第9話 藤本タツキ『チェンソーマン カラー版』

 ひさしぶりに藤本タツキの『チェンソーマン』を読んだ。今回はカラー版で読んだ。読んでこの漫画のなにがおもしろいのか考えた。


 ①主人公デンジの魅力

 ヤクザの借金を一人で背負った少年デンジは義務教育を受けていない貧困少年で、言葉遣いも態度も悪い。

 しかし相棒ポチタに見せる態度でわかるようにその心根はやさしい。女性読者はそこらへんに敏感に反応したと思う。

 まだ十代の身の上でありながらとてつもない貧乏人で、親がいないところは『あしたのジョー』の矢吹丈に似てる。デビルハンターとして天性の才能があるところもジョーっぽい。ただし貧乏から脱出するため犯罪を冒して少年院に入ったジョーに比べると、借金を返すため自分の目や内臓を売ったデンジははるかにやさしい。また友人がいない孤独なデンジはよくモノローグ(独り言)をつぶやくが、そのなにげないセリフが心の琴線に触れた読者も多いと思う。


 ②女性キャラの魅力

 出てくる女性キャラが一人残らず魅力的で、これがチェンソーマンの人気のかなりの部分を占めていると思う。

 自分はとくに姫野が好きだった。大人の女性らしい色気があってかつズボラ。明るい性格で凄腕のデビルハンター。アキの頼りになる先輩である反面、愛するアキがピンチになったら「どうしよう」と腰を抜かすようなかわいいところもある。またチェンソーマンの世界でもっともおそろしい存在であるマキマを「糞女」と呼ぶ度胸もある。劇中マキマをクソ呼ばわりしたのは姫野だけだ。

 その姫野が作品の序盤であっさり退場したのはショックだった。

 チェンソーマンという漫画の厳しさを見せつけるような退場で、この早すぎる別れによって姫野は読者にとってほとんど永遠の存在になった。姫野の行動はアキを守ろうとする自己犠牲だが、男性キャラの自己犠牲とちがってあまりヒロイックな感じはなかった。自分は姫野の母性を感じた。

 アニメのPVでアキと姫野がセックスしたと思わせる場面があった(本編には登場しなかった)が、それを見たある女性ファンが「アキと姫野はセックスしていてほしくない」といった。その気持ちがなんとなくわかった。


 それから忘れてはいけないのがマキマだ。

 自分がチェンソーマンにはまったきっかけがマキマで、読み始めてすぐ「この女はなんだ?」と思った。

 敵か味方か、ヒロインかヒーローかラスボスかまったく見当がつかない。こんな異様なキャラは初めて見たし、その後も見ない。とてつもなくおそろしい存在でありながら同時にかわいいのだからおそれいる。

 藤本タツキのフォロワーは多いが、マキマのようなキャラを造形できる作家はほとんどいないだろう。

 デンジとのデートでマキマはある映画を見ながら涙を流す。これはチェンソーマン屈指の名場面だが、マキマが泣いた映画のタイトルは作品の中で明かされない。先日ツイッターを見ていたら外国のファンがこの映画はソ連の反戦映画の名作『誓いの休暇』であることを突き止めていた。誓い~は1950年代のいわゆる米ソ雪解け時代(ごく短い期間米ソが仲良くなった時代)に作られた映画で、自分もはるか昔NHKでこの映画を見た。

 そしてラストで主人公の若い兵士と母親がほんの一瞬抱き合う場面で号泣した。マキマが涙を流したのと同じ場面で自分も泣いたとわかってうれしかった。

 この名場面でマキマがただおそろしいだけではなく、血も涙もある可憐な若い女性であるのが読者にわかる。だからなおさらその後の展開がおそろしいし、胸が痛くなるのだが。

 ちなみに『誓いの休暇』の主人公である若い兵士のルックはデンジにちょっと似てる。


 ③新しい恐怖の体系

 この百年ほどホラー界をもっとも席巻した恐怖はラヴクラフトのクトゥルフ神話と思う。あの村上春樹でさえ『海辺のカフカ』でクトゥルフ神話を連想させるエピソードを書いている。

 藤本タツキはチェンソーマンでクトゥルフ神話とまったく無関係な、まったく新しい「恐怖の体系」を作りあげた

 人間がこわいと思う概念、血や永遠や闇が実体化したもの、それがチェンソーマンの世界における悪魔だ。

 一見するとシンプルだがこれは画期的なアイディアだ。この百年間だれもこんなアイディアは思いつかなかった。スティーブン・キングでさえ思いつかなかった。

 また悪魔のビジュアルがすばらしい。自分は最初にソードマンのビジュアルを見たとき「かっこいい! でもこれ以上かっこいい悪魔のルックはもう描けないだろう」と思った。ところが今ジャンププラスに連載しているチェンソーマン二部に出てくる最新の悪魔「落下の悪魔」の姿を見たらこれがどエロかっこいいのでまいった。

 天才だ、と感嘆するほかない。

 

 ④震災の影

 短編集『17―21』のあとがきで藤本タツキはこんな文章を書いている。


『17歳の時に僕は山形の美術大学に入学しました。東日本大震災が起こったすぐ後だったので、このまま絵を描いていていいのだろうかと皆思っていたはずです。絵を描いていても意味がない気がして、何か少しでも役に立ちたいと石巻に復興支援のボランティアに行きました。行くバスの中で僕と同じように考えている美大生や、体育大学の学生達がたくさんいました。石巻につき、住宅街一区画の側溝に詰まった土を除ける作業をしました。土を袋に入れ、トラックまで運ぶという作業を一日しましたが、側溝の土を全て取り除く事ができませんでした。30人くらいで一日中やったのに全然できなかった事に無力感を感じ、帰りのバスの中でも皆沈んでいました。作業中一緒に作業していた体育大学の学生が「俺達が来た意味なかったですね」と言ってました』


 これは大震災を体験した若者が書いた、出色の記録文と思う。

 震災の影はチェンソーマンにも落ちている。とくに銃の悪魔によって破壊された街並みや、記号的にずらずら記される死者たちの名前などに震災の影響を感じる。

 震災のとき自分の無力をかみしめた若者がそれから十年もたたないうちにチェンソーマンを描いて世界中を熱狂させ、多くの若者の心に火をつけた。

 これはとてつもない偉業だな、とひさしぶりにチェンソーマンを読んで思った。

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森新児の読書感想文 森新児 @morisinji

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