国芳ロックンロール
三奈木真沙緒
夢への道は、険しいよりも、寂しい。
型どおりの挨拶をして、ライブハウスを出たところで、山岡
誰にも聞こえないように、ため息をこぼした。
上京して……何年だろう。
子どもの頃からギターが大好きだった山岡は、中学生で、プロのギタリストになりたいという夢に目覚めた。両親の反応は、なれるといいねというものだったが、息子が高校3年生になってもなおそう繰り返すので、底知れぬ不安を感じた。山岡は大学も専門学校も拒み、卒業したら東京に行ってバイトしながらギターで身を立てると言い張った。どうやら本気らしいと感じ取った両親は、本気で腹を立てて反対した。父の叱責も母の懇願も、息子を折ることはできなかった。南高を卒業した直後、山岡は書置きを残し、ギターと身のまわりのもの少々だけを手に、そっと出発した。有言実行。ほとんど家出だ。以来両親とは没交渉のままだった。おそらく向こうは、息子は死んだものとでもみなしているのだろう。
バイトとギターの腕を売り込む生活を続けていたが、やはり音楽の専門学校に行った方がよいと思い直し、昔の貯金とバイト代をつぎ込んで、2年間通った。同じような野望に燃える若いミュージシャンとのつながりも増えたし、女性も出入りするようになった。たちまち業界の目に留まって鮮烈デビュー、なんてトントン行くわけがないとは、頭ではわかっていた。が、心がついていくかどうかは別問題だ。わかってはいるけれど、もう少しなんとかなってくれてもなあ、と非建設的な思いにとらわれるのはなぜだろうか。
ライブハウスでの観客の反応は悪くない……と思う。単発の仕事はまったくない、わけではない。だが次につながらない。ミュージシャン仲間といろいろ情報を交換しながら、試すことのできる道はさまざまに試しているのだが、結果ははかばかしくなかった。自身の感覚を研ぎ澄ますために、たとえお金がかかってもライブハウスに出演する機会は減らしたくない。
けど……。
歩道の片すみで足を止める。全身が砂袋にでもなってしまったかのような感覚にとらわれ、5秒後に頭を振ってそれを追い出し、再び歩き出した。地下鉄の改札へ続く階段がようやく見えてきた。
◯
一眠りした後も、頭の芯がややぼやけた感覚は抜けなかった。ひとりぼっちであることに軽く戸惑い、そうだ今日は早番だから飲み会断ったんだったと思い出して、あわてて起き上がる。冷蔵庫には、2日前にここでみんなが集まった際のケータリングの残りがまだある。だがあまり食べる気にならず、山岡はハムを1枚つまんだだけで、着替えをして支度を整えた。今夜はバンド仲間と打ち合わせとリハーサルだ。バイトの後は時間があるので一旦帰宅することもできるが、帰らずにどこかで時間を潰して行こうか……迷ったので、結局ギターケースもバイト先に持って行くことにする。今日は曇りか。カーテンを閉め直し、火元と戸締りを確かめて、アパートを飛び出す。
バイトの手順はもうすっかり体が覚えているレベルなのでミスをするわけではないのだが、ぼやけた感覚は相変わらずで、世界のすべてが薄い膜の向こうで展開しているような、離れた印象のままだった。休憩時間に、コンビニのおにぎりをひとつ、無理やり口に押し込む。食べたくはないが、食べないと体がもたないことがわかっているから、である。まだ日が高いうちにシフトを終え、挨拶して着替え、忘れずにギターケースを持ってバイト先を出た。
さて、どうしようか。打ち合わせまで数時間ある。アパートに戻ってひと眠りするか。それも悪くない。が、……アパートに帰ること自体が、どうにも面倒に思えて仕方がない。
……おれは、うぬぼれていただけ、なんだろうか。いつの頃からか、山岡の意識の底をゆっくりと回遊するようになってしまった深海魚が、頭をもたげる。それは非常にスローながらも確実に、水面へと浮かび上がろうとしているのだ。
中学で仲間を集めてバンドを結成し、ステージフェスティバルという学校行事でデビューした。あのとき生徒たちから浴びたシャワーのような喝采が、山岡の心にひとつの光をともした。進路がばらばらだったため、バンドは卒業と同時に解散を余儀なくされたが、高校で新たな仲間を集めてまたバンド活動に打ち込んだ。でもどちらの仲間も、いい奴らではあったけれど、プロになってまで続けていきたいという考えはなかったらしい。それでも仲間たちは「山岡ならなれる」と言ってくれた。――社交辞令、だったのだろうか。そうとでも言うしかなかったのだろうか。……そうだろうな。もし仲間の誰かが「おれもプロめざそうかな」と言い出したら、自分ならどう答えただろう。――「一緒にがんばろうぜ」かな。間違っても、お前には無理だ、なんて言えそうもない。……そういうことか。ただの井の中の
わかっていたつもりだった。友人や仲間内にちょっとほめられた程度の腕が通用するほど、甘くないと。……「つもり」でしかなかったということか。
――
脳裏で、中学時代の旧友に詫びる。山岡に、夢のきっかけをくれた同級生だ。
おれ、やっぱり、……無理かも。
……山岡は足を止め、ゆっくりと首を上へ向けた。そういえば、最近は空なんてろくに見上げてなかった気がする。前方か、あるいは下の方ばかり見ていて。
ふと思いついて、山岡はスマートフォンを取り出した。去年、偶然にもある旧友と、街角でばったり出くわしたのだ。その場で連絡先を交換し、たまにメッセージのやりとりをしていたが、電話するのはこれが初めてだった。在宅を確かめ、今からそっちに行っていいかと持ちかける。相手はえらくキンキン声を張り上げていたが「まあそう言うなよ」という表現で押し通し、話をまとめて強引に電話を切った。
追い帰されたら、そのときはそのときだ。
スマホをポケットに戻して山岡は、さっきまでよりやや軽い歩調で歩き出した。
――別の生き方をさぐっても、いいかもしれない。
今年いっぱい、がんばってみよう。年内で、これはという手ごたえが得られなかったら、来年からは別の生き方を考えよう。仕事を見つけて、ギタリストと比重を少しずつ入れ替えて、……音楽は趣味の範囲に縮小する。
「そのときは、そのときだ」
今度は口に出してみる。自分の声なのに、まるで乾燥しきった繊維を吐き出しているみたいだった。
◯
地下鉄を2回ばかり乗り換え、歩いた時間は10分もないと思う。通りから1本入った雑多な雰囲気の道を行くと、そろそろ建て替えを勧めたくなるようなアパートが視界に現れる。
ほどなくドアが開いた。ほぼ平均的な身長。少々カサついた肌に、いかにも余裕がありませんといった様子で荒く束ねた髪。アンダーリムの眼鏡。そして、造作は決して悪くないのに、この上なく不機嫌そうな表情。
「なによ」
吐き出された声は低く、腹立たしそうだ。山岡はわずかに上体をのけぞらせた。実のところ、気圧されたのである。
こいつ、変わってねえな。
「おお……忙しそうだな」
「忙しいわよ、制作に追われてんだから」
「ちょっと邪魔していいか」
「邪魔だとわかってんなら来るな!」
「まあそう言うなよ」
それでも玄関前でわめく行為について、思うところがあったのだろう、小長井はしぶしぶドアを大きく開き、山岡を中へ招じた。おわ、と山岡は小声でつぶやいた。忙しいというのは口実ではないらしい。広いとは言いがたいワンルームのそこかしこに、画材やら資料の本やらが散乱し、反故と思われる物質が偉そうに鎮座している。掃除しろよと言いたいが、これでは掃除もままならないのではないか。山岡の部屋は女性がひっきりなしに出入りし、世話好きの誰かがいつの間にか掃除してくれるのできれいなのだが、どこに何がしまってあるのかわからなくなったり、自分で買った覚えのない新しい下着が詰め込まれていたり、棚を占拠しているのがどう見ても女性の身のまわりの品だったりと、別の意味でアメージングワールドと化してしまっている。
「やってんなー」
窓のそばにイーゼルが置かれ、ひときわ大きなキャンパスに、描きかけの風景画が片腕をひろげようとしている。
「イヤミ?」
「なんでそう
「忙しいときに押しかけてきて、エラそうに言うな」
「はい」
山岡は肩をすくめて、抗戦をあきらめた。なんでおれはこう、こいつにはかなわないんだろうか。……というか、女全般に強く出られねえんだよな。
山岡自身、決して気弱ではないと思う。むしろ口が悪く、相手が男性だろうと女性だろうとずけずけものを言う性質だ。だが山岡が関わる女性たちはさらに強気で、ずけずけずけずけと百倍くらい言い返してくるので、ぐうの音も出なくなる。最終的に、はい、とかしこまって返事するしかなくなり、気がつくと完全に尻に敷かれている。山岡の好みのタイプが気の強い女性なので、自業自得、ということになるのだろうか。いや自縄自縛か。
小長井はそのまま、何かの下描きを始めた。山岡は足の踏み場もない部屋で、突っ立ったきりである。
「……お茶とか出ねえの」
ぎろり、と殺人的な目つきが突き刺された。本当に、ぎろり、としか表現できない目つきだった。
「アクリル絵の具の茶色なら、腹いっぱい飲ませてあげられるけど?」
「遠慮しとくわ」
小さな震えを自覚して、山岡はうかつな冗談は差し控えることにした。
それきり小長井は、山岡がいることを忘れてしまったようだった。彼に背を向けたまま、机に座って作業に没頭している。鉛筆の芯がクロッキー用紙をこする音が、意外に大きく聴覚をくすぐってきた。そういえば、アパート目の前の通りは車どおりが少ないせいか、あまり騒音はなさそうだ……夜は事情が異なるかもしれないが。
手持無沙汰なまま数分が過ぎた。山岡は所在なく、あちこちを見回した。多少気になる絵の資料が見えるけれど、うかつに近づいたら怒られるかもしれない。
「あのさ」
家主がちっとも注意をはらってくれないので、山岡は自分から用件を切り出すことにした。
「みっともねえ話……ちっと、行き詰まってさ、音楽の道。…………ひょっとしておれ、あんま、向いてねえんだろうか、とか……思ってみたりもして」
ああ、本当にみっともねえ話。女性陣には絶対聞かせたくねえ。……けどなんで、ここではしゃべってるかな、おれ。きっと小長井は女じゃねえんだな。
けっこうひどいことを思いながら、山岡は口をつぐんだ。小長井の背中の向こうで、鉛筆とクロッキー用紙が仕事を続けていることがわかる。……聞こえてたかな。聞こえてねえのかな。もうおれの存在が忘れられてたりして。……耐えられなくなって、ふたたび呼びかけようとしたとき、機先を制するように小長井が口をひらいた。自分の手を止めようともしないで。
「絵でも描いたら? しばらく音楽忘れて」
「え?」
いや、シャレのつもりではない。
「どうせアンタ最近、音楽ばっかりで、ろくに絵描いてないでしょ。そこのテーブルにある鉛筆と紙、適当に使っていいから。ほかの画材が使いたけりゃ、ことわり入れてちょうだい」
……ここにテーブルがあんのか? 山岡は上体を斜めにかたむけながらしゃがんで、散乱する有象無象の中にどうやら座卓が埋もれているらしいと認識した。家主のお許しが出たので、壁際にどうにかギターケースの安置を成功させ、あっちを押しのけこっちを押しのけ、天板にある程度の作業スペースと、その手前に座るスペースを確保する。天板は絵の具の汚れだらけだ。
「何描こう」
「なんでもいいわよ、提出するわけじゃないんだから。そのくらい自分で決めなさいよ」
「はい」
また小長井の声が尖ってきたので、山岡は首をすくめた。手近な紙を引き寄せる。A3よりやや小さいが、形が微妙にゆがんでいて、明らかに何かのきれっぱしだ。これなら描き散らしても迷惑にはなるまい。今にも落ちそうになっていた鉛筆をすくい上げて、握る。
さて、何を描こうか。くるくると鉛筆を回しながら思案する。小長井の指摘通り、東京に来てから絵など描いていない。山岡は、音楽だけでなく絵も好きだった。小学生の頃から何度かコンクールで賞を取っているし、中学では腕を買われて、運動会の巨大看板制作に毎年駆り出され、高校でも大型の美術品制作では必ず頼られた。正直なところ、山岡本人も、音楽と絵のどちらで生きていくか、かなり真剣に悩んでいた。ギターの道を選んで上京してからは、絵を描く余裕はどこにもなかった。バイトと音楽漬け。あとは、睡眠と、飲み会と、女。時間も気持ちも、絵に割く部分はなかった。いきなり描けと言われて、ぱっと出てくる題材はない。
……小長井といえば、アレか。山岡は鉛筆を紙に下ろし、描きはじめた。小長井と一緒に過ごしたのは、中学時代の2年間だけだ。音楽よりも圧倒的に、絵を介したつながりが多い。中でも、3年生のときに、運動会のデコレーション看板を協力して描いて優勝した思い出は、今でも鮮烈に脳内で再生することができる。デコレーション制作班は当然小長井が指揮を執るだろうと思っていたら、あの時期は彼女は美術部の活動がピークになっていて、それどころじゃないと言われてしまったのだ。
「作業は参加する。そのかわり山岡、責任者はアンタがおやり」
……確かあのときも、はいと返事するしかなかったような。だから責任者としての実務は自分が担当したけど、純粋に絵のことについては、けっこうマジな論争したっけ。色塗りしながらケンカになってしまったこともあって、看板制作に参加してくれた下級生をおろおろさせてしまったこともあった。それだけに……閉会式でデコレーション部門の優勝が発表された瞬間は、もう嬉しくてたまらなかった。あやうく小長井に抱き付いてしまうところだった。今思えばそうしておいてもよかったかな。平手打ち5発ほど食らうことになっただろうけど。10発かな。それとも正拳突きか、アッパーカットか。……そういえばあの看板、制作途中にトラブルで失格食らいそうになって、桑谷に助けてもらったなんてエピソードもあったんだよな。おれあいつには世話になりっぱなしだったんだな……。
鉛筆は案外スムーズに進んだ。
ちょっとアレンジしてやろうか。山岡は、散らばる反故の山を発掘して消しゴムを採取し、描き上がりかけた武者絵を加工し始めた。……ギターでも持たせてみるか。さいわいギターなら、目をつぶってでも描けるくらい知り尽くしている。なら左腕をこう上げさせて……右手はこうか……上体を少しばかりねじらせて……目線はこっちだな。顔の向きも微妙に変えた方が自然だ。刺青も……江戸時代にそぐわないものに変えてやろうかな。
「ちょっと山岡……」
小長井が手を止めて、振り返った。何かを続けかけてやめ、しばらく無言で眺めてから、おもむろに作業に戻った。その一連に、山岡はまったく気づいていなかった。
小長井のアパートを訪れてからそろそろ3時間になろうとする頃、山岡はようやく鉛筆を置いた。
鉛筆で描画された国芳の武者絵が、エレキギターをかき鳴らしている。伸びたコードは、それ自体が生きているかのように中空に躍り、一瞬を彩る。肌脱ぎになった武者の肩から胸にかけて、スペードのキングとハートのクイーンを図案化した刺青が浮き上がり、筋肉の流れに呼応した表情でにらみをきかせる。背後には黒雲が渦巻き、雷光がひらめく。山岡自身はちょっと腕が落ちたかなと思っているのだが、素人の目にはなかなかどうして、息をのむ迫力が十分にそなわった出来栄えだった。
「国芳って意外に、ロックが似合うな」
ばりばりの浮世絵なのにな、と山岡はつぶやいた。
「歌川国芳って、反骨の絵師って言われてるわよ」
いつの間にか、向こうから小長井がのぞきこんでいて、そう応じた。
「そうなの?」
「あれだけ模写してて、その程度の研究もしなかったの?」
アンタばかねえ、とあきれた表情で、小長井は見下してきた。嫌な気分どころか、なぜか爽快な気持ちになって、山岡はもう一度自分の作品を見下ろした。
反骨の絵師、か。つまりロックな絵師ってことじゃねえか。
「……結局おれ、音楽とギターが好きで、今までやってきたんだな」
肘をついて、しみじみと山岡はこぼした。しばらく音楽忘れて描いたら、と小長井に言われたのに、やっぱりギターを描いている自分がいる。わざわざ武者絵に持たせてまで。
「そうよ。当たり前じゃないの。忘れてたの?」
こともなげに小長井に言われ、山岡は小さく笑った。
「……ああ、忘れてた」
忘れていた。こんなに大事なことだったのに。
そうだ。どうしておれ、こんな大事なこと、忘れていたんだろう。
◯
やや暗色を増した空の下で、山岡は小長井のアパートを辞去した。「二度と来んな!」の罵声に送られて。
「今度来るとき、もうちっと歓待してくれよ」
「ああ、アンタにばったり会ったときに連絡先交換したのが運のつきよ。気の迷いだったわ。そのうちこっそり引っ越してアカウント変えよう」
「んなムタイな」
さらに続けようとする山岡の鼻先で、ぴしゃっとドアは閉められたのだった。
……結局、今アイツ何やってるのか、聞きそびれた。次回会う時のお楽しみにとっておくか。それと、これからは、飲み会と女をちょっと抑えて、少しずつ絵を描く時間を確保することにしよう。道具そろえないとな。とりあえず、鉛筆とスケッチブックがあればいい。今度お薦めの画材を小長井に聞いてみよう。「知るか!」とかわめいてくるだろうな。……罵られるがわだというのに、なぜかおかしくてたまらない。道端で笑いそうになり、山岡は必死で顔面筋肉を引き締めた。はかったように、文房具の店の看板が見えてくる。
買い物したら、もう家に戻る時間ないな。打ち合わせに直行するか。スケッチブック持って行ったら、からかわれるかな。それでもいいや。山岡は右肩のギターケースを揺すりあげると、文房具店に踏み込んだ。
……もう少し早いパッセージの弾き方、研究してみようかな。
山岡伸明、25歳。
およそ2か月後、さるアーティストのバックバンドに誘われる日が来ることを、彼はまだ、知らない。
国芳ロックンロール 三奈木真沙緒 @mtblue
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