キツネの足跡

ハルマサ

第1話 キツネの足跡

 ある日僕は、キツネに出会った。

 不思議な場所だった。

 真っ黒な太陽が浮かぶ昼間の白い空。地面も白く、地平線では空と地面の境界線も分からないほどに真白く。

 その真っ白な地面の上に走る一本の黒い道。

 黒の道は終わりなく、後にも先にも続いている。

 そんな不思議な道の上に忽然と立つ僕の前に、そのキツネは座っていた。

 モノクロの世界に似つかわしくない茶色の毛並みを持ち、この世界の空を食らったような青い瞳でじっと僕を見つめている。


「珍しいこともあるもんだ。お前、名前はなんという?」


 僕が困惑していると、追い打ちをかけるように眼前のキツネが喋った。

 僕があまりの衝撃に言葉を失っていると、キツネは不機嫌そうにヒゲを動かす。


「無視とは失礼じゃないか。ほれ、何とか言ってみろ」


 流暢に喋るキツネ。未だに現状を一切理解出来てはいないが、キツネの言う通り、無視はいけないことだろう。

 僕は逡巡を巡らせると、恐る恐る名前を名乗る。


「……僕はタケル」

「タケルか。いい名前だな」

「キミは?」

「ワタシか?」


 僕が尋ねると、キツネは悠長に毛繕いを始めた。そして、名乗る。


「ワタシは見ての通りキツネだ。人間のお前達には分からないだろうが、ワタシ達は固有の名詞を持たない。だから、ワタシの名前はキツネだ」

「……キミはどうして喋れるの?」

「人間の言葉を喋っているわけじゃない。事実、ワタシの耳にはお前こそがキツネの言葉を喋っているように聞こえるぞ」

「じゃあ、どうして……?」

「別にどうでもいい事だろう。細かい男だな」


 キツネは呆れたようにため息を吐くと、今度は脚を開いて股の辺りを舐め始めた。


「キミはこの場所に詳しいみたいだけど、ここはどこなの?」

「ここは『道』だ」

「道?」

「お前らの言葉を借りるなら『運命』だ」

「運命……。ちなみにどの辺が運命なの? 道っていうことはこの一本道が運命ってこと?」

「質問ばかりで鬱陶しいやつだなぁ」


 キツネは本当に鬱陶しそうに毛繕いを辞めると、また優雅な姿勢でお座りをした。

 それから首をぐるりと回す。


「道はここの全て。黒い太陽も白い空も、白い地面も、お主の言う一本道も。それら全てを含めて『道』──即ち『運命』だ」

「この場所全てが運命……。てことはキミが僕の運命の人って事?」


 僕が言うと、キツネはバカにしたように大笑いする。


「面白い冗談だ。ワタシが人に見えるのか? お前はそういう趣味の人間か?」

「違うよ」


 僕が不機嫌に答えると、キツネは悪びれもせずに耳を動かした。


「『運命』という表現はあくまでお前ら人間に分かりやすく説明するために出した比喩表現だ。何度も言うがここは『道』だ。お前の人生の分岐路と言ってもいい」

「分岐路? ここは一本道だろ?」


 僕は自分の立つ黒い道を見た。後ろにも前にも同じものが一本走るだけ。前にはキツネが座っていた。

 そのキツネはまたもや呆れたようにため息を吐く。


「ここが一本道に見えるなら、それはお前の思い込みだ。お前、高校を卒業したらどうするつもりだ?」

「え? 急に何?」

「いいから答えろ」


 キツネに言われ、僕は考える。

 高校卒業なんて、入学してまだ間もないから考えたこともなかったが、恐らくは。


「普通に大学に行くと思う」

「その後は?」

「卒業して、医者になるかな。お父さんの跡を継ぐんだ」

「それだな」

「それ?」


 僕が首を傾げると、キツネは足で地面を一度叩いた。


「父の職を継ぐ。立派な夢だな。だが、それがお前の視野を狭めている要因だ」

「……なんかその言い方、ムカつくね」

「事実だ」


 僕が不愉快だと伝えると、キツネはまたまた悪びれもせずに耳を動かす。


「お前は父の職を継ぐことが人生だと思っているようだが、それだけが全てじゃない。もっと良く目を凝らして見ろ、もっと沢山の道が見えてこないか?」


 僕はキツネの言葉に若干の怒りを覚えたが、キツネの言う通りに目を凝らした。

 すると、キツネの背後の道が僅かに歪み、そして、二つに分裂した。


「え……!?」


 それだけじゃなく、分裂した道が更に分裂し、四つ八つと道が増えていく。

 仕舞いには僕の足元から道が分岐して、数え切れない道が僕の前に広がっていた。


「こんなに多くの道が……」

「やっと見えたようだな」

「これはキミにも見えていたの?」

「いいや。ワタシの目にはお前の後ろに道が広がっている」

「後ろ?」


 僕はキツネの言葉が本当かどうか確認するために後ろを振り向いた。

 しかし、後ろには先程と同じ一本道が伸びるだけだった。


「ワタシにお前の道が見えないのと同じように、お前にもワタシの道は見えないさ。なんせ、互いに歩んだ道はもう決めてしまったんだからな」

「それはつまり、過去は変えられないってこと?」

「端的に言えばな」


 その言葉を聞いて、僕はここがどのような場所なのかを理解した。キツネが言っていた通り、ここは確かに『道』だ。僕の『人生』という『道』。

 きっと僕の目の前に広がる道の幾つかは進むのも難しいイバラの道で、また幾つかは緩やかな坂道なのだろう。

 そう思い、僕はキツネに尋ねる。


「ここがどんな場所かはわかったよ。それじゃあ一つ質問していい?」

「なんだ?」

「キミは、これまでの人生、楽しかった?」

「あぁ、それなりにな。お前みたいに愚直に真っ直ぐ進んできた人間とは違って、ワタシは寄り道ばかりをしてきた口だ。順風満帆とは言い難いが、振り返ればいい道だったと自慢出来るくらいには楽しい生だった」

「そっか。それはとても……羨ましい」


 そう、羨ましいんだ。

 僕には父の職を継ぐ以外にはないと思ってたから。だから、部活をするのも遊ぶのも辞めて、ひたすらに勉強だけをしてきた。

 もし、医者になれなかったらと考えると、不安で夜も眠れなくなるからだ。

 でも、きっと心のどこかでは分かっていた。分かっていて無視をしていたんだ。

 こんな生き方、ただ苦しいだけじゃないかって。

 でも、どうすることも出来なかった。

 僕の道は一本道だと思っていたから、そこから足を踏み外せば、待ってるのは終わりなき暗闇だと恐れていたから。

 でも、違った。

 道は一本じゃなかったし、踏み外す心配がないくらい多くの道が僕には与えられていたんだ。


「ねぇ、もう一つ質問していい?」


 僕はずっと感じていた不安から解き放たれると、それを教えてくれたキツネに微笑んで、尋ねた。


「キミはどの道を歩いてきたんだ? もし良ければそれを教えて欲しい」

「…………理由は?」

「キミはさっきたくさんの寄り道をしてきたって言ってたよね。でも、それが良い道だったとも。……その話を聞いたらさ、僕もその道を歩きたくなったんだ」


 僕は少し恥ずかしかったが、その事を話した。

 するとキツネは顔を俯かせ──そして、ため息を吐いた。


「ほんとにお前ってやつは愚直なバカだな」

「……え?」


 僕はまさかこの流れで罵倒されるとは思っていなかったから、変な声を出してしまう。

 そんな僕を睨みつけて、キツネは呆れたように言う。


「もし仮にお前がワタシの歩いてきた道を歩いたとして、それがお前に合うとは限らない。道は自由に選べるけど、選んだ道と歩んできた道とがあわなきゃ、それはいい道とは到底呼べない」

「…………でも、じゃあどうすれば」

「別に、キツネの足跡をなぞるばかりが人生じゃねぇだろ。お前の目の前には今、何が見えてるんだ? ……色んな道があるはずだ。そん中から適当に選んで歩けばいい。──道を歩く先輩として一つアドバイスをしてやれるとしたら、もし最悪な道を選んだとしても立ち止まるな。すぐ横には別な道もあるし、同じ道でも今いる所と一歩進んだところでは見える景色も違うだろうさ」


 キツネはそう言うと、すっくと立ち上がった。


「さて、お前とのお話ももうお終いだ。お前が選ぶ道を見れないのは心残りだが、もう行かなくちゃならないからな」


 キツネは僕の足元に近づくと、裸足の足を叩いてきた。

 そして、にっと笑うと横を通り過ぎていった。

 僕はそれを振り返らずに、口を開いた。言い残した事があったからだ。


「キツネ。……ありがとう」

「……あぁ」


 キツネはそれ以上は言わなかった。

 キツネの足音が再び鳴り始める。

 そして暫くして振り返ると、そこにはただ黒い道が一本伸びるだけだった。キツネの姿はどこにも見えなかった。


 ▼


 夢を見ていた気がする。どんな夢だったかは覚えていないが、とても大切な夢だった。


「……何をしようとしていたんだっけ」


 昨日の夜に明日やる勉強を決めていたはずなのに、それが思い出せない。

 仕方なく、僕は立ち上がると、参考書をしまってある押し入れを開いた。

 そして、参考書を選んでいると、不意にあるものが目に入った。

 それは中学に入学する時に買ってもらった中古のギターだった。

 勉強のために色んな物を処分したが、これだけは何故か捨てられなかった。

 僕は参考書を選ぶ手を止めると、そのギターを掴んでいた。


「……寄り道も大切、か」


 突然思い浮かんだその言葉は、しかし心にすっと落ちていった。





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