老比丘尼
七夕も過ぎた秋の夜更け、持明院第に女たちの悲鳴と泣き声が響きわたった。
騒ぎを聞きつけた基家が姫の住む対屋へ赴くと、帳台を囲んで女房たちが泣き伏していた。基家が乳母をつかまえて「何事だ」と聞いても「物の怪です、物の怪の仕業でございます」としかくり返さない。
基家は「姫、失礼するぞ」と声をかけてから、下ろされていた帳をわずかにめくって中をのぞいた。
「なっ……なんということをしてくれたのか。勝手に髪を下ろすとは!」
姫はその髪をひと束握りしめると、怒りと困惑で顔を歪めて立ち尽くす父に向けて突きつけた。
「わたしの夫は、生涯ただひとりです。あの方だけが、わたしを導いてくださいました。この愚かなわたしを殿が許してくださるのなら、来世でもまた、わたしは殿の妻となるでしょう」
ひと息にそう言うと、姫は手にしていた髪の束をはらりと落とし、その上に両の手をついた。
「父上。わたしを、尼にしてください。もし、わたしをどなたかに添わせようとなさるなら、いますぐ殿のもとへ参ります」
「こ、ことを
父は目を白黒させながら、話をうやむやにしようとした。そしてそのまま踵を返しかけた父へ、姫は追いすがるように頭を下げた。
「お待ちください、父上! 父上には、殿とお引き合わせいただいたこと、無上のよろこびと感謝しております。ほんの数年でしたが、わたしは心よりしあわせでございました」
背中を丸めて、顔だけを上げる姫の睫毛は涙に濡れていた。この数ヶ月ですっかり憔悴し、陰影を濃くする頬には短く垂れた髪が貼りついている。
しかし、凛としたその眼差しに幼さはすでになく、ひとりの女性として、妻として、おのれの父を見上げていた。
「姫よ、わしに感謝などしてくれるな」
基家は娘からの視線を受けとめきれず、うつむいた。
姫から聞くまでもなく、基家も娘夫婦の仲の良いことは知っていた。あのまま結婚生活がつづいていれば、早晩子どもにも恵まれたことだろう。
だからこそ、姫にはもう一度しあわせになってほしかった。
いまの姫の気性ならば、あの粗野で武骨な、しかし愚直とも言えるほど真っ直ぐな男たちが顔をそろえる関東で、武門の妻として充分にやっていけるのではないかと一縷の望みをかけてしまった。
しかし、基家が知る以上に娘は資盛を恋い慕い、またとない背の君として貞節を尽くそうとしているのだと思うと、じくじくと心が痛んだ。
苦い顔をする基家に、姫は重ねて言った。
「このうえは、殿をお救いできなかった罪を背負い、そして殿の菩提を弔うことだけを一意に励みたいのです。お願いでございます、父上。わたしを、どうか尼にしてくださいませ!」
生まれてこの方、これほどまでに姫がなにかを望んだことが、たったの一度でもあっただろうか──基家は、自分に問うた。
そして、やっとの思いで声を絞りだした。
「……好きにせい」
肩を落として去っていく父へ、姫はあらたな涙を流しながら頭を下げた。
◇ ◇ ◇
里山を見渡す小さな庵の一室で、持明院の姫と呼ばれていた老比丘尼が、読み終えた草子を静かに閉じた。
それは、ひとりの女性の宮仕えの思い出と、治承・寿永の争乱で命を落とした恋人への、終生変わることのない想いを綴った私家集。
あるいは、比丘尼の夫とその愛人だった女性の恋の軌跡、とでも言うべきか。
いく人もの手を渡って読まれてきたその草子は、老いた彼女の手にしっくりと馴染んだ。
読む者までもが胸をえぐられるほどに、苦しく忘れがたい恋心を書き残したその女性は、数年前に天寿を全うしたと聞く。
この草子に書かれたふたりの恋は、この先もあまたの人びとに読み継がれてゆくのだろう。哀しくも、美しい恋物語として、百年先、千年先までも。
「そう、わたしの存在など、まるでなかったかのように」
草子を文机に置いた比丘尼は、夫の形見である
「殿……」
さまざまに入り乱れる思いをのせて、
まばたきよりも
これまでも、これからも、平資盛の妻は自分ひとり。
たとえ
だから──
「わたしの恋は、わたしだけが知っていればいい」
かつての持明院の姫は、そうつぶやいて草紙を手筥へしまった。
了
美しい日々 ─ 平資盛の妻 ─ 小枝芙苑 @Earth_Chant
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