第9-6(最終話)

「これは?」


 ホテルの駐車場で、車に乗って待っていた裕二さんに、佐山さんから受け取った手紙を渡した。

 手紙を受け取ると、ハンドルに腕を置きながら裕二さんが中身を見る。瞬く間に裕二さんの顔が驚きの表情へと変わっていった。

 軽く手紙に目を通し終わると、深い溜息とともにいつもの表情に戻る。


「間違いない。あのときの手紙だ」


 昔を思い出すように、しかしどこか心は冷め、裕二さんは呟くように言った。

 怒り。そうとも読み取れる怖い表情であった。怖気おじけづき、僕がただ何も言えずに突っ立っていると、実歩はその裕二さんの発した言葉の意味を冷静に聞き返した。


「どういうこと? あのときの手紙って」

「これは……杏月が亡くなる一週間ほど前に書かれた手紙だ」


 じっと手紙を見つめながら、淡々と裕二さんが語る。


「私が仕事から帰ると、床に就いていた杏月の傍にこの手紙があった。初めは何の紙なのか分からなかったが、折り曲げられていたこの紙を広げてみて、そこで手紙だと分かった。もちろん中身は読んださ。その頃の私は仕事や村、家庭のことで精神的に不安定でね、そこに普段から私が嫌っていた占い師だ」


 裕二さんは手紙を片手で軽く振って、書かれている占い師が自分の嫌いな人物であることを示唆した。


「杏月が朝起きたときに、酷く怒ったこと覚えている。あんなインチキを信じるのか、ってね。杏月は占い師のことを心酔していて、事あるごとに相談していた。夫である私には何も相談しないくせにだ。今考えると、占い師に対して嫉妬のようなものを持っていたのかもしれない。私は手紙を実歩に渡すことを拒否した。必死に生きようとせず、占い師の言いなりになって遺書を書いた杏月にも腹がたった。だからこの手紙は、そのとき私がゴミ箱に捨てたんだ」

「それじゃあ……」


 実歩がその先の言葉を言う前に、裕二さんは被せるように話を続けた。


「杏月が……杏月がまた拾いだしてきたんだろう。杏月から占い師。占い師から孫。そうして手紙は渡ってきた」


 裕二さんは手紙を折りたたむと、車の中から手を伸ばし、実歩に返した。


「今思えば、占い師の予言は当たっていた。杏月は以前から喘息ぜんそくを患っていて、このときも町医者から薬をもらって飲んでいた。私はすぐに直るだろうと高を括っていた。でもそのときは一向に良くならず、そのまま悪化して亡くなってしまった。その後すぐに、なぜか国の連中がやって来て、司法解剖させてくれと頼んできたんだ。喘息で亡くなったんだから、そんなことは必要ないと私は断った。だが冷静に考えると、国の人間がわざわざ小さな村に来て、たった1人の司法解剖を頼んでくるだろうか? きっと何かがある。そう踏んで、私は許可した。しばらくするとまた国の連中がやってきて、司法解剖の結果を説明してくれた。原因は塵肺じんぱいだった。うちの家が一番鉱山に近いだろ? 鉱山と家が地形的に風の通り道が一緒で、鉱山から出る鉱物、金属などの粉塵が家まで飛んできていたそうだ。家事で常に家にいたから、杏月だけが犠牲になった。悔しかったさ。そこに、月引村なんかに住んでいなければ、杏月は死んでいなかったんだ。それからほどなくして国の調査団が月引村に入り、トントン拍子に村の閉鎖とダム化が決まった。全国でも同じように亡くなった方々がいたようで、それで国が乗り出してきたらしい」


 淡々と話していた裕二さんだったが、心なしか寂しそうに見えた。車のエンジンを掛けると、


「杏月に挨拶してから帰るよ。2人もあまり遅くならないように」


 そう言って、ゆっくりとホテルの駐車場を出ていった。


「一緒に乗せてもらって帰った方が、良かったんじゃない?」


 隣で裕二さんの乗った車が出ていった先を、無表情でじっと見やる実歩に僕は言った。


「ううん、いいの。ねぇ、少し話しない?」


 僕たちはこの辺り一帯の景色を見渡せそうな、見晴らしの良い崖上へと移動した。と言っても、ホテルの駐車場の端だが。

 実歩はパイプ柵の上に手を乗せ、目の前に広がる月元駅周辺の森を眺めた。周囲は開け、遮る建造物がなく、風が勢いよく通る。実歩の髪が風の強さに合わせて、上下左右に乱れる。僕も並んで、遠くを見やった。


「アンちゃんが消えるとき、その近くでお母さんを見たような気がした。こっちを見て笑ってた」


 僕は目の前の景色を見たまま、小さく相槌を打った。


「亡くなったときのお母さんは苦しそうな、辛そうな顔だったの。だから、いつも通りのお母さんを見れたような気がして、何だか嬉しかった。うちのお母さんはね、お父さんに対して必ず一歩下がるような人だったの。いい意味で男を立てるのは上手かったわ。どんなときでも、例え自分の身体が悪くても、夜遅くに帰ってきたお父さんのために食事を作ったり、毎日洗濯してアイロンしたり……。私はお母さんのことが大好きだった。でも自分の身体を犠牲にしてまで、お父さんの世話をするお母さんは嫌いだった。見てられなかったし理解できなかった。どうしてもっと自分の身体をねぎらわらないのか、なんでお父さんにはっきりと辛いとを言わないのか。あの日……いつもどおり朝起きて、いつもいるお母さんが台所にいなかったから部屋に行ってみたの。すると部屋の中から、お母さんの名前を呼ぶ声が何度も聞こえたわ。中を覗くと血相変えたお父さんが、お母さんの体を揺さぶってた。その状況を見て、すぐにお母さんが亡くなったんだって分かった。そのとき、お母さんの死が悲しいと同時に、お父さんに対して大きな怒りを感じたわ。あんたがお母さんをゆっくりさせなかったから死んだんだ!ってね。せめて……せめて最後にいつもどおりの表情を見せて……お別れしたかった」


 震える言葉に狼狽えた僕は、彼女の方を見た。彼女の横顔が見える。ちょうど彼女の目から、ゆっくりと一粒の涙が流れるところであった。次第にその流れる回数は多くなり、ついには彼女の目からとめどなく涙が溢れ、頬をつたっては地面に流れ落ちていった。

 気の利いた言葉をかけることもできず、僕はただ突っ立って彼女を見守った。


「私も……まさかお母さんが死ぬなんて思ってもいなかった。だから……身体が辛くても、はっきりとお父さんに言い訳しないお母さんを……私は無視した。それが……とても、辛くって……」


 絞りだすように話すその姿に、彼女の心の声を聞いたような気がした。嗚咽する彼女を優しく抱きしめ、彼女の感情が落ち着くのをそっと静かに待った。

 実歩とは長い付き合いであったが、お母さんとの話を詳しく聞いたのは初めてであった。気にはなっていたが、彼女はお母さんのことで精神的に参ってしまっているのだから、わざわざ僕が思い出したくもない扉を開けることはないだろう。そう思って僕から聞くこともなかった。お母さんとの別れに後悔があってずっと引きずっていることは、はたから見ていて十分に分かっていたので、それ以上の深堀ふかぼりはしなかったのだ。


 涙を手渡したハンカチで拭き取り、落ち着いたところで実歩は話を続けた。


「お布団に入りながら、私を呼び止める声を私は何度も無視した。そのときのお母さんの顔は、とても寂しそうだった。……自分を許せなかった。辛い思いにさせたままお母さんを逝かせた私は、お父さんと一緒なんだって。辛さのあまり何度、自分の命を絶とうと思ったか」

「実歩……」


 衝撃的な言葉を耳にして、思わず彼女の名前を呼ぶ。


「ううん、大丈夫。今はそんな思い一切ないから」


 彼女が僕の方に振り向く。顔を傾け、覗き込むように僕の顔を見ると、にこっと微笑んだ。傾けた彼女の頭から髪が垂れ下がり、さらさらと風に乗って揺れ踊る。

 赤く潤んだ瞳。以前まであった彼女の目に落ちたどこか悲しい影は一切なく、山で湧き出る清水のようにキラキラと、どこまでも澄んでいた。

 僕は息を呑んだ。その輝く瞳に引き込まれそうになった。世界中にあるキレイな物をすべてかき集めたような、そんな魅力をその瞳に僕は感じた。

 そんな彼女の姿に胸打たれた僕は、何も言葉を発することができず、ただ黙って彼女の方を見るだけであった。


「謙輔がいてくれたから……ずっと傍にいてくれたから、今の私がいる。どんなときでも、謙輔は私の心に寄り添ってくれた。だから謙輔が学校に行ってしまって私の傍にいないても、寂しくなく耐えることができた。分かるかな、この感じ」


 話すにつれ、次第に元気を取り戻しているかのようだった。その表情は、以前の明るく無邪気な彼女を思い出させてくれる。普段見せていたツンとした表情は、本来の歳より幾分大人に見えたが、今は19歳よりも幼く見えた。


『いや……2年経過しているから、今は21歳か。ということは……』


 僕には、小さい頃から実歩に秘密にしていたことがあった。実歩のお母さんから頼まれたことで、二十歳になってから『ある物』を渡してほしいとお願いされていた。二十歳はとうに超えてしまったが、僕はそれを彼女に打ち明けることにした。


「実歩、これ」


 家から持ってきた手のひらサイズのケースを、リュックサックの中から取り出すと彼女の前に差し出した。

 実歩がじっとそのケースに目を落とし、いぶかしげに僕の方を見る。何かを疑うかのように慎重に僕の手から受け取ると、そのケースの蓋を開けた。中には白いオパールの指輪が入っていた。


「これは……お母さんの指輪? どうして謙輔が?」

「亡くなる前、お母さんからあずかったんだ。二十歳になった実歩に渡してくれって」


 彼女の手にある、蓋が開いたリングケースから指輪を取ると、僕は彼女の左手を手に取り、薬指にはめてあげた。お母さんの指も細かったのだろう。細い彼女の指に、丁度良くオパールの指輪は収まった。


「ありがとう」

「二十歳になったお祝いだそうだよ。『おめでとう』、そうお母さんは言ってた。あともう1つ……」


 この際だ。あまり言いたくはなかったが、それも実歩のお母さんから依頼されたことであった。お母さんがどれだけ実歩のことを想っていたのか、それを知ってもらうため、僕はもう1つの秘密を打ち明けることにした。


「実は僕がこうして実歩の傍にいるのは、お母さんからのお願いでもあるんだ。無くなる直前、僕を家に呼び入れ、その指輪と同時に『実歩をずっと守ってほしい』とお願いされた。小さくてまだ馬鹿だった僕は、実歩のお母さんが何で僕にそんなこと頼むのか分からなかった。実歩のことは大切な友達だと思っていたし、何より一緒にいて楽しかったからね。それから数日経って、お母さんは亡くなってしまった。そこで初めて僕はその時の言葉が、遺言だったことに気が付いたんだ。僕は実歩のお母さんが言ったとおり、意気消沈して孤立していく実歩に、何度も諦めずに声をかけた……」


 幼い頃の記憶を引っ張り出しながら、僕は話を続ける。


「お母さんは亡くなる直前まで、実歩のことを想っていたよ。自分がいなくなった後の実歩のことを、とても案じていた。お母さんは実歩の冷たい態度なんて気にしていなかったんだ。実歩のことを変わらず最後まで愛していたんだ。そうじゃなきゃ、こんなこと僕にお願いなんかしないよ。信じてみたら? お母さんとの絆を」


 僕の言葉をずっとうつむき加減で聞いていた実歩は、目を鋭くさせ僕のほうを見た。


「そんなこと…。どうしてもっと早く言ってくれなかったの? 私がお母さんのことで悩んでいるのは知っていたでしょ?」


 実歩が訴えかけるように言う。

 小学生だった頃に、お願いされた話だ。はじめは覚えていたが、僕が中学生ぐらいになったあたりから、その記憶は薄らいでいった。そして今の今までずっと忘れていた。おそらく、アンから預かったこの月下美人の花が思い出させてくれたのだろう。

 この花の香りを嗅ぐと、蓋を閉めていたはずの記憶のタンスが次々と開けられ、昔のことを思い出すことができた。


「この月下美人が……思い出させてくれた」


 雑に後ろポケットに突っ込んでいた月下美人を取り出し、実歩の前に出した。


「そう……」


 実歩は小さな声で答えた。僕の手から月下美人の花を抜き取り、香りを嗅ぐ。その光景を見て、僕はもう1つ実歩に言っていなかったことを思い出した。


「そう言えばさ、実歩の誕生日に決まって色々な花が送られてきただろ? あれもお母さんからなんだ」

「あれも?」

「生前にお母さんが『何でも屋』の剣十さんにお願いしたそうなんだ。二十歳の誕生日までってね」

「そっか……それも秘密で。だから剣十さんに聞いても、差出人を教えてくれなかったんだ」

「うん」

「みんな私に秘密ばっかり……何だか悪いわ」


 指にはめたオパールの指輪をクルクルと回しいじりながら、実歩は何かを考えている。手を止め、前方に広がる景色に目をやると、


「そうね……私もそろそろ前に進まないとね」


 と、どこか遠くの方を見やりながら言った。そのあと、大きく背伸びをする。

 僕のほうに振り向くと、いつもの調子の良い雰囲気で、実歩は僕に言い寄った。


「ねぇ、それにしても、私との関係がお母さんからのお願いっていうのが、ちょっとショックだったわ。私を騙してたってことよね。色々話したこと、全部嘘だったということ?」

「あ、いや、違っ。取っ掛かりはそうだったっていうだけで、僕がその……実歩に話したことや、思ったこと、それは嘘じゃないから」

「本当かしら?」

「嘘じゃない! 僕は本当に実歩のことが好っ……」

「なーんてね、分かってる。分かってるってば。あははっ」


 そう言って噴き出すように、実歩は腹を抱えて大笑いした。


「あははっ、謙輔の態度を見れば、それが本心なのかどうかなんてすぐに分かるわよ。お母さんのこと、ずっと黙ってた仕返しよ。恐れいったか」


 頭を少し後ろに倒し、腕を組み、下僕を見るような目つきで、実歩は僕を見下ろした。


「あれ? そういえば背高くなってる?」


 言われて僕も気付く。確かにいつも僕の目線と同じ高さにあった彼女の目が、僕よりちょっと下にある。

 実歩は僕のすぐ近くまで寄ると、自分の頭に手を置いて僕との身長の差を比べ始めた。実歩の手が何度も僕のおでこにトントンとあたる。


「2年経ってるからね。少し大きくなったのかも」

「2年かぁ。取り残されていた分を取り返さないと……ちょっと悔しい」

「いててっ」


 突然、実歩は僕の両頬をぎゅーっと摘まむと、ぐりぐりと回した。何とも意地悪そうな目である。しかし昔の無邪気な実歩が、目の前に戻ってきたような気がして、僕は何だか嬉しかった。


「そろそろ帰ろっか」


 その手は僕の頬をつまんだままである。頬っぺたが伸びて、締まりのない顔を存分に実歩は楽しんでいるのか、ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべている。


「ふん(うん)」


 気が抜けたような返事をすると、実歩は『よし』といって僕の頬から手を離した。

 ホテルの入口に向かって歩き出した実歩の背中を見ながら、何が『よし』なのかと少し考えたが結局何も答えが出ず、諦めて僕も後に続いた。

 自分の顔は見えないけれど、きっと僕のジンジンと痛む頬は紅葉しているに違いない。僕たちのこの先の未来を想えば、何だかワクワクする気持ちになった。


「ねぇ、さっきのことだけど、まずは何から取り返す?」


 痛む頬を撫で、明るく変わりゆく彼女の未来に期待し、想像を膨らませながら、僕は実歩に聞いた。


「そうねー……」


 考える素振りを見せると、すぐに実歩から答えが返ってきた。

 振り向き、じっと僕の顔を見る。そして彼女は言った。


「そんなの決まってるでしょ?」


 振り返った彼女の顔はとても明るく、雨上がりの澄んだ空のようにキレイだった。これまでどんな状況でも2人で乗り越えてきた。これからもそうだ。すべてを思い出せている今だからこそ、僕たちの未来は明るい。そう断言できる。

 月下美人の花を片手に、記憶を維持できるこの僅かな時間を楽しみながら、僕たちは空高くまで声を弾ませた。

 足踏みしていた僕たちの想いは、ようやく歩み出したーー。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月の島のアン 難治タチバナ @nanjitachibana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ