第8話
――再び 2021年 イギリス ロンドン
「そうだったな。血の付いた着物が屋敷の隠し扉から出てきて、そこに付着していた髪の毛のDNAが彼女のものと一致したのが決め手だった。確か東野圭子は事件が世間に公表されたタイミングで台場セキュリティーの株を空売りしていた。新製品のお披露目前に社長が殺されたせいで株価が大暴落し、それで彼女の口座にはかなり莫大な金額が舞い込むことになるからそれが動機らしいな。幽霊という手を使ったのは……」
「話題性を狙ったと供述してましたね」
警視庁の内部には記者クラブというものが存在し、大手新聞各社の記者が情報をいち早く獲得するために日夜常駐している。台場セキュリティー社長殺害事件もその日の朝には新聞の一面を飾っていた。その記者クラブに対しては白谷と三上が目撃した幽霊の情報は明かさなかったが、警視庁内ではかなり大きく話題になっていたためどこからか情報が洩れたのだろう、週刊誌で報じられた際にはことさら幽霊という単語が強調された記事が出来上がっていた。大方、東野の計画通りに事が運んだわけだ。彼はこれを知った時、犯罪者ながらも東野圭子に感心したのを覚えている。
「で、だ」
「ええ。分かってますよ。この事件はまだ、東野圭子が捕まった時点で完全に解決したというわけでもなかったですから。もう一人の犯人の可能性について、解説しないとね」
「もう一人……?」
「ええ。ていうかこれはがきりなく憶測に近いので聞く価値はないと思うますよ」
「いや、話せ」
ここに来ての新情報だ。電話の相手が姿勢を正し、一言一句聞き漏らすまいと聞く体制になったのが気配で分かる。
「あの日、最後にカギを持っていたのは犯人である東野圭子でしたよね。でも東野圭子はずっと屋敷の中のどんでん返しに潜伏していました。では一体だれが鍵を閉めたのでしょうか?」
「……は?」
警視総監はそんなの東野圭子に決まっているだろうと言いかけ、やめる。
「警視総監殿。例えばあなたが俺の家に来たとしましょう。それであなたが家に入った瞬間に俺がカギをかけたらどう思います?」
「……おかしいとはおもうな」
「ええ。家に二人きりの時にカギをかけるのは言ってしまえば逃がさないと言っているようなもんです。おまけに台場社長の性格とあの時の状況を考えればさらに怪しまれて当然なのです。なので東野圭子さらすれば怪しまれぬためにはできるだけ鍵をかけたくない」
「しかし、白谷の報告によれば鍵は完全にしまっていたと。だから窓を蹴破り、中に入ったんだろう?」
「ええ。正直これは鍵の形状がクレセント錠というのがかなり大きいです。取っ手が上がっているかどうかで鍵が開いてるかどうかの判断が付きますから」
「つまり、あの時白谷たちは鍵がかかっていたように見せられていたということか?」
「はい。俺の予想ではホログラムが使われたんじゃないかと思っています」
彼の目の前に鳩が止まる。なにか恵んでくださいというべき顔をして彼の方を見ているがあいにく今の彼は鳩が好みそうなものの持ち合わせがない。彼は小声で「ごめんね」と謝り、足を振って追い払った。
「……ホログラム?」
「ええ。立体写真というやつです。おそらく懐中電灯でも立体写真を成立させるリップマンホログラムを使ったのでしょうね」
「おい、まて」
「あーまあようはそこにカギがなくてもあるように見せられてしまうという方式を応用したんです。正面玄関のクレセント錠のところにホログラムを張り付け、そこに懐中電灯を向ける。すると鍵のかかったクレセント錠が映し出されるわけです。これがすごくてですね、最近では美術館の展示はホログラムで行うところもあるみたいですよ。客はそれが立体写真だと気が付かないし、立体写真だから盗まれる心配もない。まあただ屋敷の引き戸はすりガラスでした。なのであまりに長く照らしすぎるとそれが立体写真だとはばれなくとも違和感を残してしまう。なので一瞬だけ照らして鍵がかかっているように見させえすればいいのです」
「じゃあ、そのもう一人の犯人っていうのは……」
「秘書の三上さんでしょうね」
「……」
警視総監の方から重苦しい沈黙が流れてくる。それは冷気となり彼の耳から入り、脳を直接刺激した。
「すいません。ただ僕が言ったことに証拠はありません。どっちみち三上さんを逮捕するのは難しかったと思いますよ」
「まあ、そうだな」
「ええ。じゃあ憶測ついでにもう一ついいですか? まあこれは自分の中では半分確信に近いものですし」
「台場さん、わざと殺されたのかもしれません」
彼の言ったことを、警視総監は一瞬理解することができなかった。わざと殺されるなど、そんなことがあるはずがない。
「なぜ、そう思うんだ」
「いや、冷静に考えてみてください。台場さん、犯人に都合のいいように動きすぎていないですか? 警備を外に追い出したり。それに仰向けに寝かせられていたのに刺されていたのは背中でした。ようは殺されたときはまだ起きていたのです。着物を着ている状態で歩くと衣擦れや足音などが普段と全く違うものになる。素人の僕でもその違いには気が付くんですから台場さんもそれには気が付いたはずだ。なのに全くの抵抗なく殺された。おかしいとおもいませんか?」
「……だがなぜわざと殺されるようなことを」
彼はこれを言うべきか少し迷う。そのせいかその口調はぽつりとつぶやくようなものになってしまった。
「台場さんの家に飾られていた家族写真の中に娘さんが写っていたんです。恐らく前の奥さんとの。その娘さん、東野圭子の面影があるような気がして……」
「……」
「動こうにもすべて手遅れですよ。本当に東野圭子が金のためだけに殺したのかどうかは今となっては分からない。ただ状況から推理すればという話です」
「……そうか。それじゃあ憶測ということにしておこう。それじゃあおやすみ」
警視総監はさっさと電話を切ってしまった。日本とイギリスの時差の関係でロンドンは夜ではなく、夕方だ。彼が眠りにつくには時間が早すぎる。
電話を切った後のささやかな喪失感を噛み締めながら、彼はゆっくりと携帯をポケットの中にしまった。そして夕暮れを反射しながら流れるテムズ川を眺め、ぼんやりと当時を振り返った。俺はなぜあの時、この推理を黙っていたのだろう。考えれば考えるほどわからなくなるが、家族写真の中に写っている台場を思い出した途端、ようやく一つの答えにたどり着いたような気がした。
難しく考えなくとも彼は台場の想いを無駄にしたくなかったのかもしれない。東野圭子と台場の間に何があったのかはわからない。もし本当に東野圭子が台場の娘であるのなら、なぜ台場は東野圭子に殺意を抱かれるまでになったのか。手遅れになる前に関係の修復はできなかったのか。今となってはその答えを見つけるのは数学のミレニアム問題を解くよりも難しい。存在しない答えを見つけることほど無駄で大変なことはない。ただ、台場は復讐され、娘にお金を残すことで父親としての責務を果たしたのだろう。いままで築き上げてきた塔を土台から壊すことでだ。
お笑い草だ。彼は心の中で嘲笑う。おとなしく殺され、金を残しただけで娘の傷が癒えるとでも思ったのだろうか。それにほんとに台場の想いを無駄にしたくないのであれば真相なぞ解き明かしてもわからないと言って突き通せばよかったのだ。しかし彼は真相を話し、東野圭子を逮捕させた。台場の想いを守りたい自分と真相を明るみにしたい自分、どちらも嘉村匠の中に存在する自分であるのに、なにがどうなって彼は真相を半分明るみにし半分黙っていたのか、それは分からない。その時の感情を思い出すには、自分は歳を取りすぎた。
ただ、その要因の一つは、当時、彼は何もかも中途半端だったということだ。もし本当に真相を明るみにしたいのならば三上のことも台場と東野圭子との関係もなにかも話して捜査させればよかったし、もし本当に台場の想いを守りたいなら何もかも黙っていればよかった。そのどっちかの方法を取ればよかったのに彼はなぜかその真ん中を選んだのだ。そんなこと本来は許されてなどいないのに。
彼は目を瞑って夢幻の図書館の中に入り、黄金色に光る鍵を創造した。この台場セキュリティー社長殺人事件のすべての真実を解き明かすための鍵である。彼はその鍵に中途半端な選択をした当時の自分を組み込んだ。罪悪感なんて、今覚えたって手遅れなのだ。
彼は目を開ける。そこには赤く染まるロンドンの街並みがあった。まだ手の中には鍵の感触が残っている。彼は思いっきり振りかぶり、その鍵をテムズ川に投げた。小さくとぷんという音がしたがきっと聞き間違いだろう。ホログラムさえ介していない、正真正銘幻想の鍵なのだから。
彼はテムズ川に背を向ける。いまだけはそのせせらぎは彼の心を埋めることはできなかった。ベンチの脇に置かれていたコーヒーの紙カップを持ち上げる。中の茶色の液体は持ち上げられた時に波紋を作り、揺れる。冷えたコーヒーと胸に残るなにかを一緒に飲み干し、口にコーヒー以外の苦々しさを感じながら彼は夜に染まりつつある摩天楼へと消えていった。
その空に浮かぶ月は、一体どんな形をしていたのだろうか。
《了》
半月に幽霊 山田湖 @20040330
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