第五章

そして迎えた八月一日。

トーフ・ドラッグ開店の日。


結局、両親に納得してもらえるようないいバイト先は見つけることができなかった。


しばらくバイトはできなくても、あと少しの辛抱だ。また冬休みがやってくる。

それまでは、学園という小さな社会でおままごとでもしていればいいのだ。

今はとりあえず、トーフ・ドラッグに私自身が拒絶されたわけではない、ということさえ証明できればそれで満足だ。


マンションを出て信号を待っている間、店の様子を観察する。

予想通り、あまりお客さんは入っていないようだ。


信号が青に変わり、一歩一歩トーフ・ドラッグに近づいていき、目の前までくる。


面接の日の緊張感が蘇った。

そして、プライドをズタズタにされた記憶。


私のせいじゃない。ひるむ自分に言い聞かせる。

だって、今からそれを証明しに行くのだ。


あの日はまだ手動だったドアも、自動ドアに変わっていた。私を招き入れるようにして開いたドアに導かれるように、ドラッグストアらしい、真っ白で清潔感のある店内に足を踏み入れる。


ぐるっと見たところ、私と同世代と思われる店員はいない。

シフトもあるだろうから、朝9時から22時までずっと暇をつぶしながら店員を査定する。

みんな、従業員専用の緑色のエプロンを着けていた。

しかしどれも明らかに、子供の世話に余裕が出てきた主婦であったり、フリーターと思われるおじさんなど、明らかに成人している人たちばかりだ。



ほら。やっぱり。

私が落とされたのは「高校生」だからなんだ。




閉店間際に流れていた蛍の光のメロディを口ずさみながら、気分上々で家に帰る。


少々家に帰るのが遅すぎると母に小言を言われたが、駅前のファストフード店で友達と勉強していたと言ったら、


「あら偉いわねぇ」


とあっさり褒められてしまった。


母に、生まれて初めて嘘をついた瞬間だった。



その後も自分を安心させるため、私は連日店に通い詰めた。


そんな中、一人の店員が目に留まった。


(またいるよ。この女。)


ボロボロの黒いナースシューズ。

手入れされていないであろうモサモサの黒髪。

ニキビだらけの肌。

目、というか顔の上部にナイフで切り目をつけたと言った方が正しい腫れぼったい一重。

何も考えていないようなうつろな瞳。

シワだらけの黒いTシャツとスキニー。

せいぜい20代後半か30代といったところか。


最初は、ドラッグストアの清潔感に似合わない店員がいるな、と思っただけだったが、さすがにその手際の悪さには目に余るものがある。



この前、たまたまこの女の担当するレジでお会計をしようとしたところ、


「お願いします。」


と商品を出してもただボーッと突っ立っているだけ。

まるで何かに取り憑かれているみたいだ。

その、なんの光も反射しない吸い込まれそうな真っ黒い瞳は、私を全く映してはいない。

お客さんがレジの前にいるのに、微動だにしないとは。


少し呆気に取られていると、それに気づいた隣のレジのおばさん店員が、


「ヤクシマルさん?どうしたんですか?

お客様がいらっしゃってますよ!」


と大声で言った。この女、ヤクシマルというらしい。

名前だけはドラッグストアにピッタリだな。

私は心の中で嘲笑った。


同僚の声でやっと我に返ったのか、それまで私を通り越してずっと先の方を見ていた目の焦点が、私にあった。


商品を手に取りレジに通していく。

その手つきのなんとおぼつかないことか。

まだ開店から日にちが経っていないから、レジに慣れていないことはしょうがないことかもしれない。

がしかし、全くというほど一生懸命さが感じられず、まさに心ここにあらずという感じなのだ。


さすがにレジを変えてもらおうかと口を開きかけたその瞬間。

隣のレジの対応を終えた先ほどのおばさん店員が痺れを切らしたようで、


「ちょっと、ヤクシマルさん!!

お客様をお待たせしてしまったのだから謝らないとっ!」


と乱暴にヤクシマルの耳元で囁いた。

おばさんは静かに言ったつもりなのだろうが、こっちに丸聞こえである。


俯いたまま、ヤクシマルは

「……けご……せん」

と聞き取れないほどの小さな声で言う。

おそらく「申し訳ございません」と言ったのであろう。

しかしそのほとんどの音が二人の間の空気に溶けて消えた。



という事があった。

他にも、この女のヘマは枚挙にいとまがない。


今も、非常にゆっくり、というか緩慢な手つきでPETボトルの品出しを行なっている。

変なところで几帳面なのか、どうやら全てのラベルが前を向かないと、気が済まないらしい。


ビリッ


ああ。誤ってラベルを破いてしまったようだ。


とうとう私はその鈍臭さが見ていられなくなり、

ついに退店した。


なんなんだあの女。

ただ見ているだけで人を不快にさせる能力でもあるのか。


高校生の私でも、もっとちゃんとできる自信がある。

あんな社会人にはなりたくない。


心の底からそう思った。




しかし私はこの日から、どういうことか、ヤクシマルという女から目が離せなくなっていた。

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