女王の戴冠

湊波

-1- 揺籃

 その部屋は死んだ花の香りで満ちていて、クローディアは時おり自分がひつぎに納められている夢を見る。


 分厚いカーテンからこぼれる朝日で、クローディアは目を覚ました。隣で眠る男の銀の長髪を押しのけ、裸足はだしでぬるい床板を踏む。服の代わりに毛布を適当にまきつけて扉をくぐれば、壁一面にびっしりと飾られた花々が少女を出迎えた。


 花は、一輪ずつ黒塗りの額に納められているのだった。花弁も葉も棘も、どんなに小さな部位でさえ丁寧に切り離され、だというのに元の姿と限りなく似せるような配置で、びろうどに細い針で留められている。


「君も物好きだね。いつも花を眺めて」


 耳元で低くささやかれ、クローディアは目だけを動かした。寝ていたはずの銀髪の男――ギルランドがにっこりと笑う。


「……物好きなのはあなたのほうでしょう。花の標本なんて」適当に編まれた男の長髪を片手で押しやり、クローディアはため息をつく。「それに無礼だわ。断りもなくレディの後ろに立たないで」

「君のぬくもりが恋しかったんだよ、お姫様。許してもらえると嬉しいな」

「わたくしは恋しいとは思わないの。さぁ、服を着せて頂戴」

「おやおや。今日はずいぶんとご機嫌ななめみたいだ」


 さして残念でもなさそうに肩をすくめ、ギルランドは手を引っ込めた。クローディアは姿見の前に立って毛布を落とす。右の腰骨につけられた赤い口づけの跡は無視した。いつものことだ。どうせ昼を迎える頃には消えている。

 ドレスに袖を通すのを手伝い、コルセットを締め、クローディアを座らせてゆるく波打つ白金の髪プラチナブロンドをまとめる。なれた手つきで身支度を手伝いながら、ギルランドはのんびりと言った。


「昨日君がくれた薔薇ばらも、すぐに飾るようにするよ。あの種類は俺の国では見ないからね、今からわくわくして仕方がない」

「また千切るのね」

「おいおい、人殺しみたいな目で見るのはやめてくれ。ただの解剖さ。花はすべからく美しいものだから、細部まで楽しみたいんだよ。君もやってみるかい? せっかくなら、花弁をピンセットで外してみるといい。指先に伝わるちょっとした抵抗が、実に無力でたまらないんだ」

「結構よ」

「おや、これが最後の機会なのに?」

「これが最後の機会だからよ」


 すっかり身支度を終えたクローディアは、ひざまずいたギルランドの鼻先へゆるりと素足を突き出した。ねやとばりが開かれるがごとく、ドレスのすそが密やかに上がる。

 男はうっとりと目を細めて、指先でなぞるように足を包み込んだ。


「あぁクローディア。さようなら。君との心躍る逢瀬は、永遠に俺の心に刻まれるだろう」


*****


 半年前の冬に、クローディアはギルランドと関係を持った。彼女の父親がかろうじて存命で、彼女自身も王女だった頃の話だ。


 ギルランド・オーウェンという男は凍星国ニヴィウムの若き外交官としてクローディアの国を訪れた。有能であることは言わずもがな、優しげな面立ちが女受けする。実際、彼の仕事ぶりからして女性から情報を仕入れることもあるのだろう――夜会の片隅でそんなふうに考えていたら、かの男から声をかけられた。「くだらない宴よりも花を愛でるほうが、よほど楽しいよね」


 奇遇にも、クローディアも全く同じ気持ちだった。だから、彼に誘われるまま秘密の邸宅へ足を運ぶようになった。もちろん、その言葉の裏をきちんと理解した上で。


 父王は人の心を信じ、小国ながら何度も隣国――それには凍星国も含まれる――を退けた兵士と民を愛した。不敗に心酔していたと言ってもいい。だから幾度も開かれる夜会は愛国的で、世辞ばかりが並ぶ身のないものだった。クローディアはその馬鹿らしさをきちんと理解していた。そんなもので国を守れはしない。事実、年を追うごとに他国との関係は悪化していた。さりとて、家臣たちはクローディアを守るべき可憐な姫として褒めそやすばかりで、まつりごとにかからわせなかった。それにうんざりしていたから、ギルランドの手を取った。幼い日の反抗心だ。それだけのこと。


 クローディアはギルランドと体を重ねた。子をなす行為には至らず、愛も恋もなく、互いに獣のように快楽を貪れるからと、それだけの関係だった。意味はなかったが暇つぶしにはなった。おそらくは互いに。


 そして今、クローディアは父王の崩御に伴い名ばかりの女王となり、父王の遺言に従って隣国の秋露国シュロの王族と婚姻を交わし、特段の後腐れもなく二人の関係は終わりを迎えた。


「お疲れですか、クローディア様」


 付き人であるロバートの声に、クローディアは我に返った。階下に広がる夜会の景色から目を移し、心配そうな顔をしている男へ淡く微笑む。


「ありがとう、大丈夫。人の多さに少し緊張しているだけ」

「これでも少ないほうですよ」赤茶けた髪を少しばかり揺らして、男がやれやれと首を振る。「偉大なる我らが姫様の戴冠式だというのに、まったくもって嘆かわしいことです」

「小さな国ですもの。仕方のないことだわ」

「あぁ、姫! その優しさはこの上ない美徳ですが、どうぞこの件に関しては怒っていただいてよいのですよ?」

「ロバート、呼び方」


 クローディアの指摘に、ロバートははっとしたように口元を押さえた。「申し訳ありません、陛下」と気恥ずかしそうに言う男へもう一度曖昧な笑みを浮かべて、彼女は夜会を眺める。


 若い女性たちはこぞって着飾った男達に群がり、男も当然のように娘たちへ甘い言葉を投げかける。その中に、見目だけは悪くない栗毛の婚約者の姿を認めて、クローディアは息をついた。


「彼はお忙しいようね」

「姫様の目があるというのに」ロバートが渋い声でうめいた。「注意してきましょうか。お命じくだされば、今すぐにでも引っ立てて参りますよ」

「かまわないわ。きっとあの方も羽を伸ばしたいのよ」

「ですが」


 なおもロバートが言い募ろうとしたところで、女性たちの浮ついた声がいっそう大きくなる。中心にいるのは白銀の髪を編み込んだ優男、ギルランドだった。女性たちから次々と花束を受け取っては、意味ありげな微笑を浮かべて何事か囁いている。


 あの花も夜を迎える頃には、ばらばらにされて壁に飾られていることだろう。クローディアが冷めた心持ちで眺めていれば、ロバートが先程よりも更に渋い声で言う。


花狂伯かきょうはくにはお近づきになりませんよう。姫様」

「あら、どうして?」

「悪い噂が絶えません。婦人をたぶらかし、間者を使って機密情報を探らせ、人も平気であやめるとか」

「まぁ、恐ろしい方ね」


 素知らぬ振りで返したクローディアに、ロバートはゆっくりと頷いた。「姫様は私達が責任をもって守りますから、ご安心ください」と付け足し、警備のためにクローディアのそばを離れる。


 過保護な臣下の姿が人波に消えたのを見計らって、クローディアは夜会に足を踏み入れた。道行く人々のありきたりな挨拶に楚々とした笑みを浮かべて応じ、さして引き止められもしないままバルコニーへ出る。


 手すりにもたれかかり、クローディアは息をついた。穏やかな夏の夜風が髪をさらっていく。


とももつけずに一人きりだなんて、襲われても文句は言えない―そう言いたいのではなくて? 花狂伯」

「その名前で呼ばないでおくれ、女王陛下」ゆったりとした足取りで現れたギルランドは、グラスを渡して困ったように首を傾ける。「ともあれ、俺の言いたいことが伝わっているようでなによりだ」

「大丈夫よ。この夜会で一番危険な人物が、伴をしてくれているもの」

「はは。陛下の信任が厚くて光栄だ。それにしても、今日も機嫌が悪そうだねえ」


 薄っぺらい返事に鼻を鳴らし、クローディアはワインを一口飲んだ。


「当然でしょう。いつまでたっても家臣はわたくしを姫扱い、婚約者はわたくしの眼前で女漁り。おまけに夜会の出席者は恋にうつつを抜かしてばかり。馬鹿らしい。誰も彼もが無駄に時間を過ごすばかりで、少しだって身のある成果がない」

「たとえば、国境近くの村で小競り合いがあって農作物のほとんどが焼かれた、とか?」


 それは、クローディアが今朝知ったばかりの機密情報だ。どこから聞いたのかと視線だけでとがめれば、ギルランドは悪びれもせずににこりと笑む。


「あぁ女王陛下、そう怖い顔をなさらず、どうか寛大な心で愚かな若者をお許しください。罰するならば、小鳥のようにやかましいガラン伯の奥方を」

「……あなたの、そういう意味での有能さは嫌いではないわ」クローディアはため息をつき、ゆらりと揺れるワインへ目を落とす。「どうせ結婚するのならば、あなたのような人が良かったわね」

「ふうん」

「それで? いまさら何をしに来たの」


 冷たく問うて、顔を上げる。珍しく、何かを迷うような沈黙があった。何事かと無言で催促すれば、ギルランドが周囲を確認したのちにクローディアへ耳打ちする。


「どうにも、俺たちの関係がばれているかもしれないんだ」


 クローディアはワイングラスを取り落としそうになった。「落ち着いて」とギルランドは言う。


「あくまでも噂さ。本当にばれているかどうかは分からない」

「けれど、嗅ぎ回っている人間がいるということでしょう?」クローディアは声を上ずらせた。「なんてこと。婚前の身で露見すれば、どうなるか……」

「分かっているよ。俺の国だって、秋露国との関係は微妙だ。国力としては勝っているけれど、兵をやみくもに死なせるわけにはいかない」

「あなたは兵を送るだけだからいいじゃない。戦場になるのは、わたくしの国なのよ」


 凍星国と秋露国、二つの大国に挟まれた国土を憂い、クローディアは唇を噛んだ。悔いるべきは己が過ちだろうが、悔いたところで過去がなくなるわけでもない。


「……噂の出どころを突き止めましょう」ややあって、クローディアは決然と言った。「そいつを口止めすれば、何もなかったことになるわ」

「もちろんだ。俺も探してみるつもりだよ。けれど女王陛下。俺ができることにも限りがある。なんといってもここは君の国だ。部外者は、どうしたって目立ってしまってね」

呑気のんきなものね。まぁいいわ。犯人探しはわたくしがします。ただし、あなたのところの侍従については責任をもって調べなさい」

「それはもちろん。俺だって国を守る義務がある」


 安心したように頷いたあと、ギルランドはそっと付け足した。


「なるべく穏便にね、陛下。争いごとは好ましくない。花が散ってしまうから」


*****


 翌日の昼、人払いをすませた自室で、クローディアは艶やかな机を指先で叩く。


 眼前に広げたのは、逢瀬を重ねた邸宅に出入りする人物達のリストだ。いずれもギルランドに親しく、かの男からは白とも黒とも返事がない。されどクローディアは、彼らを疑ってはいなかった。ギルランドは用心深い。そんな男が、自らを危険にさらすようなへまをするとは到底思えないのである。


 それよりは、自分たちの仲が露見することで利益を得る第三者という筋のほうが真っ当だった。まっさきに浮かんだのは、秋露国の間者だ。クローディアは間者の存在を関知していないが、ここが王宮である以上、いてもおかしくはない。


 あるいは単純に、二人の仲を良しとしない者か。クローディアは机を叩くのをやめた。しばしの沈黙ののち、手元の呼び鈴を鳴らして侍従を呼ぶ。


 椅子にかけてあったキルトを緩やかに羽織って華奢な肩をあえてみせ、クローディアは隣室でロバートを出迎えた。


「ごめんなさい。忙しいのに呼び出してしまって」

「まさか! この身は姫様のためのもの。お呼び頂ければ、いついかなる時でも参りましょう」

「ふふ、頼りになる臣下を持てて光栄だわ」


 儚い笑みを浮かべてやれば、ロバートは嬉しそうに目を輝かせる。単純なことね、と胸中でぼやきながら、クローディアは椅子を進めた。


「それで姫様。今日はどのようなご要件でしょうか」

「少し心配事ができてしまって……いいえ、こんな些細なことで、あなたを頼るのもどうかとは迷ったのだけれど……」たっぷりと時間をかけて物憂げなため息をついてから、クローディアはささやいた。「良くない噂を耳にしたの。わたくしが見も知らぬ男と不貞を働いている、と」


 ロバートが目を丸くした。


「まさかそんな」

「あぁロバート。もちろんこれは事実無根なのよ。わたくしを信じて頂戴。殿方とどうにかなるなんて……そんなの……」

「クローディア様、どうかお気をたしかに」


 わざとらしく顔を覆えば、ロバートが慌てて駆け寄ってくる。無遠慮に肩を撫でる手に辟易へきえきしながらも、クローディアはそっとロバートの横顔を覗き見た。若い男の顔には、年相応の哀れみと怒りの表情が浮かんでいる。


「分かっておりますとも。姫様には万が一にも落ち度はない。全ての元凶は、そのような噂を流した人物にこそある」

「信じてくれるの……?」

「もちろんですとも。子供の頃、俺はあなたから頂いた花冠に誓ったのです。すべての災いからあなたを守る騎士となる、と」


 誓いに覚えはなかったが、クローディアは適当に頷いてお礼を言った。ロバートが神妙な面持ちでうなずく。


「兵に命じて、今すぐにでも犯人を探すようにいたします。姫様はどうぞ、心安らかにしてお待ち下さい」

「頼もしいわ。でも、あまり大っぴらにもしてほしくないの。秋露国がこのことを知ったらどうなるか……」

「心配なさらないでください。姫様の純潔は誰もが疑わぬところです。仮に噂を耳にしたとて、偽りと切り捨て、姫様の名誉を守るために動いてくださることでしょう」


 あまりにも脳天気な考え方にクローディアは思わず眉をひそめたが、ロバートは気づかなかったようだった。立ち上がった青年は、「とにかく第一に考えるべきは姫様の安全です」と言う。


「ただの噂ではありますが、なにか良からぬことの前兆かもしれません。しばらくは護衛の数を倍にいたしましょう。姫様におかれましても、極力人と会う機会は減らしていただきたく」

「……それは少し、大げさではないかしら?」

「いいえ。噂がたつということは、なんらかの真意があるということです。それが判明するまで、用心しすぎることはありません。姫様が害されては元も子もないのですから」


 犯人探しにロバートが足早に部屋をでたあと、クローディアは小声で悪態をつきながら肩掛けをソファに投げ捨てた。


「この大事な時に部屋から出るな、なんて」


 くすくすという忍び笑いに目だけをあげた。侍女のジルカが隣室から顔をのぞかせている。


「……なにがおかしいの」

「いいえ、クローディア様。別に、なにも」ジルカは一礼して、クローディアの肩掛けを丁寧にたたんだ。「あいかわらず、ロバート様とかみあってらっしゃらないと思って」

「あれが愚鈍なのがいけないのよ」

「心配が先立っているんですよ。だって、ロバート様はずっとクローディア様のこと……ふふ。これは本人の口から言うべきですね」

「訳の分からない誤魔化しはやめて頂戴」

「はーい」


 年頃の少女らしい返事をして、ジルカはてきぱきとテーブルの上のカップを片付け始めた。クローディアはソファに腰掛けてしばらくそれを眺めたあと、揺れるおさげについた糸くずをつまんでやる。


 「わ」と驚いたような声をあげたあと、ジルカはにっこりと笑う。クローディアは顔をしかめた。


「……なによ、その気持ち悪い笑みは」

「んふ。クローディア様は、本当に私のお姉さんみたいだなって」

「そんなはずないでしょう」

「冗談ですよお」

「そうでなければ困るわ」クローディアは腕を組んでため息をついた。「そういえばこの前、故郷にかえったのでしょう? 家族はどうだったの」

「もちろん、とっても元気でしたよ! 今年は不作だったけれど、その分だけ税を減らしてくれたから助かるって父さんが言ってて」

「そう。それはよかった。頭の固い大臣たちを泣き落としたかいがあったわ」


 弾んだジルカの声は日々を生きる民の声そのもので、クローディアは少しだけ表情を和らげた。


「お父上は、また領民に混じって畑仕事を?」

「はい。基本的に人手不足ですから……あっ、そうだ。木苺のジャムをもらってきたんですよ。クローディア様にも、今度お持ちしますね」

「よく出来た侍従なら、庶民の食べ物を気軽に王族には出さないものよ」

「大丈夫ですよう。クローディア様の前で、しっかり味見してみせますから!」

「そういって、自分も食べたいだけでしょう」

「あは、ばれました?」


 悪びれなく返すジルカに、クローディアも呆れ笑いを浮かべながら「好きにしなさい」と返した。


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