これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい

増田朋美

これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい

相変わらず暑い日だった。どこでも暑いという言葉が、聞こえてきそうな暑い時期でもあるけれど、少しずつ日の暮れるのが早くなっており、季節は変わってきているという感じがするのだった。それでは、もうすぐ秋なんだなという実感が湧いてくる季節でもある。

その日、杉ちゃんたちは、いつもどおり製鉄所で水穂さんの世話を焼いていた。

「ほら、今日はカレーだぞ。安心して。ちゃんと米粉のルーでカレー作ったからね。当たる心配はない。しっかり食べてくれよ。」

杉ちゃんが、サイドテーブルにカレーの皿を置いた。

「よし、しっかり食べて、今年も夏を乗り切ろうな。夏は辛いけれど、楽しい季節でもあるんだぜ。夏は、暑いけれど、弾ける季節だ。さ、カレーを食べろ。」

杉ちゃんに言われて、水穂さんは、布団から起きて、カレーを口にした。はじめは、そうしてくれるからいい。二回目も食べてくれるのであるが、それ以降は大変。

「もう、いいです。」

と、いう水穂さん。これからが大変である。なんとかして、カレーを最後まで食べてもらわないといけないからだ。ほら、食べてというが、水穂さんは、どうしてもカレーを食べないのである。アレルギーの問題なのか、それとも飲み込む力が弱いせいなのか、精神的なものなのか、良くわからないけれど、カレーを食べないのである。しまいには、カレーを口にして、咳き込んで吐いてしまうくらいなのだ。

「もう勘弁してよ。カレーくらいちゃんと食べてくれないかなあ。じゃないと、体力つかなくなって、体が持たなくなっちまうよ。それでは、行けないでしょう?」

杉ちゃんに言われて、水穂さんは、咳き込みながら頷いた。それと同時に、インターフォンがない玄関をガラッと開けると音がして、

「こんにちは。右城先生。今日は本当に暑いですね。なんかカレーのにおいがするな。今日の昼ごはんはカレーですか?」

と、浩二くんがそう言いながら入ってきた。

「浩二くん。一体どうしたの?」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい、今日は、見ていただきたい生徒さんが居るので連れてきたんですよ。どうぞ、原口さん。」

と言って、浩二くんは、女性を一人連れてきた。ちょっとおどおどしているような、そんな様子の女性だった。

「お名前をどうぞ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「原口です。原口鮎子と申します。先生のような高名な方にあわせていただくのは初めてで、とても緊張しています。」

彼女は、ちょっと恥ずかしそうに言った。

「で、今日は、どうしてここに来たの?なにかコンクールにでも出るのか?」

杉ちゃんがまたいうと、

「ええ。生まれてはじめてですが、夏に行われるコンクールに出ることが決まりました。なので一度先生に見てもらったほうが、いいと思いまして。」

と、浩二くんが言った。

「はあ、曲は何を弾くんだ?」

杉ちゃんが言うと、

「はい。ラフマニノフの前奏曲、嬰ハ短調です。」

浩二くんがそう言うので、杉ちゃんも、水穂さんもびっくりした。あんな難しい曲を、弾けそうな容姿ではまるで無いので。

「そうかそうか。それでは、嬰ハ短調、弾いてみるんだな。ちょっと、難しい曲だけどやってみてよ。」

杉ちゃんに言われて、原口さんは、ピアノの前に座った。そして、有名な前奏曲を弾き始めた。しかし、結構音が外れているし、指も無理してやっているような感じでしっかりと動いていない。なんだか無理して弾いているような演奏であった。明らかに難しい曲を無理してやっているような感じである。なんだか無理しなくてもいいのになと思うのだが、彼女はどうしてもこれを弾かなきゃ行けないような感じで弾いていた。

弾き終わると、水穂さんだけが拍手をした。

「まあ、そうだねえ。よく努力をしているとは思うが、ちょっと、このラフマニノフの前奏曲を弾くのは、無理があるよ。それよりさ、もっと静かで穏やかな曲をやったらどうだ?どうだろう。なにか、思いつくものはないの?」

杉ちゃんがそう感想を述べると、

「しかしですねえ。コンクールの課題曲は、この曲より簡単なものが無いんですよ。他になにもないから、とりあえず、この前奏曲を選んだまでで、」

と、浩二くんが言った。

「それなら、コンクールを変えればいいじゃないか。もっと難易度の低いコンクールをえらんでさ。同じ時期に行われるコンクールなんて、星の数ほどあるだろう?もうちょっと難易度、下げたほうがいいよ。」

と、杉ちゃんがそういった。

「そんな事言わないでください。彼女は、コンクールに出たいと言って居るんですから、彼女の意思を尊重してやらなくちゃ。負け戦になっちゃうのは、わかってますよ。でも、彼女が、そういうところに出たいって言うんですから、それは、ちゃんとしてやらないとね。」

浩二くんは、原口鮎子さんを弁護するように言った。

「そうですね。コンクールに出るとかそういう事関係なく、もう少し、カリカリしないで穏やかな演奏をしていただけるといいですね。もっと力を抜いて、ピアノに取り組んで見てください。ピアノと言うものは力で抑えるものではありません。力でなんでも弾けるかということは無いんですよ。」

水穂さんが優しく原口さんに言った。原口さんは、水穂さんの顔を見て、

「ありがとうございます。私、どうしてもできなくて悩んでいたんですけど、先生に見てもらえて嬉しかったです。」

と、恥ずかしそうに言った。

「私、どうしてもただの主婦と言われるのが嫌で、それで、コンクールに出ようと思っていたんです。夫は、会社で営業やってるし、子供も学校の成績が良くて大活躍しているのに、なんで私だけ、こんな平凡な人間なんだろうって。」

「それは、誰かに直接言われて馬鹿にされたのか?」

と、杉ちゃんがすぐに言った。

「いえ、直接言われたわけではありませんが、でも、家の中とか、親戚がそうなっているようで。私が、勘違いしているからなのかもしれないですけど。でも、家の人たちは、私の事をただの家政婦みたいな人にしか見ていないみたいで。」

これが、彼女を悩ませている悩みだと杉ちゃんも、浩二くんも思った。

「そうですか。もしかして、あなたは、そういうところから、寂しいのではありませんか?皆自分のことで忙しすぎて、あなたのことを、誰もかまってくれないから、寂しくて、そういうラフマニノフの曲をやろうとしている。でも、ピアノは、虚栄心を満足させようというものではありませんよ。」

水穂さんが優しくそういった。

「もしかしたら、コンクールに出場することによって、私の方を見てほしいと思っているのではないですか?確かに、家の中で見捨てられるというのは、お辛いですよね。僕も、ピアノをずっとやってきましたが、周りの人には、単にピアノを弾いて居るだけしか、見てくれませんでした。本当に、寂しかった。でも、それを続けるしかなくて、本当にもっと孤独になって。ピアノをやるというのは、その悪循環でした。人生とは、見えないなにかを求めてしまうと、結局そうなってしまうものです。」

「水穂さん優しいね。本当は、他人にそうしているんだったら、自分にも優しくなってくれ。少しでも、カレーを食べて栄養を取って、体をよくしようという気持ちになってよ。」

水穂さんの発言にすぐに杉ちゃんが揚げ足を取った。それを聞いた、原口さんは、水穂さんをじっとみた。

「お体がお悪いんですか?カレーを食べられないんですね。なにか事情があるんでしょうけど。大変なことだと思います。」

「はあ、介護経験でもあるの?」

杉ちゃんがすぐに聞くと、

「いえ、もしよろしければ、カレーをなんとかしましょうか?私、子供が幼かった頃、よく熱を出しましてね。それで、おかゆとか、そういうものしか食べれない時期があったんです。それなのに、カレーを食べたいとわがままを言った事がありまして。それで私、カレー味のおかゆをよく作ってました。」

と、原口さんは言った。

「そうやってくれれば、水穂さんも食べてくれるかな?」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ、私、作ってみます。ちょっと食べかけだけど、このカレー、お借りしてもいいですか。今からでもカレーを作り直せます。」

原口さんは、カレーの皿を見た。浩二くんは大丈夫かなと言ったけれど、

「いや、こういうときは、やらせたほうがいい。」

と杉ちゃんに言われて、原口さんはカレーのお皿を持って、台所に言った。

「何だ、出来ることがなにもないと言ってたけど、出来ること、あるじゃないか。」

杉ちゃんがでかい声で言った。

「ええ、そうかも知れませんが、日本では、当たり前過ぎて、あまり高評価では無いかもしれませんね。」

と、浩二くんも言った。水穂さんは、体調が悪いらしく、少し咳をして、返答をしなかった。浩二くんが、もう横になりましょうか?と言って、水穂さんを布団に寝かせた。

30分ほどして、原口さんが戻ってきた。

「はい、カレーができましたよ。こういう柔らかいおかゆであれば、食べれるんじゃないかな?」

お皿に乗っているのは、スープカレーのような感じで、柔らかいご飯も一緒に入っていた。優しそうな感じの料理だった。

「カレーが辛口だったから、めんつゆで少し和らげました。そのほうが優しい味になると思います。」

原口さんは、サイドテーブルにカレーを置いた。水穂さんは、布団に起きようと思ったが、原口さんは寝たままでいいと言った。そして、お匙にカレーを入れて、水穂さんに食べさせる。今度は、辛そうなカレーではなかったのが良かったのだろうか、水穂さんは、静かに食べてくれた。やっぱり、体に負担を感じさせない料理が良かったのだろうか。やっとカレーを食べてくれて、杉ちゃんも浩二くんも安心した顔になった。

「ああ、良かったな。カレーを食べてくれた。これはお前さんのおかげだぜ。お前さんが、カレーを改造してくれたから、水穂さんも食べてくれたんだ。良かった。ありがとう。」

杉ちゃんが、嬉しそうにそう言うと、水穂さんは咳こむこともなく、

「ごちそうさまでした。」

と言った。

「本当は、原口さんは、すごいことをやっているんだと思うんです。だって、奥さんをやって、お母さんをやっていられるのは、原口さんだけじゃないですか。ご主人や、子供さんが優秀だと言いますけど、それを、司るための栄養を作ってあげているのは、原口さんですよ。だから、もっと自分に自信を持っていいのではありませんか?それは、いけないことなんでしょうか。そうやって、自分に自信を持つことは、できませんか?」

水穂さんは布団に寝たままいった。

「でも、当たり前過ぎて、何の評価にもならないと思いますが。」

原口さんがそう言うと、

「ええ、それはわかってます。でも、居場所はちゃんとあると思うんです。主婦であることを馬鹿にされるのが嫌で、難しいコンクールに出場するよりも。」

水穂さんは、にこやかにわらってそういった。


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