とわのこと

 忙しさにも効用はあって、まず忙しくしていれば寂しさを感じる暇がない。次に、忙しいほど時間が早く経つ。

 病が癒えた後、私は累さんに頼みこんで旅をし、薬学と疫病の情報を仕入れた。村に戻ってからは、診療の合間に知識の整理と新しい薬の調合を続けた。


「果のこと、近在でも名医だって評判だぞ」

 累さんがそんな声をかけてくれたのは、いをがいなくなって何回目か、数えるのも虚しくなってきた正月だった。

 確かに、村人の伝手だとか、町の薬種商の紹介だとかで、近隣から治療を受けに来る者が増えている。

「私の経験が役に立つならありがたいことです」

 徳利から累さんの猪口に酒を注ぎながら私は答えた。

「本当はいをとこうしたかった、って顔だね」

「さすがにもう忘れましたよ」

「……それなら、手伝いの子を一人周旋しよう」

 断ろうと顔を上げると、累さんの強い視線にぶつかった。そこに感じ取るものがあったから、話を受けようと決めた。


 累さんの連れてきた、とわ、という子の顔を一目見た途端に涙が膨れ上がり、それをごまかすのと次から次へと湧いてくる言葉を抑えてその場をやり過ごすのでいっぱいだった。

 夜が来て枕を二つ並べ、ついでに障子を開け放って海に落ちる月を眺めながら、私はようやく心を落ち着かせた。

「――寝物語をしてくれるかな」

 それだけで万事理解したらしく、とわは、若いというよりはあどけない、しかしその点を除けばいをと瓜二つの笑顔を私にほころばせた。

「人魚、というものをご存じですか」

 枕元でかたり、と音がした。いつの間に持ち出したのか、神棚に上げていた箱がそこにあり、とわは中身を片手につまんでいる。

「人魚は女しかいません。だから、ある期間だけこの目印を持つ人間の男の前に現れ、子を作ります。生涯に一人だけ」

 とわは話の核心から入った。だから私も、一番の疑問を聞いた。

「君や、これまで私と共に過ごした人たちは皆人魚なのか」

 とわは私をじっと見つめた。人魚の鱗が月光を反射して鋭く輝く。

「半分は当たりです。人魚は自分の存在を最小限の人にしか知らせてはなりません。私を知っているのは累さんだけ。あなたのご両親も累さんの指示に従っているだけです。私は累さんと契約し、あなたを貰った。その代わり、できる限り村を災厄から救う」

 さなさんが地震を予知したこと。それに、疫病が来る前に、村に私という医者がいたこと。

 とわは続ける。

「残りの半分は、あなたと一緒にいた人魚の数。人魚は私一人です。とわ、が本当の名前」

 私は息を一つついた。既に感情では納得しているが、大きな疑問は残る。

「いをもさなさんも君だったのか? しかし君はもっと若く見える」

 とわは笑ってうなずいた。

「人魚と人間の違いをもう一つお話ししましょう。それは、人間が過去から未来に生きるのに対して、人魚は未来から過去に生きるということです」

「なんだって⁉︎」

「私にとっての今後のこと、少し累さんに聞いています。私はこれから故郷に戻り、十年近くかけて子供を産む準備に入る。それが終わったら、いをと名乗ってあなたと暮らす。やがて子供を授かるので祝言を上げ、あなたの元を出て故郷で娘を産み、育てる。その後、今度はさなという名で幼いあなたの乳母になる」

 そう説明されても、すぐには飲みこめなかった。認めたいような認めたくないような、不思議な気分だった。

「しかし、君といをとさなと、それほど歳は違わないように見えた。こんなに時間が経っているのに」

「人魚の寿命は人間と同じくらいですけと、成長はゆっくりですし、人間でいう二十歳くらいから見た目の老化も止まります」

 とわは静かに答える。私は黙って考えた。昔からの疑問が、一つずつ消えていった。

 少しして、ぽつりと口から出た。

「どうして今まで言ってくれなかった」

「ごめんなさい」

 とわは深く頭を下げた。

「多分、未来の私は、あなたを私と同じ悲しみに引き入れたくなかったのだと思います。同じ時間を過ごしながら、常に反対の方向へ進んでいることへの悲しみを」

 私は胸を衝かれた。

 いつかいをの言った、自分たちがずっとすれ違っている、という言葉の意味が、その時やっとわかったのだ。

「――そうか。すまなかった」

 私はとわを抱き寄せた。

「君の悲しみを、これまで私は少しも担ってあげることができなかったんだ」

 とわは私の胸の中で首を振る。

「いいんです。あなたが優しすぎるほどに優しいと私は知っている、それで十分。だから」

 二つの瞳が私を捉える。

「私はもう決して、あなたにこの話をしません」

「君が望むならそうしてくれ」

 私はとわをもう一度抱きしめる。

 室内は月の光が青く入って静止したように音もない。


 明日私はまたとわに会い、そのとわは、彼女の経験する明日、すなわち今日、再び私と抱きしめ合う。それは無限に繰り返し、そうであれば私たちの行いは永遠の一部だ。私ととわは真逆を向けて歩き続けるが、その進む道は繰り返しの円環なのだ。

 ならば、と私は思う。私たちはすれ違ってもいつも一緒なのだと。

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人魚の鱗 小此木センウ @KP20k

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