第一部 電気式少年 2 エルとティート(1)

2 エルとティート


 瑞々しい若葉を繁らせた木枝が、春嵐の訪れを予感させる強い風に吹かれて一斉に揺れた。雨に似たその音に誘われ、窓の外を見ると、木々の間に人影が見えた。

 人影は木の幹の蔭に隠れ、周囲を伺っている。木陰から覗かせた頭に陽の光が当たり、白金色プラチナの美しい髪が煌めいた。反対側からヘルパーロボットが現れ、芝生の上を行ったり来たりしている。逃亡者は追手を巻いたことを確認し、林から出て、まっすぐこちらの方へ走ってくる。体格からしてまだ子供だ。

「エル・シラー。」

 二階の窓から外を眺めながら、観察者は小さく呟いた。


 赤御影の小石が敷き詰められた道を、エルは小走りに進んだ。道の突き当たりには絵本に出てきそうな大きな屋敷がある。自分が暮らしている研究施設の、東棟の窓から見えるこの屋敷がずっと前から気になっていた。施設の職員に尋ねたら、あれは古い建築物で空き家だと言われた。けれど、夜になると屋敷のいくつかの部屋の窓に燈が点ることをエルは知っていた。施設の車がこの屋敷の方へ向かうのを見たこともある。

 隠されると、知りたくなる。施設の研究者たちは、例え施設内だろうとエルが一人で歩き回ることを許してはくれない。いつも必ず看護師が付き添い、軽く何かにぶつかっただけですぐ診療室に連れていかれる。今日は偶然誰にも見咎められなかったため、一人で部屋を抜け出した。ヘルパーロボットの<ポット>に見つかってしばらく追いかけられたが、ポットは小走り程度のスピードしか出ないため、追跡を巻くのは難しいことではなかった。エルの新しい足はすっかり体に馴染み、肺も強くなった。だから早足で歩くくらいなら、以前のように息ができなくなったりしない。

 石造りの屋敷は全体的に古く鈍色だが、赤い屋根と、窓辺から枝垂れて茂る蔦や、屋敷を取り巻く庭木や草花のおかげで暖かく楽しげな雰囲気だ。良い香りのする花に蝶や蜂が群がっている。庭の奥には畑もあった。この屋敷に誰かが住んでいるのは間違いないだろう。エルはすっかり興奮して、急いで屋敷の正面入り口のドアノブに手をかけようとした。

「そこは鍵がかかってるよ。」唐突に頭上から声が降ってくる。

 エルは庇から出て、見上げる。青空が白く霞むほど太陽の日差しが眩しい。手をかざし、目を細めて声の主を探す。

「そっちからぐるっと回れば、裏口がある。そこならこの時間は鍵が開いてる。」

 屋敷の二階の窓から誰かの手が伸びていて、庭の奥を指していた。エルは急いで示された方へ向かい、屋敷沿いに歩いて、生い茂る木々の影の中に裏口らしきドアを見つけた。

 音を立てないように慎重にドアを開け、隙間から中の様子を伺う。殺風景な狭い空間だった。ドアのすぐ先に鉄製の手すりが添えられた螺旋階段が見える。室内はしんと静まり返っている。エルはなるべく音を立てないように気をつけながら階段をゆっくり登った。映画で見た古城の秘密通路のようだ、とエルは思った。階段を登り切るとまたドアがあり、ゆっくり開くと広い通路に出る。黄土色の石の通路がずっと先まで続いている。左側には大きな窓があり、色とりどりの硝子板を組み合わせて女の人と子供の絵が描かれている。天井にも窓があり、陽の光が差し込んで、室内はとても明るかった。通路の手すりから顔を出し、階下を覗き込む。一階の床は木でできているようだ。古い椅子のようなものがいくつも並んでいるのが見えた。

「こっち。」

 通路の奥から再び声がした。エルは早足で声の主の元へ向かう。

 ほんの少し開いたドアを見つけ、中を覗いた。

「やあ、よくきたね。」

 声に誘われるように部屋に足を踏み入れると、毛足の長いピンク色の絨毯と、黄色い花が描かれた壁紙が目に入った。本棚や箪笥、クロゼットなどの調度品が並んでいる。大きな丸い窓の前にベッドが据えられ、そこに黒髪の少年が半身を起こして座っていた。エルは部屋の中を見回しながら、ベッドの方へ歩み寄る。

「初めまして、僕はティート。」黒髪の少年は笑顔で言った。

 エルはベッドのすぐ脇に立ち、少年をまじまじと観察する。ティートと名乗った少年は、丸い顔に優しげな笑みを浮かべている。同じ歳くらいの子供をこんなに間近で見るのは初めてだ。ティートは髪も目も真っ黒で、肌の色は白いが、ふっくらした頬だけがやけに赤い。

「俺は・・・、」

「知ってる、エル・シラーでしょ。」

 エルは目を瞬かせる。

「君は有名だもの。みんな知ってるよ。こっちにくるのもこの窓から見えてたよ。君、ヘルパーロボットに追いかけられてたね。」ティートはそう言ってくすくすと笑う。

 エルは肩をすくめ、振り切るのはワケもなかったと見栄を張った。

 ティートはエルに、ベッドに腰掛けるようにと場所を空けた。ドアの外から音がして、ヘルパーロボットが香ばしい焼き菓子を持って入ってきた。

「ありがとうピティ。君は何を飲む?」

「そうだな、ストロベリージュレの入ったソーダはある?」

 エルがそう言うと、ピティの頭部が軽く横に動く。

「じゃあ、メロンの果肉入りバニラシェイクは? なんだ、それもないのか。」

 ティートが声を上げて笑った。

「ピティはそんな洒落た飲み物は出せないよ。あるのはフルーツジュースとミルクだけ。頼めば紅茶を入れてきてくれるよ。」

 エルはしぶしぶレモンジュースをもらい、ティートはオレンヂジュースをもらった。

「なあ、ここって一体何なんだ? 誰もちゃんと教えてくれないんだ。」

「へえ、そうなんだね。実は僕たちも、君と会っても話しちゃいけないと言われてる。理由は知らないけど。」

「僕たち?」

「うん。ここには僕を含めて今は十八人の子供が暮らしてる。毎年新しい子供が何十人もくるんだけど、いつの間にかいなくなってるんだ。」

「ふうん、」

 エルは広い部屋の中を見渡した。どうやらここは一人部屋のようだ。他の部屋も同じなのだろうか。エルは自分の殺風景な病室のことを考えて、この屋敷に住む子供たちが羨ましくなった。両親の家にはエルのための部屋がある。しかし、そこに足を踏み入れたことは数える程度しかない。

「ねえ、エルは今いくつ、」ティートが尋ねる。

「俺は先月十三になった。」

「そっかあ、」ティートは視線を下げ、首を傾げる。「僕の方が半年早いや。君は<特異アイ変質デイー細胞シー疾患デイー>の子供たちの中で最年長だって聞いてたけど、違ったのかな。」

 む、とエルが不満げな表情をした。ティートは腰から下は布団の中だから身長はわからないが、てっきり自分の方が背が高くて年長だと思い込んでいた。

「みんな<特異アイ変質デイー細胞シー疾患デイー>なんだ。だからここに集められて、治療を受けてる。僕は先月腎臓の手術をしたよ。」

 ティートは布団をめくり、寝巻きのシャツのボタンを外して、体を見せた。腹部の大きなガーゼを捲ると、赤黒く、生乾きの糊が塗りたくってあるような痛々しい傷口が何針も縫われ、腹部を大きく横切っている。

 ティートがベッドから出ないのは手術直後だったからなのかと、心の中でエルは納得した。

「俺もあるよ。」

 エルも自分のTシャツをめくりあげ、上半身を露わにした。うっすらピンク色の線が鎖骨の間から胸の中央を通り、臍まで続いている。

「お前のも、こんなふうに治るから大丈夫だ。」

 ティートは微笑み、指先でエルの傷跡をなぞった。くすぐったくて頭と背中の皮膚が逆立つ感じがした。

「手術の時は痛かった?」ティートが尋ねる。

「いや、寝てたから全然。」エルは自分の胸の傷跡を片手で軽く叩いて見せた。

「そう。でも、夜中にこれがちくちく痛むんだ。薬を飲めば治るんだけど、ぼんやりするからあんまり飲みたくない。」

 Tシャを戻して、エルもティートの傷に触れた。手が冷たかったのか、腹部がピクリと動いて、軽く避ける。

「ごめん。」

「ううん、くすぐったかっただけ。」

 ティートはガーゼと寝巻きを戻し、布団を腰の上まで引き上げた。

「なあ、他のやつらは今どこにいるんだ、」

「この時間は学校の授業を受けるんだ。だからみんな学習室に行ってる。本当は僕も授業に出ようと思ってたけど、君が来たからやめた。」

「ここに学校があるのか、」

「うん、あるよ。」

 エルは、後で両親に学校に通わせてもらうように頼むことにした。ティートがベッド脇に据えられたライブウェア端末に触れると、立体ディスプレイが目の前に表示される。いくつもの項目が並び、ティートはその中から<古代>を選んだ。

「エル、これ知ってる、はるか昔に地球上に住んでいた動物たち。」

「もちろん知ってる、恐竜だろ。この前父さんが本物みたいに動く模型を買ってくれた。」

「へえ、いいなあ!」

 二人は夢中になって恐竜や、地球の歴史、宇宙のこと、研究所での生活についてなどいろいろな話しをした。陽が傾き始めた頃、庭の方が騒がしくなった。窓から覗くと研究所の車が停まっており、慌ただしく数名の職員が屋敷に入ってくるところだった。

「あーあ、見つかったか。」

「エル、きっとまた来てね。次に来る時には、君の好きな飲み物を用意しておくから。」

「ああ、約束する。トリケラトプスも持ってくるよ。」

「楽しみにしてる。」

 足音が騒々しく向かってきて、乱暴にドアが開く。血相を変えた職員たちがエルを見たとたん一様に安堵した表情に変わる。立ち上がったエルの体を早速チェックし始め、どこか痛いところはないかなどと口々に聞いてくる。

「大丈夫だって、どこも悪くねーよ。」

 職員の手を払い除け、しばらく抵抗してみせるも、エルは軽々と抱え上げられてしまう。

「ティート、またな!」

 ドアが閉まる瞬間、ベッドの上では静かに微笑むティートが軽く手を振っていたのが見えた。

 病室に戻るとヨシュとシェリルがいた。エルが病室を抜け出してから十時間近く経っている。シェリルはエルの顔を見るなり泣き始めた。飛びついて抱き締めたいのをこらえ、エルの頭や顔を撫でる。

 エルはその手を振り払ってベッドに飛び乗り、布団を頭からかぶった。

「エル、パパもママもあなたが心配なの。どこかで倒れてるんじゃないかってずっと怖かったのよ。」

 シェリルの悲しげな声がまた癇に障る。

「ごめんなさい。でも大丈夫だからほっといて。」

 ヨシュがシェリルをなだめる声が聞こえた。しばらくして二人の話し声が足音とともに遠ざかり、ドアの閉じる音がした。

「エル、」

 ヨシュの声がそばで聞こえる。今は二人きりのようだ。

「あの子と話してみてどうだった、楽しかったかい、」

 エルは布団から顔を出した。頬が赤く染まっている。

「うん。とても楽しかった。」そう言って起き上がり、ベッドの脇の棚からトリケラトプスの模型を取り出す。

「これをプレゼントしたい。いいでしょ、父さん。」

 ヨシュはエルを見つめ、それから窓の外を見た。眉間に皺を寄せ、黙っている。再びエルに向き直り、何かを言おうとするが、口を閉じるということを何度か繰り返した。

「エル、友達がほしいか?」ヨシュは落ち着いた声で尋ねる。

「うん、ほしい。」

 素直なエルの言葉にヨシュはいつもの微笑を浮かべた表情をみせる。

「そうだな、当然だ。・・・わかった。体調が良ければ、時々ならあそこへ遊びに行ってもいいことにしよう。」

 意外な父親の言葉に、エルは、本当に?と何度か聞き返す。ヨシュはその度に頷いた。

「じゃあ明日また行くよ。早くこれを見せてあげたいんだ。」

「それはダメだ。」ヨシュにトリケラトプスを取り上げられて、エルは驚く。

「何で?」

「これは中古だろ、プレゼントするなら、ちゃんと新しくて箱に入ったものを用意しなきゃな。」

「うん、父さんの言う通りだ。じゃあ今すぐ注文していい?」

「いいよ。その代わり、あとで母さんに謝るんだよ。母さんはずっと君を心配していたんだから。」

「はい、父さん。・・・どれがいいかな。あ、バットマンの最新モデルがある。いいな、これ。」エルはさっそくトイショップのオンラインページをチェックする。いくつものおもちゃを注文して満足すると、エルは今日一日のことを興奮気味に話した。夕食を食べ、薬を飲み、睡魔がやってきても、ティートのことを話し続けていた。

「あいつは、俺と同じで…手術の痕が…痛むって……」

 眠ったエルの額にキスをして、ヨシュは病室を出た。シェリルは部屋の向かいのソファに座っていた。そこでずっと待っていたらしい。不安そうな顔でヨシュを見上げる。

「エルに友達ができたんだ。」

「友達? 他の患者さん?」

「そう。君は知らなかったね。向こうの離れたところに子供専用の病棟がある。そこの一人と知り合いになったようだよ。」

「…重い病気の子なのかしら。」

 シェリルは以前からエルに友達がいないことを心配していた。彼女は小学校の教師らしく、同年代の友達と一緒に遊んだり、話したりすることが心の成長に必要なことだと考えている。しかし、相手が重い病気なのも心配だ。もしエルの目の前で友人が死んでしまうようなことがあったら、エルの病状は一気に悪化してしまうかもしれない。ヨシュはシェリルとは違い、エルに友達の必要性を感じていなかった。研究所にはたくさんの職員がいて、毎日エルの話し相手になっているのだ。むしろ同年代の健康で乱暴で向こうみずな子供との交流は、エルの健康状態のみならず精神にも悪影響を及ぼすだろう。エルはわがままで頑固だが、母親に似てとても賢い。同世代の子供との遊びなど、エルのいつ終わるともしれない貴重な人生を無駄に消費するだけだ。友達は健康になってからいくらでも作ればいい。そう思っていた。

「ここに来るくらいだからね、軽いものではないよ。エルと同じように手術を受けることもあるみたいだ。」

 シェリルが隣で体をこわばらせるのを感じた。ヨシュがふと顔をあげると、シェリルはヨシュの顔を真剣な眼差しで見つめていた。その顔には、恐怖の色がうっすら滲んでいる。

「…シェリル?」

「何でもないわ。ごめんなさい。・・・私は、エルが友達を作ることに反対しないわ。エルの好きなようにさせてあげましょう。」

 ヨシュはシェリルの肩を抱き寄せ、慰めるように優しくさする。シェリルはヨシュの胸元に頭をもたれかけながら、窓に映るヨシュの横顔をじっと見つめた。


(続く)

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