03_最初の一枚、その資格

 時刻は夜七時を回った。早めに夕食を終えていた拙者は丸ちゃぶ台の上に小さな相棒『M532』を寝かせる。クレジットカードを何枚か重ねたような薄いボディだが、実はM532は自立することが分かった。聖地から帰宅して数時間、拙者は早速M532のこと、何よりカメラとは、写真とはなんたるかについて人類の英知インターネットで調べていた。ところがM532の情報はそれほど出てこない。そして“なんたるか”に至っては、この手の調べ物に精通したはずの拙者でも“この世界が広大であること”がぼんやりと分かったに過ぎなかった。


「ふむぅ……」


 おっと失礼、情けない溜息が出た。拙者のお手製クラウド対応ノートアプリには調べた情報をまとめた拙いメモが出来上がっている。まず、写真にはカラー写真と白黒写真がある。……いや、拙者はいわゆる実体のある写真――フィルム写真でしか白黒の写真は出来上がらないと思っていた。現に拙者のAndroidなスマートフォンのカメラには白黒写真を撮る機能が無い。これは誤りで、デジカメでもカメラアプリでも白黒写真を撮ることはできる。


「……とすると、だ」


 スマートフォンがあればカメラは要らないんじゃないのか。これについては調べるとすぐに『必ずしもそうではない』という回答が出てきた。カメラ市場の縮小、フィルムカメラの衰退、昨今の“スマホカメラ”の実力を認めつつも、カメラの魅力的を伝える力強く説得力のある声、楽しんでいそうな声。これらは抜粋してちゃんとノートに残しておいた。だからカメラを作るメーカーが残っているのだ。だから趣味としてのカメラがあるのだ。……趣味……か。

 次にいこう。フィルムカメラとデジタルカメラの大分類はあるとして、カメラには『一眼レフ』『ミラーレス』『レンジファインダー』などなど機構によっていくつか種類がある。拙者はこれらのイメージを流し見ていた時にふと気づいた。整った顔立ちをしたモデルさんたちはカメラを覗き込んでいる。否、カメラを通して世界を覗き込んでいる。拙者の持っていたカメラへのイメージはこれで、彼らが覗き込んでいるのが『ファインダー』というパーツであることを拙者は知ることになった。さて、コンデジにはこのファインダーが無いものも多く、その場合は背面に設けられた液晶モニタを使って“これから切り取る世界”を確認する。


「ふふ……なるほど」


 使い古した富士通のノートパソコンの横からおもむろにM532に手を伸ばす。軽い。何度持っても。ボディの上面に並ぶボタンを見る。このシンボルは電子デバイス共通なのだろうか、上部にある小さなリンゴマークを押すと可愛らしいこれまた小さなレンズが出てきて、液晶モニタに拙者が見ているのと同じ景色が映った。パソコンのキーボードだ。手を動かす。丸ちゃぶ台と畳の縁。これは一人分の食材を入れておく冷蔵庫に電子レンジ。こっちはカーテンの閉まった窓枠。まだシャッターボタンは押さない。シャッターは“切る”というんだったか。店員さんがSDカードを付けてくれたので写真は撮れる状態のはずだが、最初の一枚には何か特別な意味を込めたい。背面の液晶の横にはいくつかボタンが並んでいた。拙者はここで例のカメラ屋さんの紙袋に手を伸ばした。何故ならそこにはあの店員さんがくれた特製の説明書――バイブルが入っているからだ。印刷した紙をA5サイズくらいの冊子にしてある。カメラごとに内容は変えていると言ったが、まさか全ての機種にこれを添えていると言うのか。M532なんて……と浮かんで拙者は首を振った。ぶんぶん振った。相棒に値段は関係ない。それはM532に失礼な考えだ。どれどれ、ぺらぺらと。


『フィルムモードの使い方』


 そうそう、拙者が店員さんから聞いたのはこれだ。このM532の一番の魅力たる機能、フィルムカメラの写真を再現する機能。指示通り『MODE』ボタンを押す。押してみると、なんということはない、わかりやすい画面表示で『フィルム効果』とあり、モードを選ぶことができそうだ。十字キー代わりのボタンもある。ただ……


「こ……」


『Kodacolor』、『Ektachrome』……


 野原を背景にした母と子の図。そのモードをイメージしたらしき四角い画像の下には見慣れない文字列が並ぶ。コダックのスペルは最後『k』ではなかったか、あ、ほらボディ正面にも書いてある……あー『color』か。『ビビット』とか『ファンシー』なら拙者も見たことがあるのに。『Kodachrome』……おや、ここからが例の白黒モードか、『T-MAX』、『Tri-X』に、やっと日本語で『セピア』と。む? よく見ると画像の上にどんなモードなのか書いてあるではないか。『Kodacolor』が『落ち着いたクラシックな色合い』だ。白黒には不思議な言葉が添えてある。『光沢の色合いで極微粒子状』『劇的で粒子状』。若干カタコトな日本語翻訳をかけたような文章だが、はて、粒子? 拙者は恐らく少し困った顔でバイブルに戻った。


『困ったら Tri-X で何でもいいから撮ってみてください! 塩田』


 あの店員さん、塩田さんというのだろうか。ではなく、Tri-Xとのこと、承った!


「……お、おぉ」


 不思議な瞬間だった。閉じたまぶたを再び開いた液晶画面にはまた畳と丸ちゃぶ台の縁が映っていたが、その世界からは一切の色が抜け落ちている。何故か不安になった拙者は慌ててレンズが見る景色を変えた。何か色のあるもの、どうして拙者の服は黒ばかりなのだ。畳もカーテンも違うもっとビビットな、……こうなったら、


「ほう……ふむ」


 パソコンの画面に表示した某最大手の検索サイトのロゴをM532を通して見る。続いて拙者のこの目で見る。前者はやはり白黒だった。拙者の目はちゃんと青赤黄、そして緑に見えている。安心した拙者はM532の小さな液晶画面越しにぐるりぐるりと部屋の中を見て回った。白黒にしか写らない拙者の城内は新鮮だ。もはや拙者は考えていた。ファーストショットを何にするかを。そして思い付いた。洗面に向かった拙者は手早く歯ブラシとシェーバーと化粧水の空きボトルなんかをどけていき、


「……と、思ったが」


 それらを元に戻した。服装もこのままでいい。くたくたの甚平すなわち普段の部屋着。鏡の中にはなんとも冴えない顔の上半身が映っていた。拙者である。拙者は相棒M532を持ち上げた。液晶画面を確認する。白黒、『Tri-X』モード。そのまま拙者と相棒が写るように手首の角度を調整する。左手はピストルのようにして相棒を指し花を持たせる。最後の関門だ。愛嬌のあるぎこちない笑顔を浮かべて、両手が塞がっているので声だけだが、


「はい、チーズ」


 ぱしゃり。控えめながら心地よい電子音。シャッター音だ。

 自撮り? ノンノン、ツーショット。拙者のスマートフォンの写真フォルダを上から下まで探しても拙者の姿は写っていない。その意味でも希少な一枚であろう。なかなか良い笑顔に良い姿ではないか。明日は近所でも撮り歩いてみようかな。



* * * *



 翌日日曜日。時刻は朝の八時過ぎだ。少し早起きをしてさっさと身支度を整えた拙者は、城を出て階段を降りた。恐る恐るM532を取り出して目線の高さにまっすぐ構えると、人が写っていないことを確認してそっとシャッターを切った。液晶画面のフレームに景色が収まる。駅から少し離れたアパ……城の並ぶ閑静な道。改めて見てみると、道路というのは遠くなるほどだんだんと細くなるのか。振り向いてもう一枚。ふと、自分の影が伸びていることに気づいてそれも一枚。思いつきでモードを切り替えて同じ写真をもう一枚。『Tri-X』で白黒だ。いや景色も撮り直そう。思えばデジタルカメラは“残りの枚数”を殆ど気にしなくてよいのだ。フィルムカメラならこうはいかないのだろう。早くも慣れてきた拙者は再び『Kodachrome』に切り替える。昨夜調べたところによると、これにはフィルムカメラのような深みのある色味が出やすいらしい。まだ薄青い空を一枚。残念ながら小さな雲の切れ端しか見当たらないが、空だということは分かるはずだ。……と、自販機の鮮やかな赤が目に入る。遠目に一枚。しかしここで拙者は思い付く。自販機の正面にはあらゆる色が待っているではないかと。

 そこからの拙者は早かった。というか、一週間が妙に早かった。結局その日の朝は空腹ですぐに城へと戻った。拙者はそこでSDカードをM532から取り出して、撮った写真をノートパソコンへ取り込んでみた。まだ大きな画面で写真を、拙者の撮った写真を見たことがなかったからである。無事SDカードを認識したパソコンの画面に、縮小された拙者の写真たちが並ぶ。いきなり笑顔の自画像を見るのはアレなので、白黒で道路を撮った一枚をダブルクリック。


「うぉ……」


 確かそんな、間抜けな声を出した。美しかった……のだと思うが、このとき拙者が感じたものを表現するのが中々難しい。それだけではないのだ。陰影というのか、明暗というのか、光と影と白と黒でのみ写し取った写真は強烈な印象を与えてきた。静けさ? 目新しさ? 何故か去来する過去? 『止まれ』看板の赤、安全ミラーのオレンジ、塀から覗く葉の緑。そこにあった色たちは一様に光と影に、白と黒の間の色に溶けていた。何より影、いや、陰の方だったか……。言葉を失いしばし眺めて、次に待つほぼ同じ写真を表示した。拙者の目に鮮やかな色が戻る。この赤、このオレンジ、この緑。それから次、薄い青の空。不思議なことにどの色も拙者がこの目で見た色味とは少し違って、どこか懐かしい雰囲気の色味をしていた。さっき見た景色のはずなのに。そうか、これがフィルムカメラ調の……。であれば、見たままの色はフィルムモードをOFFにすればよいのか。あったかな。しかしこれは“記録”と“作品”の……。このあたりで拙者はカップヌードルが伸びきったことに気付く。しまったタイマーを使うんだったと凹んだ拙者はそれでもニヤニヤしていたはずだ。その日はよく歩きよく撮った。夜、一気に写真が増えたフォルダを眺めながら憂鬱な月曜日を前にして、拙者は思い至る。M532のコンパクトさならば通勤カバンに入るではないか。なんならスーツのポケットにでも。見飽きたルート、淡白なルーティーンにM532は“写真”を与えてくれた。何故だろう、スマートフォンのカメラではこうはいかなかった。

 金曜日の夜、パソコンの画面一枚には収まらなくなったフォルダの縮小写真たちを横目に、拙者はあのカメラ屋さんの紙袋から名刺サイズくらいの小さなカードを取り出した。表には店名、電話番号などお店の情報が書いてある。裏には、


『カメラと写真のことで困ったら、もしくは好きになってしまったら、ぜひまたお越しください! アイザワカメラ』


 アイザワカメラの部分は印刷で、前半のメッセージらしき部分は手書き。綺麗な字だ。これを塩田さんと思しきあの店員さんが書いたのかどうかは微妙なところだが、拙者は考えていた。迷っていたと言ってもいい。またあのカメラ屋さんに行きたい。素直に言えばそれはもう行きたい。だが拙者にはその資格があるのかどうか。困ったことを探そうか、カメラと写真を好きになってはいると思うが、では端端的に何をしにもう一度やってきたのか。聞かれたら何と答えようか。……塩田さんは普段お店にいらっしゃるのか。いや、だって拙者がM532を買ったことを知っているのは塩田さんらしき店員さんだけであって、他の店員さんあるいは店長さんに捕まってしまえば拙者は……


「えぇぃ……」


 仕切り直しの鼓舞、今宵は弱弱しく頼りなく、途切れる……。

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逆光の樹影、ガラスのリノウ kinomi @kinomi

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