第二章

第二十一話 地獄の沙汰は

「ここが地獄……」


一面の土気色。

じめじめとした雰囲気は魔界と似通っている。

視界に関しては尚も悪いが、陰気臭さは少し控えめの塩梅だ。

そして、ひときわ目立つのが独特の形状をした地面。

なんと上に向かって渦巻いているのである。


(螺旋スロープみたいだな)


元の時代、そういった建造物があったのは覚えている。

黒之助は周囲を確認してみた。

すると、今いる場所から左斜め前方に、始点となる坂が見える。

道はそこから、ぐるぐるとうねりながら上昇していた。

バネの先端は何処いずこへ――って頭上を凝視する。

顔を出したのは、底の見えぬ深い暗闇だった。

否、天井の見えぬ昏き陰影といった方が適切か。


(これ、相当高いぞ……)


差し詰め、この地は円柱の構造となっている模様だ。

底面に当たると思しき現在地の面積は、さして大きくない。

しかし、計り知れぬ深度に加えてイエミズの言っていた広さ・・の苦言。

地獄とは、莫大な体積を持つ大穴と考えるのが妥当であろう。

なるほど、ここをひたすら上るのだとしたら、気が遠くなるのも頷ける。


(? 微かに光っているのはなんだろう)


よく見ると、壁際に無数の窓のようなものが点在している。

その一つ一つから、淡い明かりが零れていた。

一筋の光も届かぬこの環境で、空間が視認できる理由はあれらのようだ。

夜景を彷彿とさせる趣があり、土地全体に何かが息づいている印象も受ける。


「見ての通り、現行の地獄は縦に伸びていてな」

「ここは最下層で、人界に戻るためには最上層まで行く必要があります」

「やっぱり、これを上っていくわけですか……」

『こんな散歩道はじめて見た! 面白いなぁ』


ギンの楽観的な言動が、良い意味で肩の力を抜いてくれる。

この身体は疲労が溜まらぬゆえ、体力面での懸念は皆無だ。

殺風景にさえ目を瞑れば存外、それほど困難な道のりではないのかもしれない。

とはいえ、後顧の憂いを絶つに越したことはない。

恐る恐る目的地までの距離を尋ねてみると、イツナは苦笑した。


「あはは、素直に歩いたら数ヶ月は掛かってしまう距離ですね」

「そ、そんなに……」

「無論、某たちは別の方法を採る予定だ」

「何か秘策が?」

「ええ。地獄では要所に横穴が空いておりまして、その先に昇降陣というものがあります。これを使えば、大幅に移動時間を短縮できますよ」

「さっき"最短の道順で"と言っていましたが、そういうわけですか。昇降陣……転移陣とは何か違うんでしょうか」

「あれは瞬時に二つの空間を行き来できる陣だが、対して昇降陣は、謂わば予め用意された導管を、高速飛行で翔け抜けるような仕様となっている」

「ふむ、それだけ聞くと下位互換のような気もしますけど……転移陣の方はないんですか?」

「残念ながら地獄にはないな。まあ、需要の問題だろう」

「需要……? 使う人がいないのですか」

「ああ。地獄ここにいる連中は基本、神気を受け付けないのさ。転移陣は神気に由来するから、必然的に利用者は限られる」

「一方で、昇降陣はそうした人達でも触れることのできる、仏気ほとけぎに由来しているんです。地獄内で移動を行うのは主に彼らですから、実用性のない転移陣は敢えて配置されていないのでしょう。わたし達のような存在は、滅多に来ないですしね」


黒の扉を潜る前、仏の力と神通力は本質が同じで、性質は違うと説明された。

享受できる者が二分にぶんされている――仮に、これを性質の違いとした場合。

それぞれ、触媒として呼応する阿尓真あにまの変化に、微妙な違いがあると思われる。

"本質"は活人の善意を指すはずだから、その中にもまた機微があるということか。


それにしても、イツナでも各種陣の配置条件については詳しくない口ぶりだ。

おそらく諸事情で秘匿されているか、単に神仏へ伺った経験がないのだろうが。

少なくとも実用性の観点で、魔界の転移陣は明らかに不便極まりなかった。

昇降陣を含め、合理的な理由とは別の意図が介在している可能性は高そうだ。


「なるほど……ところでその、神気を受け付けない人達というのは? ここには魔族がいないと言っていましたけど」

「まあ、魔族以外にも神気を煙たがる奴らがいる、という話だ」

「ほう……気になります」

「ふふっ、黒之助さんは勉強家ですね。とりあえず、先に進みながらお話ししませんか? 短縮できると言っても、陣までは自力で到達しなくてはなりませんから!」


イツナ曰く、陣があるのは低層と中層、そして上層地点の三箇所。

そしてどうやら、各所とも直通になっているわけではないらしい。

つまるところ、陣で移動した後は次の陣まで徒歩移動しなくてはならない。

結局、順調に進んだ場合でも合計で数十時間は歩く必要があると判明する。

如何せん気が滅入ってしまう黒之助ではあったが、千里の道も一歩からだ。

彼は険しい先行きをなるべく気楽に捉えて、踏破の覚悟を決めた。

一同が歩き始めると、おもむろにイエミズが真剣な表情で注意喚起する。


「森の時と重複するが、改めて確認しておこう。魔界や地獄での移動……要するに精神体で動き回る際は、こまめな休息が肝要となる。草臥くたびれず、腹も減らず、眠くもならんこの身体は甚だ便利な一方で、心の摩耗には盲目になりやすい」


彼によると、心の摩耗、つまり精神的な負荷が閾値いきちに達した場合。

不意の気絶が当人を襲い、魔素を防ぐ守護の機能が一時的に麻痺するそうだ。

当然、これは魂の汚染と異形化が進行する窮地に陥いることと同義である。

黒之助だけは体質の関係で無問題だろうが、他の三名にとってそれは死活問題。

また、この面子めんつで汚染に対処できるのがイツナのみという危険な情報もあった。

万が一、彼女が汚染されたらイエミズやギンの安全は保証されなくなる。

加えて、雲がどういった反応を起こすかも不透明だ。

――この旅路は、イツナの死守が生命線となる。

全てを水泡に帰さないためにも、ここは慎重に立ち回らなければなるまい。


「……心得ました。十二分に注意します」

「頼むぞ。イツナやギンも無理せず、違和感を覚えたらすぐに知らせてくれ」

「わかりました、いつもご忠告ありがとうございます」

『ん~と、イエミズ。飽きてきたなー、もう歩くの嫌だなーとか思い始めたら、それはもう心が疲れてきてるって考えてもいいの?』

「その認識で大丈夫だ。あと、歓談中は気が紛れて摩耗が遅くなるが、その間も負荷自体は常にのしかかっていると肝に銘じてくれ。絶対に油断せず、互いの変調にも敏感でいること」

『はーい』

「長丁場になるとは思いますが、何とかみんなで切り抜けましょう!」



最初に自分たちがいた底面が見えなくなるほど、高所まで上ってきた。

だがここはまだ低層の範囲で、横穴もまだまだ先にあるという。

黒之助は時間の有効活用も兼ねて、幾つか質問した。


「そういえば、さっき話に出てきた神気を煙たがる人達のことなんですけど」

「ああ、それは……うーん。まず地獄の仕組みを説明した方が良いかもしれませんね」

「そなた、閻魔の知識はあったよな。地獄についてはどうだ?」

「えっと……正直、魔界と混同してたくらいでして。殆どわかってないと思います」

「左様か。では簡潔に述べるとしよう」


地獄とは魔界と同じく、四次元の低位相に存在する時空間である。

元々は魔族も跋扈していた混沌の地であり、魔界との明確な境目はなかった。

ところがある時期になって、神仏による区画整理が実施される。

無法者が大手を振っていた環境は、これを契機として大きな変貌を遂げたのだ。


「旧地獄は、言うなれば悪しき魂の楽園だった。しかし刷新された今は、彼らの更生、矯正を推進するための専門領域と化している。管理者は閻魔で、その眷属たちも多く運営に携わっている」

「眷属って、部下みたいな意味でしょうか」

「そんなところだ。もっとも、仕える主より強い眷属、なんてのもざらにいるが。人族の想像する主従関係とは少々違うといえるな」

「ふむ……では、悪しき魂というのは?」

「そうだな。平たく言えば――」


悪しき魂とは、人界において非人道的な行為を働いた者を指す。

神気を煙たがる連中というのは、つまり彼らのことである。

いま歩いているこの道の壁際で、仄かに光っている無数の窓のようなもの。

あれらは全て、この悪しき魂が収監されている個室なのだ。

彼らには己の所業による穢れが付着しており、そのままでは輪廻転生ができない。

よって、部屋の中で行われているのは次回への足がかりとなるに該当する。


「輪廻転生……生まれ変わりってやつですか」

「ええ。穢れ――カルマと呼ばれる霊的な負債が一定量を超えますと、その魂は輪廻のから外れて、一旦この地獄にやってきます。次に生まれ変わるための準備が始まるわけですね」

「カルマって確か、陰陽術を使うと深まるって聞いたような……」

「今そこを掘り返さんでもいいだろう」

『あ、誤魔化した!』

「……おほん。で、禊とは文字通り、穢れを浄化することに他ならん」

「水を浴びたりして、身体を清めるあれですよね」

「それは三次元の文化だな。地獄ここでは生前に自分がやらかした出来事について、徹底的に振り返りをさせられる」

「……ええっと。つまり当人に反省を促すのが禊で、それによって穢れの浄化が起こると?」

「その通りです。ただし、最低限の穢れしか落とせないんですけどね。あくまでも、輪廻の環に戻るために必要な状態に治してあげるだけなので」

「先ほどカルマは霊的な負債と言っていましたが、負債ってことは、抱えていたらまずいものなんですよね? ……カルマが残った状態で、また転生してしまって大丈夫なんですか?」

「ああ。残りはそやつが人界に転生した後、人生をかけて少しずつ浄化してゆくからな。ある種、生きる理由の一つともいえようが――とかく、以上が大まかな地獄の仕組みと内部事情だ」


黒之助の目から鱗が落ちる。

"輪廻転生"の語は、古城を発つ前の会話にて、羅摩も持ち出していた言葉だった。

当時は詳しく聞けなかったが、よもや本当に生まれ変わりが存在しているとは。


(羅摩さんは、天命のまっとうにおいて障害となるから、華尊はなのみことの記憶は失われている可能性がある、と言っていたんだっけ。でも、あそこで輪廻転生を連想して引き合いに出したのは……人が生まれる前の記憶を失っている理由と"同じようなもの"だから……だよな、どう考えても。そしてイエミズさんの言うとおり、カルマの浄化が生きる理由の一つであるなら、人族の持つ天命って……)


彼がとある仮説を立てていると、不意にギンが立ち止まって話に割り入った。


『ねえねえ』

「なんだ? もう疲れたのか」

『ううん、あのね。難しい部分はよくわからないんだけど……今の話って、悪いことした奴が、また生まれてくるってことだよね?』

「…………そうだな」

『ぼくさ、思うんだ。そんな奴ら、もう生まれない方がいいんじゃないのかなぁって』


黒之助の思考が急停止する。

ギンを見ると、どこまでも無垢な瞳がそこにあった。

彼はただ純粋に、思った疑問を吐露したに過ぎない。

だが黒之助は知っていた。

彼が途方もない悪意に、何百年も侵されていた狂気の事実を。


カルマが非人道的な行為で蓄積されてゆくものならば。

それが重い者とは、過去に相応の悪事を働いていることになるだろう。

ではもし、地獄で最低限の穢れが浄化された魂たちが――言い換えれば、地獄から抜け出せる程度には穢れを落としつつも、依然として重いカルマを抱えている者たちが、転生先で禊による反省を、その教訓の記憶を忘れてしまっていた場合はどうなるのか。


(……同じあやまちが繰り返される……? あの悍ましい悲劇がまたどこかで起こるなんて、信じたくないけど……ギンも無意識にそう感じたのかも――)


ふと横を見ると、イツナが凛とした顔つきでギンに近づいていった。

腰を落とした彼女は、熱量を伴った眼差しで彼と目を合わせる。

さながら、最初に繃源ほうげんとの対談へ臨んだ際、彼女が見せていた表情だった。

黒之助は息を呑んで、二人の対話に耳を傾けた。



「ギンちゃん。それは違うの」


『? どうして? 痛いのも悲しいのも、ぼくはされるの嫌だよ……悪い奴がいなければ、そんな思いをしなくてもいいのに』


「そうね…………苦しい思いは、させるのもされるのも辛いよね。でもギンちゃん、もし私が昔、その人達と同じように、人を傷つけたことがあるって言ったらどう思う?」


『いっちゃんが? ……信じられないや。昔って、どのくらい?』


「すご~く昔! わたしも全然、覚えていないくらい」


『んんー? 覚えていないのに、したことがあるってわかるの?』


「……うん。ある時ね、気付いたんだ。わたしは昔、悪い子だったって。わたしは忘れていることさえ、忘れてしまっていたんだって」


『……いっちゃんは、どうやってそれに気付いたの?』



ギンが興味津々で問う。

するとイツナはにっこり笑って、こう返した。



「わたし、ギンちゃんと会えてとっても嬉しい。ギンちゃんは?」


『えっ? それは、ぼくも嬉しいけど……』


「ありがとう! じゃあ、この"嬉しい"って気持ち。どこから来たんだと思う?」


『え~! わ、わかんない……どこから来てるの?』


「それがね、昔の――悪い子の自分だったの。"嬉しい"を追いかけているうちに、わたしはそのことに気が付いた」


『…………』


「わたし達はみーんな、同じ道を通ってきた旅の仲間だったんだ。同じ道のなかで出会ったり、別れたり、再会したり……だから、誰かがその道を通せんぼしちゃったら、ギンちゃんとわたしがこうして会えることはなかったし、"嬉しい"って思うこともできかなったんだよ」


『……やっぱりよくわからないけど……それは痛いのや悲しいのと同じくらい、嫌な気もする……かなぁ?』


「ギンちゃんは優しいね。……通せんぼした先には、わたしだけじゃなくて、クロノスケさんやギンちゃんにとって大切な人たち、みんなのいない世界が広がっている。暗くて寂しくて、凍えそうなほど寒い世界……わたしはそこが怖いから、行きたくないんだ」


『うん…………うん。ぼくもそこは怖い』


「ふふっ。つまりね、生まれない方がいい命なんて、一つもないってことなの」


『一つもない……? ここにいる奴らも、みんな?』


「そう。"嬉しい"はみんなのものだから、独り占めしちゃダメッてこと」


『メッ……そっかあ』



微笑み合う二人の姿は、形容しがたい感情を黒之助に与えた。

イエミズは頭上の陰影を見上げ、寂しげに目を細める。

その口元は何かを憐れむかのように、綻んでいた。

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