第一部 電気式少年 1 SOHR (3)

 ヨシュが退室すると、マリラはすぐさま白衣を脱ぎ、私服に着替えた。足早に病棟の裏出口に向かい、人工河川沿いをしばらく歩き、停車している自動車に近寄る。後部座席のドアが開き、中から乗るようにと促す声が聞こえた。

「いらしてくださりありがとうございます。ビレンキン博士。」

 長身の、スーツ姿のアジア系男性が、やや窮屈そうに足を組んだ姿勢で後部座席に座っている。マリラが乗り込むとすぐに自動車が動き出した。運転席にはだれもいない。

「ニールセン博士には気付かれていませんね、」男は口元に微笑を浮かべ、問いかける。男の短い黒髪は細く艶があり、首を動かすたびに揺れた。アジア系にしては肌の色が白く、鼻が高い。何種類かの血が混じっているのだろう。頬骨が高く、一見痩身だがスーツの張り具合からして鍛え上げた肉体の持ち主だろうと想像できる。細く切長の目は一分の隙も見逃さないかのような鋭さがあり、長く視線を合わせていたいとは思えない。冷たく硬質な雰囲気を纏ったその男の冷ややかな声に頷きながら、同じ歳頃だろうに、ヨシュ・シラーとは正反対だとマリラは心の中で苦笑した。

 男の名は劉偉リユウ・ウエイ。国際自然環境保護団体<UTJANアヤン>の幹部の一人だ。<UTJAN>は公には民間組織だが、実態は惑星統一中央政府<LOGODSロゴス>の配下で、劉偉は保健福祉省・医療研究局アジア地区主席でもある。

 自動車は海沿いの幹線道路に出た。強い太陽の日差しが、翠色の絵の具を塗ったような鮮やかすぎる海面を照らす。近年、世界中の海に改良型植物プランクトンが大量に放たれた。海面の色はそのためだ。海中では数千万台の海水清浄機がマイクロプラスチックの回収を行なっている。地球の環境汚染による生態系への悪影響は深刻なものであると警鐘が鳴らされてから百年が過ぎた。人の居住区域を限定し、移動は電気飛行車を使用し、大地からアスファルトを剥がして森を増やそうとする国がようやく増えてきたが、それでも地球全体の二酸化炭素濃度は増加する一方だ。多くの都市部では気候によって空気中に有毒ガスが増え、酸素カプセルを備えたフェイスガードなしで外を出歩けば、数分のうちに意識を失い、窒息死の可能性すらある。あと何年、人はこの地上で生きていられるのだろう。誰もが呼吸をすることにすら不安を感じ、誰もがそれに気付かないふりをし続けている。

 車に乗り込んでからマリラは一度も劉偉に目を向けず、互いに一言も会話を交わさなかった。唐突に劉偉が小さく笑った。

「そんなに構えないでください。あなたの秘密は守ります。私の簡単なお願いさえ聞いてくれれば。」

「ええ、そうね。心配はしてないわ。それに、必死になって隠したいと思っているわけでもないの。」マリラは興味がないという口調で答えた。

「ではなぜ協力を、」

 マリラは海岸線を眺めるふりをして、窓硝子に映った無表情の自分の顔を見つめる。

 十五年前、イタリアの地方病院に勤務していたマリラのもとに、アメリカ合衆国の大病院からの勤務要請通知が届いた。待遇の良さと最新の科学技術を用いて研究ができることに喜んだマリラは、深く考えずアメリカ行きを決めた。それからほどなくして、マリラは再生医療開発研究所<MAJAマヤ>研究職員に名を連ねることになった。研究室主管として紹介された、まだ二十代半ばの小柄なデンマーク人、ヴィクタ・ニールセン博士とは初め馬が合わなかった。天才的頭脳の持ち主で、十代のうちにハーバード大学分子細胞生物学部を卒業している。そのころすでに細胞と脳科学の分野でいくつもの画期的な論文を発表し、医療や生物学に関わる誰もが一度はその名を耳にしていた。マリラもかつては天才と称されたことがあるが、それは過去のものだ。彼の下での研究と、医療現場での業務を両立させてはいたものの、日を追うごとに科学者としての格の違いを痛感させられ、それからというもの、嫉妬と絶望に苛まれ続ける日々だった。

 あの日、<新人類製造計画>を知らされるまでは。

             ***

 マリラが広い会議室に足を踏み入れると、予想外の人物がそこにいた。逞しい体格のスーツ姿の男が大きな窓に向かって立っている。

 「遅かったじゃないか、マリラ・ビレンキン博士。」男は低く威圧感のある声で、振り向かずに言った。<MAJA>の創設者で最高責任者であるリドルゴ・アッサンブラだ。マリラが研究所に招かれた初日に一度会ったことがあるだけだ。その人物がなぜ自分を呼び出したのか、大体検討はついていた。

 アッサンブラはドアの前で立ち止まったままのマリラに、向かい合わせのソファに腰掛けるよう促した。

「君はとても優秀な科学者だそうだね。」

 そう言いながら、リドルゴ・アッサンブラが向かいのソファに悠然とした動作で腰掛けた。立ち姿ではそれほど感じないが、正面に座ってみると、がっしりとした広い肩幅に気付く。五十を過ぎているはずだが、老いが全く感じられない。無駄が削ぎ落とされ、一挙手一投足に鋭い気配をまとっている。アッサンブラは元軍人だという噂は真実だろう。とはいえ、時折見せる笑顔や物腰から醸し出される雰囲気はマフィアの大物と言った方がふさわしい。

「そうありたいと思っています。」

 その答えにアッサンブラは再度笑顔を見せる。

「ニールセン博士から話は聞いたね。」

「はい。」

「では聞くが、君はこの我々の計画について、どう考えているんだい。正直な考えを教えてくれないか。」

 二人の間に、緊迫した沈黙が走る。

 マリラは軽く深呼吸をし、「以前もお話ししましたが。」と言って言葉を切り、しばし考える。アッサンブラは足を組み、肘を当てて手に顎を乗せる。リラックスした姿勢で、いくらでも待つという意思表示だ。

「私は病気や怪我に苦しむ人を救いたい。そのために人生を捧げています。病気になってから治療するか、そもそも病気にならないようにするか。この二つの道が選択できる場合、多くの人は後者を選ぶでしょう。ただ・・・。」

 手に顎を乗せたまま、アッサンブラは目で先を話すよう促す。

「ただ、人ではない別の生物クリーチヤーになりたいかどうかは疑問です。」 

「なるほど。」

 アッサンブラは上半身を起こし、ソファの背にもたれかかる。

「何を以てその存在を人間だと定義するか。それはこれから先の人類の命題となるだろうな。」

 マリラは、「人ではない別の生物」と言ったが、実際自分でもどこからが人でどこからが人でないのかという明確な線引きがあるわけではなかった。つい先ほど、ニールセン博士と議論したばかりだ。

 肉体を人工物にするなど、受け入れられるはずがないというマリラの主張に、ニールセン博士は関心がない様子だった。

「何にせよ、遅かれ早かれ人間は進化した種に統合される。この世の全ての旧式の欠陥品は、より強くより完全なものに取って代わられるのだからね。そうならざるを得ない環境下であれば尚更だ。この物理法則とでも言うべき進化過程に対しては個人の意思などあってないようなもんさ。」

 マリラはその主張を覆したいという感情に駆られた。ニールセンよりも頭脳で劣るのはわかっている。しかし、決して納得してはいけないと、心が告げていた。劣等感からくる対抗心なのか、それとも別の潜在的な理由によるものなのかはわからなかった。

「でも私は、自分の肉体や臓器を全て人工のものに入れ替えることに抵抗を感じることは確かだわ。再生医療の研究者として矛盾しているとは思うけれど。」

「それは君が健康で、大きな怪我の経験もなく、頭脳明晰で美しいからだ。多くの人は、君に比べて肉体への執着心が薄いかもしれない。…いや、寧ろ言われるまでもなく、ことじゃないか。肉体なんてただの入れ物だと考えればいいと。ああ、それで逆にそんなに過剰不安を起こすのかな。」

 物思いに沈んでいたところ、アッサンブラに名を呼ばれ、マリラは顔を上げた。心の内側を探るようなアッサンブラ視線を正面に受ける。

「君の考えはよくわかったよ。それを踏まえた上であえて聞かせてもらいたい。君はここに残って計画に協力するか、それとも元の病院に戻るか、どちらを選ぶのかな、」

 答えは決まっていた。多くの人々の命がかかっている。個人的な感情で拒否をするという選択肢はその時のマリラにはなかった。

「協力します。」

        ***

 当初<新人類製造計画>は、人の肉体を人工細胞で形成し脳を移植するというものだったが、直後に大きな戦争が起き、惑星統一中央政府<LOGODSロゴス>が興されたことにより、動物や人体を使用した実験の一切が不可能になった。計画は中断かと思われたが、人工多能性幹細胞<UN壱型細胞>の研究は続き、<sohr>の発見によって大きな進展を迎えた。

 マリラは後方へと流れていく海の波間に重なる自分の顔をまじまじと見つめた。五十歳を過ぎ、目元や頬、首の皮膚が随分とたるんだ。自分の体が老人になりつつあることを知るや、ふとそれを意外に思う。肉体と意識には明確なずれがある。思考に老いは一切感じない。肉体はこの波と共にあり、意識は水平線の遥か遠く、宇宙の深淵にあるのだ。

「自分が特殊な存在だからでしょうね。」

 先ほどの劉偉の、なぜ協力するのか、という質問に答えたつもりだ。

 あの日、自分の心を掴みきれず、<新人類製造計画>に協力することを決め、今尚研究を続けている。しかし、彼らに忠誠を誓ったつもりはない。

 劉偉は窓硝子越しに、納得したのかしていないのか、どっちつかずの微妙な表情を見せた。

 一時間ほど海岸線を走り、自動車は都市部から離れた山中へ向かう。隧道トンネルを抜け、荒れた平地に出た頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。星空の中に、ぽつりと建物の影が見える。屋上に巨大な天文台を備えたその施設は、最新型の宇宙開発研究所だ。以前は民間企業がスポンサーとなって運営している文化施設だったが、数年前に<MAJA>の所有となった。

 この研究所の責任者は宇宙物理学者ニコラ・ハッサン博士だ。マリラ・ビレンキンから連絡を受けていたハッサン博士は、マリラの到着をたった一人で待っていた。

 マリラが劉偉を伴って研究所のロビーに登場するや、ハッサン博士は慌てふためき、乱れた髪を両手で懸命に撫でつけた。マリラも一人でやってくると思っていたのだろう。着衣もTシャツとジーンズというラフなものだった。

「マリラ、どなたです、この…、」

 ハッサン博士は劉偉をちらりと見て、言葉を飲む。気品を漂わせ、知性と威厳が人の形をとったかのような美しい男に圧倒されているのは明らかだ。マリラはこの同僚に苛立ちを感じながら、「私の友人で、研究仲間の劉偉さんです。」と紹介する。

「劉偉です。ハッサン博士のことはよく存じています。先日のシンポジウムでのスピーチはとても刺激的でした。」

 差し出された手を両手で握りながら、ハッサン博士は劉偉の顔を無遠慮に細部までまじまじと観察する。

「ありがとうございます。とりあえず、座りますか?」

 ロビーに備え付けのソファを指すハッサン博士にマリラは首を横に振る。

「研究を劉さんに見せてほしいの。」

 端的なマリラの要望に、ハッサン博士は、猛禽類のような大きな目をさらに大きく見開いた。劉偉とマリラを交互に見て、困惑した表情でそれはできないとはっきり告げた。

「ニールセン博士から、誰にも見せないようにと言われているんです。」

「大丈夫ですよ、私とヴィクタは旧知の仲ですから。」劉偉がにこやかに答える。

 そんなことは初耳だ。マリラは横目で劉偉の顔を伺ったが、この男の本心を見抜くのは不可能だろう。嘘か誠かわからないが、何も言わない方が得策だと判断した。

「でも…」

「それではこうしましょう。今日、私はハッサン博士の研究についてプライベートで雑談をしにきた。それならいいでしょう。」

 ハッサン博士の表情が変わった。劉偉の言葉の意味を思案し、妥協の余地を探しているのは確かだ。

「私も研究者の端くれとして、ハッサン博士の研究にとても興味があるのです。に。」

 劉偉が一歩近寄り、背を曲げてハッサン博士に顔を近付けながら言った。

 甘やかな言葉に心を動かされつつあるハッサン博士は、それでも尚躊躇いがちに手を揉み、助けを求めるようにマリラに視線を送る。

「ニールセン博士がシンポジウムで発表した内容を少し詳しく説明してくれるだけでいいのよ。」

 マリラに言われ、ハッサン博士は安堵した表情を見せた。

「それなら是非聞いていただきたいです。ミスター劉、マリラ、ついてきてください。」

 案内されたのは、広大な面積を持つ、空港の飛行機格納庫のような場所だった。飛行機の代わりに、空間の中央に巨大な硝子の塊のようなものが浮いている。

「理論多面組織体です。<sohr>の五次元収斂活動をシミュレーションし、擬似脳細胞との感応実験を行なっています。」

 劉偉が近くで見るため、足を踏み出そうとするのを、ハッサン博士は手で制した。

「気をつけてください。今は制御システムがオフなので目に見えないですが、数多くの機材がここにはあります。」

「制御システムをオンにすることはできないんですか、」劉偉が聞いた。

「できます。ですが、その代わり、ニールセン博士に連絡がいきます。」

「なるほど。ではやめておきましょう。」

 ハッサン博士が左腕を振った。三人の視界いっぱいに、イエローのネオンライトのような線と文字が現れる。

「私たちの世界を構成する最小単位である<ストリングス>は九次元に繋がっています。その最初の入り口が五次元時空で、私たちの四次元時空を最小単位に細かく刻み、一つ一つを一連の“命令コマンド”に従わせるものが空間です。五次元ではその命令部分、つまり空間そのもののが作り出され命令と制御が発生しているのですが、四次元時空と五次元時空の接触面には五次元物理法則と四次元物理法則の変換が起きます。これをメサード理論と言い…」

 劉偉は目まぐるしく変わるイエローネオンの数式や図形に目を瞬かせ、申し訳なさそうな表情しながらハッサン博士の方に手をおいた。

「ハッサン博士、すみませんが、<sohr>について説明していただけますか。」

 ハッサン博士は残念そうな表情を見せたが、頷き、再度腕を振る。

 空間中央の硝子の塊の周囲を囲うようにイエローネオンが動き、部屋全体にブラックホールや天体の図形が描き出される。

「<ストリングス>はブラックホール表面に到達すると宇宙記憶として保存されます。その到達速度は光の速さを遥かに超えているので、おそらくは“複写空間性跳躍”であると推測されます。<sohr>とは宇宙全ての情報を記憶し、またそれをリセットして宇宙へ放出する一連の活動の総称です。空気清浄機だとでも思ってください。ただし、リセットされない情報があります。それが人の、いえ、全生物の<意識体>です。全ての物質にはそれを制御し命令を下すシステムが存在します。生物にはさらに複雑な命令システムがあり、それが意識、人間で言えば自我と呼ばれるものです。<意識体>は脳が生命活動を認識した瞬間に発生します。それは即座に<sohr>に記憶され、ホワイトホールから戻ってきます。」

 数本のイエローラインが宇宙と地球の間を行ったり来たりする。

「新しい肉体に、生きている人間の意識を別の脳に移動させることは本当に可能ですか、」劉偉が聞いた。

「はい。理論上は可能です。睡眠時に混線が起きていることも最近の研究でわかりました。全く別の人工脳細胞に<意識体>を定着させられるかどうか、目下研究中です。」

「…なるほど。」劉偉は腕を組み、思案する。

「ミスター劉、あれは何に見えますか、」唐突にハッサン博士が、巨大な硝子の塊を指し、聞いた。劉偉と同時にマリラも空間の中央に浮かぶ理論多面組織体に目をやる。

「ああ、」劉偉はふと表情を明るくした。

「脳、ですね。」

「正解です。<sohr>のシミュレーションに最適な形状を計算したところ、生物の脳細胞に似たものになりました。構成組織の数は脳細胞には及びませんが、今はこれが限界です。もし本当に<sohr>と接続し、<意識体>を別の脳細胞に受信させるとなれば、大気圏外にこれの百倍規模のものを設置することになります。」

「大気圏外ですか。」

「はい、月に。<LOTUSロータス>の次の月面調査で建設地を検討します。実用化に向けて<特異アイ変質デイー細胞シー疾患デイー>患者の体で生体実験をするそうですよ。でもこの計画のためとはいえ、…あ。」ハッサン博士は慌てて口元を抑えた。

「聞かなかったことにしますよ。」

 劉偉は変わらず落ち着いた態度で、さらに<sohr>についての説明を求めた。

 マリラは二人の数歩後ろでその様子を眺めていた。

 劉偉の後ろ手に組んだ右手の指が、左手の甲に食い込み、血が滲むほど強く握られたのを、マリラは目にした。


(続く)

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