人の顔した犬、犬の体をした人、という怪異……その詳細を求む
九十九 千尋
知らないことは幸福なのだろう
「おい、起きろ」
誰かの呼びかけで自身の息を吸う音が聞こえてくる。
目の前には空が、ビル同士のスキマから僅かながらに空が見える。うっすらと暗く、ほんのりと明るい。鈍色の空が見える。
空が見えるということは俺は仰向けに寝ているらしい。しかもどうやら、路地裏で。
何故こんなところで寝ていたのかは思い出せない。昨日はしこたま飲んだのだったか。いや酔っても記憶を失うタイプではなかった。あるいは気づかぬ間に夢の中で歩き呆けてきたのか。いいや、自身の袖を見るに外回りの時用のスーツにコートの姿のようだ。寝間着ではない。
「起きろよ。ちゃんと繋いだはずだぞ?」
体を起こすと、そこには犬が居た。正確には犬の体に人の顔、いわゆるところの人面犬とかいうものだ。
ごわごわの毛並みの茶色い中型犬の体は泥や汚れにまみれ、自然な形で犬の首から人間の顔が生えている。その生えている顔はまさに中年男性のそれで、生え際には人の毛髪ではなく犬の体毛が生えている。鼻は低くだんご鼻、目は二重の垂れ目で眠そうに見える。上唇は薄く下唇は厚く、血色が悪く紫色をしている。日焼けした額は少し痛そうに赤くなっている。
「よぉ、まだ起きなかったら目覚めのキッスでもしてやろうかと思ったところだぞ」
人面犬はそう言ってニヒルに微笑み、アンニュイな視線で俺を見つめている。
そして前足で俺を追い払うように、しっし、と払いながら付け加える。
「それさ、オレがいつも漁ってるゴミ箱なわけよ。まったく、時代と共に人間が変わっても、意識を失う際にゴミ箱に頭突っ込んでる奴が年に数人は居るのだけは変わらないの何とかしてほしいぜ、ったく」
そう言われて自分の置かれている状態を改めて観るに、生ごみを体のあちこちに浴びている。左腕は横倒しになった生ごみの入ったゴミ箱に突っ込んだままだ。
もしかしなくても、俺はゴミ箱に捨てられていたらしい。一体全体何故そんなことになっていたのか。
俺の怪訝そうな表情を読み取ってか、人面犬も困ったような表情でぼやいた。
「なんだ? 自分がどうしてゴミ箱のゴミ被ってたか、記憶が無いってか? オレに聞くなよ? オレだってお前のことなんて知らねぇんだからよ」
人面犬は、そう言って今一度前足で俺に退くように催促し、俺がさっきまで体を突っ込んでいたゴミ箱に頭を突っ込み、咀嚼音をさせ始める。
「あ、ところでよ」
ゴミ箱の中から声がする。
「お前、オレを見ても怖がらなかったな。やっぱあれか? 最近の人間ってのは俺を怖がらなくなったのか?」
ゴミ箱の中から、残飯の手羽元を加えながら人面犬が出てくる。
俺は人面犬をまじまじと見つめる。
確かに、常識からは外れている生き物、のようだし、恐ろしくないと言えばウソになるのではないか? だが、だからどういうわけでもないし……
「なんだと? かぁー、やっぱそうか!」
人面犬は何か合点がいったのか、渋い顔をした。
「あれだろ、映像技術が発展して、リアルな俺ら怪異より怖い映像作品が出回り過ぎちまってるんだよ。ほらあれだ、あれ。慣れって奴だ! あるいは……けっ」
よくわからないが……なるほど? ……ところで、俺はさっきから特に何も言ってないはずなのだが?
「あ? 今更か? オレは人面犬。怪異だぞ? 人間の心を読むぐらい、肉を喰いながらだってできる」
そういうものなのか。
「そういうもんだ」
人面犬は鼻をすすりながらゴミ箱の中にもう一度顔を突っ込む。
俺は自分が何故こんなことになったのかを必死に思い出そうとした。今日の出来事をなんとかして思い出そうとした。
すると何か頭の奥が痛み、左耳から血の流れる音が強く聞こえてくる。気分が悪い。
まず、朝に起きて……
吐き気止めと蕁麻疹止めと栄養剤を飲んで、スマホの充電を確認する。
上司からのメールに気付く。任せていた仕事はどうなったのか。いつ上がるのか。と催促のメールだ。あの上司の笑顔での催促する様が脳裏に浮かぶ。期日通りにあげていたのでは遅いのだと。入社直後からのいつもの光景が浮かぶ。
固形物は薬以外取ってないが、とても食べる気にならないので着替えて出社の用意をする。
髭を剃り、髪を整え、顔を洗う。携帯で今日の予定を確認する。今日は営業で外に出る日だ。天気予報では外気は32℃の真夏日になるという。……外回りのスーツをクリーニングに出せる日を確認しておく。
出社前に玄関のドアポケットに郵便物が入っていることに気付いた。納税通知、地元の同級生の結婚式の案内と手紙、チラシ、クレジット支払いの明細、両親からの手紙。全部まとめて封を開かずに玄関先へ置いてきた。
出かけた直後にポケットに飴が入ってないことに気付く。いざという時、落ち着くためのお守りだ。もうずいぶん前に貰った飴だ。
陽射しが熱い中出社し、底冷えした社内に入り、元気を振り絞って他の社員に挨拶する。
『男のくせに元気がない。もっと働け』と言ったのは重役の男性社員で『男はもっと働くべきだ』と言ったのはお局の女性社員。そうして俺の机に書類が詰まれる。
仕事が多くて手が回らないから手伝ってほしいと訴えるも、上司も同僚も俺を揶揄ってまともに取り合ってはくれない。
唯一手伝ってくれていた女子社員は社内一のイケメンの妻になって今日から会社に来ない。
女子社員の一人が『みんな仕事をさぼる。私だけがやっている。どう思う?』という話を延々と語っていく。決して仕事を手伝ってくれるわけではない。
そうして“いつも通りの”午前の仕事が終わっていく。
上司が笑顔で催促のために強く、音が鳴るように肩を叩き、わざとらしく肩を揉んでくる。『みんな、仕事は早く仕上げるべきだぞ。早く終えて次の仕事に取り掛かるんだ』
室内の寒さと胃の痛みから昼食を抜き、外へ営業へ。昼食を取って良いか先輩に聞かなかった、と先輩から説教を受けて営業先へ遅れる。
営業先で別の社員の失態のお叱りを受けて頭を下げ、床掃除のバケツの水を被る。
新規顧客は無し。営業の何が楽しいのか未だに解らない。
少しぐらい、と日陰でスマホを開いたらば目に飛び込んで来たのは『“弱者男性”は自己責任』というネットの記事だった。
直後に、上司から催促のメールが来る。
帰れば書類仕事が山ほど笑顔で待っている。
外は猛暑で汗が目に入る。
胃が痛い。 吐きそうだ。
内臓が誰かに 刺されたに違いない。
誰かが左耳の 傍で何かを ちぎった。
誰かが 頭を 殴った に違い な い。
そ れ らは 全部、自 己責 任……自己責任自己責任自己責任自己責任
「んなわけがあるか、ばかたれ!!」
人面犬が、気が付けばうずくまっていた俺の前で怒鳴る。
「強いてお前の責任だと言うなら、さっさと転職しないところだけだ!! あとは全部お前の回りに居た連中がどいつもこいつも頭がおかしい!!」
俺はゆっくりと、頭を上げる。目の前には怒り心頭の様子の男の顔がある。
なんで、あんたが怒ってるんだ?
「お前が、怒らねぇからだ!!」
俺の零れだした疑問に、人面犬は今にも噛みつこうという勢いで迫って来る。
「怒らねぇことで後々のトラブルを回避する。立派だ。だがその結果、舐め腐られてクソどもに良いようにされるなんざ……お前を大事に思ってる人らにとってみれば
そう言いながらこれでもかと、人面犬は地団駄を踏んでいる。
「ああもうまったくよお! 人間社会がそれだけクソの溜まりになってるから、オレたち怪異を怖がったり新たに噂したりって余力が生まれてねぇんだ! おかげでこっちとら一世を風靡した怪異なのに怖がられもしねぇと来たもんだ! ああもうまったくよおおお!!」
人面犬には人面犬の思うところがあって、怒っているようにも思えた。
俺はなんだか、他の誰かが俺の処遇に関して怒ってくれるなんて、なんだか少し笑えてくるような、そんな気がした。
「けっ、そうだよ。オレたち怪異は、オレたちを語る者の恐怖で出来てる。だから恐怖が無けりゃ消えちまう。にもかかわらず、
なんだか俺に関係ないことまで説教されてる気がする。
「仕方ねぇだろぉ、今日の残飯は綺麗に食われてて何も無かったんだから……」
ふと、何かないかとコートのポケットを探る。飴玉が一つ……。
「お、良いもんあんじゃねぇか」
俺の手から人面犬は止める間もなく飴をパッと口で咥えて包装紙ごとバリバリと食べてしまった。
俺の精神安定のための飴が……
その心のつぶやきを拾ったのか、大きなため息を一つついて、彼は続ける。
「まったくよぉ。飯ぐらいまともに食え。お前を大事に思ってない奴に好かれようとするな。……お前、人面犬に説教されるなんざ激レアな体験してんじゃねぇぞ?」
そう言ってニヒルな笑みを浮かべ、またアンニュイな視線で俺を見てくる。
「こんな成りで汚らしいオレなんぞによ。だがオレはまだ人生……あいや、犬生を諦めてねぇ。意地汚く生きてやるって決めてるんだ。だから、こんなに汚くなってようが問題ない……くせぇけどな」
ぐるりと中型犬の体で俺の前で一回転してみせ、モップのような尻尾を振って見せる。
俺は気付けば、もう顔を伏せてはいなかった。人面犬をまじまじと見ている。
そして優雅に、泥にまみれた体を誇らしげに見せながら、裏路地のさらに狭い隙間に吸い込まれるように消えていく。
去り際に言葉を残しながら……
「お前はどうする? 諦め始めてたんだろ? 終えるのは……オレは悲しいな……オレを怖がる奴が減るとよ」
俺は、裏路地に一人、アスファルトの上に座っていた。
空は鈍色から、鮮やかな青色へと変わり、ビルのスキマを真っ白な雲が流れて行っている。
俺は一度帰宅し、身なりを整え、退職願を書いた紙を握りしめて会社へと赴いた。
だが、そこは空き地になっており、俺が勤めていた会社は影も形も無くなっていた。思わず俺はスマホを手に取り、会社に連絡を取ろうとするがつながらない。
おかしいと思いスマホの画面を確認しようとすると、そんなタイミングでメールが届いた。いつもなら、上司の催促のメールのはずだが……。
メールの内容は故郷の友人から『結婚して妻と事業を始めると手紙に書いたが人手が足りないとの相談は読んだか? 一緒に働いてくれないかという話は考えてくれたか?』という内容だった。俺は『どうやら無職になったらしい。働き先を探している』と返信した。すると友人からの返信はすぐに返ってきた。
『お前のとこのおじさんとおばさんと一緒に待ってる』と。
スマホを握る手に少し力が入った。
ところで、もしもあのくそったれな会社を、会社の奴らを人面犬がなんとかしたとして、それに対して俺は感謝こそすれ恐怖は抱かないのではないか?
だが、彼は去り際に『オレを怖がる奴が減ると悲しい』と言った……。
そういえば、人面犬とはどういう都市伝説だったか……ただ現れて……不気味なだけ? 追い抜かれるとどうとか……それはまた別の都市伝説で……
もしや、人面犬の怪異としての本当の恐怖を、我々はまだ知らない……?
人の顔した犬、犬の体をした人、という怪異……その詳細を求む 九十九 千尋 @tsukuhi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます