いをのこと
そこからの三年は、私にとって非常に刺激的なものになった。累さんの読ませてくれた書物には、村の生活からは想像も及ばない知識が詰まっていたのだ。私はそんな未知に憧れ、驚き、また戦慄した。
学び進むにつれ、次第に村を出て外を見たいと思うようになったが、さすがにそれはできない相談だともわかっていた。
「見たい、知りたいという気持ちはある意味、食欲なんかよりも根源的なものだ」
自分の煩悶を伝えると、累さんはうなずいてくれた。
「皆が皆でなくとも、誰か一人は村に別の空気を送りこむ者がいないといけないのさ」
そこで言葉を区切って私を見つめる。
「といっても、悪いが今は村を出せない。その代わりここにいながら、果の見聞が広まるようにしてやろう」
累さんの言う「見聞を広める」とはつまり結婚のことだった。おそらく私が相談する前からお膳立ては整っていたのだろう。あっという間に段取りが決まって、気がついたら嫁殿は私の隣にいた。
ここまで来ても私は実に非現実的な気分で、その理由は結婚に至る展開の早さだけではない。
私は自分の妻となった人物の顔をのぞきこんだ。
「――どうしました?」
この人の名は、いを、という。しかし、柔和な視線で私を見返した顔は、記憶に残るさなさんそのものだった。
いをはさなさんの姪だと、後で聞いた。それにしたって、こんなに似ているものだろうか。とはいえ年月を考えると、二人が同一人物であるはずがない。むしろいをの方が、さなさんよりも少し若く見える。
だが、いをにさなさんについて直接尋ねることは、結局一度もなかった。それは禁忌であるように思えたからだ。累さんには聞いてみたが、「親族はよく似たりもする」とはぐらかされるだけだった。
一つだけ、いをは神棚の箱の中身を知っていた。故郷ではそうするのだと毎日水を供えていた。
いをは、私には過ぎた妻だった。本家の一角に新しく家を建てようと言い出したのもいをだ。それに背中を押される形で、私は新宅で医業を始めた。
開業前はかなり不安だったが、やってみれば意外となんとかなるものではある。書物から得た薬の知識で漢方の真似事みたいなのをやり、それが意外と村の人々には好評だった。漁師の村だから怪我も多いが、傷によく効くという海藻を煎じた薬をいをが作ってくれて、それで対処できた。
「私は幸せ者だよ」
結婚して何年目かに、いをに言ったことがある。自宅で、その日は患者も少なく、早くに夕食の支度ができていた。居間の障子を開けば狭い庭の向こうは崖で、その先が海だ。湿気があり海には灰色のもやが立っている。
「そう言ってくれるのはとても嬉しいです。ただ――」
いおは灰色の海原に目を移した。
「――私たちはずっとすれ違っているんです」
「すれ違い?」
私には意味がわからなかった。
「私たちはいつも一緒じゃないか」
「その通り、私たちは一緒にいる。けれど向いている方向は真反対かもしれないですよ」
にわかに不安がつのる。私はいをを抱きしめた。
「そんなことはない」
幸福なことにいをの身体は魔法のように消えたりせず、衣服の手触りの内側に生きている人間の体温を感じ取って私は息を吐く。
その時思いついた。
「こうしていると、確かに私たちは正反対を向いているね」
いをは私の肩にあごを乗せた。
「でもお互いにお互いのことを考えているんだから、それは同じ方を見てるのさ」
「――うまいこと言いましたね」
いをの体が小刻みに揺れる。笑っているらしい。
「私はこの時間がずっと続くことを願うよ」
そうも行かなかった。
さらに数年経ったころ、村に悪疫が流行った。私といをは必死で立ち向かったが何人か死者が出て、そしてようやく患者の数が減り、終息の兆しが見えたと思った時に、私が発病した。
生来の病弱と、治療に忙しくて体力がなくなっていたことから私は死を予期したが、何日か重篤な状態におちいった後で奇跡的に回復した。ありがたいことに家族や累さんや村の人々が代わるがわる看病してくれたそうだ。
しかしその中にいをはいなかった。
いをも発病の気配があったので故郷に帰らせた、と累さんからは聞いた。いをの一族は特別な体質があって、体を悪くした時は故郷の環境でないと治らないのだという。
それなら私もそこに行きたいと頼んだが、固く断られた。いをの一族は、他の場所で生まれた者を決して受け入れないのだと。
私は諦めず、いをの故郷について調べようとしたが、手がかりはまったくなかった。切羽詰まって本家に忍びこみ、手紙の類がないかあさっていて、累さんに見つかった。
「いをの故郷がどこにあるのか、誰にもわからない。私も知らないんだ」
累さんの口ぶりは私をごまかすための嘘とは思えなかった。
私は祝言の日のいをを思い出した。彼女は思い詰めた顔でこう言ったのだ。
「貴方の御子をいただきます」
結局、いおとの間に子は生まれなかった。
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