赤い糸

深川我無

赤い糸

 あれは夏休みの出来事です。

 手芸部の活動が終わり家に帰ると、学校に忘れ物をしたことに気が付きました。

 

 時刻は十六時半を回ったころでした。


 忘れ物が友人との交換日記だったこともあって、誰かに見られたら嫌だなと思い、急いで取りに行くことにしました。

 

 あたりが橙色に染まり始めたころ、私は中学校に着きました。まだ明るい時間帯でしたが、校舎にも校庭にも人影はほとんどありませんでした。

 校庭の隅のほうで野球部の男の子が、一人で何かを片付けているのがちらりと見えただけでした。

 

 なんとなく薄気味悪い感じがしたので、さっさと忘れ物を取って帰ろうと思い、自転車を駐輪場には駐めず、下駄箱の前に駐めて校舎に入りました。


 忘れ物は手芸部の活動をしていた家庭科室にあるはずなので、まずは職員室に家庭科室の鍵を取りに行きました。


 職員室もいつもとは雰囲気が違ってガランとしていて、なんだか寂しい感じがしました。

 

 入り口から対角線にある席で太った男の先生が一人、汗を流しながら扇子をあおいでいました。窓から西日が差し込み逆光になっていましたし、こちらに背中を向けて机に座っているので、わたしにはその先生の顔が見えませんでした。あんな先生いたかな? と少し不思議に思いましたが深く考えないで鍵を取って職員室を出ようとしました。

 

「あいさつは!」その先生は突然大きな声でそう言いました。驚いたわたしは、小さな声ですみませんとだけ言って急いで職員室を出ました。

 

 先程怒られた余韻もあいまって、なんだかやっぱり今日の学校は変な感じがするな……と不安になりながら、わたしは急いで家庭科室に向かいました。家庭科室は職員室のちょうど二階上にありました。階段を登っていると、上の階から人が降りてくる気配がします。トントントンと足音が近づいてくるので、踊り場あたりで鉢合わせになるなとぼんやり考えていましたが、踊り場では誰とも鉢合わせませんでした。あれ? と思ったすぐ後に、わたしの後ろでトントントンと足音が遠ざかっていくのが聞こえます。

 

 全身に鳥肌が立ち、手足にうまく力が入りません。

 

 恐る恐る踊り場から下の階を見ましたが誰もいません。

 

 逃げ帰ればいいものを、変に交換日記のことが気になって、私は上の階へと進みました。


 家庭科室のある四階に到着するとダダダダダダダダダダダダダダダとミシンが動く音が聞こえます。

 

 おかしなことに家庭科室の鍵は開いていました。わたしが帰る時、鍵はたしかに施錠したはずでした。それに鍵はたった今職員室から取ってきたばかりで私の手の中にあります。

 

 家庭科室の窓は摺りガラスになっていて中が見えません。意を決してドアを開けると、制服を着た女の子が一番前の席でミシンを使っていました。


 やはりこちらに背を向ける格好で作業しているので顔は見えません。西日が弱々しく差し込む部屋にダダダダダダダダダダダというミシンの音だけが響いていました。

 

 運が悪いことに交換日記は女の子がミシンをかけている隣の席に、ポンと置かれていました。


 今思えばこの時に逃げだせばよかったのに、この時はなぜかどうしても日記を持って帰らないといけないような気がして帰るなんてことは思いもしませんでした。

 

 わたしは出来るだけ音を立てないようにそっと交換日記に近づきました。女の子の顔を見ないように後ろからそっと日記に手を伸ばしました。


 日記を掴んだ時、ふとミシンで作っている作品に目が行きました。それを見てわたしは心臓が止まりそうになりました。

 

 白い体操服の胸元に真っ赤な糸でわたしの名前が刺繍されていました。

 

 ダダダダダダダダダダ。ピタリ。

 

 ミシンの音が止まり女の子は振り向いて「ママに渡してね」と言い、にっこりと口角を上げるのでした。

 

 その女の子の眼は赤い刺繍糸でしっかり縫い付けられていました。

 

 わたしは「ぎゃああああー」と叫んで大慌てで家庭科室を飛び出しました。


 途中何度か転びそうになりながら下駄箱に到着しましたが、慌てすぎてうまく靴が履けません。


 トントントンとまた足音が聞こえて来た気がしましたが、振り返らずに校舎を出て自転車に飛び乗りました。

 

 空は紫色に変わっていて、星が見えはじめています。


 やっとの思いで家につくと門柱の明かりが点いていました。

 

 玄関に転がり込んでリビングのドアに手をかけると

 

 

 ダダダダダダダダダダダダダダダダダダ

 

 

 ミシンの音がします。

 

 嫌な汗が吹き出てきて、膝がガクガクと震えます。


 祈るような気持ちでリビングのドアを開けると、母がこちらに背を向けてミシンで何か縫っていました。

 

「お母さん?」と恐る恐る呼びかけると

「あらお帰り。遅かったじゃない」と母がこちらを振り向きました。

 

 いつもの母でした。安堵で涙が溢れてきました。

 

「ちょっと、どうしたのよー?」と母がこちらに来て背中をさすってくれました。


 わたしは学校であったことを泣きながら母に話しました。母はよしよしと頭を撫でながら話を聞いてくれました。

 

 ずいぶん気持ちが落ち着いてきてふと机を見ると、真っ赤な糸でわたしの名前が刺繍された体操服が置いてありました。

 

 わたしが恐怖に引きつりながら母を見ると、母はにっこり微笑んで「赤い糸が素敵でしょ?」と言うのでした。

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赤い糸 深川我無 @mumusha

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