第9-4


「謙輔っ!」


 自分を呼ぶ声に気付き、僕はゆっくりと振り返った。


「……おはよう」


 背の高い茂みの中から、顔をひょっこりと出す実歩。そのコミカルな絵面とは反対に、彼女の顔は酷く涙で濡れ、今にも泣きだしそうな表情をしていた。いや、今の今まで泣いていたのかもしれないが……。

 ついさっき僕が目覚めたときは、すぐ隣で健やかに寝息を立てていた。一体何が彼女をこんな状態にさせたのだろうか。またお母さんの悪夢を見て、うなされてしまったのだろうか?

 幽霊でも見つけたかのような驚いた表情をしながら、彼女が僕の足のつま先から頭までぐるりと眺める。


「ねぇ、傷は? 大丈夫なの?」


 感情的に声を荒げて、僕の身体を心配する。彼女の瞳には、不安、不審、不可解、そんな言葉が映り込んでいた。なぜ平然と立っていられるの? そんなことを同時に聞かれているような気がした。

 あろうことかこんな状況で僕は突然、一芝居ひとしばい打つことを思いついた。テレビでやるようなドッキリを仕掛けて、ネタ晴らしをしたら、きっと彼女は笑顔になってくれるだろう。そんな安易な発想だった。

 『ハッ』と何かを思い出す素振り。ゆっくりとそして恐る恐る、僕は血が滲んだ服の上から傷の箇所をまさぐった。


「うっっ!」


 顔をしかめる。出来るだけ痛そうな表情を作る。少し前かがみとなって、傷口を抑える。


「謙輔っ!」


 彼女は慌てて茂みの中から飛び出し、僕のところに駆け寄ってきた。

 もういいだろう。僕はすぐに体勢を戻し、


「なーんてね。よく分からないけど傷は治ったみたい」


 傷なんかへっちゃらだ、なんて表情を作ってネタ晴らしをした。

 深刻な形相ぎょうそうをしていた彼女の気持ちを落ち着かせようと、普段しない冗談をやってみせ、笑わせようとした。安心させようと思った。だがそれが逆効果であることを、僕は身をもって知ることになった。

 僕の冗談でいつもの実歩の表情に戻ることもなく、彼女の右腕がゆらっと動くと、そのまま僕の頬をめがけて平手打ちが飛んできた。その勢いで僕の顔が、大きく横に振れる。


「バカッ!」


 怒りの感情を含んだ声で、彼女は僕を非難した。その言葉は短いけれど、充分に鋭くて痛くて、楽観的だった僕の心をどん底まで叩き落した。普段でも、ここまで怒りを露わにした彼女を見たことがない。

 震える瞳。僕を卑下するかのような、強いまなざしーー。

 逃げ場のない僕は、たじろいだ。

 これまで彼女の家に行ったとき、運悪くご機嫌斜めのときは何度かあった。しかしそれは理性でコントロールされた怒りの話で、話す間、言葉、仕草、すべてが彼女の頭で整理され、適度な表現となって僕に届く。言わば、僕の許容範囲内で彼女は怒りをぶつけてきた。

 しかし制御できない、本能的な怒りというのは、そんな相手を思いやるリミットは一切ない。感情的な思いは限度無く吐き出され、相手が完全に白旗を上げるまで罵倒するのだ。

 今、目の前にいる彼女は、まだ一言しか発していない。しかしその目、その言葉に、彼女の最大限の怒りの感情が含まれていることを、僕は感じ取った。そして自分の行為が、間違いであったことを気付いた。彼女の目は赤く充血し、潤んだその瞳から今にも涙が溢れそうであった。


「本当にバカッ!」

「ごめん……笑ってくれるかなと思って……」

「何が面白いのよ! 人に心配かける真似して!」


 僕はただひたすらに謝った。

 外は静かで、僕の声以外の音は何も聞こえない。ただときどき吹く風が僕の耳元を通り、風切り音を残していく。


『何をやってるんだろうか、僕は』


 冷たい風が、僕に冷静さを運んできてくれる。実歩が見つかり、僕の月引村に対する執着心のようなものが完全に消え去った。僕の心残りは、もうなくなっていたのだ。そのせいかもしれない。無意識に調子に乗って、浮ついた気分になっていたのだ。

 何度目の謝罪か分からないが、つい視線を彼女から外し、彼女の足元に目を移したときだった。彼女は僕に近寄り、腰に両腕を軽く回すと、僕の胸に自分のおでこをトンっと乗せた。そして消えそうなほど儚い声で彼女は呟いた。


「心配……したんだから。本当に……ごめんなさい」

 

 なぜ僕が謝られているのか分からなかった。バカな真似をしたのは、僕の方だというのに。

 顔を傾けて、彼女の横顔を上から見下ろすと、彼女の目から大きな涙が、ポロポロと流れ落ちていた。静かに、でも激しく。まるで僕に悟られないように。その涙は、お母さんのことで流す彼女の姿とそっくりであった。僕のことで、だいぶ心配をかけてしまったのかもしれない。僕の怪我のことで、責任を感じているのかもしれない。さっき出会ったとき既に流していた涙は、物事を色々と考えすぎてしまう彼女の事だから、きっとこの短い区間で色々と考えて、苦しみながら僕の元に辿り着いたのだろう。

『いいよ』、『気にしないで』、『大丈夫』。

 相手を許すためにかける言葉なんてものは、いくらでもあるが、ずっとお母さんのことで悩んできた彼女を見てきた僕は知っていた。あやふやな言葉ではなく、はっきりとした言葉で許しを得たいことを。僕は彼女の背中に腕を回し、軽く抱き締め、囁いた。


「許すよ」


 お堅い言葉。本来なら、お母さんからこの言葉を聞きたかったことだろう。でもこれが彼女の望む言葉なのだ。

 少しすると僕の腕の中から、すっと彼女は抜け出した。ポケットの中からハンカチを取り出し、顔を拭くと、振り向いた彼女の表情はに戻っていた。潤んだ瞳に、少しでも元気に見せようと背伸びした笑み。守ってあげたい。そんな思いが湧き起こり、僕の心は、ぎゅうっと締め付けられた。

  

 怪我のことが気掛かりなようなので、僕は服をめくり上げ、その患部を見せてやった。完治しているわけではないので、さっき彼女の腕が横腹に軽く当たっただけでも、傷の箇所はずきずきと痛んだ。しかし僕は何も言わなかった。彼女にこれ以上、余計な心配をかけさせたくなかった。愚かな行為に、僕は深く反省していたからだ。

 肌には血が付いてはいるものの、傷口はたしかに塞がっている。しかし肌の色に混じって傷口の部分だけ、やけに黄色い。傷はアンが癒してくれた。

 アンの説明によると、僕の体の損傷している箇所に『黄な粉ちゃん』が薄い膜となって張り付いてくれているそうだ。だから見かけ上、肌や臓器(は見えないが)の傷口は塞がっていて何ら問題ないが、直っているわけではないので痛みはある、とのことだ。

『黄な粉ちゃん』は現世に生まれる前に、魂たちが一度、訪れる箱のようなものだと言う。つまり一体一体に何千、何万個という新しい魂が、先人たちの魂と一緒になって宿っているんだそうだ。そこで先人たちの知識を少し得てから、各母体へと飛んでいき、そして生まれる。全国各地にこのような『黄な粉ちゃん』が点々としているようだ。

 そんな存在であるが故、生命力パワーと言ったらいいのか、それが僕の傷の治癒スピードを速めてくれた。みるみると傷口が塞がり、自分の肌に置き換わっていく。完治するのも時間の問題だ。僕の体内から流れ出た血液も、あの閉じ込められた空間に残っていた分だけであるが、ろ過して僕の体内に戻してくれたそうだ。

 『黄な粉ちゃん』は本当に何でもできる。アンが自慢げに話しするのも無理ないだろう。実歩も頭を怪我をしたのか、僕ほどではないにしろ、黄色い肌が垂れる前髪の奥にかすかに見えた。


「ほら見て」


 気持ちが落ち着いた彼女に、僕は背後にある景色を披露した。

 ずっと僕のせいで、不安やら怒りで周囲の景色がまったく目に入っていなかったのだろう。目の前に広がる壮大な景色を目の当たりにして、彼女がようやく驚く素振りを見せた。


「え、なにこれ……浮いているの?」


 切り立った崖のようになっている地面の端から、彼女は恐る恐る地上を見下ろす。僕も一緒に眺める。空に浮かぶ大地の影が、小さくなって地上に落ちている。


「太陽の光が当たると見えないらしいけど、この大地の底に今も何体もの龍がいて、持ち上げてるんだって」

「龍が? ……あっ」


 何かを思い出したように、彼女が小さく感動詞を発する。龍をどこかで見たことがあるのだろうか? 

 そのとき、後ろの茂みに人の気配を感じた僕は、おそらくその子であろう人物に向って、わざと聞こえるように大きな声でこれまでの災難に対して文句を言ってやった。


「それにしても、あーあ、本当にアンのせいで死にかけたよ」


 僕がそう言うと、すぐに不服そうな態度でアンが茂みの中から出てきた。


「失礼ね! あんたたちを地下深くから救い出して、傷を直してあげたのは私なのよっ! 私が黄な粉ちゃんに命令したから助かったのっ! 感謝しなさいよ!」


 プンスカとアンが怒り狂う。


「でももとを正せば、アンがあんな世界を作ったからなんだろ?」

「くぅぅ! あんた、さっきから可愛くないのよ!」


 悔しそうにアンが地団駄を踏む。

 僕とアンの掛け合いに、何だか置いてけぼりをくらったかのように、実歩があっけらかんとしている。


「実歩が目を覚ます前、アンと暫く話をしたんだ。色々話をしたよ。今じゃ、すっかりだよ。ね?」


 アンに同意を求めたが、まだ怒りが収まっていないのか『フン!』と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 ちょっとマズかっただろうか。思わず僕は実歩と顔を見合わせ、表情を歪めて見せた。

 悪ふざけが過ぎてしまったかもしれないので、とりあえず僕はアンに対して一度詫びを入れた。そして、その場から離れようとした。


「謙輔? どこいくの?」

「席を外すだけだよ。アンが実歩と話をしたいんだって」

「え、私と?」


 どんなことをアンが話すのか僕は知らない。ただこれがアンにとって、僕たちと話をするのは最後の機会になるだろう。

 僕はアンに軽く微笑むと、2人の邪魔にならないよう、その場を後にした。

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