永遠の前の日

 それがもうどれほど前のことになるだろうか。高校を出たあと、わたしは市内の平凡な会社に入って、そこで出会った人と結婚した。誠実ないい人だった。女の子をひとり授かった。けれど彼は数年前、交通事故で死んだ。わたしは今、七歳になる娘をひとりで育てている。学生の頃のことなんてとても振り向いてはいられない。

 だから、彼女がわたしを訪ねてきたのは、本当に驚いたことだった。

 五月、朝から強い風が吹く快晴の土曜日。娘は学校の友達と遊びに出かけていて、午後の日差しで明るい部屋にわたしはひとりだった。そこへふいにインターホンが鳴り、出てみると玄関先に彼女が立っていた。彼女はあの頃とちっとも変わらないように見えた。小ぶりのボストンバッグを持って、どこか照れたような表情で「久しぶり」と言った。

 リビングに通すと、彼女は上着を脱いで畳み、鞄とともに部屋の隅に置いた。それがこの季節に着るには暑そうなスプリングコートだったのがどうも気になった。お茶を出そうかと訊くと彼女は断った。それからしばらく、わたしたちは何も喋らずにただ向かい合って座っていた。しかし、壁にかかった鳩時計が十五時を告げたとき、その音に押されるようにして彼女は口を開いた。

「ごめんね、急に」

 その声にわたしはわずかな安堵をおぼえた。どこか間延びしたような喋り方は、記憶にあるそのままだったからだ。

「別にいいけど。でも、どうしたの、何かあったの」

 あのね、と言って、彼女はこの町を出てからのことをぽつぽつと語った。彼女は当時の彼氏と共に東京へ行き、そこで結婚したらしい。そして男の子をひとり産んだものの、数年して離婚し、子供は相手方に引き取られたそうだ。そのあと別の人と再婚して、今度はふたりの男の子を産み、つい最近、一ヶ月ほど前まで四人家族の母でいたのだけれど、結局離婚してしまって、子供たちもまた父親に引き取られることを選んだという。しょうがないんだ、と彼女は言った。パパがいいんだって、と。微笑んでいるように見えた。

 彼女と、わたしと、どちらが幸せだろうか。高校を出てからわたしは彼女のことなんてろくに思い出しもしなかった。彼女だってきっとそうだったはずだ。それなのに、今になってどうしてここへ来たのだろう。頭によぎったのは、あの頃の彼女が冗談交じりに言った「一緒に住んでよ」という言葉だった。けれど目の前に座る彼女はそれ以上何も言わず、再び黙りこくった。

「それで帰ってきたの、こっちに。」

 尋ねると彼女はうなずいた。それなら実家に戻るのだろうか、と思ったけれど、彼女はわたしがそう訊く前にうつむいて言った。

「でも、怒られちゃった。帰ってくるなって、親に。評判悪いでしょ、あたし」

 返す言葉を見失って、口を開きかけたまま固まったとき、ふと玄関扉の開く音がして「ただいまあ」と娘のほがらかな声が響いた。それからばたばたと足音が聞こえて、リビングのドアが勢いよく開く。

「おかあさん、おやつ! あ……お客さん」

「ごめん、騒がしくて。娘なの、こころっていうの。心、この人、お母さんの昔のお友達。ほら、挨拶して」

「はじめまして。」

 心は軽く頭を下げて、おやつ食べるね、と勝手にキッチンへ入っていった。

「もう、おてんばでさ」

 苦笑してみせると、あっけにとられたような顔をしていた彼女はそっと笑い、かわいいねと言った。時計の針がとても遅く動いているようだった。わたしたちはまた黙った。そのとき、クッキーの缶を抱えた心がキッチンから出てきて、どうぞ、と蓋を開け差し出した。彼女は笑顔でそれを受け取る。

「ありがとう、心ちゃん。いただきます」

「じゃあわたし、紅茶淹れてくるから」

 わたしはキッチンに立った。やかんを火にかけながら、二人がおいしそうにクッキーを食べているのを眺める。柔らかな陽光がフローリングの床に降り積もっている。

 マグカップを三つ出し、心のカップには牛乳を注いでぬるいミルクティーにして、トレイに乗せリビングへ運んだ。

「はい、熱いから気をつけて」

 ごめんね、ありがとう、と言って彼女はカップに両手を添える。ちっとも視線は噛み合わなかった。おやつの時間を終えると、心はすぐさま二階へ駆けていき、それからトランプを持って戻ってきた。

「七ならべ、やる」

 そう言って彼女の手を引っ張る。わたしが注意しようとすると、彼女はそれを遮るようにして「いいよ、やろっか」と言った。心は喜び、彼女を連れてまた二階へ上がっていった。わたしも食器を片づけてから少しだけ二人に加わって遊んだ。陽が傾き出した頃、夕食の支度のためキッチンへ向かう前に、わたしは彼女に問いかけた。

「今日、泊まってく?」

 一瞬だけその表情が翳ったように見えたけれど、気のせいだったのかもしれない。心がぱっと顔を輝かせてはしゃいだ。それから彼女は「いいの?」と言ってかすかに笑った。

「いいよ。心も喜ぶから」

 そのあと、わたしがカレーを作っている間じゅう、彼女と心はトランプで遊んでいた。楽しそうな声が時折キッチンまで届いた。

 ごはんだよ、と呼びにいくと、二人は神経衰弱をしていた。外の空はすっかり暗く、蛍光灯の明かりが室内を優しく染めている。心はすっかり彼女に懐いて、食事の間もずっと話しかけていた。

 お客さんだからと彼女に一番風呂を譲った心は、洗い物をするわたしの横で先ほどのトランプ勝負の結果について嬉しそうに喋った。こんなに楽しげな心の顔を見るのはずいぶん久しぶりのことのような気がした。その日はリビングに彼女のための布団を敷き、わたしと心はいつも通り二階の寝室で眠った。


 日曜日の朝だからアラームは鳴らなくて、目を覚ますと枕元の時計は八時過ぎを示していた。カーテンを開け、部屋を明るくして心を起こす。一階へ下りると、リビングはしんと静まり返っていた。彼女がいない。荷物も上着もすべてなくなっている。駆け寄った窓の外、まっすぐ伸びる道の遥か先に、彼女のコートのベージュ色が見えた。

 追いかけなければいけない、と、確かに思った。

 寝ぼけまなこをこすりながら階段を下りてきた心にすぐ戻るからと伝え、わたしはサンダルをつっかけて外へ飛び出した。彼女の後ろ姿、それはこちらを少し振り向いたようだったけれど遠ざかっていく。この町を出ようと歩いていく。わたしは走った。足元ではサンダルがぱたぱたと間の抜けた音を立てていた。澄んだ空がずっと高くからわたしたちを見ていた。

 彼女はどうしてわたしを訪ねてきたのだろう。そして、そのくせになぜ何も言わず去ろうとするのだろう。そうやってどこへ行こうとしているのだろう。実家へ帰ることもできず、東京にだってもう家族はいないのに。彼女がわたしのところへ来たのは、わたしに何かを期待していたからなのだろうか。今こうして去っていくのは、わたしがその期待に応えられなかったからなのだろうか。もし昨日、彼女ともっと別の話をすることができていたなら、こんなことも考えずに済んだのだろうか。

 小さな踏切が見えた。彼女は同じ速度で歩き続け、線路を渡っていく。わたしは次第に距離を詰めていった。あと数メートルも歩み寄ればその肩に届く。伸ばしかけた手のほんの爪先で、しかし遮断機は下りた。

「待って。」

 警報音が邪魔だった。彼女はゆっくりと歩みを止めた。

「ねえ」

 大声なんて出し慣れていないからその声は裏返って、それだけがひどく悲しいように思った。ああ、赤い光が意地悪く明滅して、カンカンうるさく警報が鳴って、彼女の小さな背中が、冷たい線路の遥か向こう側になってしまう。黄色と黒の縞模様に阻まれたわたしには届かないほど、どこか遠いところへ消えてしまう。彼女はわたしに背を向けたまま振り返らない。わたしには見えない場所を見ている。きっとそこに彼女の幸せはない。いや、今までだって、彼女がいたところのどこにもそんなものはなかったのだ。わたしは叫んだ。

「いいよ、一緒に住もうよ、ねえ。」

 銀色に黒ずんだ電車がその声を攫っていってしまったから、踏切のあちら側とこちら側はきっぱり分かれたままになって、辺りが静かになったときにはスプリングコートはどこにもいなくなっていた。例えるなら、風に吹かれたたんぽぽの綿毛のように。ただ単純に、空気の中へ溶けてしまった。けれど最後、彼女の声が「無理、無理」と笑ったような気がして、ああ、もう、ねえ、おかしくなりそうなのに。

 ひとつ、強く、強くなまぬるい風。乱れた髪が睫毛に引っかかって、毛先が瞳に触れて、それだから涙が舞い散ったのだ。かすかに痛むから。

 ふと、小さな手がわたしの服の裾を引っぱった。心だった。家からここまでわたしを追いかけてきたらしかった。

「おかあさん。あのひと、帰っちゃったの。」

 わたしは線路のずっと向こうを見つめて立ち尽くしていた。心の声が不安げに揺れた。

「おかあさん……」

 夏が、空を踏み荒らして、やって来ようとしていた。

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浮気なあなた クニシマ @yt66

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