飛べぬ燕の青い春

青海老ハルヤ

飛べぬ燕の青い春

 5月の曇天に、ピストルの乾いた音が鳴り響いた。


 その瞬間、32本の足から生み出される振動がグラウンドを強く揺らした。コントロールされた静かな息遣い。各々おのおのテンポを固定した足音。生ぬるい風の中を、先頭集団が塊となって加速していく。それこそピストルの、空気を貫く弾丸のように。こうして陸上、長距離という競技は幕を開ける。


 つばめはトラックのそばでぼんやりと見つめていた。どこか自分が違うところにいる気がする。が、毎度おなじみのおばさんの軽快な声が聞こえてきてふと我に返った。近くで鳴いていた1匹の蝉の声が止まる。彼女の顔はほとんどの選手が知らないが、特徴的なこの声は一度聞いたら忘れない。


『女子1500メートル競走、第2組がスタートいたしましたッ!』


 そうかあたし次じゃん。慌てて足を動かす。アップは既に済ませていたが、油断するとすぐに固まってしまう。


 燕が走るのは1500メートル競走第3組である。1500メートルという距離は長距離専門の高校生にはもっとも人気の種目と言え、トラック種目の中では3000mに続いて2番目に長い種目なのだ(男子は3000mはなく、5000mがある)。男子のほうが選手は多いが、女子だけでも50人以上参加するのが常だった。今も辺りには同じ組で走るライバルたちと、次の組で走る選手がひしめき合っている。


「あはっ、ちょっ、燕! 顔死んでる顔死んでる!」


 声の方向を見上げると、グラウンドより少し高い位置に作られている芝生席に、女子部長の明日香あすかが立っていた。ユニフォームの上にすぐ脱げる黒いトップスを羽織っており、そこから突き出た短距離特有の筋肉質な脚は、既にこんがりと焼けている。「ダーイジョーブーカー?」なんて言いながら、彼女は石の階段をゆっくり降りてきた。


「え、あ、そんなに?」


「うん、死んでる。あでも燕、大会前いつもこんなんだった気がする」


「まじか」


「うん、めっちゃ顔青いんだけどめっちゃオモロい」


 エセ関西弁で明日香が言った。燕からすればオモロいも何もないのだが。


 ふう、とため息をつきながら明日香は手に持っていた2リットルの水筒を下ろした。5月とはいえ急に暑くなる日も多いので、多くの人が余分に水は用意している。


「てかそんなに青くなってさ、急に吐いたりしないでよ? せっかくの最後の大会なのに」


 パンパン、と手についた水筒の跡を軽くはたきながら明日香が言った。そう、今日は最後、最……最後だったそうじゃん!


「えまじ? まじで? えー駄目な感じ? 袋いる?」


 明日香が慌てて声をかけたのは燕が急に頭を抱えてしゃがみこんだからである。


「……んあああもう! 意識しないようにしてたのにー!」


「は? なんだ、心配して損した」


 明日香がポケットから取り出しかけていたスマホを再度しまう。どうやら待機場所にいるマネージャーに連絡しようとしてくれたらしい。口調は意地悪だが、そこはさすが部長なだけある。


 今日は部活最後の大会だった。高校3年生は今日限りで引退する。もちろん、もし勝ち進んだら、明日の決勝、県大会、地方大会、全国大会と続くのだが、弱小校には全く縁遠い話だった。


「あああああ明日香! 死ぬ! あたし死んだ! ムリムリムリムリもう走りたくない辞めるー!」


 緊張に耐えきれなくなってきた燕を見て、慰めるわけでもなく明日香はニヤニヤし始めた。おー始まった始まった、なんて呟いているが、燕はもうそれどころではない。片手で数えるほどの語彙でいかに走りたくないかを訴えた。


「どーしよ明日香、走りたくない……んうあああああ! やだやだ無理無理死ぬ死ぬあああああ」


「はは、オモロ。これも見納めと思うとなぁ……なんか感慨深いわあ……」


「もうやだ無理死ねる死ねるんんんんなあああああ!」


「うん、名残惜しいけどもう招集してるから行っといで。もう2組3周目行ったよ」


 とんとん、と頭を叩かれて、半べそになりながら燕は立ち上がった。もう一発、バシッと背中を叩かれる。


「ま、がんばれ。――あ、水筒とかゴールのとこ持ってっといていいよね」


「あ、うん、ありがと……」


 めずらしく素直に応援されてすこしこそばゆかったが、そうこうしているうちに燕は送り出されてしまった。カチカチと自分の歯が鳴っているのが聞こえる。一人で選手たちの中を進んでいくと、だれもが眼をギラギラさせていて、そして先程のやり取りが相当目立っていたらしいことに初めて気がついた。


 その時、2組目の先頭が、1000メートル地点を通過したとのアナウンスが聞こえてきた。読み上げられたタイムで辺りにどよめきが起きる。時々聞こえる「やべえ」は、とんでもないタイムが出るかもしれない、という期待感と、このあとに走りたくない、という絶望感によるものだ。


 本番が嫌な音を立てて近づいてくる。ゆっくりと、そして確実に。もう今燕は独りだった。強く強く心臓を圧迫される。緊張感が最高に高まっていく。そして、この緊張感を愛せるほど燕は強い人間ではなく。他校の選手たちが集中力を高めている中で、自分ひとりだけが怯えている。そう思った。


 ああ、いやだ、走りたくない。大会で走るたびに、練習で走るたびに、もう二度とこんなに苦しい思いはしたくないと、何度も何度も思ったのに、途中で辞める勇気が出なくてここまで来てしまっただけなのに。


 息が苦しくなるのが怖い。

 脚が張って動かなくなるのが怖い。

 抜かされて心が折れるのが怖い。

 脚やお尻に乳酸が溜まって、立っても座っても燃えるように痛くなるのが怖い。


 第2組の先頭の子がゴールした。大会新記録。彼女は明日も走る。きっと、。なんて、うらやましいのだろう。


 ついに出番がきた。燕は紅いタータン―トラックに使われている合成ゴム―に脚を踏み入れた。コンクリートに比べ少しだけ柔らかい。30メートルほど一本軽くダッシュし、


――そして時間がやってくる。


 「On your marks《位置について》」と合図がかかった。礼をして、燕はスタートラインに立つ。かるく構えて、あとはもう体に任せる。


 力を抜いて息を整え、――長い、長い静止のあとに、


 ピストルが音を噴いた。


――――






――まずい、みんな速い――ダメだ着いていくな

――囲まれた、なんとか、外へ――――クソッタレ

――置いていかれるな――ああ足が、くそ、何とか前へ――ダメか、速すぎる






――足が、心臓が、止まれとあたしに言う。横たわってしまえ、それでこんなに辛い、苦しいことを辞められるんだ。


――いいじゃんそれ。キツいし。もう走りたくない。そもそもなんであたし今走ってるんだろ。辛いじゃん。苦しいじゃん。


 倒れ込んでしまえば、先生たちが担架を持ってきてくれるだろう。あたしはそれに乗せられ、揺さぶられ、ベットに運んでもらえるだろう。なんて、素敵な。



――嫌だ、それは嫌だ。それは違うそれは絶対に違う! 考えるな、何も考えるな。ただ足を回せ、ただ息を吸え。死んでも、とは言わない。勝ちたいとも思わない。


 足が邪魔だ、体が邪魔だ。ああキツい、そうだねキツいね。地面が重い、空が遠い。それでも、それでも進むのだ。ここで止まるわけにはいかない。あたしは進むのだ。あたしは前を向くのだ。あたし――






 ――――走れ。







――――


 何とかグラウンドの端まで辿り着き、燕は倒れ込むように寝転がった。息が苦しい。脚が痛い。腰も乳酸で張っている。


「おつかれー」


 明日香がほい、と水筒を持ってきてくれていた。お礼を言う余裕もなく、首だけを少しだけ動かす。汗がユニフォームの中で蒸れて気持ち悪い。冷えたコンクリが少しずつ体の熱を吸収していくのが分かった。


「タイムはまあ、悪くはないって感じかな。よく頑張ったよ。最初ねー、あれはきつかったっしょ」


 うん、とだけ呟いて肯定する。。スタートした直後、先頭集団に飲み込まれた燕は、つられて有り得ない速さで1周目を走ってしまい、結果体力が持たずに後半落ちてしまったのだ。もし、もし自分のペースを維持できたらこんなに苦しむこともなかったのだろうか。


「……すっごい……きつかった……」


「ね、あれはきついわ。まあでも、もう終わりだしね。3年間お疲れ様」


 労う声に思わず涙が出そうになったが、こらえた。今泣くのは違う。


 それより、そうだった。これが最後だったのだ。走ってる時は余裕がなくて忘れてしまっていた。ただ、前に着いてこうとして、置いていかれて、踏ん張って、そして――いつの間にか終わって。もうよく覚えていない。


「そっか……終わりか……」


 もしなんてない。ようやく終わった。これでもう走らなくていい。大学に行った時にサークルではなく、自ら部活に入ったりしない限り、もう走らなくていいのだ。

 これでやっと――


「……終わっちゃったんだ……」


「え?」


 明日香が顔を覗き込んできた。ゆっくりと起き上がって、グラウンドを見渡す。トラックはもう次の組が走っていて、その外側では走り幅跳びが、中ではやり投げが行われている。雲の隙間から除く光が、選手たちを照らして輝かせていた。たくさんのユニフォームが、今度こそ色とりどりに華やいでいる。――燕もそこに居たのだ。


「なんか……楽しかった。すっ……ごいキツかったけど、結局決勝も1回も行けなかったけどさ、タイムも伸びなかったけどさ、……でも楽しかった。よく分かんないけど」


 頭の中がまとまらないまま、燕がそう呟くと、明日香はクスッと笑って言った。


「そか、そんなら良かった。そういうものなんでしょ、長距離って。あたしら単距離選手には分からないけどさ」


 そうだ。これはあたしのだ。あたしの記憶だ。分かられてたまるか。


 立ち上がると汗がコンクリートに残っていた。それが少しずつ蒸発していく。もうきっと、この汗が流れることはないだろう。


 セミの鳴く声が増えてきた。もうすぐ夏が来る。



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飛べぬ燕の青い春 青海老ハルヤ @ebichiri99

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