-3- 戴冠
間違っていたのが誰かなんて、わかりきったことだったのだ。クローディアは自室のベッドに腰掛けてぼんやりと思う。
血まみれのドレスは侍女たちに取りあげられ、彼女はたっぷりの泡と憐れみで体中を洗われた。寝具は柔らかく、カンテラの明かりが夜闇を静かに照らしている。まるで何も変わらない夜だった。人が一人死んでいるのに。
ジルカの蝋人形のような死に顔が蘇って、クローディアは両手で顔を覆う。すべて、自分のせいだ。ギルランドと安易に関係を持ったこと。彼の言葉を鵜呑みにしたこと。ロバートに相談してしまったこと。ジルカを王城に留め置かなかったこと。賊相手にうまく立ち回れていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。そしてこれから、この国は勝ち目のない戦に挑もうとしている。
ひめさま、というジルカの掠れ声が聞こえた気がした。たすけて、というか細い声が。なのに自分は立ち尽くすばかりだった。笑ってしまう。民を守るのが王の役割なのに。あぁ、どうして。
死んだ花の香りと血の臭いが消えない。
扉を叩く音に、クローディアはゆっくりと顔をあげた。燭台片手に現れたのは侍女の一人だ。泣きはらした顔はジルカにそっくりでどきりとしたが、ぼそぼそとした声音はもちろん彼女とは違う。
「あの、姫様にこれを」
「……なに?」
「ジルカからの頼まれもので」侍女は鼻をすすって、ゆっくりと言葉を続けた。「姫様が帰ってきたら持っていくつもりだったんだと思います。ベッドのうえに置いてあったので」
手渡されたのはジャムの小瓶だった。中身は半分ほどに減っていて、蓋もずいぶん緩んでいる。息をのむクローディアに、侍女が慌てたように言葉を付け足した。
「あの、それは決して怪しいものではなくて! ジルカの家は、」
「貧しいから、民と一緒にものを作っている、でしょう」クローディアは細く息を吐きながら、瓶の表面をなでた。「知っているわ……ジャムをくれる約束だったから」
ゆっくりと蓋を開け、指先でジャムをすくって口に含んだ。木苺の甘酸っぱい香りが去れば、手作りらしい渋みが残る。「……馬鹿ね」とクローディアはぽつりと笑った。
「馬鹿だわ。毒見は王族の眼の前ですべきだし、半分以上食べるなんて失礼極まりないのよ……失格だわ、侍女として。ねぇ、ジルカ」
耐えきれなくなったのか、侍女が目元をぬぐった。ひめさま、と彼女はか細い声で問いかける。
「……本当に、戦になるのですか……私達も、ジルカみたいに殺される……?」
馬鹿な話だった。ジルカは
けれど、少女は生きているのだ。そしてこれからも、平穏無事に生き続ける権利がある。当たり前の事実に、クローディアはべたつく指先を痛いほど強く握り込んだ。
「いいえ、あなた達はわたくしが守るわ。どんな手を使ってでも」
*****
「つまらない結末だよねえ。属国に甘んじるなんてさ」
「婚姻の式典には出席されますか?」
「面倒だ。適当な理由をつけて断っておいてくれ」
「承知しました。では次に、将軍から問い合わせのあった件ですが」
「また戦争したいって? あの人も相変わらず野蛮だな」
ギルランドがやれやれと肩をすくめれば、執事は眉一つ動かさずに親書の続きを読み上げた。
「閣下こそ卑怯な方法で人を殺す冷酷者である、と書かれていますね」
「戦場に行かせて兵を殺すのと何も違わないさ、愚か者……と返事には書いておいてくれ」
「承知しました。問い合わせについては?」
「最低でも
「ではそのように」
編みこんだ銀髪を揺らし、ギルランドはうんざりしながら背もたれに身を沈めた。
「はぁまったく。数年ぶりの帰郷なのに、待っているのがつまらない面倒事ばかりで嫌になってしまうよ。俺は可愛いアリアのために帰るようなものなのに。なぁ、そういえば土産の花の準備は十分にしたかい?」
「妹君様への贈り物は、つつがなく手配済みです」
「いいね、すばらしい」可愛い妹の喜ぶ姿を想像し、ギルランドはうきうきしながら言った。「そうだ。一番最初に手渡す包みはジャムの小瓶にしよう。瓶の装飾が実に彼女の好みだからね。すぐに出せるように心づもりを、」
馬車が揺れ、ギルランドは言葉を切った。外がにわかに騒がしくなり、窓越しに護衛の報告を聞いた執事が渋い顔をする。
「ギルランド様、襲撃です」
「相手は?」
「賊のようですが、見覚えのある秋露国の間者の顔がある、と」
「……へえ?」
ギルランドは眉を上げた。まさか間者に襲撃されるとは思わなかった。さて、では何故か。しばし考えた後、彼は薄く笑って口を開く。
「少し散歩をしてこようかな」
「伴は必要ですか」
「必要ない。お前たちはここで適当に足止めしててくれ」
恭しく頭を下げる執事へひらりと手を振って、ギルランドは扉へ手をかけた。
*****
「一体どういうことだ!?」
薄暗い邸宅に、ロバートの怒鳴り声が響いた。頭を垂れた伝令は萎縮したように体を震わせる。
「わかりません。気づいたときには兵に囲まれていて……」
「そんなふざけた話があるか。我らの国の兵士だろう、あれは!」
「っ、たしかに
「曖昧な情報を持ってくるな! 真実を確かめてこい!」
転がるように駆け出した兵士へ鼻を鳴らし、ロバートは窓辺の椅子に座るクローディアへ頭を下げた。
「申し訳ありません、姫様。お見苦しいところを」ずりおちた彼女の肩掛けへ手を伸ばしながら、ロバートはため息をついた。「それにしても機の悪い。この場所で、また不届き者の襲撃にあうとは」
二人が訪れていたのは、かつてクローディアが悪漢に襲われた邸宅だった。花の標本が壁一面を覆い尽くす場所は気味が悪いことこの上ないが、彼の姫は死んだ侍女の弔いを希望した。ならばこれに応じるのが騎士の努めというものだ。
クローディアは本当に心優しい。けれど同時に不憫だった。民の命を大切に思うあまり、彼女は彼女自身を切り売りしている。その最たる例が、早まった秋露国との婚礼だ。クローディアが直接詫びをいれることで戦は回避されたが、ロバートはいまだに彼女の結婚を認められずにいる。あのまま戦わせてくれていれば、きっと彼女は今でも笑顔を見せてくれていただろうに。
婚礼以来、すっかりふさぎ込んでしまったクローディアに胸を痛めながらも、暗闇に浮かぶ女性らしい華奢な肩にはどきりとする。ロバートは小さく咳払いをし、気を取り直して明るい声で言った。
「ご安心ください。若い兵は慌てていましたが、これしきのこと、よくあることです。どこの賊か知りませんが、このロバートが姫様をお守りいたしますから」
「あぁロバート、ごめんなさい……」クローディアはロバートの手を引き止め、ほろほろと涙を流した。「すべてわたくしのせいなの……これは因果応報だわ……」
ロバートはぐっと眉根を寄せた。悲しむ少女のそばにひざまずく。
「姫様、そのように悲しまないでください。大丈夫ですよ、姫様にはなんの責任もない」
「いいえ、いいえ。ロバート、わたくしは……」クローディアは一旦言葉を切り、体を震わせた。「わたくしは、殿方と関係をもってしまったのだわ。隠していてごめんなさい。あの噂はほんとうだったの」
たどたどしい告白はあまりにも予想外で、ロバートは一瞬言葉を失った。「あの賊ではないのですか」と問えば、彼女は弱々しく首を横にふる。
「それよりももっと前の話よ……決して口外してはならないと言われていて」
「その男はまだ生きている、と?」
「あぁロバート! どうかわたくしを嫌わないで!」
怒りに声を震わせれば、クローディアが涙で濡れた顔をあげた。今にも壊れてしまいそうな手を力強く握り、ロバートは声を和らげる。
「姫様、どうか落ち着いて。俺があなたを嫌うことなどありえません」
「……本当?」
「本当ですとも。あなたに手を出した不届き者は今すぐに殺したいくらいですが」
誠心誠意の微笑みを浮かべれば、クローディアが
「優しいあなたの忠告を、わたくしはもっと真面目に聞いておくべきだったんだわ。あなたはいつだって味方だった。なのにわたくしは身を穢してしまって、そのうえ愛の無い結婚をしなくてはならない」
「姫様……」
「わたくしの結婚相手が、あなたであればよかったのに」
ロバートは低くうなり、クローディアを強く抱きしめた。驚いたように体をこわばらせる彼女へ、ロバートは
「何も遅いということはありません。あなたが望むのならば、俺はどのような壁でも超えていく」
「……わたくしと結婚してくださるの?」
「あぁ、姫様……クローディア。もちろんです。どうかすべて、俺に任せて。面倒な婚約者も、あなたに無体を働いた貴族も、兵をあげて全て殺してみせましょう」
感極まって声を震わせれば、クローディアが少しだけ笑った。彼女はおずおずと抱きしめ返しながら、ロバートの耳元で呟く。
「ありがとう、ロバート。わたくしは一番の幸せ者だわ。だからどうか、助けて。秋露国の婚約者と……ギルランド・オーウェンから」
ロバートはクローディアの悲鳴ごと性急に唇を奪った。彼女の華奢な体をまさぐり、柔らかな胸を撫でれば艶やかな声をあげた彼女と目があう。
その恐ろしく冷たい眼差しに、ロバートは一瞬だけ動きを止めた。直後、彼は背中に焼けつくような痛みを感じて崩れ落ちる。
*****
背中から血を流して、ロバートがずるりと倒れ込む。乱れた襟元を押さえたクローディアに、軽やかな男の声がかかった。
「女王陛下は、なかなかどうして大胆でいらっしゃる」
「遅かったじゃない、ギルランド」
「やっぱり驚かないんですね」血で濡れた剣をロバートの喉元に突きつけたギルランドは、愛想よく言った。「さすがは盲信の臣下を自らの手で殺そうとしただけある」
「まるで失敗したみたいに言わないで。今から殺すのよ」
ギルランドの面白がるような目を無視して、クローディアはドレスの裾をたくしあげた。太ももに隠した短刀を引き抜いて、目を見開くロバートへ刃を向ける。
「……なぜですか、姫様……花狂伯こそ、あなたを
「行為は合意のうえよ。あぁでもそうね、わたくしの国を危険に
「そんな、俺は、姫様のために」
「ロバート」クローディアは怒りを抑えた声で言った。「そういう考えしかできないから、あなたはわたくしの国に不要なの」
手にした短刀を、クローディアは躊躇なく男の首に突き立てた。くぐもった悲鳴があがり、鮮血がクローディアの顔を汚す。
くつくつと笑いながら、ギルランドはクローディアの頬にかかった血を指先で拭った。
「やぁこれは絶景だ。誰かさんの差し向けた賊に襲われながら、やっとの思いで来た甲斐があった」
「喜んで頂けて光栄だわ。惜しむらくは、わたくしの差し向けた賊で、あなたが死んでくれなかったことね」
「ご冗談。そもそも本気で俺を殺す気なんてなかったでしょう?」
「さすがは凍星国の優秀な外交官様。理解が早くて助かるわ」
クローディアは血まみれの手を伸ばし、ギルランドの編み込まれた銀髪をつかんで引き寄せた。
「凍星国の情報を売りなさい。わたくしを満足させられたら、代わりに秋露国の情報を恵んであげましょう」
ギルランドは落ち着きをはらって言った。
「愚かだな。ただの小娘の命令をきくほど、俺は暇じゃないし、国を危険にさらすことだってできない」
「くだらない綺麗事は結構」クローディアは目を細めた。「これは命令ではなくて賭け事よ。賭け金が大きければ大きいほど、得られる見返りは莫大。危険を愛するあなたにはぴったりだわ」
「俺が秋露国の情報を得たりすれば、戦になりますよ」
「ここは戦場にならないわ。わたくしの国はあなたがたを支援するもの。どうぞ勝手に秋露国と戦争してくれればいい」
「甘い考えだな。俺が一人勝ちする未来がありありと見える」
「馬鹿ね。わたくしが勝つ自信があるから、あなたを選んだのよ」
挑むように返せば、しばらくしてギルランドは喉奥を鳴らして笑った。
「ああまったく、花は散ってしまったと思ったけれど」男はクローディアの顎をすくい、狩人のように目を細めて囁く。「いいだろう、クローディア。精々俺を楽しませてくれよ」
死んだ花の香りがした。けれどそれを喰らうようにクローディアはギルランドに口づけ、「あなたのほうこそ」と吐き捨てるように宣言する。
「わたくしを飽きさせないように、必死に尻尾を振って
女王の戴冠 湊波 @souha0113
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