1-33 愛を請う
【side prince】
ルイスは夜半、私室から続くバルコニーに出ていた。椅子に深く腰掛けクッションに凭れ、手の中の杖を弄ぶ。辺り伺うが人影は無い。
夜空を照らす月は明るく、頬を撫でる風はやや涼しい。
厚手のブランケットを身体に巻いてはいるが、風邪を引きやすい己の体質は分かっている。
風邪を引くのは避けたいので、とっとと用事を済ませたい。いっそブランケットなど無い方が事は早く進むだろうか。
そう考えて、巻いていたブランケットを床に落とす。
シャツの上にガウンを羽織っただけの姿では、やはり肌寒さを感じた。
「……風邪を召されます」
その声は上から聞こえて来た。首を巡らせれば、バルコニーの屋根の上に、黒い塊が見える。
「ブランケットを、取っていただいても?」
つい今しがた自分で落としたそれを指し示す。
少しの逡巡の末、やや憮然とした声が聞こえて来た。
「……部屋にお入りください」
「部屋の中では、貴女は入って来ないでしょう」
ルイスが微笑んで言うと、ハリルが黙った。
「私はこのままだと、多分風邪を引くでしょうね」
「……それは、私とは」
関係ない、そう言いかけた声を遮る。
「私はあまり丈夫な方ではありませんので、拗らせるかもしれません。運が悪ければ死ぬかも。貴女は、願ったりでしょうか」
嫌な言い方だ。
不満そうな気配と共に声は押し黙った。
それでも、ここで見捨てて去るという選択肢は無いらしい。随分なお人好しだと思う。
人を傷つけ命を奪うことすら躊躇わない、その冷然さと一致しない。
精神のバランスが悪くはないだろうか。
「あまり長くはかかりません。私を避けている貴女と、少し話がしたかっただけです」
ルイスの言葉に、ようやくハリルが動いた。
音もなく屋根から降りて来たハリルは、ルイスのブランケットを拾い上げると、顔周りを隠していた布を取り払った。顔も見せずでは会話もままならない、ルイスが以前言った事を律儀に気にしているのだろう。
「貴女は、あそこで何を?」
ブランケットを再び体に巻き付ける。
気付けばハリルは声が届くぎりぎりの位置まで離れていた。まあ、跪いていないだけ進歩だと言える。
問えば、ハリルの視線が泳いだ。話したいことはあるが口にするのははばかられる、もしくは躊躇われるといった様子である。
サイラスが言うには、あの襲撃があった日から今日までの二日間、遠巻きにではあるがこちらを気にしているハリルがいたらしい。
明らかに気にしている様子なのに、意識を向ければ逃げてしまう、という状態。気が散る、と婉曲的に言われたが、ルイスのせいではないと思う。
サイラスは、今日に限りバルコニーに厚めのブランケットを用意し、椅子のクッションを心持ち増やしていた。アシュリー達は明日の朝出立する。話をするなら今宵が最後の機会である。
サイラスの思惑通り、ハリルは最後の晩にこうしてのこのこやって来た。
しかし来たは良いものの、部屋に入り込むわけにもいかず、むしろそれを言い訳に戻ろうしていたら、ルイスが部屋から出て来てしまって困惑している、といったところだろうか。
「私に話があったのでは?」
まあ、内容については想像がつく。
「……私の存在は、貴方様を危険に晒します」
逡巡の末にハリルが絞り出した言葉は、何の捻りも無くルイスの想像通りのものだった。
「先日の一件については、そう言えなくもありませんね」
「ですから」
「だから、この話はなかったことに? 今更貴女の一存で、ましてやそんな理由で立
ち消える話でないことぐらいお分かりのはず」
払い除けるような返答を口にしながらも、ルイスはほんの少しの充足感を得ていた。
自分の存在で損なわれることがある、その責任感を忌避しての言葉ではあろうが、少なくとも、アシュリーとアシュリー以外しか存在しなかったハリルの世界に「ルイス」という存在が現れたことの証明でもある。
だが、ささやか過ぎる。まだ足りない。全然足りていない。この程度の言葉で、この程度の気持ちで満足など到底できるものではない。
どうすれば揺さぶることができるだろうか。どうすれば、何を言えば、どんな言葉で。
考えながら、ルイスは手にしていた杖で軽く床を打った。
視線を下げていたハリルが、それに反応して顔を上げる。
「貴女に、一つ謝罪を」
ルイスの言葉に、ハリルが訝し気な気配を醸した。
「子が出来ないことを、貴女は気にされているようですが、それには及びません。私の反応で、誤解させてしまいました」
無表情なまま、ハリルは大人しく話を聞いている。
「私も子は出来ません。医師の見立てで、その様に診断を受けています。できない者同士丁度良い、と、そんな意図を勝手に汲んで、不愉快に思っただけです。貴女に対して何かを思ったわけではありません」
まあ実際のところ、アシュリーにそんな意図があったとしても、気にするようなことではない。むしろ、互い一致していた方が余計な軋轢を生まずに済むだろう。
ただ、自分よりも他人に気にされるには、感傷的になりやすい話題、というだけのこと。
「いずれにせよ私は子を儲けるつもりはありません。余計な火種となりうる者を欲するつもりもない」
らしくもなく油断して、動揺した。ただ、それだけのことだ。
ハリルは表情もなく、物音ひとつ立てることなく息を詰めそこに佇んでいる。
「貴女は色々と気にされているようですが、むしろ私の方こそ、引け目に感じるものは多い」
ルイスは、己の身体を指し示した。
「この通り、半身が不自由です。少しも動かないわけではありませんが、自由に動き回る、というわけにはいきません。日常的に余人の介助を必要としています。実はここまで自分で来るのに苦労しました。戻るのも面倒だと思っているところです。貴女に面倒をお掛けすることもあるでしょう。助けを必要とすることは多く、しかし私が貴女を助けることはできません」
微笑むルイスを、ハリルはじっと見ている。
「私は決して王にはなりません。この国の正妃の座に、貴女が就くことは決してありません。第二王子妃としても、私はどのような権限も私の妃には与えない。市井に生きるより多少の贅沢は出来るでしょうがそれだけです。制約の方が多く、自由とも言えない。私などと結婚したところで、貴女自身が得られるものなど何もありません。それでも」
「私は、貴方様を傷付けましたか」
ルイスの言葉を遮ったハリルの声は、いつになく硬いものだった。
「私の言葉は、貴方を傷付けたのですね」
断定したハリルは、次の瞬間にはルイスの足元に跪いていた。
「違います。身体など、魂の入れ物に過ぎません」
以前の自分の言葉も、ルイスの言葉も否定することを口にして、ハリルはその黒い目でルイスを見上げた。
「だから、そんな風にご自分を貶めることを仰らないでください」
必死なその言葉に、一瞬思考の全てが止まった。気付けば、ルイスはハリルの腕を掴んでいた。
我に返ったらしいハリルが、自分の腕とそれを掴むルイスとを落ち着きなく見比べている。
そこに至って、ルイスはなんだか馬鹿馬鹿しくなった。
目の前に自分より馬鹿なことを考えてる者がいれば冷静になるものだという、フィニアスの言葉を思い出す。
完全に、兄達の思惑通りになっている。
「……ハリル」
ルイスは、もう取り繕うことを完全に放棄した。
「私は、貴女の思い通りにはならない。貴女を厭うことも、忘れることもしない。皇太子を想う隙など与えない」
腕を掴まれたハリルが、目を見開く。
「ルイスだ。君の夫となる者の名だ。名前で呼ぶことを許そう。家族以外で、私を名で呼ぶことを君だけに許す」
刻みつける。可能な限り、深いところに、その心に、爪痕を残す。鮮烈に、抉るように。決して薄れないように。
「私の元に来なさい。そうして、私を愛するといい」
誰かを愛して、愛されてくれ。そう言った、フィニアスの言葉通り。愛を請う。
正直なところ、今、ハリルを愛しているかと問われれば、是とは言えない。意地に毛が生えた程度のものでしかない。
襲撃を受けたあの時、レイモンドに弓を与えた。それは、ハリルの生存を僅かでも引き上げるため。
そうしたいと思った自分を自覚した。たったそれだけの、芽吹いてすらいない感情だ。
「私に愛されるために、私の元へ来なさい」
逃げ道を塞ぐ。それはハリルと、自分の気持ちの逃げ道だ。そしてハリルの視界に、自身を捻じ込む。
近い将来、ハリルは再びこの地へとやって来る。ルイスの妻となるために。
ハリルの途方に暮れたような表情は、しかし絶望を感じてのものではないだろう。その表情に浮かぶ狼狽は、悪い感情だけではない。
見ればわかる。この女は今、その視界にルイスを映している。
ルイスを見て、その言葉を聞いている。
「ハリル」
ただ、名を呼ぶ。
呼びたいから呼んだだけの、ただそれだけのもの。
支配欲、独占欲、満たしたいのはそんな、愛と云うにはあまりにも自分本位な独善的気持ちだと、自覚している。
それなのに、ルイスを見るハリルの顔に、湧き上がるのは充足感。
思わず零れてしまった笑みは、自分でも呆れるほど、心からの素直なものだった。
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