第一部 電気式少年 2 エルとティート(2)
翌朝、エルが朝食を済ませた頃を見計らい、医師の一人、ミノルがやってきた。ミノルは大学生の頃から研修医としてこの病院に勤務していたが、昨年晴れて医師免許を取得した。歳の割にやけに落ち着いた雰囲気を醸し出すこの若い日本人をヨシュが気に入り、研修医の頃からエルの身の回りの世話してもらっている。ミノルはエルの着替えを手伝いながら、異変がないか全身をチェックをする。
「今日は午前中は診察があるけど、午後からは自由にできるよ。ヨシュから君を<
「うん。友達ができたんだ。」
嬉しそうに言うエルに、ミノルは笑顔で頷く。
「昨日はとても心配だったけど、それならよかった。じゃあ、行こうか。」
ミノルはエルにライドチェアに乗るように促す。自動走行センサーとAIが搭載された最新型だ。エルは眉を顰め、首を横に振る。
「歩けるよ。」そう言ってベッドから降り、歩き出そうとしたが、ミノルが目の前に立って止める。
「エル、ダメだよ、昨日は随分歩き回っただろう。」
「大丈夫。どこも痛くない。歩けるよ。」
「診察して異常がなければ、その後は好きにしていいよ。でも、今は乗るんだ。また貧血で倒れたら、午後は病室から出られなくなるんだよ、」
その言葉に表情を変えたエルはしぶしぶライドチェアに乗り、不機嫌そうな顔でシートに体を沈み込ませた。
「いい子だ。」
「そうだミノル、トイ・ショップから荷物が届いたら持ってきて。ティートにあげるんだ。」
「了解。…ああ、そういえば。」診察室の前でミノルは足を止めた。「エル、今朝はビレンキン博士がすごく怒ってたよ。今日は大人しくしておいたほうがいい。
「…
診察室に入ると、案の定不機嫌な様子のビレンキン博士に質問攻めにされた。博士の背後のガラス壁で隔てられた別室では、無菌服を着た研究員二人が<
三時間後、ようやく診療室から出ることが許された時は、とても疲れていたが、ミノルが歩いて病室に戻ることを許可してくれたため、エルは病院の廊下を駆け出そうとした。ミノルに、走ってはいけないときつく嗜められ、ゆっくり歩く。
「昼食は<
ミノルの思いがけない提案に、エルは目を輝かせる。
「いいの、」
「ビレンキン博士から許可はもらってるよ。でも外を歩くのはだめだから、バギーカーで行こう。」
「あんなノロいの、
「エル、そんな言葉遣いをしてると、せっかくできた友達に嫌われるよ。」
エルは再び不機嫌そうな顔をしてむくれ、隣を歩く口うるさい世話係を見上げた。一見すると気弱そうで、貧弱で到底注意などしないようなアジア人の青年だ。ミノルは声が小さく、身長もさほど高くないし、しかも大きな黒縁メガネをかけているため、暗い印象すらある。短い黒髪にはいつも寝癖がついていて服装はいつも同じだ。毛羽だったよくわからない素材のぶかぶかのパンツを履き、シャツの上にセーターを着重ねている。シャツの襟の先はなぜかいつも汚れている。ほとんど人と関わったことのないエルでも、ミノルが外見に無頓着であることには気付いた。ミノルには歳の離れた弟が三人いるため、子供の世話には慣れているらしい。ことあるごとに口うるさく注意してくるのはそのせいだ。今年で二十五歳だと言っていたが、十代に見える。
二人は屋根のない小型の
ミノルは向かいに座り、<
ミノルが屋敷の正面玄関のベルを鳴らすと、痩せた年若い女性がドアを開けて中に招き入れてくれた。エルの病棟にいる看護師と同じ、藍色の作務衣姿だ。
ミノルの後に続いて屋敷に足を踏み入れたエルが初めに目にしたのは、広いエントランスホールの壁際に立つ数人の子供たちだ。医師の一人が子供たちに何かを話しており、子供たちは不安げな表情で話を聞いている。目の端で誰かが階段を駆け上がっていく。視線を移すと、少年の背が一瞬見えた。エルの背後から、エルの荷物を携えたヘルパーロボットのピティが入ってくる。
「靴をこちらに履き替えてください。」
柔らかい素材のルームシューズに足を入れようと片足を上げた途端、エルの体はバランスを崩した。すぐにミノルが支え、転倒を防ぐ。そのままミノルに背中から抱き抱えられる姿勢で靴を履き替えた。ふと目を上げると、二階の踊り場にいる少年がこちらを見下ろしている。栗毛色の髪の美しい少年だ。目が合うと、少年は冷ややかな笑みを浮かべ、立ち去った。
食堂に到着し、弾力性のあるソファに腰をかける。エルの病室と同じように、ここでもあらかじめ決められた病院食しか出てこないが、それでもレストランに来たような気分でわくわくした。広い食堂の中には、ミノルとエルの二人しかいない。この施設の子供たちはみんな揃ってこの食堂で食事をしているのだろうか。中を見回していると、扉が開いて、黒髪の少年が顔を出した。
「エル、」ティートは丸い顔に満面の笑みを浮かべて歩み寄ってくる。「本当に嬉しいよ、こんなに早くまた来てくれるなんて。」
「寝てなくていいのか、」
「多分、寝てたほうがいいんだけど、君が来てると聞いて、待ちきれなくなったんだ。僕もここで一緒に食事をしていいと言われているんだけど…。」ティートはミノルの方を見る。
ミノルは「構わないよ」と言って頷き、ティートのためにエルと向かい合わせになるようソファを移動させ、自分は一人分空けたソファに座った。
ヘルパーロボットが食事を運んできたので、エルはドロドロの白いスープを口にした。いつもと同じ体に合わせて調理された病院食なのだが、いつもより味がする気がした。ティートのパンを齧る仕草は
「なあ、さっき何人か見たけど、みんな同じ格好なんだな。」
「これ、」
ティートが自分のリボンタイをつまみ上げる。エルは頷く。
昨日はティート以外だれも見かけなかったし、ティートが寝巻き姿だったため気付かなかったが、この施設にいる子供たちは皆一様に、白い角襟のブラウスに藍色のショートパンツ、白い膝丈ソックスと茶色の靴という服装だ。リボンタイの色だけが異なるようだ。
「そうだね。僕たちはみんなこの服しか渡されていない。女の子は十四歳からはスカートを選ぶこともできるらしいけど、十四歳の女の子がまだいないから本当かどうかはわからない。君の格好はとてもイカすね。」
エルは黒の大きなサイズのTシャツにジーンズという、一般的な男の子が好む服装をしている。シェリルは上品な服装をしてほしいと願っているようだが、今のところはエルの自由にさせてくれる。Tシャツには、アメコミの画風で、狼の頭と人の体を持つ五人のキャラクターが描かれている。エルは得意げに笑顔を見せる。
「だろ、これ、”TIME BOUNDS”のプレミアものなんだ。メンバーがツアーの最後に着たやつで、メンバー分しかないんだぜ。父さんがボーカルのこいつと知り合いでもらってきてくれて…」
「エル。」
ミノルの静かだが厳しい声がエルのお喋りを静止する。エルもすぐになぜミノルが止めたのかに気付いた。Tシャツの中央のキャラクターをさした手をテーブルに置く。
「あ、ごめん。自慢するつもりじゃなかったんだ。……俺、ロックが好きなんだけど、普段は聴くの禁止されてるから嬉しくて。」
「うん。僕もそういうの着てみたいな。いつもロレンにチビってバカにされるんだ。そういうの着たら少しは体も大きく見えそうだし、きっと強く見えるよね。」ティートは自信をこめて言う。
「お前、チビなのか、」
「ロレンは同じ歳だけどずっと背が高い。君とおなじくらいじゃないかな。」
身長を比べようと二人して立ち上がろうとしたが、ミノルに止められる。
「二人とも、先に食事を済ましてからにしないかい。その後少し外を散歩しようか。」その言葉に、エルもティートも大喜びする。
「ありがとうございます、先生。」
ティートが丁寧にお礼を口にする。二人が初対面ではないことにはなんとなく気付いていたが、ティートのミノルへの態度がひどく緊張しているもののように思える。ミノルからはこの<
知らないことばかりだ。
エルは病室のベッドに寝たきりだったころの自分からは想像がつかないほど、今は自分を取り巻くものと、世界のありとあらゆるものに興味を覚える。
みんな何かを隠したがっている。
近頃は日に日にその疑念が強まる。それは両親も例外じゃない。<
食事を終え、赤毛のふくよかな体格をした看護師のアンナを加え、四人で施設の端にある公園へ徒歩で向かった。
「その、ロレンってどんなやつなんだ、」エルは隣を歩くティートに尋ねた。
二人の身長差が3インチ(※)もあることが判明し、ティートは少し落ち込んでいたが、ミノルがティートの生体データを見る限り、十五歳で一気に身長が伸び、二十二歳までには6フィート(※)を越すだろうと具体的な予想を教えてくれたため、すっかり機嫌が良くなり、ロレンよりも大きくなるかどうかをしきりに気にしていた。
「嫌なやつだよ。すごく偉そうで、みんなに命令するんだ。子供の頃は痩せててチビでいつも泣いてたくせに、背が伸びて体が丈夫になった途端、自分が一番だって言い出した。セブとジョアンはロレンの言いなりさ。」
「そいつのこと嫌いなのか、」
エルの質問に、ティートは考え込む仕草をした。
「どうだろう。ロレンは僕のことが嫌いなんだと思う。僕がテストで一位をとると、怒ったり嫌がらせをしたりしてくるし、声をかけても無視される。時々、ロレンのことを懲らしめてやりたいって思うよ。」
「へえ、どんな風に懲らしめるんだ、俺も一緒に考えていいか、」
エルの言葉にティートが笑った。
二十分ほど歩いて公園に到着した。この公園は朝から夕方まで一般解放されており、家族連れやカップル、犬の散歩をしている人などで賑わっている。渓流を模したモザイク造りの河岸のベンチに二人は並んで腰掛ける。後ろでミノルとアンナが小さな声で話をしている。きっとまた生体データのチェックをしているのだろう。
ティートがじっと川の対岸を見つめている。視線の先で、中年女性が犬に川の水を飲ませている。真っ白の小型の犬だ。犬は水を飲み終えると、くしゃみをして歩き出した。女性はその後ろをゆっくりついていく。その向かい側から大きな黒い犬を連れた親子が歩いてきた。飼い主同士が挨拶を交わす傍らで、犬たちも互いの匂いを嗅いでいる。
「いいなあ。エルは犬を触ったことはある、」
「いや、ないな。」
「僕は一度だけ触ったことがある。屋敷のすぐそばの林の中にいたんだ。茶色くてふわふわした仔犬さ。どこから迷い込んだのかわからなかった。僕は仔犬を抱き抱えて、屋敷に連れて行った。すぐに看護師に見つかって取り上げられちゃった。その後ひどく叱られた。僕の体中に発疹が出て、一週間部屋に閉じ込められて辛かったな。あの仔犬はどうなったのかな。誰も教えてくれないんだ。」
エルはその仔犬の行方よりも、犬に触れると発疹が出るということの方が気になった。ティートは続ける。
「抱き抱えた時、すごく柔らかくて、想像したよりも軽かった。あったかくて、生き物とか命とかそういうものが毛の中にあるんだなって思った。…愛しくて、幸せな気分になったよ。」
二人のそばを、白い大きな犬を連れた男性が通り過ぎる。ティートはその後ろ姿を目で追い続けていた。
しばらくして、バギーがやってきた。帰りはバギーに乗らなければいけないとミノルに言われ、二人はしぶしぶ乗り込む。
<
「エル、今日はこのまま病室に帰ろう。」
「でもプレゼントがまだ…」
振り返った先で、ティートが玄関ポーチに佇み、エルを待っている。
「プレゼントはティートの部屋に運んでもらったよ。後で<通信>で話せばいい。今日は帰るんだ。」
ミノルの毅然とした声に、エルは仕方なく頷いた。
ティートに、軽く手を降ると、ティートはエルが帰ることを理解して、寂しそうな表情で手を振りかえした。
「何かあったのか、」
エルはミノルに尋ねてみた。屋敷の中がやけに騒がしい気がした。
「何でもないよ、さ、帰ろう。」
バギーが動き出し、姿が見えなくなるまで玄関ポーチでティートが見送ってくれた。
電氣式少年と三日月都市 雨柳ヰヲ @io_uliu
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