 アシュリーのその宣言に、ルイスは微笑んで了承した。


「お待ちしています」


 なんとなく、兄とハリルとの縁談は上手くまとまったらしい。本当かな、と思わなくも無いし、ハリルがどう思っているかは分からない。

 でも、ルイスはハリルを、多分、気に入った気がする。

 微笑んではいてもわりと不機嫌そうにしていることが多いルイスが、ちょっとだけ機嫌良さそうにしていて、ちょっとだけ、今は寂しそうにしている気がする。


 満足げなアシュリーがにやりと笑った。


「他の女との関係は清算しておけよ」


「私をあそこの馬鹿と同じにしないでいただきたい」


 アシュリーの軽口にそう返したルイスが視線で示す先に、悠々と歩いてくるレイモンドの姿があった。

 いつものように隙の無い姿である。顔色も好い。一見して、怪我を負っているようには見えないが、ある程度はやせ我慢をしていそうである。


「遅い」


「怪我人です。労ってください」


 アシュリーの容赦ない指摘は笑顔で躱し、レイモンドは王族相手に優雅な礼をして誰もまともに聞いていない挨拶を述べている。

 そんな挨拶を遮って、アシュリーはにやにやと疑問を口にした。


「お前、清算しないといけないような関係の者がいるのか?」


 嫌な話題である。青い空の元にはそぐわない、澱に沈むような気持になる。

 笑みを貼り付けたクリスティナを余所に、レイモンドは顔を顰めた。


「何の話ですか。いきなり」


 アシュリーがルイスを見ると、ルイスは小馬鹿にしたように笑い、それを見たレイモンドは、その紺碧の瞳をクリスティナに向けた。そして、溜息を交じりの言葉を吐き出した。


「……いませんよ。特定の方など」


「え」


 それを聞いて、クリスティナは思わず声を上げた。

 レイモンドとアシュリー、ルイスとフィニアスは馬鹿だなと言いたげに、一斉にクリスティナを見た。


「では、不特定多数」


「過去にそういう付き合いがあったことは事実です。ですが既に清算は済んでいます。当時の付き合いの延長で目をかけていただいている方はおりますが、今はもう特別な関係はありません」


 レイモンドが、ちらりとクリスティナを見た。


「誤解をされている方はいらっしゃいましたが、そんな馬鹿な話があるわけはないでしょう。私とて弁えています。当家から婚約を持ちかけておいて、そのような振る舞いが許されるはずもありません。王家に対して不敬が過ぎる」


 アシュリーが笑った。


「だそうだ」


 ルイスとフィニアスは呆れたように溜息を吐いている。

 レイモンドは、もういいから帰れと云わんばかりに大仰に頭を下げた。


「道中ご無事であることをお祈り申し上げます。そして貴国のつつがなき繁栄を」


 意地悪く笑いながら、アシュリーが頷いて応える。


「大儀である、と言いたいところだが、まだ返答を聞いてない」


 もうひとつ余興を強請るようなアシュリーの笑みに、レイモンドは一時、膨れたような表情を見せた。

 憮然とした面持ちで、レイモンドはフィニアスとアシュリーにそれぞれ視線を向ける。


「褒賞として、望むものをいただけると」


「ああ」


「間違いないな」


 フィニアスとアシュリーが、同時に頷いた。


「結構です」


 言いながらレイモンドは手袋を外した。


「では、これから多少無礼な振る舞いを致しますが、不問にしてください」


 そう言うと、レイモンドはただ茫然としていたクリスティナの手を強く引き寄せた。


「な」


 何を、と問い質す言葉は中途半端に呑み込まされた。


「私は、譲られ、与えられたものなど欲しくありません。だから、奪いに来ました」


 髪の間に差し込まれた素手の指が、直に肌に触れる。

 両手で頭と首とを挟まれ、至近距離で見つめられていた。空の色、紺碧の瞳がクリスティナの顔を覗き込んでいる。


「あまり抵抗されますと、傷に響きます」


 そう言われて、咄嗟に身体が固まった。満足そうに笑った口元が、クリスティナの口元に降って来た。


「好きです」


 再び離れて行った唇が囁くその言葉に瞠目する。

 それは、ずっと、欲しかった言葉。いつか貰えることを信じて、でも少しも信じていなかった言葉。

 レイモンドの口から出てくるものとしてはあまりにもシンプルで、装飾も比喩も無く、触れる指が温かい。


「貴女を愛してる。貴女も、同じはず」


 何も言えないでいるクリスティナに、レイモンドが楽し気に笑う。クリスティナの身体を強く抱きしめて。


「答えて。返答は用意してあるはずでしょう」


 迷い口籠るクリスティナに、レイモンドが「さあ」とこれ以上は出来ないぐらい優しく促がす。


「……そばに、いて欲しい」


 促されて絞り出した言葉に、クリスティナを抱くレイモンドが黙った。不満げな沈黙の後、頬に添えた両手に上を向かされた。

 見上げるレイモンドの顔は、この上なく楽しそうでもある。


「なぜです?」


 なぜ。それは、何故そばにいて欲しいのかを問うているのだろうか。

 好きだとか、愛しているとか、そういう言葉を、クリスティナも口にして許されるのだろうか。

 ずっと言えなかった、言うべきではないと、蓋をしてきた言葉を。


「貴女は、もっと我儘になるべきです。少なくとも私は、貴女の我儘を受け止めることができます」


 紺碧の瞳が、葛藤するクリスティナを覗き込んでいる。心の中まで見透かすような、青い空の色。希望の青い薔薇と同じ、クリスティナが一番好きな色。


「答えないと、もう一度キスします。皆に見られていますがよろしいので?」


 そんな今更で憎々しいことを言いながらも、明らかに、いつになく楽し気である。


 金の髪は蜂蜜と陽の色。沈み込むクリスティナをどこまでも明るく照らしてくれる。穏やかに、優し気にクリスティナを見つめるレイモンドを、クリスティナはずっと想っている。


「………………好きだから。……だから、そばにいて欲しい」


 優しく促され、ようやく吐き出したクリスティナの言葉に、レイモンドは満面の笑みを見せた。満足そうで、蕩けそうな程甘い、極上の笑みを。


「まあ、及第点ですね。次はもう少し頑張ってください」


 そんなことを言いながら、もう一度、クリスティナを抱きしめた。


「そういうわけです、皇太子殿下。ご覧の通り、お呼びじゃないので速やかにお引き取り下さい」


「……お前な」


 不敵なその言葉に、アシュリーの苦笑が聞こえる。

 レイモンドが首を巡らせた先にいるのは、フィニアスとルイスだろう。

 王女をその腕に囲い、レイモンド・エンディは慇懃に言い放つ。


「後は、ご随意に」


 あまりにも不遜で、ふてぶてしい。不問と言ったところで限度があるだろうに。


 されるがままだったクリスティナは、レイモンドのその背に、そっと腕を回した。


「レイ」


 呼べば、その紺碧の瞳はクリスティナを見た。いつかのように。いつものように。


 見上げた先のその顔に微笑みかける。その頬に手を伸ばす。これは、この男はクリスティナのもの。

 誰の目にも明らかなように、王女の好意が誰に在るのか。その心の在処を。


 傷つけることは決して許さない。

 クリスティナの全てを賭けて愛する、唯一の特別な人。


「私は、貴方のものです」


 いつかのように、でも今度はちゃんと心から、クリスティナは微笑んで見せた。

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青き茨の王国と真白の神におくる歌 ヨシコ @yoshiko-s

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