夏の匂いに君想う

浦科 希穂

夏の匂いに君想う

 私は夏が嫌いだ。

 ジリジリと肌を焦がす日差しも、息のしにくい熱風も、絶え間なく鳴き続ける蝉の声も、じっとりと汗の滲んだべたついた肌も、何もかもが嫌いだ。

 私が妻と出会ったのはそんな真夏の頃だったが、それでもやはり夏は好きになれそうにない。

 妻と初めて顔を合わせたのは、親が決めた見合いの席だった。

 ハイカラな着物を着せられていたが、恐らく本人の趣味ではないのだろうなと思ったのをよく覚えている。

 ただ、そんな中で綺麗に結われた艶のある黒髪がとても美しかった。

 妻は両家の談笑に耳を傾けながら静かに微笑んでいるような、そんな大人しい女性だった。

 決して自己主張はせず、少し目を伏せてずっと優しく口角を上げているような、そんな女性だった。

 一方、あの頃の私はというと、文豪かぶれのひねくれ者でたいそう不愛想な奴だったように思う。

 いや、決して妻に興味が無かったわけではない。

 分からなかったのだ。異性に接する機会など無いままにその年まで過ごしてきてしまったものだから、どんな顔をして、どんな話をしていいものかさっぱり分からなかったのだ。

 それでも妻は、そんな私に文句の一つも言わずについてきてくれた。

 休日に私が文豪の真似をして、書斎机に原稿用紙を広げながら煙管キセルを吸っていると、静かに私の横に座り一緒に時を共有してくれた。

 そんな在りし日の記憶を思い出しながら私はふと、書斎机をゆっくりと撫でた。

 机の上には白紙の原稿用紙が乱雑に散らばっている。

 綺麗好きの妻ならば、こんなものはすぐに角を揃えて机の端に置くのだろう。

 教養も礼儀も申し分なく、ずっと私を献身的に支えてくれた妻は、まさに「大和撫子」という言葉を体現している女性だった。

 そう考えると、よくもまあ、見放されなかったものだとつくづく思う。

 そんな風に妻に想いを馳せていると背後から足音がして、私はゆっくりと振り返った。

 割烹着を着た妻が布巾で手をぬぐいながらこちらにやって来るところだった。

 妻は私の恰好を見るなり、また文豪ごっこですか、とクスクス笑った。

「もうすぐ夕飯の時間ですよ」

「……」

 私は居間に向かう妻の背中を黙って見送った後、机の端に置かれた写真立てに視線をうつした。

 家中に漂う線香の匂いと写真の中で笑う妻の顔が、毎年この時期にだけ繋がる。

 私は居間に向かう妻の背中を思い返しながら、マッチを擦った。

 ぱっと一瞬大きく燃え上がった炎はすぐに頭薬とうやくで落ち着き、真っ直ぐ上を向いている。

 煙管キセルの先に火をつけて手振りでマッチの火を消すと、ふわりと消火の煙が昇った。

 途端、マッチ独特の匂いが鼻を掠めて、私は僅かに目を細めた。

(お前がこの匂いを好きだと言ったものだから、私はすっかり愛煙家になってしまったよ)

 すうっと大きく煙管キセルを吸って、肺に溜まった煙を細く吐く。ただその繰り返し。

 何を想うでもなく、ぼうっと窓の外を眺めながら煙管キセルの煙が儚げに薄れ散っていくのを見送った。

 年甲斐もなく感傷的な気分になってしまうのは、このあまりにも美しい夕陽のせいだろうか、それとも、どこからか聞こえるヒグラシの鳴き声のせいだろうか……。

 いいや、きっと、毎年この時期にしか嗅ぐことのない三つの煙が混じったこの匂いのせいだろう。

(なあ、お前は幸せだったか? こんな偏屈な奴のところに嫁入りしたことを後悔していないか?)

 そう問うたところで、もう私の隣に妻はいない。

 今年はナスの精霊牛しょうりょううしを作らないでおこうかとも思ったが、そうはいくまい。

 運動が苦手だったお前が不格好に牛にまたがって、あくせくしている姿を思うと何だが可笑しかった。

 どうか向こうではゆっくり休んでいてほしい。

 私が早々にそちらへ行ってしまったら、お前はまたせっせと私の世話を焼くだろうから、私はもう少しこちらに残ることにするよ。

 そうして、最後の煙を吐き出した。

 目の前の夕陽がゆっくりと沈んでいく。

 確実に今日を終えようと沈んでいく。

 そう、私の気持ちなど微塵も考慮せずに、まるで舞台が終演するかのように。

 どうやらここでは、カーテンコールは叶わないらしい。閉じた幕はもう二度と上がることはない。

 そう思うと、妻の消えたこの家がいつもよりも一層広く感じられた。

 ああ、だから、夏は嫌いだ。

 君を強く思い出す夏が……私は大嫌いだ。

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夏の匂いに君想う 浦科 希穂 @urashina-kiho

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