-2- 散花

 クローディアのもとに、ギルランドからの手紙が届いたのは七日後のことだった。


 薄青の封筒に銀薔薇の封蝋。揺れる馬車でそれを握り、クローディアは息をつく。夜の誘いを意味する手紙を、まさかもう一度見ることになるとは思わなかった。無論、中身の手紙に意味はなく――外交的なやりとりをする書面だけだ――、その封筒そのものが合図なのだ。今宵ばかりは、噂についての情報交換だろうが。


 いまだに、噂の出どころははっきりしない。にも関わらず、不名誉なそれは侍女を介してクローディアの耳にいくつも届いた。


 楚々とした姫君は婚前の身でありながら身分違いの恋をしている。彼女がめったに夜会に出なかったのは子を身ごもっていたせいなのではないか。いいや、姫は無体を強いられて男嫌いになってしまったのだ。囁かれる噂がどれも真実から遠いのはありがたいが、最後に決まって、「姫様もおかわいそうに」という家臣たちの同情でしめくくられるのにはうんざりした。


 ギルランドの寄越した馬車が控えめな音を立てて揺れ、向かいに座ったジルカが怯えた顔をする。


「クローディア様、本当に行くんですか? なんだか気味悪いし、帰りましょうよ」

「そんなに文句を言うのなら、来なければよかったじゃない」クローディアは渋面で返した。「わたくし一人でもなんとかなるわ」

「だ、駄目ですよう! クローディア様を一人で外に出すなんて、みんなが知ったら卒倒しちゃいますって!」


 そのみんなが知らない間に、何度も王宮を抜け出していたのだから、クローディアとしては「ふうん」とそっけなく返すしかない。


 本当はジルカを連れてくるつもりもなかったのだ。ギルランドとの密会は、彼の用意した侍従の手を借りるだけで事足りた。だからこそ、噂などたつはずもないのだけれど。


 クローディアはため息をついて、噂について考えることをやめる。いずれにせよ、今日ギルランドに会えば何か進展もあるだろう。出発間際にジルカに見つかったことだけが予想外だが、彼女を馬車に残しておけば問題ないはずだ。ギルランドの侍従たちは、クローディアのところよりもよほど教育が行き届いている。


 馬車が停まった。御者の手を借りて降りたクローディアは、眉をひそめる。見慣れた邸宅には明かり一つ灯らず、ひっそりとしている。


「いつもの出迎えはどうしたの」


 御者は肩をすくめた。


「内密にせよとの指示ですので」

「ギルランドが?」

「さようでございます。この関係は終わったのだから、と」

「まさか、情報を渡さないつもりじゃあないでしょうね」

「主人が意味もなく陛下をお呼びするはずがありません」

「……それもそうね」


 クローディアは仕方なく歩を進めた。屋敷の扉がひとりでに開き、死んだ花の香りが鼻先をかすめる。


 そこでジルカの鋭い悲鳴が聞こえて、クローディアの意識がぶつと途切れた。


*****


 クローディアが次に目を覚ました時、あたりは真っ暗だった。


 小さく呻きながら身を起こす。頭がずきずきと痛むのは殴られたからだろうか。けれど、一体誰が。なかば信じられない思いで辺りを見回した彼女は、己がベッドの上にいることに気づく。ギルランドと何度も肌を重ねた場所だった。


 されど今は人の気配はなく、名前を呼べど返事もない。クローディアは身震いし、ドレスの肩を引き寄せながらベッドから降りた。冷たい床板を踏んで隣室に進んだ彼女は、小さく悲鳴をあげて立ち止まる。


 開け放たれた窓から差し込む月光。青白い光に照らされているのは、死んだ花の標本と、血溜まりに裸体を沈めた若い少女だった。


「ジル……カ……?」

「……ロー……ィア……さま……」


 ややあって、消え入りそうな声でジルカは返した。傷と涙でまみれた顔はぴくりとも動かず、目も淀んだままだ。それでも彼女は、立ち尽くすクローディアにぼんやりと返す。


「お逃げ……く……い……」

「どうして……一体何が……」

「ク……ディ……さ……怖……いや……」


 床板が軋み、クローディアはさっと振り返った。ギルランド、ではない。見知らぬ男だ。小太りで、薄汚くて、興奮した目をしている。


「おうおう、やっと目が覚めたか」

「……誰」

「誰だなんてなぁ」男はぼりぼりと頭を掻きながら喉を鳴らして笑った。「バカ正直に答えるわけねぇだろ。頭が平和ボケしてんだな。まぁ、侍女が犯されてるのに呑気に寝てんだからな」

「っ、やめなさい!」


 無造作に腕を捕まれ、クローディアは総毛立った。慌てて振りほどこうとするが、男は表情をにやつかせるばかりでびくともしない。そのまま歩き出そうとした男はしかし、胡乱うろんな顔をして足元を見やった。


 ジルカの血まみれの手が、男の足首をつかんでいる。


「ちっ、死にぞこないが」男はジルカの手を蹴り、何度か踏みつけた。「お前とは散々しただろ。大人しく寝とけよ」

「っ、ジル……っ」


 血が飛び散って、ジルカがピクリとも動かなくなる。悲鳴をあげるクローディアを男はベッドに押し倒した。ドレスがナイフで破られ、逃げをうつ腰が男の両手に掴まれる。


「い、いや……! やめて……! 誰か……っ!」


 太ももに押しつけられた熱い何かに、クローディアは泣き叫んだ。まるでその声を待っていたかのようだった。


 部屋が騒がしい音とともに開け放たれる。男が怒号をあげるなか、飛び込んできたロバートが抜き身の剣を容赦なく振るった。


 声が途切れ、生暖かい血がばしゃりとクローディアの体に降りかかる。


「姫様、大丈夫ですか」

「……ロバート……」

「遅くなり申し訳ありません」


 ロバートは沈痛な面持ちで言いながら、己の上着をクローディアの肩にかけた。近くの兵に指示を飛ばす声を聞きながら、クローディアは呆然と呟く。


「ジルカが……隣の部屋に」

「……残念ながら、息はすでにないようです」


 クローディアは思わず顔をあげた。ロバートがその頬をなでて静かに返す。


「彼女も誇らしいでしょう。姫様をお守りして命を果てたのですから」

「そんな……!」クローディアは声を震わせた。「彼女は巻き込まれただけよ! わたくしが伴を断っていれば……!」

「断るなど、ありえないでしょう。姫様をお守りするのが我らの役目なのですから」

「でも」

「それよりも罪深いのはこの男です。一体どんな甘言を使ったのかは知らないが、姫様をかどわかすなんて百度殺したって足りない」


 ロバートは侮蔑の眼差しで男の死体をベッドの下に蹴落とし、クローディアの手をとった。


「さぁ姫様。帰りましょう。王城ならばどこよりも安全です。秋露国シュロの人間が攻めてきたとしても、姫様には指一本触れさせやしません」

「……待ちなさい」

「姫様?」


 首をかしげるロバートを見上げ、クローディアはすっかり冷たくなった指先を男の手のひらに沈めた。


「秋露国の人間が攻めてくるとは、どういうこと」

「それは……」

「答えなさい、ロバート」


 厳しい声で命じれば、ロバートはため息をついた。


「先ほど、宣戦布告の通達があったのです。此度の噂の件、婚前の身を自ら穢すとは裏切りに違いないと」

「なんですって」クローディアは唇を震わせた。「噂はただの噂でしょう。そんな不確かなもので攻めてくるなんて……」

「そうです。ですから、俺が確実な事実として秋露国の人間にはお伝えしました」


 クローディアは耳を疑った。ロバートは落ち着きをはらって言葉を続ける。


「あえて、間者に事実であるように伝えたのですよ。そうすれば彼らが戦を起こす動機になるでしょう? もとより、我らが国と秋露国は折り合いが悪いのですから、後難の憂いは速やかに断っておくべきです」

「……っ、なんてことを!」クローディアは血まみれの手でロバートの腕を掴んだ。「あなた、自分が何を言っているか分かっているの!? 無意味な戦に民を巻き込もうとしているのよ!? わたくしが嫁げば済んだ話なのに!」

「それが一番許せないんですよ、姫様」


 悲しげな顔をしたロバートは、クローディアの手をそっと握って繰り返す。


「それが、許せないのです。秋露国の婚約者は、あなたのことを一向に顧みない。女癖も悪いと聞く。愛の無い婚姻にどうして姫様の幸せがあるでしょうか。そんな奴のもとに嫁がせるくらいならば、我らが国は死力をもって姫様をお守りすべきだ」

「馬鹿げているわ。政略結婚というのはそういうものよ。平和のために、わたくしを使うの。そのための王族じゃない。なのに、なんで」

「姫様! どうぞ、そんなことを言わないでください。姫様はたしかに王族ですが、そのまえに一人の女性なのです。あなた自身の幸せを求める権利がある」

「それで、国民の命を犠牲にしろと?」

「ここは姫様の国だ。そこの侍女のように、姫様のために命を使えるのなら本望でしょう」

「言葉を飾らないで。勝てるはずがないわ。あなたは民に自死を命じているのよ」

「勝てますとも。建国以来、我らは無敗を誇る騎士団なのですから。秋露国の雑兵など、すべて斬り伏せてみせましょう」


 屈託なく笑うロバートの表情はいつもどおりで、だからこそ、クローディアは愕然とした。


 夢物語だ。無敗を誇ったのはもう何十年も前のこと。今この国が平穏であるのは、隣国が様々な理由でクローディアの国を放っていたからにすぎない。その微妙な均衡を、ロバートは平気で破ったのだ。


 戦になれば負ける。無関係の民が死ぬ。冷たい想像に体を震わせたクローディアは、震える拳を握った。


「もういいわ」

「姫様?」

「馬車を用意しなさい。ギルランド様の屋敷へ行きます」

「ま、待ってください! どうして花狂伯かきょうはくのところへなど……!」


 顔色を変えたロバートを無視して、クローディアは立ち上がる。

 死んだ花の香りが、やけに濃く香った。


*****


「これはこれは女王陛下、ずいぶんと慌てて一体どうなさったんです?」

「ふざけないで、ギルランド」


 クローディアが噛みつくように命じれば、ギルランドはにっこりと笑って非礼を詫びた。


 凍星国ニヴィウムの外交官のために用意された邸宅には、半刻も経たずにたどり着いた。応接室は深夜を迎えてもなお、柔らかな照明で照らされている。それを忌々しく思いながら、クローディアは血まみれのドレスでギルランドに詰め寄った。


「貴方が約束を破ったせいで、考えうるかぎり最悪の事態になったわ。悪漢に襲われて、わたくしの侍女が死んだ」

「ご愁傷さまです。非道な男といっときでも時間を過ごすなんて、たいそう怖い思いをされたでしょう」

「あなたが仕組んだんでしょう! 意趣返しかなにか知らないけれど、本当にくだらないわ! そのせいで、秋露国がここに攻めてくるのよ!」

「それは大変だ。俺も早々に国へ帰ったほうがいいかな」

「真面目に聞きなさい!」クローディアはギルランドをにらみつけた。「まだ今なら間に合うわ。あなたに罪を償う機会を与えます。この戦を仲裁なさい」

「お断りします。女王陛下」


 クローディアは言葉に詰まった。ギルランドは肩をすくめ、花瓶から抜いた薔薇を指先で撫でる。


「貴方の家臣が勝手に情報を漏らして、秋露国につけいるすきを与えたのでしょう? 俺たちには少しも関係がない」

「馬鹿言わないで。戦になれば、貴方だって無関係ではいられないわ。隣国の情勢が不安定になるのは避けたいでしょう」

「陛下はお優しい。ですがご安心を。俺たちの国は貴国よりも大国ですので、虫けらの小競りあいごときで何が変わるわけでもありません。むしろ、そちらが互いに争ってくれたほうが利になる」

「利って……」


 怒りのまま続けようとした言葉を、クローディアはふと止めた。思い当たった可能性に、血の気がひく。


「待ちなさい、ギルランド。あなた、どこまで仕組んだの」


 ギルランドの指先が、ぶちりと薔薇の花弁をむしりとった。紅の花弁を音もなく床に散らしながら、彼は言う。


「俺はただ、良くない噂があると陛下に教えただけですよ。それを陛下は、ご自身の臣下に相談なさった。そして臣下は、真意を探るために兵へと命令を下した――そこまでの騒ぎになれば、自ずと何かがあると勘ぐり始めるのが人というもの」


 ギルランドは目だけをあげて嘲笑した。


「俺たちの関係は、ばれてなかったんですよ。俺がそんな失態を犯すはずがない。それをご丁寧にも噂として広めたのは陛下のほうだ」


 クローディアは唇を震わせた。両足から力が抜け、地面に座り込む。


「なによそれ……わたくしが……ロバートに相談したのがいけなかったというの……」

「そうですねえ、どうだろうな。俺としては安易に彼が戦に踏み切ってくれて、ありがたい限りですから、いけないことだとは思いませんけどね」

「あの賊も、わたくしのせいである、と……?」

「はは、あれは傑作でしたね。まさかただの噂だけを頼りに陛下の後をつけ回して、襲おうだなんて人間がいるとは思わなかった。陛下の人望のなせる技ですよ。まぁいいんじゃないですか? あなたの大切な侍女が身代わりに犯されてくれたんでしょう?」

「っ、笑いごとじゃないでしょう!」

「いいえ、これは笑い事ですよ。愚かなあなたの招いた三流の喜劇なのだから」


 顔をあげたクローディアは凍りついた。最後の花弁を彼女の眼前に落として、ギルランドが薄ら笑いを浮かべる。


「あぁ、クローディア。君は美しい花だった。だから俺もね、何事もなく終わらせようと思ったよ。君が『俺と結婚できれば』などと、つまらないことを言いさえしなければね」

「そん、な……」クローディアは目を見開いた。「そんなくだらない理由で、ありもしない噂をわたくしに吹き込んだの……?」

「くだらないなんて、失礼だな。勝手に散ってしまった花の後始末ですよ、陛下」


 火種を有効活用するのが、外交官の仕事ですから。気味が悪いほど礼儀正しい口調で返し、ギルランドは花弁を踏んで部屋を後にする。


 死んだ花の香りとともに、無惨な残骸が赤い汁を地面に滲ませた。


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