浮気なあなた

クニシマ

夏の印画紙

 ——海、行こうよ!

 高校二年の夏休みが始まる日、彼女はそう言ってわたしの手を取った。彼女がそんなふうにわたしを誘うのはいつも決まって恋人と別れた直後のことだった。聞けば、梅雨の頃に付き合い出した彼氏ともう終わってしまったらしい。純朴で実直ないい相手だったと思うけれど、彼女は飽き性だから、付き合って何日と経たないうちに彼をないがしろにし始めて、我慢ならなくなったあちらから別れを切り出されたのだ。いつだって彼女はそんなことばかり繰り返していた。わたしたちの生まれ育った小さな町では、子供はだいたい幼稚園から高校までそのまま同じところに進む。それだから、そんな性格の彼女は中学生にもなれば女子たちから顰蹙を買い出して、高校に上がった頃にはわたしの他にろくな話し相手がいないようになっていた。ただ、それはわたしだって同じことだった。わたしは同級生たちに嫌われていたというわけではないのだろうけれど、決して好かれていたわけでもないから、友人と呼べるのは彼女くらいのものだったのだ。

「じゃあ、いつにしよっか」

 わたしが予定を立てようとすると、彼女は平然とした顔で「えっ、今から行こうよ」とのたまった。驚くわたしに、だって暇でしょ、と言ってのける。昼下がりの教室、大きな窓からカーテン越しに差し込む陽光が彼女の白い肌を輝かせていた。彼女の顔は目鼻立ちがはっきりしていて、冴えない片田舎の高校生にしては都会風の美人だったから、どんなによくない噂があっても彼女と付き合いたいという男子は絶えなかったのだった。

 結局わたしは彼女に押し切られ、この町から鈍行で三十分ほどのところにある海岸へ向かった。七月下旬の海の人気ひとけの多さ、狭苦しさといったらない。疲れるねとため息をつくと、彼女は不思議そうな顔で笑った。人の多い場所が好きなのだ。賑やかで楽しいなどとよく言っていたのを覚えている。

 制服のままだから海へは入らずに海の家で過ごすことにした。初めは惜しがって「水着借りようよ」とごねていた彼女も、店内の貼り紙に『スイカのかき氷』という文字列を見つけるなりすぐに機嫌を直してはしゃぎ始めた。凍らせたスイカを削って作っていると知ると、一緒に食べたいと言い出し、断っても聞かない。仕方がないから食べることにしたけれど、こういうところの食べ物はたいていが高い。少ないお小遣いでなんとかやりくりするわたしのような学生にはつらいものがあるというのが正直なところだった。

 注文してからかなり長いこと待たされた。その間、彼女と取り留めのない話をしながら、混み合った砂浜を眺めていた。ざわめきの中、打ち寄せる波の音にまぎれてときどきカモメの鳴き声が響く。水面には太陽の光が跳ね回り、煌めくしずくが弾け飛んでいた。やがて運ばれてきたかき氷は、まあ、それなりの味だった。彼女は満足していたようだったから、わたしは何も言わなかった。

 夕方になり、そろそろ帰ろうと言うと、彼女は「絶対またもう一回来ようね」と愛らしく笑った。彼女はあれこれとものをねだるのが上手だ。そういうところも周りから陰口を叩かれる原因のひとつだとわたしは知っていた。それなのに、直したほうがいいなどと忠告をしなかったのは、わたし自身彼女に何かをねだられて頼られるのが嫌でなかったからなのだと思う。


 それから何週間か経った八月の半ば頃、彼女はわたしの家まで訪れ、再び海に誘ってきた。そして今度は二人とも水着を用意して、以前よりさらに多くの人々でごった返す浜辺へ降り立った。太陽はじりじりと照りつけ、日焼け止めのべたつきごと皮膚を焼く。彼女は胸元に大きなリボンのついた白い水着を纏っていた。浅瀬で遊んでいると、見知らぬ若い男の二人組が寄ってきたので、めったやたらに泳いで躱した。なんだかとても楽しくて、彼女と顔を見合わせて大笑いした。

 そのうち泳ぎ飽きて砂浜に座り込んだ。体から滴り落ちた海水が砂を湿らせるけれど、日差しを浴びてはすぐに乾いていく。わたしたちは互いの肩に寄りかかり合い、しばらく黙っていた。ふいに、彼女が「また別れちゃったの」と言った。彼氏のことだとすぐにわかったけれど、何が、と尋ねた。彼女はそれには答えずに「ねえ、あたしってずっとこうなのかなあ」とつぶやく。ちらりと彼女の顔へ視線をやれば、その大きな目と高い鼻がやけにくっきりと見えた。そうかもね、と適当な返事をする。

「結婚とか、しても、こうなのかな」

「まあ、そうなんじゃないの」

 その言葉に、彼女は口を尖らせた。

「やだあ。ねえ、あたしがもしこんな感じで離婚してさ、独身になっちゃったらさ、一緒に住んでよ。」

 突拍子もないことを言うから思わず笑ってしまう。

「やだよ、わたしだって普通に結婚するし、離婚しないもん」

 彼女はおおげさに残念がるような声を出して、なおも「一緒に住もうよ」と頰をふくらませた。

「無理、無理。」

 わたしは立ち上がり、逃げるようにして海へ飛び込んだ。彼女もわたしを追って駆けてくる。そのとき、波の勢いに押されてふらつき、頰が彼女のくちびるにぶつかった。何が面白いのか彼女は声を立てて笑った。ただ、小さなくちびるをしていると、そう思った。

 そのあと、陽もだいぶ傾くまで遊び、すっかり疲れて帰りの電車に乗った。彼女は座席についてすぐ眠ってしまい、わたしもうつらうつらとしていた。そうやってあと数駅でわたしたちの住む町に到着するというとき、わたしはふと頰に彼女のくちびるの感触を思い出した。痛むように心臓が鳴った。彼女は言わずもがなとして、わたしにだって当然彼氏の一人や二人いたことはあった。それでもそのとき確かに感じたのだ。本当の最初の恋というのは、きっとこういうふうに始まるものなんだ、と。赤く日に焼けた彼女の首すじを眺めながらずっと考えた。窓から差し込む夕陽が電気の消えた車内をすっかり染めていた。それはいつまでも続く長い長い時間であるように思われた。

 けれども翌年、高校の卒業と同時に、彼女はそのとき付き合っていた相手と連れ立ってこの町を出ていった。

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