第9-5
茂みの中に謙輔が消えていくーー。
それを確認すると、私は目線を落としアンちゃんの方に向いた。
「どうしたの? アンちゃん、私と話がしたいって」
「謝りたくって……その、ごめんなさい」
アンちゃんがコクっと頭を下げる。
小さな体が頭のサイズとアンバランスだ。背中を軽く押すだけで、勢いよくどこまでもコロコロと転がっていく、そんな気がした。
「どうして謝るの? 助けてくれたのなら、逆に感謝だけど」
「ううん、でも違うの。実歩おねーちゃんを危険な目に合わせてしまったのは、自分のせいなの」
「アンちゃんが?」
「地下に落としちゃって、本当にごめんなさい」
再びアンちゃんが頭を下げる。
「ちょ、ちょっとよく分からないんだけど。説明してくれる?」
幼稚園児ほどの小さな子にどんな非があるのか分からないけれど、倍以上生きている私に向かって謝る姿は、どうしても罪悪感を感じざるを得ない。私は謝る理由をアンちゃんに確認した。
「実はアン……人ではないの。アンともう一人のアンがいて、2人で1つの存在なの。もう1人のアンは……鬼ちゃんって言うんだけど、鬼ちゃんはアンが好きなものは、あの世界、月下島に閉じ込めようとするの。普段は島の地面より深いところで寝ているんだけど、私の好きなものが島から逃げようとすると目を覚まして、島に連れ戻そうとする。物凄い恥ずかしがり屋さんだから、逃げようとすると間接的に嫌がらせをして島に返そうとするの。坑道で水を浴びせられたでしょ? あれが鬼ちゃんの仕業なの、でもそれは鬼ちゃんなりの優しさなの。私を寂しくさせないようにって」
嫌がらせのレベルではないなぁ、と心の中で私は思った。
昨日見た黄色い龍、そしてこの空に浮かぶ大地。これまでの人生で経験したのことのない、小説や映画の中の話ではない現実に、私は今、触れている。そう考えると、目の前で小さな子が話す戯言のような話も、本当のことなのだろうと素直に受け入れることができた。
「ねぇ、私みたいな普通の人は、まだあそこにいるの?」
「いないよ。私の好きな子じゃなかったら、鬼ちゃんも反応しないから。簡単に島から出させてくれる。大概みんな飽きて、数年すると出ていっちゃうの。月下美人の花の力で頭はぼーとしてるはずなのに、楽しいや詰まらないっていう感情はあるみたい。もちろん『黄な粉ちゃん』、あ、ここにいる魂たちのことだけど、あの子らは家族だから連れ戻されちゃうけどね」
「……そうなんだ」
受け入れることができたと言ってみたものの、やはり奇抜な内容に私の頭は追いつくことができない。理解したい、でも理解できない。そんな葛藤の中で、つい適当な相槌を打ってしまう。
「実感ないと思うけど、実歩おねーちゃんも2年間ぐらい月下島にいたんだよ。あそこにいるとね、頭は眠ってしまってるんだけど、体は踊っちゃうの」
「うん、聞いてる。あははっ…」
確かに実感はない。知らないところで自身が勝手に老化していたことに、虚しく笑うしかなかった。でも覚えていないけどーー、
『何だかずっと幸せだった』
そんな気がした。何となく、本当に何となくだけど。
「お母さんと……お話した夢を見たような気がする」
そのとき一瞬だけ、アンちゃんがどこかに向かって、こそっと囁いたような気がした。アンちゃんから目を逸らして話していたので、私の勘違いかもしれない。その証拠に、アンちゃんは何事もなかったかのように話しを続けた。
「あの島にいるとね、人は幸せだった頃の記憶だけを見るようになるの。きっと、そのせいじゃないかな。黄な粉ちゃんもね、良かった頃を思い出すから、その時の姿になるの」
「良い島じゃない」
「え、やっぱりそう思う? でもちょっとつまんないだよねー」
嬉しそうに言ったかと思えば、すぐに難しそうな表情に変わる。山の天気のようにコロコロと変化するその表情は、どんなにつまらない遊園地でも、アンちゃんが一緒にいればきっと退屈させないだろう。
「黄な粉ちゃんは、元々近くの月引村にいた人たちの魂なんだけど、島の外に出ると本来の黄色い体の姿になっちゃうの。黄色くて少し粉っぽいから、そう呼んでるんだけど。黄な粉ちゃんってさ、何にも話さないの。しゃべり掛けてもずっと踊るだけ。だからこっちはすごく暇なんだ」
『あの島に1人か』
私1人であの島にいることを想像すると、アンちゃんがとても不憫に思えてきた。私の場合、ここよりさらに狭い家の中だけど、たまに謙輔が来てくれて気を紛らわせてくれる。その気になれば、街に出て気晴らしだってできる。だけど、この子は……。
「アンちゃんは、これからもずっとここにいるの?」
「ううん。人が言うあの世ってところに行くよ。そこでいっぱい勉強して、もう一度、島づくりにリベンジするんだ」
すると突然、アンちゃんの身体から湯気のようなものが、ゆらゆらと上り始めた。同時に、何処となく彼女の体が薄く透けているような気がする。
「え、アンちゃん? 身体……」
「あ、そろそろ時間みたい。さっき言ったでしょ。鬼ちゃんは私の一部。退治しちゃったから、私もこの世に存在できなくなるの」
そう言って、凝り固まった筋肉をほぐすかのように、アンちゃんは大きく背伸びした。するとその後、彼女の体が宙にふわりと浮く。その光景を見て、やはりアンちゃんは人間ではないのだと理解した。
「さてと、そろそろ行くね。あと最後に1つ。実歩おねーちゃんのお母さんからの預かり物を、月島ホテルの佐山って男が持っているよ。訪ねてみて」
「お母さんから?」
「はい、これ。特製の花」
アンちゃんが一輪の月下美人を私に手渡してくれた。
「この花の香りが、しばらく記憶を維持してくれるよ。ただ私が消えちゃうから、花の命もあまり長く持たない。だからなるべく早く行ってね。それじゃあ」
アンちゃんが、ゆっくりと空に向かって上がっていく。その時、彼女の赤い服のポケットから、見覚えのある人形が顔を出しているのがちらりと見えた。
「あれ? アンちゃん、その人形!」
「あ、これ実歩おねーちゃんの? 落ちてたから拾ったんだけど、もらっていい?」
昨日の朝、出発のバスを待っているとき月下ホテルの土産物屋で、私に似ているからと購入した人形だ。たしかリュックサックに取り付けていたはずだけど、何かの拍子で取れてしまったのだろう。
「もちろん!」
「良かった! これ見て実歩おねーちゃんの事、思い出すから! ずっと忘れないから!」
ずんずんとアンちゃんが空高く上がっていく。
「おねーちゃーん! 楽しかったよー! バイバーイ!」
アンちゃんがこれでもかというぐらい大きな、そして元気な声で叫ぶ。
私も負けずに大きく両手を振って応えた。
『ふふっ、良い子だったなぁ、実歩おねーちゃん。でも本当に挨拶しなくて良かったの? ずっと待ってたんでしょ?』
空高く上ったアンちゃんの身体が、一瞬強く輝く。次の瞬間、ガラス細工を床に落としてしまったかのように、輝いた身体は弾け、青い大空の中に消えていった。ガラスの破片のようなキラキラ輝く中に、一瞬、お母さんの姿を見たような気がした。
「お母さん……」
「アンは
いつの間にか謙輔が横に立っていた。名残惜しそうに彼の目は、空に向けられている。私も釣られて、空を見上げる。
アンちゃんはもうこの世界にはいない。きっとあの世で彼女は色々勉強して、またいつの日か、島を作りに戻って来るのだろう。私たちはいつまでも、彼女がいなくなった空を見つづけた。
空高く浮いていた大地は、アンが消えた後、徐々に降下し、何事もなかったかのようにぴったりと元あった場所に戻った。
謙輔と実歩は付近で立ち尽くしていた裕二を捕まえると、車に乗ってアンに言われたとおり月下ホテルの佐山に会いに行った。
「おぉ、あんたらまた来てくれたのか。2年ぶりだな」
久しぶりに会った謙輔たちに興奮した佐山は、2年前の出会ったときの話に花を咲かせた。その途中、ホテル従業員の瞳が、外に警察が来ていることを佐山に告げた。
「警察? 何だったかな。呼んだ気もするが、はて……」
ホテル前に警察がいることを玄関のガラス越しに目視した佐山は、『ちょっと待ってて』と一言いうと対応に向かった。しばらくすると警察官はパトカーに乗ってどこかへ去り、佐山は何食わぬ顔で、謙輔たちのところへ戻ってきた。
「いやぁ、警察も何でここに呼ばれたのか覚えていないみたいで、分からず帰っていったよ。そんなこともあるもんなんだな。あっはっは」
佐山はガハガハと相変わらず熊のような迫力で豪快に笑った。
謙輔と実歩はここへ来る途中、裕二の振舞いから自分たち以外の人間は月下島のことなど、とうに記憶にないことをうすうす感づいていた。佐山も同じで、記憶からきれいさっぱり無くなっているのだろう、と2人は察した。
佐山との昔話を適当なところで終え、2人は本題を切り出した。何のことか始めはポカーンと聞いていた佐山だったが、実歩の『長門』という苗字を聞くと顔色を変え『あー!』と声を上げた。すぐさま事務室へと行くと、手に何かを持って戻ってきた。
「まさかこんな日が来るとはな。そうか、おじょーちゃんの顔どこかで見たことあると思ったら、
佐山の手から渡されたもの。それは小さな封筒であった。
「うちのばぁちゃんから、もう10年以上も前に預かったもんだよ。いつか娘さんが訪ねてくるから渡してくれって。ずっとそんな人は現れないと思いながら金庫にしまっていたんだが、まさかなぁ」
「開けていいですか?」
「おじょーちゃんのものなんだから、好きにしたらいいさ」
封筒を開けると、中には3つ折りにされたA4サイズの紙が入っていた。紙を取り出し、広げてみる。実歩のお母さんからの手紙であった。
実歩へ
突然のお手紙、さぞかしびっくりしたでしょう。
親というのはどんなときでも子供のことが心配なもので、未来のあなたのことが気になったのでこうして手紙を書くことにしました。これを見る頃には、随分大きくなっていることでしょうね。中学生、高校生、それとも社会人になっているでしょうか。それにお仕事やお付き合いする人、色々とあなたの未来の事を考えると話は尽きません。実際に、あなたの成長を見られないのは本当に残念です。
この手紙を書いている理由は、占い師のおばあちゃんから将来あなたが私のことで悩んでいると聞いたからです。そして同時にこの先、私の命が短いことも聞きました。おばあちゃんの占いは、これまで村の危機を何度も救ってくれていて、本当によく当たっています。ただ今回ばかりは外してほしいと願っていますが、そうはいかないでしょう。今、私の横で6歳のあなたが安らかに寝ています。この
おばあちゃんから話を聞いた後、隠れながら毎日のように泣きました。でもその度に、あなたの寝顔に励まされ、明日生きる勇気をもらいました。人を育てるというのは大変だけど、あなたを生むことができて本当に良かった。本当にあなたがいてくれて良かった。あなたと一緒に生きることができて、毎日が幸せでした。あなたへの感謝は、この手紙ではとても語り尽くすことはできません。実歩、生まれてきてくれて本当にありがとう。
まだまだあなたと一緒にやりたいことはあったのだけれど、それは私の夢として天国まで持って帰ろうと思います。
最後に、最近は反抗期だからか、私の言うことを全然聞いてくれませんね? 帰ってきてからの手洗い、お片付け、ご飯中の姿勢、色々あります。どうしてお母さんの言うことを聞いてもらえないのか、色々悩みます。目も合わさなくなりましたね。お母さんのことが嫌いになったのでしょうか? でもあなたがどれだけ私のことを嫌いになろうとも、残りの日々も変わらず、あなたのことをずっと大切に思っています。あなたを鬱陶しく思ったり、恨むことも、嫌いになることも一度も思ったことはありません。今のあなたの心を
愛しているわ、実歩。
長門
「お母さん……」
読み終えると、実歩は目を閉じ、その手紙を優しく抱きしめた。悲しい表情ではない。憑き物でも取れたかのように、それまで意地を張っていたような堅い表情は緩み、以前の優しさを取り戻していた。
謙輔の手に持たれた月下美人の花が、彼女の目に入る。
母が好きだった月下美人の花ーー。
ほんのり届くその香りが、彼女が月下島で過ごした時に見た夢の一部を蘇らせる。2年という長い月日。しかしその中で思い出した夢は、ほんの僅かであった。実歩はその夢の中で母を見た。
ーー何度も謝る私に向って優しく微笑む、お母さん。
1枚の写真のように、実歩の脳裏にそれだけが思い出された。そしてたった一言だけ、謝る自身に向って母が言った言葉を思い出した。
あなたの人生を生きてーー、と。
(次回、最終話)
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