第5話

「僕の昔話をしてもいいですか」

 三浦の言葉に、高杉は怪訝な顔を向けた。三浦は返事を待たず、話し始める。

「僕が、ああいうものを見られるようになったのは、小学生の頃ですね。親友と二人で、廃寺に肝試しに行ったんですよ。その寺の、会館の待ち部屋で、小さな仏壇のようなものを見つけました。その仏壇だけやたらと小ぎれいで、きっと世話をしていた人がいたんでしょう。煙は消えていましたが、線香も立ててありました。その仏壇の手前に、折った線香で、模様が描かれていたんですね。プラス、マイナスのようなマーク、ギザギザの線、パッと見た感じでは、数式のようにも見えました。それをね、僕らは蹴散らしたんですよ。『こんなのは怖くないぞ』って、互いに虚勢を張ってね。そうしたら、仏壇のある部屋の、隣から、トントン、と音がする。はじめは僕らも、住職か誰かだと思って、慌てて押し入れに隠れたんですね。押し入れにはまだ布団やら座布団が入っていて、かび臭いにおいがしました。トントンという音が大きくなって、『それ』が部屋に入って来ました」


 仄花は、彩花の姿を見失い、辺りをきょろきょろと見回していた。

霧の中に、うっすらと、二つの影が見える。

「お姉ちゃん?」

 どちらの影も動かない。どちらかが彩花だとすると、どちらかは、舞目だ。

 そろそろと距離を詰めてみる。彩花と合流しなければ、自分だけでは舞目を祓いきれない。

 ぴくり、と右側の影が動いた。仄花は動きを止める。影は近づいてくる。

 仄花は、影の動きがなめらかすぎることに気づいた。人が歩くのであれば、もっと身体が上下するはずだ。

 右側の影を避け、左側の影に駆け寄る。

 仄花の右側を、腐って倒れたと思しき老木が通過した。

 あっ、と思ったとき、左側の影が振り向いた。

 それは面だった。老人のような白髪がまばらに垂れ下がり、正面には鼻も口もなく、ただ妙に生々しい大きな目が一つだけ付いていた。

 ――目が合った。

 次の瞬間には、目の前が真っ暗になった。


「押し入れの隙間から見たそれは、人の頭でした。もうよく覚えていないのですが、男の人の、頭です。三つ目だったと思います。きっと、僕たちが、封印を解いてしまったのでしょうね。頭は、まっすぐに、押し入れの方に向かってきました。きっと、僕たちがいることを分かっていたのでしょう。僕はどうしたと思いますか? 逃げました。友人を置き去りにして、逃げました。押し入れの片方の襖を開けてしまうと、反対側からは出られませんね。僕は、そうと分かっていながら、親友を見捨てて逃げたんですよ。頭は追いかけてきませんでした。そして、それ以来、親友は行方知れずになりました」

 一息に話してから、深い息をついた。三浦は弱弱しく言った。

「それ以来、僕は見えるようになってしまったんですよ」


 彩花は無我夢中で辺りを手探った。なるべく、目を薄目の状態に保つ。

 伝承をそのまま信じるとすれば、触ってしまっても、目さえ合わなければいい。今、舞目に狙われているのは仄花だ。とにかく、見つけ出して一緒にいなければ。

 しかし、手に触れるのは、木や土ばかりで、あまり動きすぎると自分が転落する可能性もある。

 木々に沿って歩みを進めると、後ろから、「お姉ちゃん」と声がした。

「仄花!」

 言ってしまってから、これは『名前を呼ばれて、返事をする』ことに該当するのかと思い当たった。

 霧の向こうで影が揺らめいている。

 それは、彩花に近づいてきている。


「君が彼女たちを守ろうとしていたのは知っています。でも、僕はどうしても、わが身がかわいいんですよ」

 三浦の言葉を、高杉は憮然として聞いていた。

 と、高杉の表情がこわばった。

「ああっ」

 首をそらせる。

「高杉くん?」

 三浦の声にも応えない。

 高杉の脳裏に、いくつものイメージが去来した。霧に埋まった山道、腐った枝を握り一人でしゃべる彩花、何かにおののく仄花、こちらを振り向いた面――。

「――舞目か!」

 高杉は絞り出すように叫ぶ。

「三浦先生、舞目です、女じゃない。でも、もうだめだ、見つかってしまった!」

 高杉は目を見開き、どうすればいいか考える。眼球が左右に細かく震える。

 ――助けなければ。

 高杉は車のドアを開けた。


 霧の向こうから、仄花が現れた。

 彩花はほっとして駆け寄ろうとするが、はたと足を止める。

 仄花が何か被っているのだ。うつむきがちな顔を、彼女はゆっくりと上げる。

 ぬらぬらと光る一つ目が、彩花はにらんだ。彩花は短い悲鳴を上げ、とっさに目を下げる。

 仄花の下半身が、妙にギクシャクとした動きで迫ってくる。

「お、お、お、オネエチャン」

 それはもう仄花の声ではない。ひび割れた金属のような声だ。

 仄花の腕が彩花の首元をつかむ。そのまま締め上げられる。

 正面を向かせようとしているのだ。

 彩花は必死で手に持った塩を巻く。しかし、効果は一切ないようだ。

 目をつむる。

 仄花の腕に力がこもる。


 山並みの向こうに陽が沈んでいく。

 車のドアを開け、高杉は右折車線に躍り出た。

 満面の笑みを浮かべ、手足をくねくねと動かす。

 田所に教えてもらった舞だ。

 高杉は交差点に進み、踊り続けた。

 手を不自然に上げ下ろし、足を曲げお辞儀をする。

 動きには、パターンもリズムもない。

 田所に叱咤されながら覚えたのだ。

 クラクションが響き、すぐ隣を車が通過しても、彼はそれをやめない。

 三浦が車内で何か叫んでいる。

 高杉は顔を上げた。

 ――私が籠になります。

 変わらぬ笑顔のまま、虚空の何かを見つめている。

 ――彼女たちを守ってください。

 そこへ、猛スピードでトラックが迫った。


 霧の中から、手と胴の長い女が現れた。その姿は、子どもがクレヨンで塗りつぶしたかのように真っ黒だ。

「ミズカワさん」

 壊れたテープレコーダーのような声でつぶやいたかと思うと、仄花の頭、厳密にいえば仄花に被さっている面を、蟹のような手でつかんだ。

 べりべりという嫌な音がする。彩花が目を開けると、仄花が倒れこんできた。その顔は粘液のようなもので光っている。

 彩花は仄花を抱き留め、女――舞女の方を見やる。舞女は、舞目をつかんだまま霧の向こうへ消えようとしていた。舞目は甲高い鳴き声を発しながら、昆虫のようにじたばたとしている。

 舞女の背中が遠ざかり、見えなくなると、霧が晴れ始めた。


 姉妹は憔悴しきった様子で、三浦の運転する車に揺られていた。

 舞女が去った後、山中の道路で動けずにいると、三浦が現れたのだ。そして、高杉の顛末を聞いた。彼が舞女を呼び出して、舞目に対し、呪いをかけたのだ。命と引き換えに。

 三浦は、高杉に聞かせたように、自分の罪、自分の過去について語った。彩花は不思議と、何の感慨ももたなかった。数時間前まで、生きるか死ぬかの背戸際にいたのだ。三浦の思惑など、どうでもよかった。

 仄花は、小さく「ふざけんな」とつぶやいた。三浦による被害を、直接的に被ったのは彼女である。それ以上は、口を開こうとしなかった。

 洋館にたどり着くやいなや、仄花はシャワーを浴びに走っていった。彼女曰く、面の下は、無数の舌で嘗め回されているような感触だったらしい。全身がしびれ、身体が自由に動かせなかったそうだ。

 いつものソファに座り、三浦の用意した紅茶を飲む。やっと生きている実感が湧き、姉妹は息をついた。三浦がロッキングチェアに腰かける。

「高杉くんはね」

 おそらく、二人に話しかけているのだろうが、目線は遠い。

「仄花くんによくないものが憑いていると分かってから、ずっと君たちを守ろうとしてきたんです。しかし、相手が舞目なのか舞女なのか分かりませんでした」

 窓の外はすでに暗い。大きな窓を、薄緑のカーテンが覆っている。

「彼は昔、舞女に襲われました。そして守られ、身を守る術を教わったそうです。だから、それを駆使して君たちに守護の呪文をかけようとしていました」

「呪文?」

 彩花の問いに、三浦はうなずく。

「舞女を封じるには、籠が必要です。だから、舞女には別称がある」

 三浦は指を立てた。

「――カゴメです」

 姉妹の脳裏に、かごめ、かごめ、籠の中の鳥は――という童謡が浮かぶ。

「童謡が言霊になるという話はしましたよね? かごめの歌は、舞女から身を守るのに有効です。高杉くんは、それを使って、お二人に呪文をかけました」

「どうやって?」

「かごめの歌で言霊としての威力をもつのは、『うしろのしょうめんだあれ』です。彼は、自分が話すとき、いつも頭文字にこの十一音を紛れ込ませていました」

 高杉の奇妙な話し方、間の取り方、文脈に沿わない発言が彩花の脳裏をよぎる。

「相手に気付かれず、呪文を振りかける。言霊が最も効力を発揮する方法です」

 三浦が言ったとき、車が通ったのか、薄緑のカーテンがライトで照らされた。

 カーテンの向こうに、手と胴の長い女の影が浮かび上がる。

 彩花と仄花は悲鳴を上げた。三浦が立ち上がる。

 ライトはすぐに去ってしまい、カーテンの向こうにいる女の影は、すぐに見えなくなってしまった。しかし、風がないにも関わらず、カーテンがそよいでいる。

 三浦が二人の前に立ちはだかった。広げた手がぶるぶると震えている。

 カーテンが揺れている。右に揺れ、左に揺れ、やがて、チリンと音を立てて、わずかに開いた。

 舞女はまだそこにいた。黒い目で、彩花と、仄花と、半泣きで二人をかばう三浦を見つめている。

 しかし、部屋に入ってこようとはしなかった。何を考えているのか分からない瞳で、三人を凝視している。

 やがて、舞女はぐるりと首を回し、背を向けて去っていった。長い背中が透け、霧散していく。

 部屋には三人だけが残された。三浦は、何が何だか分からないという様子で床にへたり込む。彩花と仄花は抱き合い、舞女の消えた夜闇の先に目を凝らしている。

 ――さよなら。

 二人のうちのどちらかが言った。

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マヒメ 葉島航 @hajima

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