セーラー服を脱ぎ捨てろ!

黒っぽい猫

第1話 セーラー服を脱ぎ捨てろ!


杉村若菜はちょっと変わった子だった。


私が若菜と初めて会ったのは、私が入社して2週間の社員研修を終え本店営業部に勤めるようになってからである。若菜は本店の経理だった。


本店とはいっても社員数30数人の中小企業である。本店に15人、大阪支店と福岡支店に数人の社員が配置されているだけの小さな会社だった。後で知ったのだが正社員は私と若菜を含めて12人しかおらず、残りは契約社員と派遣社員だった。本店勤務の女性社員は、営業1課の私と経理課の若菜の他にデータ入力オペレータの河野理央がいたが、理央は契約社員だった。


若菜はまじめで遅刻や欠勤は1度もなかったが、理央は体調が悪いと言ってはしばしば欠勤や早退することがあった。オペレータとしては大変優秀らしく普通1日かかる仕事を理央は半日で終わらせることも多いという。そのせいか本店を仕切るトップである専務の岩田も理央のわがままに目をつぶっていた。


それになにより理央はすこぶる可愛く男性社員のアイドルだった。顔立ちはさして美人というわけではないのだが小柄で華奢でよく笑い、誰にでも愛想がよく仕草がカワイイのである。こんなことを言うとフェミニストに叱られるかもしれないが、可愛い女子社員にはわがままが許されるのである。特に若い男性社員が多い職場では。それに比べて不美人ではないが黒ブチのメガネをかけ、いつもまじめでいかにも経理らしい女子社員である若菜に対して男性社員はときおり冷たく当たっているように見えた。


経理の若菜は地方出張が多い男性社員に対して仮払金の清算を求めることが多く、うるさがられることが多かったのである。経理として当然のことをしているのに、めんどくさがり屋の男性社員たちは「何度もしつこくてうるさい」などと陰口を言っていた。何度も言われなければ仮払金を清算しない自分が悪いのに。である。領収書を紛失したために若菜から実費請求されると、あからさまに嫌な顔をする社員もいた。紛失した自分が悪いのに。である。


若菜と私は同い年で、理央は2歳年下だった。アルバイトを除けば職場で最年少ということもあって、理央はみんなから可愛がられたのである。私は正直わがままな理央が好きではなかった。理央は裏表があり性格がよくないことにすぐに気が付いた。が、なにせ職場のアイドルである。理央には適当に話を合わせていた。女性同士ならすぐに気が付くことだが男性社員たちは気づかなったようだ。若菜は人付き合いがあまり得意ではないようで、仕事以外で理央と話しているのを見たことがなかった。


会社の主な業務は金融関係。と言えばカッコいいが、クレジット業務の他に、怪しげな仮想通貨を扱ったり、保険の代理店をしたり、不良債権の取り立てなども請け負っていた。私が採用されたのは法学部のゼミで金融商品に関する契約を専攻していたことと前職で法務部にいたことが有利に働いたらしい。ちなみに給料は前職のほぼ2倍と破格だった。


大学での勉強なんか実務ではほぼほぼ役に立たないが、銀行出身の金融実務家はいても法律に詳しい社員がいなかったため、転職先を探していた私に採用の話が持ち込まれたのである。話を持ちかけてきたのは大学の先輩の西野友幸だった。西野はボランティアサークルの先輩だった。ちなみに西野とは大学時代に半年ほど付き合っていたことがあるが、ただ単に趣味が一致して一緒に美術館に通った程度である。


採用試験はなく、履歴書と成績証明書の提出のほかは専務取締役兼経理部長の岩田大介との1対1の面接だけだった。しかもたった30分の面接のあと即決で正社員採用が決まった。社長は複数の会社を経営しており、金融部門は専務の岩田に任されていたのである。社長の小塚雄二とは社員研修の折に初めて会い、期待の新人として直に励ましの言葉を頂戴した。


あとで岩田専務から聞かされたところでは、私の採用には営業1課主任の西野の強い推しがあったとのことだった。後日西野には誕生日にお礼の意味も込めてプレゼントを贈った。西野が好きなクリムトの額である。西野は私とまた付き合う気があったようだがそれはそれ。申し訳ないが丁重にお断りした。






私が勤め始めて3か月ほど後のことだった。杉村若菜が珍しく会社に来ていなかった。岩田専務にたずねると若菜は経理の研修会に参加していて今日1日は不在だという。若菜が担当している金融部門の経理は難解なものも多く、経理部長の岩田ですら難しいという。そのため若菜は特別な経理の研修に行かされたのだった。


翌日、若菜はいつものように出社してきた。昨日は直帰だったため、岩田専務から昨日の研修についてたずねられていた。


「杉村さん、昨日の研修はどうだった?少しは役に立ったかい?」

「ハイ! 難しかったですが役に立ちました!」若菜はハキハキと答えた。

「そうか。どういうところが役に立った?」岩田専務が顔を緩めてたずねた。


岩田専務は大変優秀かつ仕事の鬼で社員から尊敬と同時に怖れられてもいた。いつも顔をしかめて書類を眺めており、岩田専務に話しかけるのは勇気がいることだった。自他ともに厳しい人だったからである。私は幸いにも気に入られたのか大事にされたが、しょっちゅう叱られている社員もいて、岩田についていけず辞めた社員もいたとの噂もあった。


そんなきびしい岩田に若菜はよく従っていた。しばしば厳しい口調で細かく指示されても正面から受け止めて頑張っていた。これが理央なら泣き出すかふくれっ面をしてソッコーで辞めていただろう。岩田には人を見る目があって理央に厳しく言うことは決してなかった。理央のわがままな態度に一部社員から不満の声があがっても「ほおっておけ、彼女には彼女のやり方がある」となだめていた。だから岩田が顔を緩めて応対するのは珍しいことだったのである。


若菜はちょっと上を向いて昨日のことを思い出している様子。それから明るくきっぱりと言いはなった。


「忘れました!」


その明るく天真爛漫な声がオフィスに響き渡った。


みんながふりかえった。岩田専務はどう応えるだろうか?怒り出すだろうか?不機嫌になって苦虫を噛み潰したような顔で「もういい」などとつぶやくだろうか?社員たちの注目が岩田と若菜に集まった。


「そうか。忘れたのか。でも行ってよかったんだな?」

「ハイッ! とってもよかったです!」

「ならよかった。仕事に戻っていいよ」


なんとそんな頓珍漢な若菜の答えに岩田専務は上機嫌のままうなずいたのだった。


「おい、みゆき。今の聞いたか。忘れたってよ。ナニがよかったんだか。あいつ、ホントおかしいよな」

西野がニヤニヤしながら小声で話しかけてきた。

「いいじゃない。本人がよかったって言ってるんだから」

私はそっけなく答えた。私は西野のそういうところが嫌いだった。






ある日のお昼。私は持参したお弁当を食べていた。男性社員たちのほとんどは出払っており、それぞれ近くのファストフード店かそば屋でお昼ご飯を食べていた。理央は今日も体調不良で欠勤だった。


私が自分の席でお弁当を食べていると岩田専務が若菜を呼んで何か話していた。ボソボソとした小声なので正確には聞き取れなかったが、プライベートなことを話しているらしい。その話の中ではっきり聞き取れたのが、「いつまでも持ってないでセーラー服なんて脱ぎ捨てなさい」という専務の言葉だった。それに対して若菜はうつむいて「捨てられません」と小さな声で、しかしきっぱりと答えていた。


セーラー服を脱ぎ捨てろと岩田専務は若菜に言っていたのだった。なんのことだろう?わたしは耳をそばだてたが折悪しく電話がかかってきたためその後の会話は聞き取れなかった。若菜は天然で明るかったが「どこか陰のある子」とでも言おうか、ときおりなんとも言えずさびしそうな顔を見せることがあった。過去に何かあったのだろうとは思っていたが、それがセーラー服とどう結びつくのか、その時はまったくわからなかった。






その理由を教えてくれたのは意外にも岩田専務だった。なぜ私にそのことを話してくれたのだろう?それはたぶん若菜のことを思いやってくれ、大事にしてやってくれ、という意味だったのだと思う。ちなみに岩田専務は若菜に「セーラー服を捨てろ」と言ったのであって「脱ぎ捨てろ」とは言わなかったらしい。私の聞き違いである。


杉村若菜は二人姉妹の妹で、2歳上に仲の良い姉がいた。人付き合いが下手でよくイジメにあっていた若菜をいつもかばって慰めてくれたのが姉だった。ところが姉は、中学3年の時に自死してしまったのである。理由はわからない。気丈に見えた姉が心の奥底に深い闇を抱えていたことを若菜はまったく知らなかった。若菜が今もずっと大切に持っているセーラー服は姉が亡くなる前日まで着ていた制服だったのである。


大好きな姉が突然自死してしまったことで若菜は精神的に不安定になり一時期不登校になった。引っ込み思案でいじめられっ子だった弱い若菜を陰になり日向になって守ってくれた強い姉。その姉が自ら死を選ぶなんて。中学1年の若菜が想像できないような心の闇を姉は抱えていたのである。若菜はつらいことがあるとそのセーラー服を見て、自分を励ましてくれた姉を思い出して泣いているのだという。


岩田専務はそんな若菜に姉のセーラー服を捨ててしまえと言ったという。いつまでもつらい過去に囚われていてはいけない。10年以上も前のそんな不吉なものを後生大事に持っているから過去から抜け出せないのだ。過去を振り返らず生きろ。若菜がひとに心を開けないのは、姉の呪縛があるからだと岩田専務は言ったというのだ。


一番近くにいて一番よく知っていたはずの姉の心の奥底にある苦悩に気づかなかったことを若菜は今でも悔やんでいるのだという。そして妹の自分に一言の相談もなく遺書も残さず死んでしまった姉のことを思うと、姉のためになにもできなかった自分に生きる資格があるのかと今もしばしば悩むのだという。セーラー服を脱ぎ捨てろは私の聞き違いだったが、あながち間違いではないのかもしれない。若菜の心は中学3年で死んだ姉のセーラー服を今もずっと着続けているのかもしれなかった。


岩田専務が若菜に姉のセーラー服を早く捨てろと言っているのはそのためなのだ。姉の死に若菜は関係ない。仮に関係があったとしてもそれは過去のことであり、いつまでも過去をひきずっていてはいけない。姉は自死したけれど若菜には生きてほしかったはずである。自分ことをいつまでも覚えていてくれるのは嬉しいかもしれないが、それが悲しい思い出なら忘れてほしいと姉も願っているに違いない。だから岩田専務はセーラー服など早く捨ててしまえと言っているのだ。


大好きだった姉のことを忘れたくない。だから若菜は姉のセーラー服をずっと大切に持っている。しかしそれを姉は本当に喜んでくれるだろうか。若菜はまだ20代だ。若菜にはこれから先長い人生がある。幸せになるためには暗い過去を捨ててどこかに埋めてしまわないといけない。岩田専務はそう言って目を閉じた。ひょっとすると岩田専務自身にも何か人に言えない暗い過去があるのかもしれないと私は思った。






それから私はつとめて若菜に話しかけるようになった。亡くなったお姉さんの話を聞いたことは岩田専務に口止めされていたから、過去のことは一切聞かなかった。若菜も過去の話をしなかった。まじめで明るくて天然に見える若菜が今までどれほど苦しんできただろうか。私がどれだけ若菜のことを思いやっても、私に若菜の気持ちがわかるはずはなかった。たとえ仲の良い姉妹であってもひとに話したくないことはあるものだ。誰にだってひとに言いたくないことはある。しかし相手のことを全部わからなくてもお互いを思いやることはできる。


その後私は結婚して会社を辞めた。結婚相手は西野ではない。岩田専務の紹介で以前に専務が勤めていた会社の部下だった人とお付き合いを始めることになり、意気投合して半年後に結婚したのである。「あいつは本当にいいヤツだよ」岩田専務はそう言ったがその言葉に間違いはなかった。


若菜とは会社を辞めて以来一度も会っていない。若菜は過去と決別して姉のセーラー服を捨てられただろうか。その後いい人と巡り会って幸せになれただろうか。若菜はひとりでいてはいけない。信頼し合える人と一緒に生きていくほうがきっと幸せになれる。私はたまに思い出しては若菜の幸福を願うのだった。






おわり。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




あとがき


タイトル詐欺だと思った人。ごめなさい。

これ、実話に基づいた話なんですよ。

なので登場人物にはモデルがいます。

万一当時の社員が見たら気づくかも。

若菜は幸せに暮らしてるかな。


最後まで読んで下さりありがとうございました。


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