第六章
今日も、何を買うわけでもなく、トーフ・ドラッグにいる。
例のヤクシマルは見当たらない。今日は非番なのかな。
新しく入荷した商品のコーナーを見たりコスメを見たりしながら、従業員に高校生らしき人がいないか眼を光らせる。
今日も、大丈夫そうだ。
ぶらぶら店内をまわっていると、思いがけない光景が目に飛び込んできた。
一人のおじいさんが、おむつ売り場で倒れている。
(え!!!)
私は急いでおじいさんのもとに駆け寄り、体を揺さぶる。
「おじいさん!!!
大丈夫ですか?聞こえますか??」
反応なし。
でも呼吸は荒い。大丈夫、生きている証拠だ。
焦る。どうしよう。
とりあえず店員さんを呼ぼう。
聞こえているか聞こえていないか分からないが、
「店員さん呼んでくるので、ちょっと待っててくださいね」
と言って、立ちあがろうと目線を上げた。
しかしそこにはもう人がいた。
いつからいたのだろうか。
何をすることもなく、ただ立っている。
そんな人、一人しかいない。
ヤクシマルだ。
私は迷わず声をかける。
「すみません!
このおじいさんが倒れているのをついさっき見つけて。
救急車呼んでもらえますか?」
すると、その腫れぼったい一重の下のうつろな眼球が、かつてないほど高速で運動していることに気づいた。
「あっ、あっ、」
と小さな声で言いながら何もせずあわあわしている。
その真っ黒な眼球の運動が止まることはなくそのまま10秒ほどが経った。
ふざけているのか。人の命がかかっているんだぞ。
「もういいです!」
いい加減痺れを枯らした私は、立ち尽くすヤクシマルを尻目に全速力で他の従業員を探しに行った。
バタバタと広い店内を走り回っていると、いつかのおばさん店員が私の様子に気づき、気味の悪い笑顔で話しかけてきた。
「お客様!どうかなさいましたか?」
「おむつの…棚のところに…おじいさんが…倒れてて…」
「お伝えいただきありがとうございます!
今救急車を手配します!」
息も絶え絶えに説明すると、彼女は状況確認のためにおじいさんの所へ飛ぶように走り、店長を呼びにまた走っていった。
様子が気になり、体を冷やされているおじいさんのもとに戻ると、ヤクシマルはもう居なくなっていた。
そこに、店長が走ってきた。
制服のエプロンをつけていないということは、休憩中に急いで出てきたのだろうか。
面接の日ぶりに目が合う。
すると店長は仰天したような表情を浮かべた。
「君は……もしかしてこの前面接に来た秋川さん!」
「はい。その節はお世話になりました。」
少し気まずくなりながらも、たった一度面接しただけの私の名前が店長の口からすんなり出てくることに驚いた。
「今救急車を呼んだので、ひとまず大丈夫。
秋川さんが上杉さんに伝えてくれたんだよね。
本当にありがとう。」
と深々と頭を下げられる。
上杉さんとはあのおばさん店員のことだろう。
「え、いえいえそんな…当たり前のことをしたまでです。」
今どきドラマにも出てこないようなクサいセリフを口にしてみた。
「そういえば、あの現場にもう1人うちの従業員がいたって上杉さんから聞いたよ。
目の前に急病人が居るのに、そこにただ突っ立っているだけで、何もしようとしなかったらしいね。」
ヤクシマルのことだ。なんの疑いもない。
上杉さんが急いで見に行った時にはその場にまだいたんだあいつ。
「あー…」
適当に相槌を打つ。
「彼女には何度も何度も注意してるんだけど、こっちの方をただぼーっと見てるだけで、一向に態度を改めようとしないんだよ。
接客業向いてないんじゃないかって言ってみようかな。」
愛想笑いをする部外者の私を前に、少し言いすぎたのかと思ったのか、店長は慌てて次の言葉を付け足した。
「でも彼女はまだ高校生だし。
高三で初めてのバイトだって言ってたからな。
まあ、まだ慣れてないだけだと思う。」
は?
今「高校生」って言った?
え?ヤクシマルが?
しかも同い年?てっきりアラサーかと…
でも、履歴書を見て面接した店長が言うんだから間違いないだろう。
頭が混乱する。
店長は、急に何も言わなくなった私を不思議そうに見つめている。
とりあえずこの場から立ち去りたい。
「すみません。もう家に帰らなくちゃいけなくて。」
「あちょっと…」
何か言いたげな店長を振り切り、一目散に出口へ向かう。
私が、こいつに、負けた、ってこと?
こんな、接客用語もろくに言えないような奴に?
こんな、品出しもまともにできないようなやつに?
こんな、救える命を前にして手も足も出ないようなやつに?
そんなの許せない。
怒りのあまり何も考えられなくなった空っぽの脳みそに、外から聞こえる救急車の音が響く。
自動ドアを通る前に、一度なんとなく振り返った。
そこにはヤクシマルがいつもの棒立ちで、呆けたような顔をしながら、私がさっき居た方角を眺めている。
なんでこんな奴が受かって私が落ちるんだ。
改めてその憎悪が舌の先をビリビリと刺激する。
でも、私は気づいていた。
いつも、何かに取り憑かれているように遠くの方ばかり見ていたヤクシマルの視線の先を。
それは——————
店長。
私を落とした張本人。
ヤクシマルが取り憑かれていたものは、「恋」だったのだ。
ヤクシマル・ドラッグ 柳なぎさ @yanaginagisa
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