第4話

 二人が帰路に就いたのは、陽が傾き始めたころだった。マイメに関する情報は中途半端だったし、対処方法も満足できるものではない。

「まさか、命を差し出すわけにもいかないしね」

 彩花がため息をつく。

「でも、今日のおばあさんとおじいさんの話は一貫していたね」

 仄花の言葉に、彩花もうなずく。

「そうね。目なのか女なのか知らないけど、とにかくあの地域で広まっている伝承だっていうのは分かった。マイメに憑かれるのが、基本的に運だってことも。でも、おじいさんの言ってた『舞で呼び出せる』っていうのは腑に落ちないな」

「誰かに呪われていたら、嫌だな」

 山裾のバス停につく。しかし、今日の分のバスは、もうないことが分かった。

「嘘!」

 彩花がスマートフォンを取り出す。しかし圏外で、タクシーを呼ぶこともできない。

 集落に引き返して電話を借りるか、それとも山道を徒歩で帰るか。なだらかな山を一つ越えるだけなので、歩けない距離ではない。陽が落ちきる前には帰宅できるだろう。

「どうする?」

「うん…ちょっと怖いけど、歩こうか。集落の人たちにお願いするの、不安だし」

 仄花らしい答えだ。彩花は「分かった」と返しつつ、仄花の将来を案ずる。この子の人嫌いはこのままで大丈夫かしら。

 山道といえども、本当に山の中へ分け入っていくわけではない。道は舗装され、ガードレールも設置されている。姉妹は並んで歩を進めた。


 大学での講義を受け終えた高杉が、いつものように洋館へ顔を出すと、三浦が慌てた様子で駆け寄ってきた。

「君も来なさい」

「え? なぜです」

「嫌な予感がするんです」

 何が何だか分からないまま、高杉は車の後部座席に乗せられる。三浦がハンドルを握った。三浦はしきりに周囲を気にしている。

 ぐるりと首を回しながら、高杉は三浦に問いかける。

「もしかして、あの二人のことですか」

「ええ。今日二人はマイメについて情報収集に出かけているのです。何事もなければ、今頃帰り道だと思うのですが」

 三浦は答えながら、車を発進させた。


 おかしいな、と感じたのは、ガードレールがなくなって、代わりに木が茂り始めたからだ。行きはバスを使ったから気づかなかったのかもしれない、と進んでみると、今度は舗装すら途切れ、砂利道になる。さすがに、こんな道は通っていない。

「分かれ道って、なかったよね」

「うん」

 仄花は自分の肩を抱いた。嫌な予感がする。

「マイメの仕業?」

「たぶん、そう」

 彩花は鞄の中から塩を取り出す。気休めにしかならないだろうが、この場さえ切り抜けられればよいのだ。

「この場にとどまるのが一番よくない気がする。とにかく、引き返してみよう」

 彩花の提案に、仄花はうなずいた。


 車は住宅街を抜けた。夕日が傾いている。帰宅の時間なのか、道は混んでいて、なかなか進まない。ハンドルを握る三浦は、いら立たし気に指を叩きつけている。

「先生、どこに向かうんですか」

「私にもよく分かっていないんです。ただ、嫌な予感がするだけで」

 三浦の返事に、高杉は首をぐるりと回してため息をついた。

「予感や直感は、ときに自分の首を絞めますよ、先生」

 三浦は答えない。高杉も、眉間にしわを寄せて考え込んだ。

 沈黙が訪れる。どこか遠くで、クラクションが鳴る。周囲のエンジン音や窓ガラスに遮られ、それはひどく他人事のように聞こえた。

「先生」

「何でしょう」

 高杉は再び首を回し、問いかけた。

「先生、山から離れようとしていませんか?」


 道を引き返すのは失敗だったかもしれない。あるいは、どっちに進んでも同じことになったのかもしれない。

 下りになるはずの道は登りに転じ、霧も立ち込めてきた。陽はまだ傾き始めたばかりだったはずなのに、すでに周囲は薄暗くなっている。

 彩花は仄花の手を引き、進む。

「ヤバイね、これ」

「どうしよう、お姉ちゃん」

 一度、二人とも足を止めた。これ以上進むよりは、ここにとどまり、マイメをやり過ごす方が得策なのかもしれない。

「お姉ちゃん、今言うことではないのかもしれないんだけど」

「何?」

「おばあさんとおじいさんが話してくれたこと、あれって、それぞれ別の伝承なんじゃないかな」


「おかしいなとは思っていたんです。先生、二人を助けるつもりなんてないのですね」

 三浦は無言だ。ウインカーの間の抜けた音が響いている。

「むしろ、自分の被害を避けるために逃げているように見える。今日だって、先生、大学の講義もゼミもないじゃないですか」

「そんなことはない。学会関係の会議があったんだ」

 高杉はその反論を意に介していないようだ。無視して、言葉を並べる。

「先生があの二人と話しているのを、ドアの向こうで聞かせてもらいましたよ。『話を知っている人のところに来る』タイプの霊。先生、本当はマイメに憑かれていたんじゃないですか?」

 

「どういうこと?」

 彩花の問いかけに、仄花は自分の仮説を述べる。

「マイメとマヒメ、舞目と舞女は別物じゃないかなって、少し思ったの。共通点もたくさんあるけれど、違う点も多すぎる」

「そんなの分からないじゃない。証拠も何もないでしょう? それに、それが同じ物か別物か分かったところでどうなるの」

 彩花は周囲を見回し、塩を握りしめる。

「それは、確かにそう」

 仄花はつぶやく。

「でも、私の感じた気配は、決して女の人の気配じゃなかった。私を見ているのは、きっと、舞目」


「僕が、マイメを彼女たちに移したと?」

「ええ。端的に言えばそうです。ちなみに、証拠はありません。勘です」

 根拠がないと聞き、三浦は冷笑する。

「面白い仮説ですね」

「私は、彼女に憑いているのが舞目なのか舞女なのか、よく分かりませんでした――今もよく分かっていません。先生も、自分に憑いているのがどちらなのか判別できなかったのではないですか? だから、二つの伝承の共通項だけを二人に話した。あれだけの素質を持った姉妹です。その力に引っ張られて、マイメがそちらに憑くのは容易に想像できます」

 三浦は黙り込んだ。

 陽が沈んでいく。


 霧が濃くなり、互いの表情も読み取りづらくなってきた。彩花は、仄花の手を強く握りしめる。

 仄花を狙っているのは舞目。そうだとして、どうすればいいのか。舞女ならば、最悪の場合『籠』を差し出せばいい。しかし、舞目ならば、対処方法は分からないのだ。

 とにかく、舞目らしきものが現れても、目を合わせなければいい。名前を呼ばれても無視すればいい。そうして、この場をやり過ごすしかないのだ。

 改めてそれを確認しようと彩花が振り返ったとき、そこに仄花はいなかった。

「仄花?」

 声をかけるが、返事はない。辺りは霧で覆われている。

 彩花は、仄花の手を握っていたはずの自分の手を見る。

 そこには、湿って腐りかけた木の枝が握られていた。

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