後編



 夢遊病者のごとき足取りで山崎は朽ちかけた屋敷の門を潜った。

 荒れ果てた前庭を横切り、土足のまま縁側をのぼって居間へと侵入した。

 畳から雑草が生えているような有様なのだから、罪悪感など皆無だった。


 どう見ても廃屋だが、火の入った置き行灯あんどんがどこか客人を歓迎しているかのようでもあった。


 噂が真なら、山崎の目指す場所はここであった。


「たのもう! この屋敷を訪ねれば裏稼業から足を洗えると聞いた」


 しばらくは何の反応もなかった。

 だが、天井の羽目板がギシギシ軋み、しわがれた声が降って来た。


『罪深き過去を清算したいと言うのか? アヤカシの力で? 人間風情ふぜいが?』

「そうだ! 死んだダチの妹……マヤを幸せにしてやる為だ。俺は、友人の墓前に何があっても彼女を守り抜くと誓ったのだ」

『ガーッハハハ、罪人の嫁は幸福じゃないということか』


「笑わば笑え。しかし、功徳くどくを示さぬ神に祈る者などいるものか」

『ククク、言うではないか。すぐ後悔することになるぞ。では試練を与えてやろう。まずは庭の井戸から水を汲んでくるのだ』


 部屋の隅にあった衝立ついたてが倒れ、その陰から墓参りに使いそうな手桶が出てきた。

 手にもってみれば、桶の中には雑巾ぞうきんと亀の子タワシが入っていた。


 山崎は言われるがまま庭へ出た。

 確かに、伸びた雑草に隠れてはいたが井戸らしき残骸があった。

 現代人の山崎にとって井戸を使うなど初めての経験だった。

 見た目に反して滑車と縄が無事だったのがせめてもの幸運であった。


 鶴瓶つるべを井戸に落とし、水がたまった容器を縄で引き上げる……滑車を回しているとはいえ、それは蛇口をひねる行為とは比較にならない重労働であった。


「不便すぎるだろ」


 早くも息があがっていた。それでもどうにか桶に水を汲み、山崎は虫刺されをかきながら屋敷へと引き返した。


「さぁ、準備ができたぞ。やるなら、さっさとやれ」

『威勢のいい奴だ。はたして、コレを見ても同じことが言えるかな』


 言うが早いか、地震かと身構えるまでに屋敷が揺れ、天井が破れて巨大な何かが居間へと落ちてきた。落ちてきたモノが居間の肘かけと火鉢を踏み潰し、衝撃で部屋の床すらも傾いた。室内を惨憺さんたんたる有様に変えたのは、サイズ二メートルを超える規格外の大足だった。


 すね毛のみならず、足の甲までびっしり体毛に覆われ、指には獣のごとき爪がはえた醜い足であった。しかもそれだけではない、出現と同時に思わず涙ぐむほどの悪臭がたちこめる、泥だらけで汚い大足だった。


『ガッハハハ、さぁ、好きなだけ足を洗え! 美女でないのが残念だが、満足すれば願いをきいてやらんでもないぞ?』

「こ、これを洗えだと?」

『どうした、どうした? 嫌だと言うのなら踏み潰して畳のシミに変えてやろうか?』


 山崎には、引くに引けぬ事情があった。

 嘲弄ちょうろうをぐっとこらえ、雑巾と手桶を持ち作業に入った。


 それはウンザリするような苦行だった。

 洗っていない家畜小屋のような悪臭に耐えながら、醜悪な大足を洗うのだ。

 泥は固くこびりついておいそれと落ちるものではなかった。

 しかも、すねまでも洗うにはまたがって上へ乗らねばならなかった。

 山崎の服はたちまち泥まみれ、あまりの悪臭に耐えかね、庭で嘔吐までした。


 その度に飛び交うアヤカシの罵声。

 山崎は歯を食いしばって耐えながら、手桶の水を何度も汲み替えて足を洗い続けた。およそ一時間ほど経っただろうか、苦労の甲斐あって大足はどうにか綺麗になった。


『ふむ、よかろう』


 ゴミのように山崎を振り払うと、大足はスルスルと天井の大穴へ引き上げていった。山崎は安堵の溜息を零した。どうやら試練を乗り越えられたのだとそう思った。

 だが、しかし……。


『馬鹿め。まだ片足が残っておるわ』


 物理的にも心理的にも衝撃をともなう再登場だった。

 落ちてきたのはまたも泥だらけの大足。

 さっきと違うのは左右の足が入れ替わった事だけだった。


 すでに疲労困憊ひろうこんぱい、山崎の絶望は計り知れない物だった。


 その時であった。

 ズカズカと大股で庭を横切り、足洗邸へと入ってくる影があった。


 それは言わずと知れたアカナメ次郎。小粋で、洒落てる人情派。

 、彼は依頼人を見捨てはしなかった。


「あーさん、妖怪の試練なんか真面目にこなしちゃダメよ? 騙し騙されて、ナンボ。妖怪と人の信頼なんてそんなもんよ」

「アカナメ、どうしてここへ?」

「話は後々。まずはこれでもくらいやがれってんだ、水虫野郎」


 アカナメが手にしていたのは、床や壁の洗浄に用いる高圧洗浄機であった。

 圧力をかけて水を撃ち出す銃器のような機械。

 それを大足に向けると、すかさずトリガーを引いた。


「な!? アカナメ、お前どこの水を使っているんだ」

「校舎からホースで引っ張ってきたのよ。妖怪に法なんて野暮なこと言いっこなし」


 さしもの近代兵器に、大足のしつこい汚れもたちまち落とされていった。

 だがしかし、尚もアヤカシは満足しなかった。


『まだまだ、続いて三本目に入るぞ』

「!? どうなっているんだ。また汚れた右足? キリがないじゃないか」

「だから無駄だって、欲を断ち切らないと永遠に続くよ。山崎の兄さんは知らんかね。『足を洗う』という言葉の由来を」


 アカナメの言によれば、本来それは仏教用語であり、修行僧が足を洗って入門前に世俗の煩悩を清める風習からきたものであった。

 アカナメは背中にさしたデッキブラシを引き抜きながら言った。


「ねぇ、兄さん。もしも生き方を清算したいというのなら、もっと先に清算しなきゃならん物があるでしょ? あくどい真似をして稼いだアブク銭。それを抱えたまま、生まれ変わろうたって甘いんだよ。そうは問屋が卸さない」

「ぐっ、そこまでしろと」

「妖怪は嘘が嫌いなんだ。女を幸せにしてやるって誓いは、嘘じゃないんだろ」

「判ったよ! 好きにしろ」


 山崎は財布から銀行のカードを取り出し、アカナメに投げつけた。


「暗証番号は8930だ。その金は好きにしていい。だから!」

「8と9と3を足すとゼロね。実にそれらしい! こりゃお後がよろしいようで」


 トドメとばかりに高圧洗浄機で水を浴びせ、アカナメはデッキブラシを縦横無尽に振るった。三本目の足はたちまち清められ、アヤカシも山崎の気っ風の良さに満足した様子だった。


『ふむ、よかろう。関係者の記憶を全て消してやる。ただし、マヤとやらの思い出だけはそのままだ。そこはお前が説得するんだぞ』

「ありがとう、恩に着る」

『二度と再会せぬことを祈っておるぞ。真人間に戻って出直すがよい』


 こうして足洗い邸での冒険は終わった。

 二人が駆け足で屋敷を脱出すると、蜃気楼のように全ては消え失せた。


「それじゃ俺っちもこれで。立つ鳥、後を濁さずってね」


 アカナメも多くは語らず、去った。

 サウナ施設のワゴン車に乗って。

 ひとり残された山崎はぼんやりと立ち尽くすだけだった。


 遠くで鈴虫が鳴いていた。秋はもうすぐそこであった。




 ――


 後日、サウナ施設にまたも依頼人が訪ねてきた。


「この街のどこかに裏稼業から足を洗える場所があると聞いたが」

「確かにありますけど、兄さんはどんな理由で?」

「うるさい! 警察の捜査が迫っているんだ。説明している暇などあるか」

「ふーん」


 妖怪アカナメ。

 かつては風呂場のあかをなめとるだけの低級妖怪だった。

 だが、令和の現代において彼の果たす役割は大きく変わった。


 社会の汚れ、心のあか、それをはらい清める事こそが彼の存在意義となっていた。


 アカナメはニヤリと笑って新たな依頼人に応じた。


「どうやら掃除のしがいがありそうだ。いえいえ、こっちの話でして……」


 










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アカナメ次郎の怪キ録 ー 足洗い邸の三本足 ー 一矢射的 @taitan2345

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