灰色の町で雨の季節に

夢月七海

灰色の町で雨の季節に


 お仕事を終えて帰る途中、むずむずするなぁと思って顔を洗っていたら、雨が降り出した。ぽつんとぼくの黒い鼻に雫が付いたと思ったら、あっという間にざあざあと、石畳が真っ黒に濡れていった。

 肩下げ鞄を傘代わりに、ぼくは水たまりを蹴飛ばしながら走り出す。もう随分濡れてしまったけれど、家まで距離があるから、どっかで雨宿りがしたい。路地を抜けたところの家のひさしに潜り込む。


 街の空はいつも灰色で、雨が降るかどうかは一種の賭けみたいなところがある。でも、そろそろ雨の季節が近かったから、傘を持っていくべきだったかもしれないなぁと、髪の毛の雫を払う。

 とはいえ、こんな急に降るなんて。空を睨んで、文句ぐらい言いたくなる。


「もう。こんな雨を降らすのは誰?」

『ごめんなさいね。でも、草木のことを想ったら、そろそろ降らさないとって』


 ただの独り言だったのに、誰かの声が急に聞こえて、ぼくは全部の毛を逆立てて、大きく飛び上がった。鞄の紐をぎゅっと握って、きょろきょろ見回してみるけれど、ぼく以外には誰もいない。

 ただ、この庇のすぐ外には、高い台座の上に、天使の像が立っている。背中の羽を真っ直ぐに伸ばして、少しだけ前かがみになって、目元と口元に温かな微笑を浮かべている人間のお姉さんの石像だ。ぼくは、祈るように両手を組んだその天使さんを、じっと見上げた。


「もしかして……天使さんが喋った?」

『ええ。そうよ』


 また、天使さんが答えてくれて、ぼくは驚きのあまり、尻尾がピンとなった。だけど、天使さんの口は全く動いていなくて、今の声も、ぼくの心の中で響いたようだった。

 雨に打たれているこの天使の像は、ぼくが物心がつく頃からここに置いてある。何度かこの前を通ったことがあるけれど、こんなことは初めてだった。


「ぼく、天使さんの声、初めて聞いてよ」

『誰もが通り過ぎていくような場所だから。ちゃんと聞いてくれたのは、坊やが最初ね』


 そう言われると、照れくさくてむずむずしてしまう。後ろ髪をガシガシしながら、それを誤魔化すように、天使さんと話を続けた。


「ねえ、天使さんはどうやって雨を降らせているの?」

『唄を歌っているわ。みんなには聞こえないような声だけどね』

「すごいなぁ」


 感動の気持ちで、天使さんを見上げていると、彼女がずっと雨に濡れていることに気付いた。天使さんの上には、庇も何もないから、しょうがない事だった。


「天使さんは濡れちゃっているけれど、大丈夫なの?」

『心配してくれて、ありがとう。でも、平気よ。自分よりも弱いものを助けるのが、私の役目だから』


 天使さんは優しく言ってくれた。嘘じゃなさそうなので、ぼくもほっとする。しかし、天使さんは『ああ、けど……』と小さな声で呟いた。


『傘を持っていない坊やは、帰れないままね。教会の鐘が鳴るまで、雨を止めましょう』

「ほんとに!」


 『ふふふ』と笑うと、天使さんは急に黙り込んでしまった。きっと、この瞬間に、天使さんは空に歌ってくれているのだろう。

 雨脚がだんだん弱まっていくと、ピタリとやんだ。灰色の中でも、濡れた町は僅かな光で、きらりきらりと輝く。


「天使さん、ありがとう!」

『いいえ。気を付けてお帰り』

「うん!」


 笑顔で天使さんに手を振って、ぼくはおうちに向かって走り出した。バシャバシャと、路面の水が跳ねる音も、楽しく聞こえる。

 今日はいい日になった。雨が降ってきた時は、びっくりしたけれど、それが嬉しいことに変わった。また、天使さんと、お話しできるかな。






   ■






「天使さん、こんにちは!」

『こんにちは。坊やは、いつも元気ね』


 今日も雨が降っている。この前の突然の雨を合図に、町は雨の季節に入ったようだった。

 傘を差して、家に帰る途中、僕は天使さんの所に立ち寄るのが、日課になっていた。


『坊やは……お仕事をしているの?』

「うん。そうだよ」


 天使さんの隣の庇に入って、傘を畳んでいると、天使さんがちょっとためらいがちにそう訊いてきた。ぼくは、その理由がよく分からないけれど、正直に答える。


『……坊やくらいの子は、学校に行っているんじゃないの?』

「ぼくは行っていないよ。ちょっと貧乏なんだ」


 えへへとぼくは笑った。お父さんの稼ぎだけでは足りないし、うちには弟もいるので、僕も働かなくてはいけない。

 そのことについて、ぼくは別に何とも思っていなかった。この街で、獣人の子供が学校に行かずに働いているのは、珍しくないからだ。


『坊やのお仕事はなあに?』

「煙突掃除。あとは、お庭の草刈りとか、ペンキ塗りとか、お願いされた家に行って、やってるんだ」

『今日みたいに雨が降っていたら、お仕事できないね?』

「そうなんだよ。ショーバイアガッタリだよ」


 お父さんの口癖を真似して、肩を竦める。ただ実際に、仕事が少なくなってしまうから、暇になってしまう。


「だから、詰め所で道具の整備をしながら、待ってるだけなんだ」

『本を読むのは? この時に勉強してみたら?』

「うーん。やりたいけれど、本を持っていないから……」

『図書館に行くのはどうかしら? 誰でも入れるはずよね?』

「……図書館かぁ」


 ぼくは、苦々しい気持ちと一緒に、そう呟いた。一度だけ図書館に行った時、人間の利用者から、じろじろと遠慮ない視線を送られたのを思い出したからだった。


「ぼくみたいな猫獣人には、通いにくい場所なんだよね。場違いな気がして、怖くなるんだ」

『そうなのね……』


 悲しみを噛みしめるように、天使さんは言った。どうしてそんな、申し訳なさそうな声をしているのかも、ぼくには分らなかった。

 だけど、天使さんはすぐに、『じゃあ、坊や』と明るい声を出した。


『私が、坊やに元気が出る唄を教えてあげる』

「唄?」

『そう。これを心の中で歌っている間は、誰の目線も気にならないわ』

「すごい! 教えて、教えて!」


 はしゃぐぼくに、天使さんが歌ってくれたのは、初めて聴く言葉の唄だった。どこまでも続く一本道を、力強く歩いていけるような、雄大な気持ちになれる。

 天使さんに続いて、ぼくも唄を繰り返した。聞いたことの無くても、その言葉はとても覚えやすくて、旋律も単純だから、すぐに真似できた。


『坊や、とっても上手よ』

「えへへ。ありがとう天使さん。今度、この唄を歌って、図書館へ行ってみるよ」

『応援してるわ』


 天使さんは、優しい声で笑う。石で出来た顔の表情は全く変わらなくても、天使さんが今どんな気持ちなのかは、声で分かるようになってきていた。

 僕は、全身を撫でられたようなくすぐったい気持ちになって、傘を差すと、「またね!」と天使さんに手を振って、走り出した。もちろん、先程教えてもらったばかりの歌を口ずさんで。






   ■






 雨の季節は、まだ続く。天使さんは、もうちょっとで終わると言っていたけれど、ぼくはずっと太陽が懐かしい。

 最近は、図書館に通うようになって、ぼくの世界も広がっている。心の中で歌っていたら、意地悪い人の目なんて、全く気にならなかった。


「それでね、この前は街の歴史について調べたんだ」

『そうなのね』


 天使さんに自分が学んだことを教えていると、天使さんのことが気になってきた。


「天使さんは、いつからここに立っているの?」

『もう……二百年以上経つわね』

「二百年!」


 しみじみと天使さんが呟いた一言が信じられなくて、ぼくはオウム返ししてしまった。僕たちは、大体六十年くらいしか生きられないから、二百年という歴史を想像できない。


「二百年前と今、どう変わった?」

『町の様子は、大きく様変わりしたわ。でも、人の心は、まだまだ変わらないの』


 苦笑した天使さんの言葉の意味を、ぼくは何となく分かるような気がした。

 同じ町で暮らしているのに、獣人と人間が別のベンチに座ったり、獣人専用の馬車が走っていたりと、そういうことは、昔からずっと繰り返されていたことなんだろう。ぼくのお父さんも、十分な収入の仕事ができなくても、それは仕方ないことと諦めてしまっている。


「……町の歴史書には載っていなかったけれど、小さい頃に、大きな鳥の伝説は聞いたことがあるよ」

『大きな鳥の伝説って?』

「昔、獣人たちが、人間に知られないように、隠れて暮らしていた時に、空を覆い尽くさんばかりの巨大な黒い鳥が現れた。その鳥の真っ赤な瞳に見つめられると、人間たちは、獣人たちが昔からここにいたものだと、勘違いしていまったんだって」

『……そんな話があるのね』

「うん。寝る前に、お母さんが聞かせてくれたんだ。その大きな鳥も、天使さんの仲間だったのかな?」

『さあ、どうかしらね?』


 天使さんはからかうように言うだけだった。

 ぼくは、空を見上げる。今日も灰色の空は、休むことを忘れたかのように、雨を落とし続ける。


「また、大きな鳥が来て、町が変わってくれないかな?」

『坊や。そう祈る前に、やれることはたくさんあるわ』


 窘めるように天使さんが言ってくれたけれど、その「やれること」が何なのかが分からなくて、ぼくは首を傾げる。

 尋ねようと思ったら、教会の鐘が鳴り響いた。お母さんが心配する前に、天使さんに挨拶をして、家路についた。






   ■






 詰所から、天使さんのいる所の間には、細い脇道がたくさんある。そこはとても危険だから、下を向いて、見ないようにしながら通り過ぎていくのがいつものことだった。

 だけど、今日は、顔を隠すように前に傾けた傘の向こうから「いや」という子供の声が聞こえた。はっと、顔を横に向ける。脇道の奥の暗がりで、複数の人影が動いていた。


 ぼくは怖かった。でも、誰かが助けを求めているというようにも感じた。傘を閉じて、濡れてしまいながら、脇道に足を踏み入れていく。勇気を出そうと、天使さんに教えてもらった唄を口ずさんだ。

 脇道の真ん中くらいで、犬獣人の、ぼくより幼い女の子が、三人の人間の青年に囲まれていた。泣き出しそうな女の子の髪を、青年の一人が引っ張っている。


「や、やめろ……」


 震えながらも、声を出せた。しかし、青年たちが一斉に僕を見てきたので、足が竦んでしまいそうになる。そんな中で、女の子が、安心したように顔を上げたのが見えた。


「何だ、このチビ」

「い、嫌がって、いるよ。やめてあげなよ」

「ふん。ご立派なことを言ってるな」


 一人の青年が、にやにやしながら、傘を持つぼくの手を握ってきた。そのまま、腕を上げる。

 乱暴される。そう思った瞬間、体が勝手に動いていた。捕まっていない方の手から爪を出し、青年の手を引っ掻いていた。


「……あ」

「っ、テメェ!」


 青年の手から、血が飛び散って、ぼくは我に返った。傷つけられた青年は激昂し、後ろで笑っていた仲間も目の色を変える。

 その隙に、女の子は脇道の反対側に逃げ出していた。ぼくは、良かったと思いつつ、力が緩んだ青年の拘束を振り払って、元来た道を走り出した。


 「待て」「逃げんな」――そんな声が、ぼくに届く。心の中で、勇気の出る唄を叫びながら、ぼくはともかく走る。

 天使さんは、雨を降らせた日に言っていた。「自分よりも弱いものを助けるのが、私の役目だから」と。ぼくも、弱いものを守りたくなって、あんなことをしたんだろう。


 だけど、あの女の子から離れると、やっぱり怖い。すぐ後ろ迫ってくる、水を跳ね飛ばしながら走る音によって、勇気が出る唄も効果を失っていた。

 持っていた傘が、足に当たって、ぼくは転んだ。ばしゃっと、水たまりの上に倒れ込む。体中が痛い……と思う間もなく、追いついた青年に、脇腹を蹴られた。


 ぼくの体も、肩掛け鞄も、滅茶苦茶に蹴られていた。痛くて、怖くて、縮こまっていることしか出来ない。このまま、死んじゃうかと思った。

 青年たちは、口々に何かを叫んでいた。それを聞き取り余裕もない。音は、どっか遠くに置き忘れたかのようで……だから、不思議な唄にも気付かなかった。


 いつの間にか、蹴られなくなっていて、代わりに聞き覚えのある声が知らない唄を歌っているのにはっとした。ぼくは顔を上げた。弱くなり出した雨脚の中、石の姿ではなくなっていた天使さんが、真っ白な羽を広げて、歌っていた。

 周りを見ると、青年たちは天使さんの唄に聞き惚れているようだった。その内の一人が、「これくらいにしといてやる」と呟くと、彼らはくるりと後ろを向いて、歩いて行ってしまった。ぼくは、信じられない気持ちで、天使さんを見上げていた。


「大丈夫。あの子たちの、意地悪をしたい気持ちは、私の唄で取り除いたわ」


 ふんわりと、ぼくの目の前に降り立った天使さんは、そう言って微笑みかけた。すると、ぼくの目から涙が溢れてきて、天使さんは「あらあら」と言いながら、それを拭った。


「怖かったでしょ? 痛いのも、すぐに収まるから」


 さっきとは別の唄を、天使さんは口ずさむ。あっという間に、ぼくの体の痛みは引いていって、体についた傷も癒えていった。

 それでも、涙だけは止まらなくて、天使さんは困っていた。ただこれは、恐怖や痛みからくる涙ではなかった。


「天使さん……ぼく、悔しんだ」

「どうして?」

「もう、獣人だからって、苦しい思いをするのは、嫌だから」


 あの女の子の怯えた顔、自分が殺されると思った瞬間が蘇る。それだけじゃない。まともな葬式をあげてもらえなかったおばあちゃん、理由もなくクビにされたお父さん、人間のお店に行こうとしたら門前払いされたお母さん、図書館で向けられる白い目、詰め所で僕らの悪口を言っている雇い主たちを思い出していた。

 それを口にせずとも、ずっと町を眺めていた天使さんは、察してくれたのだろう。自分も泣きだしそうな顔で、ぼくの頭をそっと撫でた。


「坊やは、その優しさを忘れないで。そして、知恵を付けなさい」

「うん……」

「坊やのその勇気が、町を変えるわ」

「分かったよ、天使さん。ぼく、頑張るから」


 天使さんの手が、ぼくの頭から離れる。彼女は、後ろから引っ張られるように、ゆっくりと宙に浮かび始めた。

 いつの間にか、雨は止んでいて、ぼくの涙も止まっていた。雨の季節は終わったんだ。立ち込めていた雨雲は薄くなり始め、空がだんだんと光に満たされていく。


「私は、ずっと見守っているわ」

「うん。ありがとう、天使さん。そして、さようなら」


 天使さんとお話しできるのは、これが最後な気がした。それを肯定するように、天使さんは空へ上がっていきながら、小さく手を振った。

 ぼくが見上げるその先で、大きな虹がかかった。それに溶け込むように、天使さんの姿が見えなくなるまで、ぼくらは手を振り続けた。






 ――これが、僕の小さい頃の思い出。

 そして、僕が、この街ので初めての獣人の市議会議員になる、きっかけの物語。




























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