人魚の鱗
小此木センウ
さなのこと
思い出せる一番古い記憶は、一歳くらいの時だ。その日に本家からやってきた乳母さんにあやしてもらって、いい気持ちでまどろんでいる。
乳母さんは名をさな、と言った。
同じ日、さなさんに抱かれたまま両親と向かい合っている場面が次の記憶だ。両親、特に母は眉をひそめて言葉少なである。もちろん私には何の話かわかるわけがないし、どの程度の時間そうやっていたのかもわからない。
ともかくあるところで決着がついたらしく、私はさなさんから母親に引き渡された。その後でさなさんは懐から薄い木の箱を取り出して母に預けた。
母が箱を受け取るとさなさんは姿勢を正し、深々と頭を下げた。その途端、顔からぽたぽたっと涙が落ち、板敷きの床を黒く濡らす。
もちろんまだ他人の感情など理解できる歳ではない、けれどもその後ずっと、さなさんの涙を私は忘れなかった。
後々考え直してみると、ずいぶんおかしな話ではある。
私の家は網元の本家から遠い分家筋の父と、母は本家で働く漁師の娘だったから、本家があえて乳母さんを寄越してくれる理由がない。そもそも母は産後も健康だった。現に三つ下の弟は、母が自分の乳で育てたのだ。何故さなさんは私のところに来たのだろう。
だが疑問はさておき、病気がちだった私をさなさんは親身に世話してくれ、最初は嫌がっていた両親も次第にさなさんに感謝するようになった。加えてさなさんには異様に勘の鋭いところがあり、一度など津波が来るのを言い当てたことがある。この時はさなさんの話を聞いた本家から高台に避難するよう指示が出たおかげで、村から一人の死者も出さずにすんだ。
最初の日に預かった箱は、神棚に今もまつってある。一度虫干しのついでにとさなさんが開けたのを見た。
扇形をした、真珠色に輝く貝殻のようなものがそこに収められていた。さなさんが箱から取り出して天にかざすと、陽光が半分くらい透けて七色に輝いた。現実離れしたその美しさに息を呑んだのを、ありありと覚えている。
「これは何?」
当時の私は五歳くらいだ。それでも、こんなきれいな貝はないだろうくらいはわかった。
さなさんは穏やかにほほえんだ。さなさんの歳は母より若いくらいだったはずだが、その笑みは、何やら長く連れ添った者同士でかわされる種類のもので、私はなんとなく恥ずかしくなった。
「これは、人魚の鱗」
さなさんは歌うように言った。
「はつるさんの健康と安全の御守り。そして、私がはつるさんを見失わないための目印」
はつる、とは私の名で、『果』と書く。長男なのに変わった名前だが、さなさんは良い名だと言ってくれた。
そんなこんなでさなさんは家族に溶けこみ、そこにいて当たり前の存在になっていった。にもかかわらず、である。
人魚の鱗を見た翌年、さなさんは病気を患ったとかで急に家に来なくなった。両親に見舞いに行こうと言っても、何故か怖い顔で駄目だと告げられた。
幼児期の私であっても、そこに何か非常に不自然、というか理不尽なものを感じた。だが両親はかたくなに口を閉ざし、また稀に我が家を訪う本家の親戚も私には何も語ってくれず、そのまま歳月が過ぎた。
まだ背も小さいころはちょっと変わった子で良かったが、もう少し歳が行ってくると、周りの子たちは皆、漁を手伝うようになる。私は身体の弱いのもあって、そんな力仕事に携わる中では足手まといの感じが強かった。
自分は果たして家業を継ぐことができるのか。そう真剣に悩み始めた頃、私は父に連れられて本家を訪れた。
「果はこっちの方が向くようだ」
客間で私たちと向かい合ったのは、以前我が家に顔を見せていた親戚で、名前はるい、字で書けば累と、この日初めて聞いた。
累さんは傍に置いた数冊の本を片手でこちらに差し出した。受け取ってぱらぱらとめくると医薬についての本だ。
「字は読めるな」
「はい。簡単な読み書きならさなさんから教わりました」
「良かろう。後は私が引き継ぐ」
隣で半分頭を下げるようにしていた父親の体がびくっと震えた。それで私にもわかった。
引き継ぐ、とは読み書きだけの話ではない。私自身の世話が、本家に引き継がれるのだ。それはつまり、私が生家から出ることを意味する。
「弟御が健やかで幸いなことだ」
累さんは父に声をかけた。弟に家を継がせろという意味だ。
父は固く目を閉じたまま、搾り出すように答えた。
「――本家に取るんですな。さなが来た時から覚悟はしておりました」
「えっ?」
思いがけないところでさなさんの名前が出てきたのが私を驚かせた。
「ちょっと待ってください。さなさんと今回の話と何の関係があるんですか?」
立ち上がりそうになった私の背中を父が押さえつけた。
「そう慌てるな。おいおいわかるよ」
累さんはそれだけ言って席を立つ。襖に手をかけたところで振り向いて続けた。
「しばらくものを教えてやろう。それで一人前になったら祝言だ」
間もなく私は本家の離れに引っ越した。
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