クンネ・イセポ・テレケ

水谷威矢

波うさぎ

「じいちゃんな、若い頃は船に乗っちょったんよ。朝早くに船で沖へ出て、エビを獲っちょった」

 5年前の大晦日。酔いの回ったじいちゃんは僕にそんなことを話し始めた。じいちゃんは30代の頃、尾岱沼で一隻の漁船を持つ漁師だったそうだ。海で働いていた時期があった、とは父さんから聞いていたが、漁師だったとは知らなかった。

「昔はなあ、もっとたくさんエビも獲れちょった。海がちょっと時化た後によく獲れるんだけんどさ。じいちゃんとそん時の仲間達はさあ、なんちゅうか喧嘩っ早いかったっちゅうか、ちょっと波が高いくらいじゃあ漁を休んだりせんかったんよ」

 じいちゃんはコップに残ったビールを飲み干して話を続けた。

「でもなあ、もう海には行けねえ。じいちゃんは船に乗って海には行けねえんだ」

 船が沈没でもして溺れかけたのか、それとも単純に昔ほどエビが獲れなくなって廃業してしまったからなのか、じいちゃんはその両方とも違うと話した。

「いんや、ちげえんだ。船はもう売った。エビだってまだまだたっくさん獲れちょる。じいちゃんはなあ、うさぎを見ちまったんよ。だからもう、海には行けん」

 その話を聞いた時は全く意味が分からなかった。うさぎを見たから海に行けない、その道理を理解できないでいると、本州の方から帰省してきていた叔父さんが説明してくれた。

「道東の海で漁師をしている人たちならみんな知ってる話なんだけど」

 そう前置きしてから叔父さんが話してくれたことは、昔話や童謡にも近く、今では都市伝説と言われるような話だった。

 道東の海では大きな波が来たり、海が荒れたりする前兆として、白いうさぎが海に現れるのだという。これは古くから伝えられてきた話で、波うさぎと呼ばれ、アイヌ語ではイセポ・テレケ、うさぎが跳ねた、と言われていたそうだ。恐らくは、海面に立つ白波をうさぎに例えて言った話なのだろうと予想は着くが、漁師たちの間ではイセポという言葉を口にするだけで波を呼ぶとさえ言われており、忌避されていたと叔父さんは話す。

「俺の友人で漁師をやってるやつも、実際にそんなものを見たことはないって言うし、ジンクスみたいなもんなんだろうけど」

「でもなあ、じいちゃんは本当に見たんだ。船の上から、うさぎをな」

 もう何杯目か分からないビールを口に運びながらじいちゃんは続ける。

 じいちゃんはある日、いつものように漁に出ていた。少しだけ風が強い日で、波もいつもよりはあったが、それでも全く海に出られないという状態ではなかった。

 波がある分、いつもよりエビが多く獲れており、じいちゃんも仲間も大満足で港に帰れると思っていた。その時になると漁に出る時にあった波は全くなく、風も吹かない完全な凪になっていた。凪なんてものは海に出ていればままあることだそうだが、この日は嫌に不自然に感じた。この当時の天気予報なんてものはろくすっぽも当りはせず、一日中天気が悪いと言われても快晴が続くなんてこともざらだったそうだが、経験上、その日の朝のような波があってから、これほどまでの凪になることは今まででなかった。

 仲間たちは波のないうちにさっさと港に帰ってしまおうなどと話していたが、そのうち、徐々に小さな波が立つようになってきた。風は強くなく、特に雲も見当たらないため時化る前兆はなかったが、船の周りの小さな波は少しずつ白波に変わっていった。

 そんな時、仲間の一人が「あっ」と大きな声を出して海をじっと見つめていた。じいちゃんがどうした、とその仲間の方へ行き一緒になって海を見ると、うさぎがいた。

「あれは、波がうさぎに見えたとかじゃなく、ほんとにうさぎが海の上に座っちょったんよ」

 どう見ても白いうさぎが海面に座っている。しかもそれは白波が立つ度にぽちゃん、と海から飛び出してきては、一羽、また一羽と増えていき、しまいには20羽ほどの白いうさぎが海の上にいたそうだ。

 野うさぎというのは、夏には普通、換毛期を経て茶色の夏毛に変わっており、白いうさぎは冬の間にしか見られないものなのだそうだ。しかし目の前にいるうさぎたちは夏の盛りだというのに真っ白な毛だった。それがまたそのうさぎたちの奇妙さを引き立たせていた。

 アイヌの伝承では、そのうさぎたちが跳ねていった方向に津波が起こるともされており、じいちゃんと仲間たちは固唾をのんでうさぎたちの様子を見ていた。

 初め、うさぎたちはどこかに跳ねていくという様子はなかったが、そのうちうさぎたちはくるりと向きを変えて、全員、船の方に向き直った。うさぎたちが自分たちの方を見ているように思えてじいちゃんとその仲間は抱き着くようにして固まっていた。

 船の方を向いていたうさぎたちは出てくるときと同じように一匹、また一匹とぽちゃん、と音を立てながら海に飛び込んでいき、3分もすると全てのうさぎが見えなくなった。

 じいちゃんがまだ固まっていると、別の仲間が「イセポが出たぞ」と叫んだ。仲間たちは次々にどの方向へ跳ねただとか、見間違いじゃないかなどと話していた。

 じいちゃんは仲間に肩を揺すられ我に返るまで動けなかったそうだが、そのあとすぐに船を港に向けて走らせようとした。しかし、いくら待っても船が港に近づいている気がしない。エンジンが唸る音と、スクリューで巻き上げられた水が船の後ろに波を立てる音も聞こえるのに、船は前へ進んでいない。じいちゃんは焦っていたが、船長が仲間を不安にさせるわけにはいかないという思いで、必死に不安を隠そうとしていた。

 そうしていると、辺りがふっと暗くなったのを感じた。太陽が千切れ雲に一瞬隠れたかのような、そんな薄暗さだった。他の仲間たちは特に気にしていないようだったが、じいちゃんは空の様子を確かめるために操舵室から出てきた。さっきまで辺りは快晴だったのに、太陽を隠すような雲などあったろうかと。空を見上げれば太陽のまぶしさは変わらなかった。うさぎを見た時点で十分におかしな状況であったが、じいちゃんはここでこれは本当におかしいと思い始めた。

 雲がないのに薄暗くなったことに仲間たちは気が付いていないのかと思い、仲間たちの方を見ると、全員上の空のような、ぼうっとした様子だった。じいちゃんはもう平静を保てなかった。冷や汗をかきながら海の様子を見ると、じいちゃんはついに腰を抜かした。海が真っ黒になっていた。小魚の群れが船の下にいて、海の色が濃くなるとかではなく、それはまるで墨汁に船を浮かべているかのようだった。

 何が起きているか分からず、もしかすると夢でも見ているのかとすら思っていた。すると、海の方からぽちゃん、と音が聞こえた。腰が抜けて上手く立てない足で、甲板の手すりを掴みながらなんとか立ち上がり海の方を見ると、またうさぎがいた。初めはその姿を見つけられなかったが、船から3メートルほど先にそのうさぎはいた。海と同じ色の、真っ黒なうさぎだった。

 そのうさぎはとても深い黒色で、辺りが薄暗いこともあってか、毛が光を反射させることがなくとてものっぺりしたようにも見えた。しかし、それでいてぐっしょりと濡れているようにも見えた。

 真っ黒な毛色に埋もれているのか、それともそもそも開いてすらいないのか、そのうさぎの目は見えなかったが、そのうさぎはしっかりと自分を見据えているのが分かった。

 一刻も早くそのうさぎから見られないようにしゃがみこんでしまいたいと思っていたが、そのうさぎからは目が離せず体も動かなかった。

 そのうち、うさぎはぴょん、ぴょん、と船の方に向かって跳ねてきた。もしかするとこの船に乗り込んでくるつもりなのでは、とじいちゃんは半狂乱になっていた。うさぎが船からあと1メートルほどの距離まで来た時、一瞬動きを止め、その直後、うさぎは先ほどまでよりも大きく跳ねた。じいちゃんの手すりを掴む手にも一層力が入ったが、うさぎが船の上に上がってくることはなかった。その代わり、うさぎは船体の横に体当たりをするような恰好になった。

 うさぎが船に当たると同時に、他の船に衝突でもしたかのような衝撃を感じ、じいちゃんは後ろに倒れ、そのまま気を失った。

「目が覚めたら病院におった。みんな心配そうにじいちゃんのことを見ちょった」

 仲間たちが話すには、みんなが白いうさぎを見た後、じいちゃんが操舵室に戻ろうとした時に船が波に揺られた拍子に転んで頭を打ち、気を失っていたのだそうだ。もちろん仲間たちは白いうさぎは見たが、黒いうさぎなんて見ていないそうだった。

 それ以来、なんとなく船に乗って海に出るのが怖くなってしまったじいちゃんは、仲間たちの勧めもあり、少しの間療養することになったそうだった。その休んでいる間に知り合いの拝み屋のようなことをやっている人に船の上で見たものを話すと、それは大変なものを見てしまったねと話された。

 その拝み屋の人曰く、最初の白いうさぎたちは波うさぎで間違いなく、津波や時化を知らせに来たのではなく、じいちゃんに迫る危機を知らせていたのだそうだ。じいちゃんが波うさぎの後に見た黒いうさぎは、本来は形がないほとんど魔物のような存在で、その時にじいちゃんの命を奪えたはずだった。しかし、どういうわけかは分からないが、波うさぎたちがじいちゃんを守ったのではないかと話す。

「ただなあ、もう次はないかもしれんとも言っちょった」

 その魔物はとても強力で、神仏などとは関係がないもので、人間が祈祷などをしてどうこうできるものではないし、それは波うさぎも同じで、次もまた波うさぎがじいちゃんを守ってくれることはないだろうとのことだった。最後にその拝み屋の人は「あなたはもう海に出ることはできない。もし海に出るようなことがあれば、その時はもう帰ってくることはできないだろう」と言ったそうだった。

「だから、じいちゃんはもう船に乗って海には行けねえんだ」

 窓の外を見つめながらそう話すじいちゃんの目は、海を怖れていながらも、どこか寂しそうでも、懐かしむようでもあった。

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クンネ・イセポ・テレケ 水谷威矢 @iwontwater3251

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