第 7 章~エピソードまで


     第         七         章


 運命のいたずらかもしれないが、和美が信じられなかったのは息子の司法試験に合格した事ではなく、夫がT氏は田原利之だと言う事を知っていた事だった。

 そして自分の二人の息子が…、特に淳はどこで巡り会ったのか解らないが、T氏のつまり田原利之の娘と知り合い、彼の方が片思いだが好きになってしまったと聴いて驚いていたが、洋も近頃は一人の患者としてではなく、彼女として歳の差を考えないで恋をしている事など話をした…。

 和美は驚きの顔は隠せなかったが、理事長として最近はあまり病院の方は覗いてなかったのは確かだ。

 だが淳の事を次元に教えてくれる看護婦がいたのでその人に聴けばいいのだが、最近はその女性にも会っていない……。

 それにしても洋までが同じように好きにさせるような志穂梨と言う少女の顔が見たいと思い聞いたが、隆典は困って言い難そうに、

「淳のストーカーが原因で交通事故に遭い、両眼とも失明して……私も外科医として手術に立ち会ったが、あんなに大きなガラスの破片がいくつか両方の眼中に刺さっていたら失明して当然だと思うが、どうして刺さったのかは本人も分からないと言っている。今日も交通課の刑事が二人来てまともに目撃した数人の生徒と淳に聞いて行ったが、事故を起こした加害者にも現場検討に立会い、思い出させるように検察官や弁護士が聞いていた…。しかし、肝心の志穂梨さんの記憶は目が見えれば解るのだが、見えなくなった今では、どのあたりでガラスが飛んできたのか判らないと言うし、唯一、最初から近くで見て居たのが淳だが彼も記憶があいまいと言うより事故のショックの方が大きく軽い記憶障害になっているのかも知れないと私は思う……」と言った。

 それを聞いて和美は少し淳の事が心配になったが、どうして1ヵ月も経ってから夫が息子の不祥事を切り出すのか、直ぐに言う事は不可能だったのか、よく自分も考えていたが、ここ数ヶ月淳の将来の事で夫婦の意見が合わなくなっていた事だけは確かだ…。

でも和美はいつも夕食だけは夫、隆典のために作って用意してくれていたが、彼は、

「夜勤勤務だ」とか「急患が来て帰れなくなった」とかマトモな口実?をつけて帰って来ない日々が続いていた…。

 だが今夜は非行の息子の将来のため?に一晩じっくりと妻と話し合おうとして帰ってきたのだった…。

 しかし妻にこのような過去がある事を薄々知っていた隆典は、まさか相手の男の娘が交通事故でその目に一生涯、支障を負う傷を負わされ当病院に担ぎこまているなんて初めて夫は妻に明かしたが、まだ会いたくない昔の男友達と会わせる事は妻の心の奥に潜んでいるわだかま淳を捨てて楽な気持ちにさせるのではないかと思って言ったが、それでも和美は、

「会っても昔のお父さんのした事は許してもらえる事由ではないし、もし母親が私だと知ったら淳のした事も許してもらえそうもないわ……」と言った。

 だが和美の口からそういう意外な言葉を聞くとは思ってなかった隆典は過酷な運命の糸で巡り会うことになった利之と和美にはまだ顔も知らない志穂梨の事をどう思っているのかということを彼は思った。

 というのは田原を毎日見ていると今は昔と違って妻子が居るので少しは穏やかな表情はしていたのはいいが、淳のストーカー行為は立派な犯罪なのにどうして許されたのか隆典には疑問に思えた。

 もし和美が母親だと知っていたとしたら謎は解けるのだが、そうではなく27年間も音通不明で大学の同窓会にも顔を見せてなかった彼が、この町にまた舞い戻って来て、この病院を一目見て一番初めの事件に関わった病院だと分らなかったこと自体が不思議で、また淳の顔を見ても松本和美の息子だと気付いていなかった様子も不思議だった。

 それほど淳の顔は若い頃の和美に似ていて知人とか隣人などは誰が見ても母子だと気づくのだったが、田原は気付かなかった。もし仮に気づいていたとしても、もう27年も時空が空いていたので、田原の方もあの贈収賄事件の事は過去の事件としてすっかり忘れていたと思われる。

 そう思った隆典は和美に、

「田原さんはお義父さんの事件の事もすっかり忘れているのかもしれない。もし解っていたとしてもお義父さんは刑罰をそれなりに受けてきたんだから、それにもう亡くなって10年になるんだ。だからお前も忘れたほうがいい。いつまでもあの事件の事で思い悩んでいたら本当に鬱病になり兼ねないから言っているんだが、わかるだろう………この町で一番大きい病院はここしかないし、隣町に行っても遠いだけで奥さんが通うのも大変だから変えないのかも知れない。どこの病院に行っても治療代とか入院代は一緒だと思ったんだろう」

と気楽に憶測だけで言った。

 しかし和美はそう言う隆典の憶測に対して、

「でも私の顔を見ればどんな顔になると思うの?直ぐにあの時の脱税をして横領、その横領したお金を汚職に回して収賄罪で逮捕された娘のだと解るわ。淳には悪いけれど、そのお嬢さんと早く別れさせた方が良さそうね」

と言ったが、隆典は淳との約束もあったのでちょっと困った様子で、

「そんな事を言っても好きなのは彼の方なんだから……淳、本気でその娘の事が好きになってしまったみたいだ…。でも相手の少女は淳の事を「あいつ、あいつ」と小馬鹿にしているのでね。見ていたら淳の方が嫌われているって感じだからあきらめるのが時間の問題だと思うよ。だから今、言っても逆効果じゃないかなァと私は思う」

と男としての心理も含めて言った。

 でも和美は田原利之の娘、志穂梨の目を失明させた事が気にしている様子は驚きと、また謝らなければならないという不安と損害賠償を一生払わされると言う思いと合体して、地獄の底に突き落とされた感じだった……。

 淳はその頃ドアの影で随分前から父親と母親の青春時代の淡い恋の話から立ち聞きしていたが、まさか田原利之があの母の初恋の相手とは知らずにその人の娘、志穂梨に近づき恋してしまった自分を思い、その恋を略奪しようとする兄貴は好敵手のように思えたが、その上に両親、特に母親は息子達の恋を手放しでは喜べない複雑な家の事情を抱えている事を初めて知った。

 でも賄賂事件の収賄をしていた被告と言う立場なのであまり言えない前事理長は十年前に他界している……。

 それなのにどうして和美はそれほど気にするのか…?どうやら、それだけでは無さそうでもっと込み入った事情がありそうな気がした。

 淳は病院にありがちな医療ミスを思ったが、それなら父親の隆典や他の医師や看護師等が訴えられているのではないかと思い、最近そう言う話題は病院内では聞かないので首を傾げて考えていると不意に玄関のドアが開き、

「ただいま」

と言う長男、洋の声がしてびっくりし振り返った。母親は玄関のドアの開く音と洋の声が聞こえたので夫隆典との話しを中断して居間から出て来たが、淳もそこに立ちはだかっていたので、

「あなたいつからそこにいるの?」と聞いた。聞かれると淳も頭を掻いて、

「さっきから…、でも驚たなァ。母さんと田原検事が知り合いだなんて…それも母さんにとっては初恋の相手とはねェ。初めて聞いたよ…」

と言って母親の顔色を見ながら笑ってごまかした……。

 なんでも完ぺき主義で通していた和美にとっては、この次男坊にだけは昔の古傷の話しは聞かれたくなかったので、

「立ち聞きしていたなんてあなたらしいわね……。」と言ってつました顔になり、横目で淳を睨みつけた。

 そして、そこにいた今帰ってきたばかりの洋には、

「お帰りなさい。今日は夜勤じゃなかったの?」と優しい声で言って書斎から食堂に行った…。

 洋はその母の言葉を聞いて淳が

『また何かをやらかしたのだろう…』と思い父と弟を見て家の中に入ったが、淳はそう言う母親に対して自分の存在は、

『何なんだろう?』と子供の頃から思っていた…。

 大学の進路とは関係なしに和美が淳を嫌悪していたが、何故それほどまでに法学部を嫌うのか、その夜始めて知った。だから自分の部屋に行こうとしたが、父が彼を呼び止めた。そして父と書斎に行くと、

「和美も女だからなァ……学生時代は恋のひとつや二つは経験していると思ったが、相手が志穂梨さんの父親とはね。俺も始めて知ったよ。でもお前どこから聞いていたんだ?最初からか?それとも……」

と聞いた……。

すると淳はニヤッと笑い、

「最初からだったかなァ……」 

とあいまいな言い方をし、そして生真面目な顔になって、

「でも…、これからどうして…と言うよりか、どう付き合えばいいかだなァ…」

と言いながら父の顔を見た。

 すると隆典は、

「田原さんに会った時から俺は『どこかで会った顔だなァ…』と思っていたが、和美に言われてはじめて気付いた次第だからなァ。向こうも気付いてないと思う。ただ淳や洋の顔を見ても何も感じなかったというのが、不思議なんだなァ。ことにお前は母さんそっくりの面長な顔形なのに…だが最後にあの2人が会ったのが贈収賄事件で家宅捜索があった翌日だから、もうあれこれと30年近く会ってないからね。田原検事も忘れていると思うよ。きっと…だからお前に『検事にならないか』と平気で言っていたんだなァ」と言ってまじまじと淳の顔を見ていた。

実際のところ淳も同じ事を考えていたが、でもあの時は田原検事もふざけて言ったのかもしれない……。

 だが淳は頑として弁護士になり彼が、

『新聞で読んだ限り真犯人が別にいるのではないかと言う冤罪の被告を助けたい』

と言い切って検察官になる事を断った淳だが、本当は自分の態度を試されていたのではないかと思って言ったのだと今、はじめて気がついた…。

 でも本当にあの時はそういう志しを持って勉強していたので迷わず田原の誘いを断る事が出来たが、それは祖父の事件の影響かもしれない……。

 しかし兄は違う……。洋の方は母の言いなりの人生を歩んで小学校の一年の頃から医師を志し作文の課題で『僕の夢、私の夢』がある度に医師になる事を書いていたが、本当に立派な眼科医になり志穂梨の事故の時も主刀医としてオペに授さわっている……。

 そして今は主治医にもなって充実していた……。ただ何故か堅物で女友達がいない洋に対して淳はガールフレンドが掃いて捨てるほどいた。

 だが今は志穂梨一本に絞り結婚を限定に付き合いたいと、心の底から思っているが志穂梨はまだ幼いのだろうか……?まだ16歳になったばかりだと良太郎も言っていたが、彼女は見た目が淳には大人びいて見えた。だから志穂梨を見てほっとけない得体の判らない何かが彼女にはあり、それが好きにさせているのかもしれないと彼は思った。

 一方和美は一晩考えた末、やはり一度利之に会い淳のしたことを誤りたいと思って行く決心をしたが、隆典もどうして今頃になって2ヶ月前の事故のことを言い出したのか、相手が損害倍賞を保護者の親に言ってきたのなら理解するが、そういう話がないから理解に苛まれて言った隆典の気持ちも解かる。

 だが本当に淳がストーカー曲りな事をしていたのは母親として情けなかったらしい。そしてそれを見逃してくれた利之……。『どうして?初犯だから?』と疑問を持ったが、それは利之に聞かなければわからない。

 でも今回は見逃してくれたが、淳のことだから裏の手を使ったのかもしれない…。 そう思うと少しは法律を勉強させた甲斐があったのかもしれないと今頃になって、『ほくっ』と鏡の中の自分に微笑んだ。本当はそうではないが……。和美は淳を誤解していた部分もあったが、それは淳が洋と同じ道を進まず進路を変えたからだ。

 もちろん法学部に行くために一生懸命頑張っていたのは知っていたが、なぜ母親が希望する医学部がいやなのか、それさえ解れば淳を説得して今からでも医学部に入れて洋みたいな医師にさせるのだが、もう司法試験に通っている彼にそんなことを言っても聞いてくれないに決まっている。

 母親が折れるしかないが和美にもプライドがあった。そのプライドのために洋にも犠牲になってもらったが、別になりたいものなどなかった洋には和美のいう通りの道を進むしかなかったのだ…。

 だが裏を返せば洋も頭がよかったから母親がいう医科大学を入学出来、晴れてインターンを経て難関の医師国家試験も通って研修医、そして医師になったが恋愛はそうは行くまい。

 だが洋の相手も淳の相手も同じ娘で、その娘の父親はかつて和美の淡い恋心を抱いていた相手である。

 和美にとっては忘れようとしても生きている限り忘れることが出来ない。

利之もまだ再会してないが、きっとあの2人の兄弟の母親が和美だと知ったら、どういう顔をするのか想像できた。

 きっと彼も驚き、洋や淳をまた違った目で見るに違いないと思った。だがそれは憶測で、相手は当の昔に調べがついて、和美達の出方を待っているのではないかと思った母親は反対するのなら、その娘に逢ってからにしたいとも思うのだが、今は加害者の立場になっているのだから何も言えない…。

 たとえ利之の娘が洋と淳のどちらかを選んだとしてもまだ高校生で結婚したい年頃でもない。精々ボーイフレンド程度で終わる可能性もある……。

 そう思って会う決意をし、その次の日に病院を覗くように淳が大学に行ったか、否か確かめるように来た。本当は洋の方が結婚適齢期だけにその娘に惑わされてないかと心配で行ったつもりだが、そこで洋が利之と廊下で志穂梨の退院について話していた。

 洋は今病院に到着したばかりの和美に気づいて理事長として目礼したが当の和美は息子より田原利之の顔を見て懐かしくて声をかけようとしていた。

 でも声を掛けると必ずあの当時の事が蘇ってくるようで声を掛けずに別の道に行こうとしたが、で、そこを通り過ぎなければ理事長室にいけないので通り過ぎようとしてさっさと歩いて行った。だが洋が黙っていなかった。母親を見つけると

「ああ母さん後で紹介しますが、淳が追い掛け回して交通事故に遭い両眼ともに失明させてしまった少女の父親で田原さんです。今、今後の事を話していた所です」と言って母親に紹介した。

 すると相手も頭を下げて、

「いや、淳君があの現場に居ても、居なかっても事故は起こっていたでしょう。たが淳君が居てくれたお陰で頭を道路に打たなくしてくれただけでも有りがたいと思っています。頭を打っていたら記憶障害も残ると聞いていますから」と言ってその件は感謝していた。そして利之は話を元に戻して言ったが、眼科医の洋は、

「ここでは説明しにくいですし、レントゲンを見ながら言ったほうが解り易いですので診察室に来て下さいますか」と聞いて利之を連れて診察室の方に行った。和美は一人取り残されたが、何も気付いていない利之に和美は一段落していた。このまま解らなくてもいい……。どうかそうして欲しいと願っていたが、運命は皮肉なもので利之は『ふっ』と思い出したように立ち止まり、

「和美さん……松本和美さんですね」と振り返って言った。和美は驚いたように相手の顔を見たが洋も驚いていた。そこへ隆典も来たので洋は、

「僕の両親です。親父はご存知ですが、おふくろはこの病院の事理をしています」と言った。だが隆典も昨夜の話を聞いたばかりなので手間取ったが、淳と違って洋はあの話を聞いてなかったから簡単に自己紹介だけで済んだ。でも淳だと今頃面白がってとんでもない事を言ったに違いないが、そう思うと早くこの場を離れる事が出来る。だが和美は淳が引き起こした事故の責任はやはり親の自分たちにもあるのではと思い、賠償金の事を切り出したが、利之は、

「いいんです。よく娘の話と目撃した皆の話を総合して聞いてみれば淳君は悪くなく、事故を犯したオートバイの方が悪いという事が解りましてね。でも、もし淳君があの場にいなかったら娘の志穂梨はもっと重症の傷になっていたのではないかと思うと…、ただ彼女にとって失明はどれほど痛手か解らないのが困るのです。今まで見えていた物が突然の事故で、何も見えなくなるという事がどんなに不自由か、こちらの先生に後で私自身体験させてもらいたいと話していた所です…」

と言って彼女の顔をじっと見つめて言った。和美はちらっと息子と夫のほうに目を反らしたが、また澄ました顔で利之の方に戻した。夫の隆則はそれを見て気を利かして、

「では、私は回診の時間ですので、また後で……」と言って時計を見ながら別の患者の所に戻って行った…。洋はその父の後姿を見送りながらため息をしたが、利之も妻と娘の事が気になり腕時計を見ながら、

「もう交代時間か。妻もノイローゼになり地味だからね……。娘のわがままに振り回されているのですよ。一人っ子ですので、気ままに育ったものですから……」と言って笑いながら病室に引き返して行った…。後に残った和美の方は利之の行った方を見えなくなるまで見送っていたが、それを洋は不思議そうに、

「今の人は志穂梨ちゃんのお父さんの田原さんだよ。お母さんの知り合い?」

と耳元で聞いた。

 だが和美はぎょっとして彼を見たが洋は心理的に、

「母さんの顔を見てたら解るよ。ヘェ~初恋の人だったりして……。えっ図星?まさか……それで昔の話をしたくないんだ」

と言って和美の顔を見た。

 すると和美は

「昔はあんなに穏やかな人ではなかったわ。いつも自分に対して厳しく他人に対しても同じだったわ。でも自分のとは言えない裏金の捜索のためのお芝居をしていたのかなと思うと、私もすっかり、そのお芝居に騙されていたと思うようになったの。でもそれが解った時には実家は家宅検索され父、つまりあなたのおじいさんや数人の医師や他に製薬会社の社長の他に数人の上役、この事件の黒幕の大物の政治家まで次々と逮捕されたわ。そのために琴乃さんはマスコミの目や近所の人達の目に堪えられなくなり自殺を図ったけれど、この病院に運びこまれた時、何故かあの人に似た人も一緒だったの。これは後から看護婦に聞いたんだけれどね」と和美はあの頃を振り返って言った……。

 すると後の方から淳の声が聞こえて、

「ふ~ん。それでその琴乃っていう女の人はどうなったのかなァ。今の奥さんの名前は満希子さんなんだけれどね。ああいうゴギャゴキャがあり過ぎたので別れたのかなァ。それとも家族の言いなりに別の男と結婚させられたか、どっちかだよね」と言ったが、和美は首を横に振り、そしてしんみりした顔で2人の息子にあの頃の話をした。

「どっちでもないの……。ふられてしまったの……。琴乃さんはあれ以来ずっと心を閉ざして誰とも口を利かなくなったの。精神科の先生に診察して貰ったんだけれど『婚約者に裏切りられて、その上一族一門が祖父のために犯罪者になり逮捕されたのだから、その婚約者を殺したいほど憎いのに殺せなかった』と言ってらっしゃったわ。でも本当の事をいうと利之さんにはもう一人今で言う本命の彼女がいたの。その彼女と言うのが琴乃さんの異母妹の確か…名前は……満希子さんだったわ…。それを知ったのは利之さんが本格的に検事として地方に転勤を言い渡されていたのを満希子さんにだけその話をし、『僕に付いて来てほしいとは言わないけれど、君だけは幸せにしたい……』って言って抱きしめていたのを私とお父さんと琴乃さんが小耳に挟んで目撃してしまったの…。でもその頃の私はお父さんみたいな優しい恋人がいたので何も言えない立場だったけれど琴乃さんの方はプロポーズしている利之さんと満希子さんの間に駆け寄り満希子さんに『この泥棒猫!あなたの母親もそうやってお父様に近寄り私のお母様の死を待っていたのよ。お母様が死んだ後、後妻にしたお父様も許せないけれどあなたはもっと許せないわ…』と言って平手をかざり挙げて満希子さんの頬に一発降りかかろうとしていたのを利之さんがその手を間一髪で抑えて、

『それだから僕は満希子さんを選んだんだ…。君は綺麗だけれど、本当に美しい人はそんなことはしないよ。僕はじっと、この3年間、満希子さんと君を見比べていたけれど君は君達のおじいさんに似て傲慢なところが僕には不似合いだと感じていたんだ……。自分が気に入らない人物であれば直ぐそうやって罵り、誰でも手を上げて叩こうとする。特に自分より目下の者には……』と言って庇っていたわ。あの時は本当に琴乃さんが可哀相だと思ったんだけれど、その後、何があったのか知らないけれどあの二人は駆け落ちみたいに、この町と家を捨てて地方の転勤先に行ったわ。でも琴乃さんはそれからずっと心を閉ざしたまま本当に可哀想だったの。だって食事も喉に通らず痩せ細って行くし『私を愛してくれる人は誰もいないんだ…』と思い込んで何度か自殺まで図ったけれど死に切れなくてこの病院に運び込まれたぐらいだったの…。でもそんな琴乃さんも利之さんと満希子さんの事が気になり、よくこの病院に来て精神科の高杉玲司先生と話していたわ……」

と、ここまで言って一息ついた……。

 そして暫く物思いに深けていたが、その後の琴乃の事が淳には気になり母親に聞いた。すると和美は悲しい顔になり、

「人間ってどこでどう変わるか分からないものね…。どこからうわさが迷い込んだのか知らないけれど、あの当時高杉先生と琴乃さんの関係が怪しいと噂があったのよ…。でも高杉先生はそれを不正して「患者として彼女の話を聞いていただけで『特別な感情や愛情はなかった』って『自分に責任ない…』」と言ってらっしゃったけれど琴乃さんはそれを切っ掛けにまた、元のように塞ぎこんでしまって……あれ以来本当に人嫌いになって今では田舎に行って一人寂しく暮らしていると風の便りに聞いているわ。それを知った高杉先生は他の先生達に追い詰められてとうとう病院に辞状を出して他の病院に移って今では奥様と娘さん二人と静かに暮らしているのを見かけて話をしたのよ。でもあの先生も、『やはり今でも心のどこかで琴乃さんの事が気になる…』とおっしゃっていらっしゃったわ…」

と誰も知らない琴乃の行方を和美は心配そうにため息をついた。淳はそれを聞いて、

「利之さんに聞けば……さっきからずっと母さんの後ろで聞いているんだよ」

と言って和美の態度を見た。案の定驚いて後ろを振り向いた彼女に利之は階段の踊り場で腕を組んで壁に凭れ、あの忌まわしい過去の一場面を思い出していたが、淳に言われて彼もため息を吐いていた……。そして和美に、

「あの頃は私達も琴乃さんの事はあまり考えてなかったのは確かだが、ああいう性格の女なら男は誰でも嫌がるのではないのかな。可愛い顔して抜け抜けと意地悪はするし、性格も高慢で浪費家だし、普通のサラリーマンでは到底破産に追い込まれるのが墜ち。だからと言って結婚は無理だと僕は言ってない。もう少し満希子を見習えと言っただけだ」

と言って琴乃の事を思い出して暴露した。

 だが和美はあの日利之と琴乃の別れた後の琴乃の可哀想な姿を20年経っていても目に焼きついているので、

「全くあなたは女の心が分かってないのね。確かにあなたのいう通り浪費家の面もあったけど琴乃さんにとっては、それは政治家の娘と言うプライドの牲だと精神科の先生達みんなが口を揃えて言ってらっしゃったわ。そのプライドを捨てようと必死でこの病院の精神科に通い続けていたけれど心ない近所の人にそれを知られて総合失調症と勘違いされて家から出られなくなり、病院に余地なく強制入院させられたわ。可哀想に『一生満希子さんを怨む』と言って精神病院からの車に素直に乗り込んだけれど、直ぐに総合失調症ではないという事が分かり二日で退院出来たの。きっと裏で高杉先生が精神病院の方に手紙を書いて下さったに違いないけれど、その後はさっき言っていた通り、どこに行ったのか分からないの」

と言った。

すると利之は琴乃の事について全てを和美に話すべきだと、もう隠して置けないと思い、

「その琴乃さんの行方は分からなくて当然なんだが、もうこの世にいない。琴乃が天国に召される前に天使を産み落として、そのまま帰らぬ人になってしまったんだ。私と満希子は直ぐに彼女が入院していたこの

病院に駆けつけたが間に合わず子供だけ残して息を引き取ったと後から看護士達は言っていた。その娘は今、事故に遭いこの病院に入院している田原志穂梨だ……」と言葉をいったん切って和美の顔を見た。そして階段から降り切って和美の顔を正面から見て、

「久しぶりだね……、和美さん。君が私達の事を心配してくれていたとは思わなかった…。琴乃の事はともかくも私達の事まで憶えていてくれたとは……、君にとっては余程忘れ難い出来事だったのですね…」

と言って、そこにあったソファに座った。そして淳を見上げながら和美に、

「淳君には今回の事で反省の色もあったので許したが、本当は志穂梨の方も色々と言い難い事をしていたのでね。だから良太郎の交通事故の賠償金だけに留めようとして今、公訴しているところなのです……。あっちの弁護士はやる気満々の若手なので、こちらとしましては司法試験に合格したばかりの淳君に頼もうかと思いましてね…。それに淳君は目撃者でもあるし、別に調べなくてもそのまま目撃したことを正直に証言してくれてこちらも手間が省ける。だから司法実習を早く受けさせて弁護士にさせてくれませんか?そうしないと別の弁護士を考えなければなりませんし、それに目撃者も段々記憶が曖昧になって来るしで色々と考えたら、今のところ一番信用していいのが目の前でまともに見た淳君の証言だけなのです…。あっちの弁護士ももう少し自分達の見方をしてくれる目撃証言してくれる人を探している様子ですし、こちらも淳君が弁護士になって初仕事として引き受けてくれたら、どんなにいいか知れません……。それにあなたが考えているより淳君は将来のことを考えているようです……。そしてこの私ももうすぐ検察官引退する年なので弁護士事務所を構えなければいけないですしで、どうでしょう?……」

と言って和美の答えを待っていたが淳の方は驚いた……。

何故、半月前まで飛んでもない不良でオートバイで暴走を繰り返して影の番長格の自分をこの検事は信じてくれるのか……?

 その昔、母や自分の婚約者琴乃を利用してこの病院を荒らしまわって汚職事件の主犯格の数人の医者と政治家を拘置所に送った検事が淳にこれほど信頼するのか、淳や和美には疑問に思えた…。でも和美も淳に、

『どうしても弁護士になりたいのなら頑張りなさい』というつもりだったので、不足はなかったが、先を越されたのが母親として失格だと思い、その場は、

「ええ、そうですね」としか言えなかった……。

その母の横顔を見ていた淳は、もしここでも弁護士になる事を反対されたら家を出て行く覚悟ぐらいは出来ていたが、でも母親の答えはどっち付かずの回答だったので、『やはり反対なのか……』と心の中で呟いて家を出ようと決心していた。

その声が聞こえたのか利之が検察庁に行ってしまうと、和美は笑顔になり、

「家を出て行かなくてもいいわよ。あなたの考えていることは御見通しですからね。まあ、あなたの好きな女の子のタイプも知ってますから。まったく誰に似たのか知らないけれど、お母さんには似てないわよね」

と言って笑った。すると淳も負けずに、

「いいや、似ているかもしれないよ。だって僕も昔お母さんが好きだった人の娘を好きになってしまったんだからね。それからして似たもの母子だと思っているんだよ」

と同じように笑って言った。

 それは琴乃と利之の子供だったらの話しだが、そうではなく実際は琴乃が勝手に男と遊んだ末に出来てしまった言わば私生児だった志穂梨…。

 それを琴乃が亡き後、異母妹の満希子と元フィアンセだった利之が自分達二人の子供として育ててきたのだった。勿論戸籍は実子ではなく養女になっているはずだ……。

 それが利之達には琴乃を裏切って二人して家を捨てて駆け落ちをしてまで幸せを掴んだ天罰だと思って16歳の今日に至るまで育てあげた娘だが、その娘が…志穂梨が突然の交通事故で視力を失い、心に大きな傷も負わされたのでまた過酷な人生を歩まなければならなくなった……。

『それにもましてあの田原検事は、あの時『志穂梨にストーカー曲がりな待ち伏せをしていた』と言う複数の証言があるにも関わらず、この俺をどうして刑事に付き渡さず処罰も受けず自由にしたのか…、自分も良太郎と一緒か、それ以上の処罰を受けてもいいのだが、何故か直樹だけは田原検事によって許されてしまったのだった…。何故だろう……?』と母親に志穂梨の病室を案内している間に話していたが、彼女でさえ首を傾げたぐらい不思議な事だった……

。それほど田原利之検事はどんな刑事裁判でも温情情けなどなく最も重い論告求刑を言い渡すので裁判長にも、その事件の担当弁護士にも嫌われていた存在で有名だったのだ。しかし裁判での判決を実際に言い渡すのは裁判長だが論告求刑が重過ぎると弁護士も最終弁論で困る。勿論裁判長も同じである。でもそれは犯人が何故犯行に及んで往ったのか調査結果に基づいて論告求刑を出しているのだから仕方ないが、冤罪の場合もある。そういう時は弁護士と協同して真犯人を探し出し拘置所に送る。そして刑を言い渡す。それが和美の知っている本当の田原利之の姿だった。しかし淳が知っている利之は家族の事を思いやり、家庭を守る良きパパといった印象でしかなかったが志穂梨は母親が満希子だと、そして父親は田原利之だと信じ切っている……。だが淳の母親和美は淳だけであるが志穂梨の出生の秘密を話したが、それはその話をしたら少しは考え直してくれると思って話した。それは淳が志穂梨の事を思う気持ちが『将来は結婚したいぐらい愛している』と言っているので、それを少し考えさせるために言ったつもりだが返って逆効果だったかもしれないと思いつつ自分の昔を思い出していた。そんな事より二人とも、その先、何が起こるか分からなかったが、まさか志穂梨が居なくなっているとは思わずドアを叩こうとしてその前に立った…。だがそのとき突然ドアが開いて、もう少しドアで頭と鼻を打つところをうまく避けたが、中から主治医の松本洋が慌てた様子で出て来た。誰かを呼ぼうとしていたのは明らかだが、彼女の身に何かがあったのも確かだ……。洋がドアを開けた時、真っ先に目に入ったのではなく淳だったが、その淳に、

「彼女がいないのだ!!まだそんなに遠くは行ってないと思うのだが、今、看護婦達に手配している。僕がちょっと目を放した不知にどこかに行ってしまったのだ。トイレならいいのだが、そこにもいないらしい……。」と洋は言って探しに行った。和美は満希子の事が気になり病室に入ったが、彼女は床の下に座り込んで『どうしたらいいの……?』と気が動転して何をしたらいいか判らなくなった状態で入ってきたばかりの和美の方を振り向いた…。だが利之は検察庁に出かけたばかりでさっき母と話していたが、志穂梨が居なくなったとは言ってなかったので、それ以後の出来事だろうと淳は思った。しかし目が見えない志穂梨の行く所を推理したが、『また屋上かも知れない。今度こそ自殺を図って死ぬ気だろう』と思い出し上がって行った。そして誰にも気づかれないように上がって行ったが、先に探しに行った洋も屋上で目を三角にして探していた。と言うのは飛び降り自殺をする可能性が洋の頭を過ぎったからだ。しかし居なかった。でも病院のトイレで手首をナイフかなんかで切って自殺を図るケースもあるので、そこは看護婦たちが見て行った。しかし居なかった。淳は思い当たる所を思い出していたが『ピ~ン』と来ない。だが洋は心理学も専攻していたのか突然淳に「彼女と初めて出会った所は何処だ」と聞いた。だが彼は直ぐにどういうことなのか解らなかったが、洋は心理的に言うと彼女がこれまでに一番好きだった思い出の場所を聞くのが適当だと心理学で習っていた。だが淳は何故兄が志穂梨に嫌われている弟に『初めて出会った場所は?』と聞くのか解らなかったが兎に角『〇✕海岸』と言った。洋は異様な顔して急いで医務室に戻って白衣の上からコートを羽織り直ぐ探しに外に飛び出して行ったが、きっと『死ぬ覚悟があれば何処でも行ける』というのが彼等医師の答えだったに違いない…。淳もそう言う発想は浮ばなかったが兄の慌てた態度を見ていたら、大方察しが付いて彼も一緒に探しに行った。でも淳はオートバイを取りに駐車場に行き自分のバイクの前に行きヘルネットを被りエンジンをスタートさせていると、その前を志穂梨が手探りと勘だけを頼りに盲人用の白いステッキも持たずに歩いていた。淳は思わず『見つけた』と叫ぼうとしたが返ってビックリさせてもいけないと思い自然なスタイルで近づいて、

「志穂梨、こんな格好でどこ行くの?僕は今来たばかりだけれど……」と非常に落ち着いて病院での出来事なんてよそに如何にも今、着いたと言う格好で言った。すると志穂梨は何もかも知っていると言わんばかりに、

「今ですって?‼嘘ついてない?さっき松本先生と一緒にあたしを捜していた事お見通しなの。今来たばかりと言うのはあたしには通用しない……。ほとんど直感だけど…」と悲しい顔をして言った…。淳は何も言えなくなったが、その直ぐ側に洋も知らぬ間に見つけて近づき、

「その勘だけを活かせる仕事に付けば……何も今はマッサージ師だけが盲人の仕事ではないのだよ。志穂梨ちゃんがしたいと思っている女検事は無理かもしれないけれど女弁護士なら出来るかもしれないし、ひょっとしたら学校の先生もなれるかも知れないよ。ピアニストやバイオリン二ストで目が見えない人もいるのだし、かのベートーベンは耳まで聞こえなくなっても第9まで作曲していたって聞いているし、ヘレン・ケラーは小さいときの大熱の牲で目も耳も話すことも出来なくなってもちゃんと大学まで行って卒業して教授になっているし小説家にも脚本家にもそんな人がいると聞いている。それに最近はカメラマンでも志穂梨ちゃんみたいに交通事故に遭い網膜剥離になっていてもカメラを捨てられずカメラマンとして復活している人もいると聞いているよ。僕の知っている患者さんもちゃんと結婚して子供を産んで今は子育てに夢中になっている人もいるし、何も目が不自由になったからっていじけて自殺図らなくっても楽しんで生きていけばいいじゃあないのかな。少しは気持ちが楽になれるよ…」と言って志穂梨の心を読んだ。志穂梨もそういう気持ちはあるが何の取り得もない自分にこの先どうなるのか不安で見当も付かなかった。だが説得力のある洋には志穂梨の心の中のコンプレックスに陥っているかも知れないと思い、それも取り除いてやろうとしていたが、彼女は突然大笑いして、

「先生も淳もさっきからの話を聞いていると、あたしがまた自殺を図るのではないかと思っているみたいじゃない?今度はあたしそんな気まったくないんだけど…。じゃあ何故、何も言わず病院を出て行くのって聞きたい顔をしているのよねェ。大体解るのよねぇ」と言って、それから洋に時間を聞いた。彼らは志穂梨がなぜ時間が気になるのか分からず教えたが9時を少し曲ったと言うと彼女は蒼ざめた。そして淳に、

「バイクに乗せて‼そうじゃないと良太郎の初公判に間に合わない。あたしとあんたのために可哀想な人生にさせられないわ。そうしないと美奈子が可哀想だもの」と早口に捲くし立てた…。良太郎の初公判は10時からだったが、淳はその日さえも忘れていた。だが志穂梨に言われて初めて気が付いた。しかし今頃になってまた何故と思った彼らは不思議な顔で志穂梨を見た。彼女の心はいったい誰にあるのか判らないが、とにかく淳は主治医の洋の顔も見た。洋も戸惑ったが、考える余裕すらない志穂梨の行動に「どうしてもっと早く言わないの?みんなの迷惑も考えろよ」と少し怒って言った。でも淳は志穂梨と良太郎が許嫁である事は美奈子から聞いているので複雑な気持ちで志穂梨と洋の顔を見つめていたが、本当は連れて行かせたくなかった淳は良太郎から志穂梨を奪略しようとしていたので何も言えない。二人とも洋の答えを哀願するように唇が動いていたのは明らかだったが、洋にとっては良太郎という男は軽蔑していた奴だったので、

「今は行かない方が傷の治りが早いかもしれないけれど、目は一生見えないからね。まあ悔み事を言うんだったら、その男にも言ってやれ‼」と怒って病院に退き返って行った。なぜ洋は急に冷たく志穂梨をあしらったのか淳には分からなかったが、言葉もいつもの兄貴ではなかった。けれども一刻も早く地裁に着かなければならない志穂梨にとって良心が表れで、そんな言葉は馬に念仏で何も言わずに急いで駐車場から直樹のオートバイを持って来させて乗ったが、走っている間、淳にしっかりしがみつく志穂梨の両腕を感じていた彼にとっては恋人みたいな感じがしないでもなかった。

 しかし良太郎が許嫁だと聞いているのに手を出そうとした淳も罪なことをしていると感じたが、洋も同罪ではないかと思う……。でも今のところは彼女の父に信頼されているのは淳と洋の兄弟だ…。良太郎ではないのは確かではあるが、本当に親同士が決めた許嫁であれば利之も良太郎を起訴はしないはずだ。たとえ良太郎のスピード違反でも隠しておくのが情だ……。それを起訴したのだから、ひょっとして良太郎や美奈子の出まかせかもしれない。でも志穂梨のさっきの言い方をすれば誰が聞いても恋人を無罪にしなければ自分の良心が問われてしまう恐れでもあるかのような言い方をしているではないかと思うぐらいの迫力があった。それに対しては何も言えなかった淳…。

 でも淳はどんなに泥を塗られても、どんなに罵倒を言われてもまた志穂梨の顔がどんなに変形しても愛そうとしていた。この一途な愛にいつ気づいてくれるのか判らなかったが、とにかく淳は志穂梨以外の女性と結婚しないと心に誓うのだった。まだ若いが彼女に対する愛情は変わらない……。

 いつかはこの愛を気づいてくれるとは思ってなかったが、一生儚い愛で終わってしまうかもしれない…。そう思うと心が痛い。

 でも一途な淳に対し洋もまだ志穂梨を諦めた理由ではなかった。何とか自分に振り向かせようとしているのだが、年の差がものを言うのか、今回は淳や良太郎に負けたみたいだった。      

 このままでは済まされない洋は何とか母や志穂梨の両親にいい顔を見せて略奪する手もあるのだが、そんな事をするぐらいなら正々堂々とプロポーズして断られたら諦めて、淳や良太郎に譲って自分はまた新たに母が持ってくるお見合いをしてもいいと思って志穂梨の帰りを待つことにした。

 一方志穂梨の心は一刻も早く地裁に行きたいばかりに気が焦って何も考えてない。というのもしっかりと淳のウェストの所をしがみつくように腕を回していた彼女に対して、内心彼の複雑な心の乱れようにどうする事も出来ず、ついに目の見えない志穂梨に、

「そんなに良太郎が好きなの?あんな女垂らしはいなかったぜ。大学でも有名だ。それでも好きなのか?‼」と大きい声で聞いた。オートバイに乗っている牲か大きな声を張り上げないと何言っているのか判らないが『好きなの』という言葉はいくら直樹でも少し小さくなったので聞こえなかったと彼は思った。だが彼女は勘が働いたのか、前後の言葉を繋ぎ合わせたのか、はたまた聞こえたのか定かではないが、

「好きなわけないじゃない。あんな不良のろくでなし……。ただあのままだと親友の美奈子が可愛そうだと思って証言台に立つだけで、本当はどうでもいいの」と大声ではっきりした発音で言った……。その言葉を聴いた淳は内心『美奈子のためね…やはり…そうだったのか…』と思うのだったが、それにしてもいったいどんな顔して言っているのか後ろを振り向かないと判らなかった。

 しかし走っている最中だったので後ろを振り向くことは出来ず、信号待ちの時に振り向いたが今度はヘルネットが邪魔で顔色までは見えなかった。それで仕方なく前方をまた見た彼だが、複雑な心境は志穂梨も淳と変わらないのではと彼は思った…。でも見えない彼女は車が止まっていても手を緩める事は出来ず淳にしがみ付いていたが、それを感じた彼は男としてやはり自分も良太郎の弁護士側の証人に立って『事故は自分が志穂梨に対してストーカーして追っ駆け回していたから起きた』と言うべきだと思った……。

 しかしそれを言うと弁護士資格を剥奪される恐れがあるので田原検事も黙って見逃してくれていたが、彼女が証言台に情と掛替えのない彼女のどちらかを選べ……』と言うならば男はどちらを選ぶだろうか?

 淳には選択しなければならない時期だった。ただ彼女は淳の気持ちを振って美奈子への友情を取るのだろうと思ったが、突然、「もういやになっちゃった。美奈子には悪いけれど、もう裁判始まっているんじゃあない。喚問はまだまだだけど……その時に行ってもいいじゃない?だから今日は海に行きたくなっちゃった」と急に変更し途方もない事を言った……。淳は一瞬自分の耳を疑って後ろを振り返えようとしたが、走っていたので振り返る事は出来ず、

「いい加減にしろ‼おれは兄貴と口論してでもお前の言いなりになって裁判所に間に合うように行こうとして必死にポリ公の検問を通り抜けようとぎりぎりのスピードで飛ばしているのに‼」と怒鳴った。そして道路の横、歩道沿いに寄って行き更に、

「お前…何、言ったか判っているのだろうなァ?もしお前が男だったらオートバイから振り落としていたぜ……。それに美奈子ちゃんのために行くというからついて来てやったんだ……‼」と言って盲の彼女に本気で怒った……。志穂梨は淳が怒るとは思ってなかったので『びくっ』としたが、今置いてぼりにされたらここがどこなのか判らない。ただ車の通りが激しい事だけは誰にでも分かる。と言うのは騒音が車ばかりで人々の足音は聞こえず、話し声さえも車の騒音が邪魔で聞こえなかったほど行き来が激しく通っている所だ…。そんな所で駐車したらセダンだったらトラック運転士に怒鳴られるのが落ちだと思うほど交通量の激しい所だった……。淳は黙って志穂梨を見つめていたが、彼女は何がなんだか判らずに車が猛スピードで通り抜けるたびに慌てて淳の腕にしがみつく始末だ。ただ今までみたいに自分一人で出かけられなくなった事のつらさが漸く判った志穂梨は、

「ごめんなさい…でも遅れて行ったら傍聴席が空いてないと思うし、それに良太郎の初公判はお父さんも行くって言っていたし、それに後からお父さんに聞いた方が解りやすくっていいかなァ…と思えてきたら、なんだか行きたくなくなっちゃったの。でも淳に言われて初めて自分の今の状態がどんなに不自由かがわかったわ……ありがとう♡淳」と言って、甘い言葉で誤った志穂梨に直樹は横目で睨んだ。そして直樹が考えた末、

「もう間に合わないかも知れないけれど途中からでも入れてくれなかったら今日は病院に戻ろう」と言って志穂梨をオートバイに乗せてエンジンを掛け淳の腰に手を回したのを確かめて地裁に向かった。

 こうして着いた地裁だが、交通事故の裁判では人々は珍しい事も何でもないので傍聴席は少なく疎らだった……。そういう白けた法廷の中で良太郎は検察官が起訴状を読み上げている間ずっとうつむいて聞いていたが法廷のドアが開くたびに少しだが緊張して後ろを振り向いていた。でも志穂梨や淳ではないので緊張が少しほぐれ、

『このまま来ないでほしい』と願わずにいられなかった。しかし起訴状を読み終え裁判官が被告に質問をする段階になって、漸く二人一緒に法廷のドアを開けて入って来た。

 そして目の見えない彼女を誘導する淳の手と志穂梨の手をじっと見つめていた良太郎は裁判長が呼んでも弁護士が呼んでも心ここに在らずで淳を睨んでいた……。

 そうして始まった裁判だが志穂梨は初公判だけ行き肝心の証人喚問のときは、「熱がある」とか「頭痛がするの」とか言って行かない。母親の満希子も、

「どうして証言台に立ってあげないの。あなたの一言が重要性かどうかは裁判長が決める事で、その一言で良太郎君の運命が決まるわけでも何でもないの。要するに罪を補ってちゃんとした大人になって帰って来てほしいと彼を知っている人々はお母さんも含めて願っているの。だから本当の事を言って上げなさい。そうすればあなたの心は晴れるわ……」と言って優しく接した。でも志穂梨は一生光の指さない世界に閉じ込められた恨みはどうする事も出来ず母親の満希子でさえ悔しい思いは変わりなかった。しかし淳も証言したが志穂梨は道路を横断する時左右見ているのかと思うほど一旦停止しないで渡ったと証言していた。でも被告の弁護士は、

「それはあなたが加害者をストーカーして追い掛け回していたからでしょう。いくらかの証言もあるのだが、本当にストーカー行為をしたのでしょうか?それとも普段からの加害者の癖とでも言うつもり?」と聞いた。すると淳は居直して、

「ええ,でもそこまでおっしゃるのならあなたはやった事ないのですか?だとしたら彼女はどうして出来るのでしょうか?」と逆に聞いた。傍聴席からは淳の言葉に吹き出す者も居たが裁判長は、

「静定に‼」と言って更に淳に、

「ここは法廷ですよ。証人は言葉に気を付けて下さい。そんなことより私も聞きたいのですが、田原志穂梨さんは本当に道路を渡るとき一旦停止せずにまた左右も見ずに横断したのですか?」と聞いた。淳はまた思い出しながら首を縦に大きく頷き、更に良太郎にとっては助け船みたいな事を言った。

「でもあんな所に花瓶代わりに牛乳の空き瓶が供えて置いて遭ったなんて誰も気付きませんよ…。『制限速度を守っていれば見えたはずだ』とおっしゃいますが、一度現場検証して見れば判ります。僕も何度かバイクで通りましたが、いくら速度制限を守っていてもあそこの地形ではあんな花瓶なんて晴れていて夕日が眩しかったら全く見えませんでした…」と実際に走ってみた淳は証言して写真を見せた。彼に出来る事はそれだけで、その日の証言は終わったが良太郎は拘置所に帰る前に淳に会い一言「ありがとう」と言って迎えの車に乗り込んだ。

 やがて志穂梨の証人喚問の日が来たが、付き添いは淳ではなく両親だった…。母親の満希子は志穂梨と一緒に白い杖を持って歩いて来たが、父親は現役の検察官だけになか々来られなかった。だが淳はこの裁判が在るたびに来ていたのだろう。

 母親は淳を見つけると、ちょっと頭を下げ会釈をしていたが志穂梨には、「彼氏が来ているわよ」と耳元で囁き反応を見た。すると志穂梨は名前も言ってないのに淳

だと思い、『つ~ん』と澄まして、  

「あら、そう。お母さんの彼氏にすれば……。あたしはいらない。あんなバイク野郎…。思い出しても怖かったわ」と、あの初公判の日の事を思い出し可愛くない事を言っているようだ…。母親も何も言わずに宥めていたが、目の見えない志穂梨にとっては精一杯の反抗期だったのかもしれない。でもそれでは人の心の傷は癒されない。 

 本人も今の自分の性格を何とか治し、以前の素直な自分に返りたいと願っているのだが淳の話が出てくると素直になれない自分に腹立だしいと感じていた。

 そういう所が満希子は彼女の異母姉の琴乃とそっくりだといつも思ったものの、琴乃はいったい誰の子供を産んで死んだのか依然判らないままだった…。でも、もし本当の父親が判ったとしても志穂梨を手放したくないと思う気持ちの方が強く、叔母としてではなく本当の母親として志穂梨を育てたという自分に自信があった。それでも以前ならいつか淳みたいな優しい恋人を見つけて結婚して家を出て行ってしまうと思うと、やはり寂しく感じられたが、今は障害者になり、その夢は悉く消えてしまったので母親としては悔しい。だが志穂梨はその何倍も悔しい思いをしているのかと思うと加害者が誰であれ殺してやりたいほど憎い…。しかしただの交通事故では死刑にならないし賠償金と一生食べていけるだけの保証金だけでもほしいと願い裁判を起こすのが多い中で賠償金も保証金も要らないから加害者を懲役刑にしてほしいと願うのも少なからず判るのだった……。それは田原親娘の金額では買えない強い絆に傷を付けたという犯罪だった。しかも志穂梨の証言は先に淳が証言したのとまったく逆で、

「横断するときは信号機があっても無くても右左見るように心掛けているし、見てなかったなんて絶対ない‼でも、何故そういう疑惑が出てくるの?道路交通法違反ばかりしているような人と一緒にしないで下さい!」と良太郎にとって不利な証言をした。

 

 すると彼の弁護士がこの不訂に対して、

「ではあの日はどうでしたか?君が松本淳さんと言い争った末、急にあなたの方が飛び出して来たと、そこにいる被告人と、言い争って一番近くにいた松本さんが証言しているのですがどうですか?」と聞いた。そして続けて志穂梨が言った言葉に疑問を抱くように、

「どうして道路交通法違反ばかりしている人と言い切れるのですか?あなたは彼等の姿をそういう判断で見ていたのですか?」と過去形で聞いた。そう聞かれると志穂梨は困ったように後ろを振り向いて両親の顔を見ようとしたが何も見えなかったので、仕方なく弁護士の質問にこっくりと頷いた。そして顔を裁判長の方に向け、

「実際にそうだもの。新聞やテレビで見る限り、補導されている少年少女の半数以上は不良グループだと言うことだし、その中で最もいけないのはオートバイとかセダンに乗り回していて道路交通法違反ばかり繰り返している暴走族グループだと思うの。でもその中でも番長格のそこにいる園田良太郎君とストーカー行為をしたあそこにいる松本淳君は絶対に許せない‼『目を返して‼』と言いたい‼」と強い意志で訴えるように叫んで眼帯を取って見せた。           

 皆はこの衝撃的な行為に驚き裁判長も絶句していたが、その傷跡は知らない人が見ると思わず顔を伏せたくなる様な顔になっていた。あんなに可愛かった目も両眼とも見る影も無く傷跡が残っていたし瞼も塞がっていた……。

 良太郎は始めてその顔を見たので驚きと混乱の中で思わず目を伏せたが、この時初めて傍聴席でこの志穂梨の証言を聞いた直樹も被告人席で被害者の顔を見て証言を聞いた良太郎も事の重大性を感じた…。そして志穂梨は眼帯をそのままにして付添い人と一緒に傍聴席に帰って行ったが傍聴席からはざわめきと彼女への好奇心で渦巻いていた。眼帯を取ってしまった志穂梨の顔は傍聴席で見ていた母が見ても醜い顔だったが、主治医の保坂洋もこの裁判だけはちょっと気になったので度々足を運んで傍聴席で聴いていた。だから今日の志穂梨の証人喚問も聞いていたのだが、まさか洋も志穂梨が包帯を取って見せびらかすとは思ってなかった。

 だがそうしないと裁判長にも誰にもどんな傷なのか理解して貰えないのではと思って眼帯を外して見せたが

「何故、包帯を外したの……?そのために僕は写真を持ってきたのに何にもならないね」と言いながら化膿しないように傷口に薬を塗りガーゼで抑えて5分ほどで応急手当てを済ませた。そして道具を仕舞うと志穂梨の隣の席に座ったが、有名な裁判ではないので席は所々空いている。だからそこに座ったが、淳は兄の洋がこの裁判に趣味を持って来ている事など知らなかったので驚いていた。しかし洋が志穂梨と仲よく話している姿を見ると嫉妬の対象的存在だった。

 でも今の志穂梨には淳と良太郎を憎むことによって生きがいを感じているみたいだと、この証人喚問の証言で分かった。そして直樹と良太郎は本当に悪い事をしたと反省しているが彼女と結婚したいと思っているのは直樹と洋の兄弟しかいなかった。肝心の良太郎は『もうどうでもいい…志穂梨が幸せになってくれさえすれば俺は消えてやる……もしアイバンクで俺の目をくれと言うのならくれてやろう……』と心に誓いながらその日の裁判は終わった。しかしその日は誰にとっても長い1日だった……。朝の9時に始まった裁判だが終わったのが夕方の5時で病院に帰ってきたのが6時頃だった……。

 

             第        八        章


 その後、しばらくして、淳が言っていた現場検証をしていたが、学校の周りはスクールゾーンなのに確かに駐車している車が多く何故そういう車を取り締まらないのか裁判長も不思議がっていた…。だがその多くはマイカー通勤している先生方の車だったが、他に学校関係の業者の車も止まっていたので学校側としては取締を強化させるつもりでいた…。それにしても今まで事故がなかったのが不思議なぐらいで学校側としては事故があってからの対応では遅過ぎた。しかし相手の被害者側は現職の検察官の娘で被告は弁護士の息子なので、検察官の娘のほうは真面目な高校生でいかにも検事の娘という誇りを持っていたが、弁護士の息子の方はまったく正反対の不良で高校の時から授業はよくサボってバイクの運転の練習ばかりしていた。だから暴走族グループに入り、スピードばかり出していたが、そういう時に松本淳も加わり一緒にバイクを乗り回していた。しかしあの日は今後の進路を決めるためと司法試験の不合格を弁護士をしている母親に知らせるために帰ってきたが、その行き

に大惨事になり、しかも交通ルールと言う基本的なマナーを両方とも守っていたかどうかが分からないのである……。また、どうして学校の外に地蔵があるのか由来は定かではないが、ちゃんと囲いもついてあって未だにお供え物と花も供えてあった…。その花を入れてある花瓶が問題で、その花瓶の牲で志穂梨の目は負傷したのだが、当時はただの牛乳ビンで土器の花瓶ではなかった…。だからことに天気のいい日の夕方は日が傾いた時点で眼が眩みそうになりガラスのビンがどこにあるのか分からなくなってしまう……。やはり直樹が想像していた通り、そこだけが死角になってしまっていた…。よく自分もその道を通学路に利用していたが今まで事故がなかったのが不思議で神信深いこの学校の校長がそこに置いてある地藏が生徒達を守ってくれているのだろうと思って今まで市町村の役所に言わず退きに行く事もせず放置していたが、自分も時々何か問題があると花を供えて拝んでいた……。それが最悪の事態に招いてしまった今、校長は志穂梨のお見舞いにも一度だけ来ただけで自分は悪くないと思って来なかった。それで後はクラスメートたちに任せて自分は裁判の時にあの地蔵を何度か撤去をしようとしたが、それは出来ずしばらく証拠品として現場検証をしてから撤去した。でもそんな事をしていたとは知らない志穂梨にしてみれば成績が普通であまり学校では目立たない存在だったので、担任が時々来るぐらいで校長や他の先生はあまり忙しいので来られないものだと思い込んでいたが、実際にそうだとしてもあまりにも冷た過ぎると最近では思い始めていた。それが三年生の秋になってからほとんどは大学受験を控えていたのでそのクラスメートも近頃は来られない日が多くなった…。しかし淳と美奈子だけはこっそりと毎日来て影から見て何も言わずに帰って行ったが、それでも心の中で美奈子の方は『お兄ちゃんのために女の子にとって一番の顔を傷つけてしまい本当にごめんなさい』と兄に代わって言っていたし、淳の方は彼で志穂梨の母親、満希子と連絡を取ったり自分の兄、洋にその日の事を聴いたりしながら自分の出来る事はボランティアで少しでも志穂梨の行く所を片づけて怪我をしないように気を配りながら見守っていく方法を取って危ないときは手助けをしていたのだ…。そして誰が道を空けてきれいにしてくれたのか志穂梨には判っていたが、淳が何故そこまでしてくれるのか下心があるのかもしれないといつも思うのだった。でもある日突然志穂梨の方から、

「ありがとう、いつも通る道を空けてくれて……それにしても目が不自由になると誰が通る所をきれいにしてくれているのか判るのよね。勘だけが頼りだもの。ねぇ…、ところで今日はいい天気でしょう。どこかに行きたいなァ」と言って何かをしゃべってくるのを待っていた。淳はどう答えていいのか、また何を言っていいのか、それに今そこにいるのは淳だと思っていず、どこかの若い気のいい男の看護師だと思っているかもしれない。何せ目が見えないのは確かだから……。でも言葉の調子から行くと淳だと思って言っているようにも聞こえるのだが、何も言わないのも不自然かもしれない……。だが彼女の勘は鋭いのは分かっている淳は彼だと判ると、

『また大学休んで私のためのボランティア?ヘェ~結構な御身分だこと……』と言って笑い飛ばされるのが落ちだと覚悟して言った。

「いいよ。どうせ暇だし、就職活動はしなくても司法試験は合格しているから弁護士事務所を探すか自分でマンションか事務所を探して開くかどちらかにするからね」と言った…。だが今の志穂梨はやはり確かめていたのか淳だと判ると、

「やっぱり淳だと思っていたけれど、淳がしてくれていることはあたしを過保護にしているだけで訓練にならないの。だから外に一人でいつまで経っても出られないし勘も働かないし……」と可愛くないことを言っている。

淳はそれを聞いても怒らず、

「それも兄貴にも言われているし親父にも言われたけれど、やっぱり危なかしくって見てられないんだよ。君がその上に頭でも打ったり、こけて足の膝でも擦りむいたりしたら、君のおやじさんに何言われるか分かったもんじゃないからね…。それにいずれは介護者と一緒の時間の方が多くなるのに違いないから今のうちに僕をヘルパーだと思って慣れるようにしとかないと今度は一生の問題だからね。介護者とのコミュニティーションも大切だし……」と言って

彼は心配した…。志穂梨にしてみればそういうことは考えてもみなかったのと盲導犬と杖があるから大丈夫だと思っていたが、ふっと目が見えた頃の家の前に止まっている車とか学校の回りに青空駐車にしている車を思い出し、あの頃は意識せずに後ろに車が来ているかどうかが分かったのに今は何も見えない。やはり見てないようでも見ていたのかと思うと、少し恐いと彼女は直樹に言って身震いしていた。それにしても狭い歩道に路上駐車している車を取り締まり志穂梨のような障害者が減るように訴えて行くより仕方ないことをこのとき直樹は真剣に思った。だがそれにはそういう問題を中心に預かっている弁護士事務所に入らなければならず、インターネットで捜索していたが、司法試験が通らなくても大学を卒業したら、先ずアルバイトとしてどこかの法律事務所の調査員としてか検察官の秘書として雇ってもらえる所を捜すつもりだった。それが思わずに一発で通ったのだから本人も信じられず何度となく合格通帳の名前を確かめていた。学生の身分で司法試験が通るなんて幸運に恵まれていたとしかいいようがないと利之も言っていたが、現実に今でも不良で親のいうことも聞かずとんでもない格好で中学、高校に行った事もある彼がどうして司法の筆記試験に大学の3年で通ったのか必死で勉強したのなら兎角も、そんな様子は一向になかったので本人も教授達も真面目に勉強して自分こそは当然通ると信じていた学生も直樹の日頃を知っている者、皆が不思議がって首を傾げている者もいたが直樹を睨み付けて悔しがっている者もいた…。良太郎もその内の一人で手放しでは喜べず同じ大学の法学部の学生として非常に悔しい思いをしていた。だが今は被告人の身なのでやはり直樹の方が志穂梨を幸せにできるのではないかと思い始めていたが、心のどこかにまだ『このまま淳に志穂梨を取られてもいいのか?』という気もしていた……。

 しかし何かにつけて幸運に恵まれている淳に対し良太郎は、『ついてないなァ』と思っていたが、どんなに悔やんでももう遅い。

『志穂梨の目をつぶして盲人にしたのは他でもない俺だ。俺が学校通りの道を猛スピードで通ったからお地蔵さんのお蔵に気づかず、夕陽に照らされた硝子の花瓶にも気が付かず、その通りを横断して行く志穂梨にも気が付かず、その後に悲鳴が聞こえたが、聞き流して行ってしまった事は本当に悪いと反省している』と深く反省していた。そういう良太郎の気持ちなど知らない淳と志穂梨は離れ離れの所に傍聴席の席を取ってあったのでそこに座ったが、でも淳の方は志穂梨の事が気になって時々観察していた。夕方に裁判の公判が終わり1ヵ月後に判決が出るのだが執行猶予が付くかもしれないのが有力だが、たとえ半年でも刑務所に入れということになれば控訴せずに従おうとしていた良太郎だった……。だが彼の両親は……特に母親の方は自分も弁護士なのでなんとか無罪放免にしてやりたかったが、この裁判だけは負ける事が有力なので若い弁護士に任せたがやはり自分達がやっていた方がもっと多くの事を調査できたに違いない……。しかし志穂梨の証言は衝撃的であそこまで言わなくても本人が死なない限り交通事故の裁判は被害者側の方が余程過失がない限り認められるケースが多いが彼女の場合は淳が証言するように横断する時、左右をよく見てないという疑惑に引っかかった。裁判長も、それを確かめてみたかった。つまり判決は後にして現場検証をしたのだ。もし淳の証言通りだったら志穂梨が過失になり良太郎の罪はスピード違反のみになるのだった。そうなれば志穂梨への損害賠償のみになる。だが志穂梨は真っ向から『どんな時でも道を横断する時は右と左は絶対見ていた』と裁判の時でも言っていたように見えない目なのに一時足を止めて左右見ている付利をしていた。淳はそれを見て、何を思ったのか突然笑い出して、

「あの時もそんなふうにしていたら事故に遭う事はなかったんじゃあないのかなァ。ふっと思い出したのですが、ここは確かに見通しは悪く朝日も夕陽もよく当たります……。それが運転している側には目に入ると眩しい人にはたまったものじゃあない」と司法関係者に前置きしてから、あの時の事を思い出して言った。

「今、彼女がしていたように左右見ていたらたとえオートバイが猛スピードで走って来たとしても歩行者の方は気が付いていたと思います。余程の近視や弱視じゃない限りね。おっと夕陽が眩しくて見えなかったと言うつもりだけれど、この状況からいくと夕陽が眩しく見えなかったのは良太郎の方で君は逆光で見えていたはずだけど……これが逆だったら…つまりオートバイが西から東に走っていたのなら話は別だよ。」と警察官およびここに集まっている司法関係者の人々にも志穂梨にも判り易く説明して言った…。つまり過失は淳が言っていた通り彼女が横断する時に左右をあまり見てない事は明らかになった…。志穂梨はその事について何も言えなかったが、しかしそれなら怪我の方は足の骨折か捻挫、運が悪くても頭を地面に打って後頭部か額に包帯を巻いて軽傷の怪我のどっちにしても軽く事は済んでいるはずだが、実際はそうではなくその後、小回りが利くオートバイは飛び出してきた志穂梨を避けるために偶然にも誰もいなかった反対側の歩道の方により過ぎ、不幸にもそこに地蔵の花が備えてあった硝子の牛乳ビンに接触し粉々に割れて、その破片が空中で散らばりいくつかそれが志穂梨の両眼をまともに直撃し失明してしまったのだ…。やはりオートバイ側の過失になるのだが弁護士の両親は何とかそこを切り抜けたいのだった…。だから未来の弁護士であり、事故の時一部始終目撃していた松本淳に調査を依頼したが、彼はどっちにも付かず事故は両方とも少し気を付けていれば未練に伏せられたと言って現場検証をして、それを明らかにしたのだった…。しかしどうしてもスピード違反だけは免れないのは事実であり、もしあの時スピードを制限速度にまで落としていたら淳が言っていたように何も起こらずに、志穂梨もかすり傷だけで済んでいたかもしれなかったが、6時までに下宿に着かなければレポートが明日までに出来ないという焦りと、もしそのレポートが大学に提出出来なかったら、今度は落第するという二つのプレッシャーがスピード違反を引き起こした原因だった…。その事は前から良太郎は淳や自分の弁護士には言っていたが、

「いい理由にしか聞こえないから、検事や裁判長が聞かない限り言わなくていいよ」と言って、その事で法廷で戦う意欲は毛頭なかった。だがその事をいつまでも隠していたら本当に裁判で負けて執行猶予も付かなくなってしまうのではと懼れた弁護士は問いただしたが、その事を言うと良太郎は凄い目で弁護士を睨み付けて発言を避けた……。何故そこまで発言を避けるのか、あんなわがまま娘のために自分を犠牲にしなければならないのか淳には分からなかったが、それほどまでに彼は志穂梨を愛していた。人生を棒に振ってでも彼女を守りたかったのだ……。

『何もかも俺の牲なんだ』と思い込もうとしていたのは確かだが、淳も良太郎のように彼女を庇って愛せるかと思うと『愛せないかもしれない』が答えであった。しかし淳は志穂梨の出生の秘密を知って、ますます好きになって行く自分を感じていた……。

 だが志穂梨の方は相変わらずで目が見えないのに意地を張って杖を持たずに歩いているのだが、洋がその歩いている姿を見つけると必ず、

「危ないから杖を持って歩いた方が……」と言って注意しているのだ。志穂梨はその注意を聞くたびに、

「障害者に見られるのがいやなの……」と言って数を数えながら歩いているのだが、洋は危なかしい彼女の足取りを見て、

「その方が障害者に見えるけど……。それも理由のわからない事を口走る脳障害を持っている障害者に見えるよ。それに、もし予想外に商店街の店の前に置いてある看板が少しでも道路沿いに飛び出していたらどうするの?そこへ車でも来て轢かれたら、今度こそ本当に取り返しがつかない車椅子生活になってしまうよ」と心配して言った…。洋が今まで何度となく志穂梨みたいな交通事故から目が不自由になった患者を見てきたが、これほど好きにさせた患者の担当医になったのも初めてだった。自分では抑え切れない何か得体の知れないものがあった。それが恋なのであるが、いままで恋などした事がなく医学の勉強一筋に生きてきた彼である…。当然それが恋である事など分からない……。今更恋多き弟には聞けないし、聞いたとしても笑われるのが興だ……。そう思って聞けなかったが、その洋も16歳の志穂梨に出会い洋の前では花でたとえば可愛いフリージアのような彼女だから恋をしてしまったが、暴走族でプレイボーイを通って来た弟の直樹が純愛を感じないわけがない。それに彼女の両親が検察官だけに将来弁護士を志しているという、松本淳の方に信頼感と歳も娘とあまり離れてないという事由だけで娘の結婚相手としては相応しいと考え始めていたが、志穂梨の方は淳を小ばかにしているだけで恋人と呼ぶにはほど遠い。当然両親が思っていた事も淳は考えていたが、志穂梨は考えていなかった…。そんな事より彼女が一番気になり始めていたのは眼科医でいつも彼女に優しい言葉をかけてくれた松本洋の存在だった…。確かに洋は優しい言葉はかけてくれているが、その言葉は医者としてかけているだけかもしれない。そう思って志穂梨の恋は半分諦めていたが洋も同じ想いであったことは知る由もなかった。でも今は二人きりでいつも医者に付いている看護婦もいない…。洋は一瞬魔がさしたのか、志穂梨の頬に手を当てなにかを言おうとしていたが先に志穂梨の方がそう感づいて、

「先生が好き……」と言って洋の胸に飛び込んだ。今の言葉を淳が聞いていたら、どこからか飛び出して来るに決まっていると思って周りを見たが誰一人いなかった…。でも彼らには見えない死角にいた淳は志穂梨の言葉と洋の腕の中に飛び込むのを見てしまったが、飛び出す事は出来なかった。失恋…、失望…、そして絶望的な重みは今まで味わった事がなかった彼は一度に、兄への憎しみに変わってくる……。だが志穂梨の方から『洋が好き』と言っているのに直樹は何も出来ず、ただ指を銜えて見ているより仕方ないのだった。つまり洋が予想していた通り失恋してしまったのだ…。その徹底的な瞬間を見てしまった彼はどこをどう歩いたのか知らないが、気がついたらオートバイに乗リいつでも走れる体形にしてエンジンを掛けた。しかし彼は弁護士という職を手に入れて志穂梨の父親にも信頼されているのを思い出し、いま再び以前の仲間と暴れたら弁護士資格を剥奪される恐れもある……。そうなればせっかくの努力も何もかも水の泡だ。もう二度と取れそうもない、もしかしたらあの司法試験が偶然にも園田良太郎と保坂直樹の運命を変えてしまったのだ。そして今度は実の兄と志穂梨を巡って恋を争う事になってしまったのだ。どうしてライバルばかり出来るのか、それほど男を誘惑させる何かが彼女にはあった…。それはいつか直樹の母親和美から聞いた琴乃と言う志穂梨の産みの母親もそうだったように男の心を虜にさせる何かがあるのではないかと思われた…。でもいくら志穂梨にその気がなくてもなってしまうので魔性としか言いようがない……。だが今回の場合は彼女も「洋が好き…」だと彼にはっきり告白している……。やはり直樹の失恋は95%の確実だ。後の5%だがまだ17歳という年齢と洋とは歳が12歳も離れている事からしてラストチャンスの見込みも棄てきれないのだ……。志穂梨とは別れたくない…。別れたくないというより誰にも取られたくないのだった。こうなればもう一度奪い返すしかないが相手が実の兄ではどうしようもない……。そこまで考えていると突然後ろから声をかけられた。

「淳…?淳じゃないの?どうしたの?」と母親の声だ……。彼は振り返って驚いたがまったく意識がないのにオートバイに跨って何か考え込んでいる様子を見つけた。母親は病院の事理会議に出席するために来ていただけだったが、息子の沈んだ姿を初めて見た和美はどうしていいのか分からずまた会議の時間も気になった…。しかし淳はニッコリ笑って失恋したところを見せないようにしたが母親はただならぬ様子に勘付いていた。仕方ないが淳は小さい頃から途方もないことを考えているときはよく三輪車や自転車に跨っていたからだ。だから母親は心配になり、

「失恋したんでしょう……?相手は田原さんの娘さんに……無理もないわね。相手が琴乃さんの娘さんでは……。諦めなさい。ところで洋、病院に来ているの?」と聞いた…。淳はその答えに首を縦に頷き、そして和美の顔を見ながら困ったように、

「母さん、失恋は失恋なんだがその志穂梨の相手というのは……兄貴なんだ……」と言って和美の反応を見た……。しかし彼女は驚いた様子は見せず淳が勝手に思い込みをしていると勘違いして、

「まさか……何かの間違いじゃないの?あんたじゃあるまいし、そんな事ありませんよ…。それに近々あの子にもお見合いしてもらわなければ思って相手のお写真を持って来たんだから……。もうすぐ30歳だしねぇ」と言って取り合わない。しかし淳は現実にたった今、志穂梨と洋が抱き合っているのを目撃して失恋したのに気づいたのだ。そんな事とは知らない和美は直樹がふざけて言っていると思い取り合わなかったが淳はそれでも母親に、

「今、行ったら母さんが驚いて血圧が上がって気絶するかも知れないよ。僕でさえ逃げて来たんだからね……」と言ってオートバイのエンジンをかけて駐車場から逃げるように出て行った…。母親は首を傾げて見送っていたが、何故あんな事を言ったのか……『まさか……』と思って急いで洋の診察室の方に足が自然と向かっていた……。        

 そして眼科の診察室に立った時、和美は志穂梨という娘と洋とが抱き合っているシーンが幻覚状態になり、

『もし診察室に息子と志穂梨という娘がキスをしていたらどうしよう……事理会議の時間が迫っているのに……』と思っている矢先に洋が診察室から一人で出て来た…。母親は診察室の中を素早く覗いて見たが、年配の看護婦だけで誰もいない。驚いたのは洋の方で、その場で小さな声で、

「母さん、会議室は反対方向なんだけれど、僕に何か御用ですか?見合いの話ならここではお断りしますが、白内障や結膜炎の診察なら順番を取ってからにしてくれませんか?」と言った。

 確かに息子のいう通り会議室は反対方向でしかも時間もあまりない。それで手短に志穂梨とはどういう関係なのかを問い正し、今後も付き合うつもりかも聞いた。すると洋は、 

「その話し淳から聞いたの?仕方ないなァ…。淳、嫉妬していたでしょう?でも僕達、付き合う事に決めたから……彼女に一度合わせるよ…と言ってもこの間会ったばかりだからなァ……可愛いだろう」と自分の気持ちを素直に言った。なんていう事だろう……。和美も志穂梨の事は淳と隆則から何度となく聞かされて知っているが、今回だけは怒る事も出来ない。それはいつも和美が洋に、

「早く良いお相手があれば良いのにねぇ。こんな病院の中にいるのは看護婦さんやお前に偉そうに言う先輩の女医ばかりだし、お母さんの頃は初恋が破れた腹癒せでお父さんとめぐり合って結婚まで行って幸せになったし…」とか、「恋愛でもなんでもいいから早く結婚相手を見つけて親を安心させて……」とか言っていたが、なかなか良い娘が見つからず20代での結婚は半分諦め掛けていた…。しかし今回だけは相手が10代の高校生だけに長男より次男の恋人の方がどう考えても相応しく思えて仕方ない。そう思うのは古い考え方だろうが、年相応というものがある…。洋には悪いが、そう考えると今回だけは直樹を応援したい気持ちでいっぱいだった…。そう思いながら何かを言おうとしたが、その時婦長が来て、

「いつまでそこにいらっしゃるのですか?もう皆さんお集まりです」と言って会議室に急がした。だが和美の心はそこに有らずで、「もう勝手にして頂戴」と言わんばかりに志穂梨と洋のことを考えては頭を振っていたが、会議の途中で抜け出す事が出来ず時々夫のほうに目を走らせた。

 やがて会議が終わり医者達はそれぞれの任務に付くために足早に出て行ったが夫である院長は残り妻の和美に、「何かあったのか?今日は聞く耳持たない顔をして何か考え事していたみたいだったから…」と言うと和美は夫の暢気さといつも科が違っても同じ病院の中に勤務しているのに、そんな息子の恋愛の事なんか知らないといった顔をしている様子に呆れ返って、

「あなた、知らないの?あの田原志穂梨って娘と洋との関係を……?今では看護師や患者まで二人のあることないことが噂になっていると聞いているの」と言って怒った。夫隆則は『なんだ。その事か…』と思ったが、妻は続けだまに、

「私が言っているのは二人の関係がどうの、こうのと言ってないの。どうして母親である私に一言も言ってくれないのかを聞いているの。それに淳に聞けば『2人の関係はまるで恋人同士みたいに抱き合っていた…』と言っているの」と誇張して言った。  

 それを聞いた隆則は志穂梨の恋人は淳ではなく洋だと知って彼は絶望して何もかも嫌になりおそらくオートバイを走らせて壁か自動車に激突して自殺を図るのではという不安があり、

「あいつそれで落ち込んでなかったか…?あいつ相当、田原さんの娘さんに惚れていたからなァ…。ところであいつ今どこにいる?」と聞いた。和美は『落ち込んでなかったか?』の答えは『かなり落ち込んでいた』と答えたが淳の普段の性格からいうと『まさか自殺まではしないだろう』と思ってオートバイの騒音を聞きながら病院に足早に入って来たので、その辺のところは分からないと答えた。しかしちょっと気になったのは事実だ…。何故あの時、何も聞いてやれなかったのか?、時間がなかったのは真実だが、やはり理事会議の時ぐらいは余裕を持たせて来るように心掛けているのだが今日は本当に時間の余裕もなかった。母親としても事理長としても失格だ。そう思いながら隆則に言ったが、彼はその話を聞いて急に顔色を変えて救急指令室の方に足早に飛んで行った。和美は彼について行ったが、そう言われてみればさっき会議中に交通事故かなんかの連絡が入り何人かが慌ただしく出て行ったのを確認していた。

 あれがもし淳だったら……と思うと居ても立ってもいられない。だから夫に付いて行ったが、淳ではないかもしれない。そう祈りながら行ってみたが、そこには素早く処理を終えた幾人かの医者が話をしながら出て来たところだった……。A医師は院長の顔を見て頭を下げたが、事理長の和美も一緒だったので驚いていた…。そのA医師が何も言ってないのに、もう涙が頬を伝わって来て、

「淳は……あの子どこにいるの?」と和美は聞いた。突然そう聞かれて皆は驚いたが、その時洋の声で、

「母さん、大丈夫だよ。淳を死んだりなんかさせないから……。僕の血を輸血して今落ち着いています。とにかく同じ血液型でよかったです」と言って取り乱した母親を落ち着かせた……。そして側にいた父親にはA医師と、『後で話したいことがあるから……』と言ってその場では誰も何も症状とかは言わなかった…。ただ死亡する程の怪我ではなかったからだが、淳の心の傷はかなり重症である事を意味していた……。


        第         8        章

 「僕がいけなかったんだ…。淳の心を知っていながら、志穂梨さんに手を出してしまったから…。すべて僕の責任です…」と言って別室で父親とこれから直樹の主治医になるA医師に今までの経緯をすべて話し、淳がなぜ死を選択したのか知っている限りの事を話した。洋が話し終えると医者である父親に意見を求めるように、

「どうしたらいいのでしょう?今は麻酔で寝ていますが、直樹が起きたら『なぜ死なせてくれなかったんですか?志穂梨を兄さんに取られてまで生きたくない!』と言って恨み誰にも心を開かなくなるのではないでしょうか?…。でも志穂梨さんは直樹より僕を愛してしまった事、そして僕も彼女の愛に応えてしまった事は事実です…。後先の事も考えないで抱き合っていたことも本当です……それほど僕は彼女を愛してしまったんです…」と最後の言葉は少し強調して言った。隆則は『やはり…そうか…』と思って最後まで聞いていたが『どうしたらいいのでしょう?』という言葉に誰でも答えに困ってしまう。今までそういう相談はされた事は一度もなかったので仕方ないが、兄弟で同じ一人の女性を愛してしまうのはよくある話だ。どちらかが譲らなければならないのは事実だが、その志穂梨は直樹の牲で引き起こした事故の被害者だ。その上彼女にストーカー行為までして追い掛け回していた。そう簡単には直樹を許せないのは当たり前だが、どうして直樹の兄である洋とその被害者とが付き合う事になったのか、常識から考えると志穂梨の方が少しおかしい。でも毎日洋は医者として優しい言葉をかけているうちに志穂梨の鎖された心の目が少しずつであったが開いたのかも知れない。だが同時に直樹の心は……、彼女の心と引き換えに鎖してしまったのだ。『本当にどうしたらいいのだろうか?』ふっと気が付くと午後の診察の時間はとっくに始まっていたが3人の医師達は部屋から出て行かず考え込んでいた。だが結論は出せずここは暫く様子を見て少しでも欝のようすが見えてきたら、専門医で洋の友達で心療内科をしているT医師の所で診てもらう事で一応の決着が付いた…。その時看護師が「あのう…直樹君が目覚めましたが…」と誰とはなしに言いづらそうに入って来たが、A医師は救命医として、そして外科医でもある隆則は父親としてICU室に急いで戻った。後に残った洋は普通だったらもう外来患者を診察している時間だが、今日の午後の勤務は休んで恋人の志穂梨に会いに行こうとしたが、看護婦に、「先生急患です」と呼び止められて急所変更になったが志穂梨には後で話そうと思っていた。

 やがて今日の勤務は終わり洋は時間を気にしながら直樹の様子を見に行ったが、その頃直樹はもう個室で人工呼吸器も着いてなく視覚的軽症みたいだったが洋には直樹の心が心配で診に来たのだった。その時彼は黙って病室の天井の白い壁を睨みつけている様子だった。弟の様子が気になっていた洋は室に入って来るなり、

「直樹ごめん。何を言っても始まらないのは分かっている。直樹の気持ちも考えていたら、こんな自殺未遂はしなかったんだなァっと思うとすべてお前の心を踏み握った俺の責任だと思う……。だけど彼女の心だけは受け止めてやりたかったんだ」と言った。だが直樹は何も話したくない気持ちでいっぱいだったに違いないが、それでもドスの利いた声で、

「出て行ってくれ‼」と言って布団の中にもぐり、「兄貴が志穂梨を好きになって当然だけど、志穂梨の心は良太郎にあるとばかり思ってたんだ。だからおれは諦めたのに、でも相手が兄貴だったら……」と言いかけた。でも洋と直樹は人がこちらに来る気配を感じふっとドアの内側から外を同時に見たが、丁度その時ドアの前で靴音が停まり誰かが入ってくる気配だった。だからこれ以上言うのを止めたがドアが開いて入って来たのは志穂梨の父親利之と自分達の父親隆則だったので仕方ない。洋はこれ以上何も言わずに病室を出ようとしたが隆則は、

「ちょっと待ちなさい。お前にも後で話したいことがある」と止めてから利之には椅子を勧めた。そして隆則は利之に、

「これが志穂梨さんの主治医を担当している直樹の兄の保坂洋だ。どちらも私の馬鹿息子達だが、まさか洋までもが志穂梨さんを患者としてではなく一人の女の子として好きになってしまったらしい。親の知らない間に……相手が高校生だけにこちらにも責任がある。」と言って頭を深く垂れていた。その姿を見た利之は直樹に、

「もう怪我の方は大した事なかったみたいで良かったね。でもどうして自殺未遂なんかしたんだ?君の司法試験の結果は私も驚いているんだが、それが私より上だと聞いている。それなのに何故自殺を図るんだ…。おっと、それは志穂梨に振られたからか?それなら何も自殺しなくったって君の相応しい女性は他にも探せばいるのではないのかなァ。志穂梨より可愛い顔した女の子が……」と逆に彼を励ました。直樹は自殺未遂をした事が両親にどんなに心配をかけたか分かっていたが、あの時は無我夢中でどこをどう走ったのか「ふっ」と気が付いたらどこかの海岸沿いをオートバイで走っていた。そこは志穂梨と初めて会い良太郎に紹介してもらった場所だった。そして自殺する場所を探したが目の前に絶好の断崖絶壁を見た瞬間、彼は何故か『あの上からなら確立に死ねる』と思い、岩を掴んで余技上がろうとしたが途中で岩を持ちそこない落ちたらしい。気が付けば両親が経営するH総合病院だったが腕は骨折して右足は捻挫で左足は複雑骨折で手術していたのでまだ麻酔が効いたままだったが、順調に回復していたら全治3週間だそうだ。父親の隆則はそれを聞いて呆れ返っていたが、

「人間はそんなに簡単に死ねない。お前の馬鹿には呆れ返る」と洋が横合いで聞いてとうとう堪り兼ねて冷たく言った。しかしそう言った洋にも今度の事は少し責任を感じていたのでこれ以上の事は言わなかったが、直樹は洋のお答えに対し、

「まったくその通り。この経験は一生忘れない」と言って同席していた田原検事やそこにいた父親や兄貴に、

「心配かけてごめんなさい。事故でも事件でもありません。単に自殺しようとして途中で落ちただけなんです」と言った。そして自殺をしようと思った唯一の原因は失恋だが田原検事は直樹のこれからの事を考えて事故という事にしてくれた。その夜は一日ICUで入院した直樹だが、じっくりとこれからの事を考える事ができた。だが深夜に何度となく夜勤勤務の看護師が他の病室と同じように見回りに来て寝ているかどうか確めて行ったが、その度に寝たふりをして、引き返ってしまうと再び考え事をしていた。

 一方、洋もその夜は直樹があんな形で洋の恋人は一回りは離れていると思う田原利之の娘志穂梨だとあの場で暴露したが、それを表で聞いていた兄弟2人の母和美も彼女と同じように後から看護婦に聞いて駆けつけた田原満希子とまだ痛々しく目の周りを包帯をしている志穂梨もどよめくばかりで、事に志穂梨の母親満希子は娘、可愛さに抱き寄せた……。しかし洋が病室から出て来た時、志穂梨は直樹があんな事で自殺するとは、まだ信じられず誰よりも先に、

「淳があたしに振られたぐらいで本気で失恋自殺するなんて……あたしは淳より洋の方が好きなのに……これから先どうしたらいいの?」と聞いた。すると洋は予想外の出来事にため息をつきながら、

「君が本当に好きなのは僕なんだから……、後は直樹に君を忘れさせる事。少しぐらい時間がかかるかもしれないけれど仕方ないよ。彼にとってはいい薬だよ」と言ってそこで彼女を見つめていた自分の母親に志穂梨とその横でいつも心配気に付き添っている母親満希子を紹介した。すると和美は満希子の顔を見て、

「初めまして、相澤満希子さん。いえ……今は田原満希子さんでしたわね。一度お会いしたいと思っていました」と言って旧姓で言われて彼女をビックリさせた。保坂和美はニッコリ笑って握手を求めて、

「それだけではご存じないかも知れませんが、あなたのおじい様の相澤代議士の汚職事件の相手と言えばお分かりになるでしょうか?」と聞いた…。和美にとっても、この満希子にとっても忘れ難い出来事で、事に満希子と利之は家を裏切り警視庁や国税局に相澤氏の所得税隠しを告白、それとついでに同じように脱税をしていた代議士達、

10人ぐらいを逮捕させたが、その裏で贈収賄事件も絡んでいたので調査していくと贈賄側の相手というのが和美が今経営しているこの病院の元事理長の和美の父や叔父の元院長、その他の事務を勤める元医務局長達がこそ如く逮捕、起訴、処分されるぐらいの事件だった。その人達はもうこの世にいないがあの頃若かった3人は一日たりとも忘れていない……。その裏切りの牲で異母(あ)姉(ね)にも祖父にも自分達2人を勘当、家を追い出されてしまったが、利之の大学時代の友人とか満希子の高校時代の親友が結婚式をしてくれて、オマケに家を追い出されたばかりで住む家もなく困り果てていると彼のある大学の友達が故郷に帰る前にアパートを提供してくれた…。

 暫くはそこに新婚生活をしていたが、やがて利之は検事として地方に飛ばされて、そのたびに地方の仕来りとか方便に苦労した満希子だが、単身赴任だけはさせられないという思いがあったのでどこまでもついて行った。その結果かどうか知らないが子供には恵まれなったのが残念だが、そのおかげで琴乃が死んだ時、直ぐに赤ちゃんだった志穂梨を引き取って育てられたが、いったい誰の子供かが未だに分からない。しかし赤ちゃんの時はあまり産みの母親の琴乃に似ず、どちらかというと叔母の満希子に似ていた…。だから今日まで誰にもその事を知れずに育ったが、大人になるにつれても同じだった。今では誰が見ても志穂梨の母親は満希子で父親は利之なのだ。でも志穂梨にはいつか時期を見て、その本当の産みの母、琴乃について話さなければならないのではと思いチャンスを狙っていたが、父親が誰なのか聞かれるのをおそれた。適当に答えて措けばいいのだが、検察官の妻としては志穂梨が聞いたら本当の事を言うつもりで当時の事を調べてみたが父親だけが分からないのである。だが利之は血の繋がらない我が娘を見てきて、やはり自分達の子供も欲しいと思っていたが利之の方が男の避妊症で精子がないので出来ず、妻に文句を言っても始まらない…。せめて自分が20年前に捨てた、かつてはフィアンセだった妻の死んだ異母姉の子供を引き取り自分達の子供として17年間育てた志穂梨が幸せに結婚してくれたらあの時の罪滅ぼしになると思って育てたが、半年前までは健康で五体満足でごく普通の少女だった。だが、ここ半年の間で運命は大きく変わってしまい今では障害者になってしまっていた。しかしこの病院も22年前、利之達が調査して脱税していることが判り、国税局に密かに密告して院長や事理長ら当時の病院の管理責任者が妻の実家も関わっていた贈収賄事件のほとんど関っていたので逮捕した病院だったが、その時の贈賄側の病院がこの総合病院とは知らなかった。それは満希子も同じだろうけれど、でも高校からも今は田原一家の家になっているが、その昔は琴乃や満希子が住んでいた故相澤邸からも一番近い大きな病院はH総合病院だったからやむを得ない。でもあの時、隣町まで行っていたら出血多量で死に至る可能性もあったからやむを得ない。だから満希子には何も言わずにいたが彼女も気づいていたようだ。それに家から一番近くて便利な所で科が揃っていて評判がいい病院はそこしか知らなかったので替わりようがなかったが、そのことを最初から知っていたらもうとっくに変わっていたに違いない。

 でも志穂梨は本当の事を言う淳が来ないどこか知らない病院に移りたかったが、きっと淳の事だから何処の病院に移ったかぐらい調べ上げて来るに違いない…。そして『またストーカーみたいに付け回して来るだろう』と思うと「病院を変わろう…」とは言い出せずМ総合病院に我慢強く入院していた。だが、いつの間にか淳の兄、洋に真っ暗な闇の中から優しさと愛を感じて恋をし、また洋も淳の彼女じゃないという事がわかっていたのと、彼女があまりにも洋の理想に適っていたので志穂梨との事を考えてもいいと思うようになって行った……。

 そんな矢先、淳が事故とも自殺とも言い難い事をし、救急車で病院に運ばれてきた時は流石に志穂梨も洋も、『もうこれで終りだ…』と思った。でもケガは死に至るほどのものではなかったので『ほっ』とした2人だが、今後の事は外科医である父親、隆則にも判らない。ただ今はなんともなくても後から落ちた際腰を岩で打っている可能性があるので下半身が麻痺している可能性も捨て切れない。それは麻酔が消えて診ない事にはなんとも言えない。とにかく淳の自殺騒ぎがなかったら、このまま親密に本当の愛を育てて行くつもりだった洋と志穂梨は2人の恋が淳によって引き裂かれるような気がしてきたのは事実だ。

 実際にこうして淳は失恋自殺みたいな事をして騒ぎを大きくしてしまったが、後から淳が看護婦達の噂を聞いて参っていた。

 そして4~5日たったある日、もう麻酔も取れているのに院長の回診で淳は自分の父親に突然、

「父さん、あの時僕に下半身がマヒしているかも知れないと言っていたね?」と何気なくもう一度聞いたが隆則は、

「そんな事言ったかなァ。まあ落ちた場所が場所だから言ったかも知れんが、それがどうかしたのか?」と聞いた。すると淳は言葉を捜しながら、段々と顔色が蒼白になっていく父に、

「いつも悪い事ばかりしていたから罰が当たったんだ。志穂梨のいう通りだよなァ……。中学の頃からずっと影の番長と言われていたほど悪だし、プレイボーイで可愛い女の子を見ると付き合いたくなるし、暴走族で道路交通法違反ばかりしていたし……それで居て『よくまあ司法試験だけ通ったなァ』と今になって感心しているんだ……」と言って明るい顔して見せた。そして少しずつ悲しい顔になりながら、

「麻酔の時間がもうとっくに切れているはずなのに足がまったく動けないんだ…」とはじめて症状を言った直樹に父は直ぐ息子の足元に回って布団を捲り診察したが確かに動いていない。『やはり……』と思ったが、その前に淳は勝手に自分の足を手で抓ったりした後もあるから恐らくそれで分かったのだろうと隆則は思った。

 しかし隆則はなんとか息子を元の健全な体に戻さなければいけないと思い動けない捻挫している足を動かして診たが感覚がないために痛くなかった。それを診たかった隆則は淳に、

「本当に痛くないのか?少しでも感覚がないのか?」と静かに聴くと、

「もういいよ。俺も医者の息子だからおよそどうなっているのか判るんだよなァ。足の骨折は治っても、もう一生自分の足で立って歩いたり出来なくなる事ぐらい……そしてオートバイも乗れなくなる……」などと医者に告知される前に自分で言って納得させた。

 しかしいくら自分で納得していても医者である父親は簡単には納得しない……。しないどころか、

「今日の午後から精密検査をするから……。お前だって一刻も早く診てもらって本当の原因を解明したいだろう?」と聞いてスケジュール帳を見て今日診察する予定の患者を明日にしたり、あるところに電話をかけたりして予定を変更していた。ともかく別に救急車で運ばれて来た患者か急に発作が出てくる患者以外はチェックアウト出来る。そう思った隆則の行動は正しかったが、もしただの麻酔が効き過ぎで完全に消えてない状態かもしれないが検査をした方が安心させられると思った…。

 母親も息子、淳の足の事は気になっていたが、父親の方は多発している医療ミスかもしれないと思っていた。実際は医療ミスではなく崖から落ちた際、大岩に腰を強く打った事による腰から下が麻痺している『脊髄性麻痺』で交通事故なんかに良く見られる症状だった。淳が言っていた通り一生歩けない。父親の答えは解っていたが、母親の和美は言葉を失うほどのショックだった事が分かる。だが和美にも淳にも一応告知はしたが、当の本人が言っていた通り、一生歩けないとは父親として言い辛かった。だが淳はその告知を受け止めたみたいに心と裏腹に明るい表情で、

「これが誰も僕に『医者になれ』なんて言わなくなる。まあ、法学部に通っていた事だし、学生の身分であの難関の司法試験に合格したんだし、これで誰にも文句言われずに司法実習を受けて弁護士になれる…」と病室のドアの所で心配そうにしていた母親に言ったが、今までなら許してくれそうにない将来の進路の事も言えた事を感謝して言った……。その事は和美も隆典や利之から聞いて知っていたので、

「あなたの好きなようにしなさい。足がダメなら外科医にはなれないんだから……。仕方ないわ」と冷たくあしらっていたが、将来の進路を誰よりも先に言ってほしかった和美は自分のエゴの性で反対していたのが、ばかばかしく悲しい結末に終わった事を後悔していた。今は事理長としてではなく唯の母親として悲しくなって泣けてきた。

 しかし淳の前では泣いてはいけないと思い強気になって言っていたが、病室を出た途端に涙が溢れて泣き崩れた。

 一方志穂梨はこの1ヵ月洋の指導でリハビリに専念していたが、1ヶ月過ぎてもまだリハビリに来ないので淳が心配になり、つい洋に、

「もう足の骨折の方は治ってジブスが取れているはずだけど、彼の事だからきっと無様な格好を見せたくなくって駄々を捏ねているんじゃないの?」

と、いつもの笑みを浮かべながら聞いた。その何気ない笑みに対して洋は深刻になってしまったが、彼女には何も知らされてないので仕方なかった。でも淳は『志穂梨にはどんなに誤解されても、この事だけは黙っといてくれ…。いいなァ……、兄貴。彼女に同情されるのだけはごめんだからな…』と言っていたが、こういう誤解だけはされたくない洋は冷たい表情で黙って彼女を見つめるしかなかった。志穂梨は洋が何も言わないのを気になって、

「あたし今、何か悪い事言った?」と聞いたが洋の方は淳も今までの事もあるから仕方ないと気を取り直して、

「いや、そんな事より淳に会いたくない?実は彼はまだ骨がくっ付いてないらしくて……だから来れなくて当たり前さ……」と脊髄性損傷になっていることは言わず、ただ静かに静養しているという事だけを言った…。本当は洋が彼女に淳の今の状態を話すべきだったが『話をしてもどうせ信じてくれないだろう。それよりか目が見えてなくても普段から直感が鋭い志穂梨が会えば直ぐ淳の足の状態が分かるだろう』と思っていたから、あえて言わなかった。

 しかし目が見えない彼女にとって淳も敵意を抱いた加害者の一人だったので歩けなくなった今の淳の気持ちなど判るはずがない。というのも志穂梨の態度は誰が見ても凍りつくような微笑を浮かべて、

「いい気味だわ。あたしのようにならなくて良かったじゃない。どうせあいつの事だから足の骨がくっ付いて歩けるようになったら退院できるんでしょ?‼」と付加疑問詞を使って軽く聞いた。洋はそんな彼女の冷た過ぎる言葉を深刻に受け止めたが『言ってしまえばどうにかなるのか?』とも思った。

 だが洋には『志穂梨ちゃんは何も知らない。彼女の母親にもその事は話してなかったんだ。だから日頃の淳を思い出してそういう言い方になってしまうんだ』と思い、凍り付くような微笑みに怒らないでどうしたら淳の足の今の状態をわかってもらえるのか考えた。だが洋は淳の症状も障害の程度も志穂梨には説明してほしくないと言われていたので彼としては沈黙を守っていたかったが、すぐに退院できると勘違いされていたのでは弟が哀れで可哀そうだ。

 そう思った洋は「僕について来て」と言って志穂梨の手を取ると自分の腕に握らせて歩き出した。彼女は首を傾げていたが、淳がどんな具合なのか会えれば判る事だった。

 しかし直感的に行って彼の状況は悪いに決まっていた。なぜならば洋の歩く速度がいつもと違うと思った。志穂梨は足がもつれて倒れそうになるほど足早になったがなんとか付いて行き躓きそうになるのを堪えながらも歩いて行ったが、それほど悪いんだと思っていた。そして……。

 そして……淳の病室の前まで来て急に足を止めた洋は志穂梨を見、何も言わずいきなりドアを叩いていた……。「はい、どうぞ……」という淳の声、『いつもの声じゃない』と言おうとした志穂梨……。だがドアが開いて入って来て志穂梨の顔を見るなり、

「どうしてみっともないところを見せるんだ?兄貴。『志穂梨にはこの足が歩けなくなった事を絶対言うな』と言っといたはずだ。約束が違う‼」と怒鳴った。志穂梨は洋に誘われるまま来てしまったのでビックリしていたが、洋は淳の心を御見通していたようで、『そう来るだろう』と思い、落ち着き払って『クスクス』と笑いながら、

「志穂梨ちゃんは何も見えないんだよ。言わなかったらみっともないか、どうかも解らないのに馬鹿じゃないの?」と言った。淳は洋に言われて『しまった……』と思ったが確かに兄貴の言う通りだ。だが言ってしまったものは仕方ない…。そんな3人がしばらく黙っていたが、志穂梨の方が先に沈黙を破り聞いた。

「じゃあ洋先生が黙って連れて来たのは淳に自分で足が歩けなくなったことを言わせるためだったの?」と……。すると洋は落ち着いて志穂梨に言い聞かせるように淳にも言った。

「志穂梨ちゃんのさっきの言葉は憎しみが籠っていた言い方だったから、いくらあの時の事を根に持っていても、悪いのは弟でも、ああいう言い方されたら千年の恋でも冷めてしまうよ…。だから連れて来たんだが、淳は僕が足のことを喋ったと勘違いして自分で言ってしまうんだからなァ。お前も馬鹿だ」と真面目な顔をして言った…。  

 洋は淳の心を読んで志穂梨をこの病室に連れて来たのだが、やはり思った通り淳が自分から言ったのでこれ以上、何も言わなかった…。淳は志穂梨と洋に何か言いたい気がしたが、洋にまたきつく言い返されるだけなので何も言わず志穂梨の包帯が巻かれている目をじっと見ていた。やがて洋の方が淳に気を利かせて病室を去る事にしたが、志穂梨には「もう直ぐ勤務時間だから……」と優しく言って立ち上がった。そして「帰る時はナースを淳に呼ばせて一緒に帰るように」と言おうとしたが、志穂梨は淳と一緒にいたくなかったので彼女のほうが先に、

「洋が帰るのなら、あたしも帰る」と言って洋の手をしっかり握り締めて立ち上がった。ここは彼女のいう通りにしたが、淳はなんだか寂しそうな様子で志穂梨を見守っていた。でも仕方ないことだ。最初から判っていたのだが、彼女には園田良太郎というフィアンセもいた…。だが志穂梨はそれもあまりよくない評判だからという事由だけで嫌いになり、今度は同級生で超真面目な佑介を美奈子に紹介してもらった。しかし今は事故のために失明した彼女の心を慰めてくれる相手ではないことぐらい判っていた。それで別れてしまったが、佑介のこれからの将来のためにも都合がよかった。

 それを知った淳は自分の牲もあったのでそれとなしに見守っていたが、志穂梨には大してショックはなかったので安心していた…。そう思いながら病室を出る志穂梨達を見送っていた直樹だが、その時兄弟の母親、松本和美がそこに立って偶然にも入ろうとしていたので洋は驚きの目を隠せなかった。母親は弟の事が心配で、こうして毎日病院に来るようにしていたが、和美は洋の腕をしっかりとつかんで片手に盲人用のステッチを持って歩いている少女を見て驚いている様子に洋が気づいて静かに、

「淳のお見舞いに来てくれただけだから……田原志穂梨ちゃん。紹介しなくていいよね。親父から淳と僕と彼女の関係は聞いていると思うけど?」と彼は逆に聞いた…。

 和美は洋に言われて、

「ええ、聞きました。お母さんも昔、田原利之さんつまりあなたのお父さんにはずいぶんとお世話になっていますから…でもきれいなお付き合いでしたから…」と言って二人の息子の顔を交互に見ながら意味あり気にニッコリと微笑んだが、そう言われて洋は変な顔をして母親と志穂梨を交互に見たが目の見えない志穂梨にはどんな顔で和美が自分を見ていたのか解らなかった…。

 しかし淳の方は彼女の出生の秘密と母親と田原検事の付き合いをある程度知っていたので別に驚いたりしなかったが、今喋ると彼女との関係がますますこじれてしまうと思い何も言えずドアの反対側の壁の方を向いた……。だが志穂梨はそれを聞いて驚いていたが、目に包帯をしていたために驚いている事が彼らの母親には2~3度会っただけでまだそういう様子が解らなかった…。だが洋はすぐ彼女の手を見たが僅かな動きにも見逃しはしない。それで彼女を病室に送る途中で洋は、

「どうかしたの?さっきの手の微妙な動きは僕の母さんが君のお父さんと知り合いだったって言うことで驚いていたんだろう。すぐ解るんだよ。君の顔は正直だから……その他に母さん何か気になる事を言った?」と優しく聞いた。

 すると志穂梨はためらいがちにかつ考えながら、

「ええ、ああ……あなたのお義母さん、私のお父さんの過去を知ってらっしゃるみたいだったから……。ちょっと驚いただけよ。それに私の両親、どちらも自分達の過去は一切話してくれなかったから……。だからあたしが産まれた時の事も教えてくれないし戸籍も見せてくれず、さっさと封筒に入れて封印してあたしにだけ見せないようにしてしまうんだ。でもそれを開けて見て本当の親娘でなかったら恐いし、それに今度はどんな顔して自分を育ててくれた両親を見たらいいか判んないし……」と言葉を濁した。洋はそう言った志穂梨を見て思い出したが、交通事故の手術をした時、志穂梨は彼女の両親の間では絶対に有り得ない血液型だった。その血液型が洋には付き合いだしてからずっと気になっていたが、まさか彼女が知らないはずがない。もしかしたら志穂梨の両親がこの事を隠しておかなければならない何か深い事情があるのに違いないが、彼女だって知る権利がある。だが和美の言葉を聴いて志穂梨も自分の今の両親が本当の両親ではないと確信していたが、では本当の両親は今、何処で何をしているのだろう?……と思う。でもそれを聞いてどうなるものでもないし、返って今の両親を悲しませるだけだと思って聞いていない。だがまったく赤の他人が自分の出生を知っていたのに驚き、自分だけが知らない事に日々が経つに連れて心の中に両親へのわだかまりのようなものが出て何かにつけて自分は一体何処の誰なのだろうと思った…。

 そんな1ヶ月後のある日の夕方、大都会では滅多に見られない夕日の落ちる瞬間をベッドの上で眺めるような仕草をして涙を流していた志穂梨を見て満希子は、

「志穂梨、どうしたの?もしかして夕日が見えるの?ねえ?‼……」と驚いたように聞いた。志穂梨は母の期待に対して首を横に振り悲しい表情で、

「もう夕方なの?……」と聞いた…。母親はその答えに「ええ……」と浮かない表情をして答えたが、志穂梨には見えない…。ただなんとなく満希子の目には娘が悩んでいる様子だったのと悲しい、いつもと違う表情だったので母親として心配はしていたが、まさか志穂梨は自分の出生の秘密を知ろうとして母親ではなく誰か他に父と母の過去を知っている第三者に聞こうとして探していることなど夢にも思わなかった…。でもその笑顔は心からの笑いではないのは誰の目にも明らかで満希子には、それは娘が盲になった事への将来の不安感からそうさせているのだと思い込もうとしていた。でもそれとは別の悩みがあるのは明らかで聞いた方がいいのは母親として当然の事だと思って、

「何か悩みがありそうね。あなたの顔を見ればちゃんと書いてあるんだけれど……?」と何気なく聞いたが、志穂梨は満希子にはそういうところは鋭いと思いつつ、彼女は本当のことが言い出せなかった。なぜ悩みを打ち明けられなかったのか、とにかく母親を頼ってばかりにしてはいけないと、自分の彼氏ぐらいは自分で探そうと思い込ませて言えなかった。それで彼女は無邪気に微笑んで、

「残念でした。そんなんじゃないわ…。お母さんってどうしてそんなふうに考えちゃうの?」と逆に聞いた。満希子もそう言われると確かに志穂梨のいうとおりだったが最近の彼女は特に元気がないので心配気に聞いただけだと言って洋や直樹の事は避けた。

 すると志穂梨は口元だけ笑って、

「そう?そんなふうに見えたのなら心配していたんだ。ごめんなさい」と言って両手を重ねて謝った。その仕草と言い方を見ると何故か20年前の満希子の姉琴乃の仕草とダブって見えたが、志穂梨は時々彼女の産みの母琴乃があの世から帰って来たような感じがして、その度に満希子は琴乃の霊が利之への思いで成仏が出来ず今もなお、あの時のことが忘れられず、自分が生んだ娘を使って満希子に復讐しているのでは……と思えてならない……。確かにそのしぐさは家族の中で姉だけがしていて満希子は利之の前でもした覚えがない…。ないどころか小さい時から、そんな誤り方はしない満希子は謝る時も頭を下げて昔ながらの謝り方をしていたので、そういう謝り方もあるのも知らなかったほどだ……。きっと志穂梨はテレビドラマか漫画のアニメで見て覚えたのだろうが、でもやはりしてほしくなかった満希子は急に黙りこくってしまい志穂梨が、

「お母さん、あたし何か悪い事言った?」と聞くまで呆然と空を見つめていたのだった…。満希子はそんなことを言う志穂梨にびっくりしたように、

「えっ?、ああ、いいえ、悪いことは言ってないわ」と慌てて不訂してわれに返り、それから「紅茶でも飲む?」と聞いて入れる支度を始めた。その後、志穂梨は満希子が入れてくれた紅茶を飲みながら首を傾げていたが満希子はその仕草も気になって、

「どうしたの?やっぱり悩みがあるんじゃないの?」とまた聞く母に敵わないと彼女は思い悩みをポツリポツリと話し出した。

それは直樹のお見舞いに行って偶然に洋と淳の母保坂和美に会い、そこで繰り広げられた話しをしていたが、満希子の顔はそれが22年前、利之が検察官として始めて告白し家を追われる羽目になった例の贈収賄事件の贈賄側の病院がこのH総合病院だった。だが満希子には何も知らされてなかったが、もう過去の事なので利之も許したのだろうと思った。もう時効なので妻には何も言わず、そのまま娘を入院させていたが、何故その事を夫は言ってくれないのか、利之と和美の間に何があったのかまったく知らないまま婚姻届を出してしまったが、姉の琴乃の事だけは一日たりとも忘れていないと言うより、忘れてはいけないと思った。だから琴乃の娘を引き取って育てた。

 その夜妻は夫にその話をしたが、彼は『志穂梨と結婚したいほど好きだ』という淳の家族はどんな家系なのか特に松本という名前に心当たりがあったのと、昔付き合っていた女性と同じ名字だったので検事という立場で秘かに調べていた。だが調べてみるとやはりあの時、自分が騙し、その父親を贈収賄容疑で逮捕起訴した病院の前理事長の家族だった…。

 だが、あの当時自分の妻の実家もその事件に関与して収賄罪で起訴した政治家だったために、そのことは水に流し、志穂梨が愛しているなら洋でも淳でもいいから結婚させてやろうと覚悟を決めていた。だから淳のストーカー行為を見逃し、今度このような行為をして女性が訴えてきたら、その時は拘置所でも刑務所でも放り込めば済むことだと彼は思い、独意の判断で決めてしまった。

 だが妻の満希子は母親として、そのストーカー行為のために罪のない志穂梨の目を奪い何も見えなくしてしまった恨みがあったが、でも本当に恨み殺したいほど憎いのは交通事故を防げなかった園田の馬鹿息子であるのは解っていたが、やっぱりその事だけではなく付け回していた淳にも責任があるようで松本家とは、これ以上の関係は深入りしたくなかった。その話をすると利之は、

「なんだ。満希子も知っていたのか。だが私は淳君と洋君のどちらでも志穂梨が好きな方を選ばせたいと思っているんだ。君のように昔の事に拘っていたら世の中生きていけない。そう思わない?」と言った。だが妻は、

「ええ、でもあなたは私と結婚したために出世コースをあきらめて地方を転々とした検事になり下がり、今回漸くその実績が認められて検察庁に戻る事が出来たのに、また娘の事で地方に飛ばされたら……」と自分の事のように心配して言った。だが利之は平気な顔して、

「だけどその事で満希子に文句言った事があるかなァ?それほど愛している証拠じゃないか……。それに検察庁に戻ってみたけれど、やはり地方の方が刑事事件ばかりだったから弁護士をやり込められて面白かったんだ…。でもこっちに帰ってから私には向いていない汚職事件の取調べとか横領事件の裁判ばかりで困っている」と言って更に、

「生臭い殺人事件や強盗事件の方が私には合っているかもね。それにこの辺で検察庁を辞めて冤罪事件ばかりを担当する弁護士事務所を直立させて弁護士になろうと思っている」と付け加えた。満希子は『弁護士になろうと思っている』と言った利之の最後の言葉を疑うように首を傾げて聞いていたが、検察官は公務員だから確かに退職制度がある……。だが弁護士ならば自営業と同じだから病気にならない限り今まで同様にやっていけるし、がんばれば今までの倍の収入が得られる。そう解釈した満希子はもうそんな歳とは思いたくない利之の顔をじっと見ていたが、何故今になってそういう事を言い出すのか、それは志穂梨のためであったかもしれなかった。志穂梨が将来困らないだけの財産を残してやろうとする利之の親心を考えると彼女は叔母として何も言えなかった。でも利之は淳の事も考えて言っていたが、彼も利之と同じで冤罪中心の弁護士事務所で働きたいと言っていた……。それで利之も最初は面白半分で一緒になって本当にそういう法律事務所があるのかインターネットを使って探したが、専門的にやっている所はほとんどない。みんな園田佳代のように金目当ての法律事務所ばかりだった。そこに目をつけた彼は先に彼自身が検察官を辞職して弁護士になる決意をしたが妻には一言言って了解を得られなくてもやるつもりでいたが、満希子は涙を流して聞いていた。嬉しさのあまり何も言えず『何か言わなくては……』と思っても言葉が出てこなかった。それほど満希子は志穂梨の将来を心配していた。利之もそうであったが、妻ほど心配してなかった。というのは志穂梨には洋や淳みたいなボーイフレンドがいるからだったが、娘はまだ17歳になったばかりで結婚とかそう言ったことを考える余裕などまったくなく、父親としては大学に進学してほしかった。だが今のままでは大学は愚か、盲学校に行かなければならなくなり、点字の『あいうえお』から覚えなければならない…。そればかりではなく彼女の心も直さなければならない状況に置かれていた。それが利之にとっては心配だったが、今まで志穂梨の教育は妻に任せっきりで自分は仕事ばかりしてきた、いわば仕事人間だった。でも娘の事故で人が変ったように妻や娘に優しくなり教育問題にも志穂梨の事ばかり考えて退学届けを出さないで休校届けを出してくれたりして色々言葉に言い表せない、本当の父親でもそんな事はしてくれそうもない事をしてくれていたので満希子は感謝していた。

 でも利之にとっては当たり前の事で妻に感謝される覚えはない。というのは確かに利之達の子供ではないが、今まで17年間楽しく過ごせたのはやはり志穂梨がいたからではないかと思い、彼女のために何かしてやらねばという気持ちの方が先に立ってしまい、『学校にまた通いたい‼』という娘の一途の望みを察して教育委員会にお願いしてくれたのはやはり利之だった。利之は検察官の地位とか名誉のためにしたのではなくて子供のために、娘のこれからの将来のことを考えてしたのだった。だが目が不自由になる前なら彼女の将来は義父利之と同じ検察官になりたいという夢があったが、今の彼女にはそれも叶わなぬ夢になってしまった。そういう絶望心から来るのだろうか…。今の彼女は希望をなくした鳥篭の中の小鳥のようだ…。しかし志穂梨に希望を与えてくれているのはやはり洋であって淳ではない…。それは誰の目にも明らかだが、その事を知っていて利之は直樹に同情して、

「志穂梨のことは洋君に任せるつもり?君はそれでいいのか?君はその程度でしか志穂梨を好きにならないのなら別に構わないが、そうでないのなら取り戻すとか考えないのか?」と聞いた。すると淳はニヤッと笑って、

「あなたの奥様がしたみたいにしろというのですか?ふ~ん、考えないでもないですが……」と言って相手の顔を見たが、利之にはピ~ンとこない。すると淳は洋に敵わない事と、彼の母親が話してくれたことを話した。だが利之は驚きはせずに聞いていたが、話し終わると、

「ああ、和美さんには本当に悪い事をしたと思っているが、たまたま出会ってああいう結果になってしまったんだ。私としてはどうする事も出来なかったんだが、和美さんに一言侘びをと思い、そのあくる日に家の方に行ったんだが会うことは出来ず、そのまま1ヶ月後に転勤してしまった」とあの頃を振り返って言った。淳には関係なかったので何も言わないで済んだが、母が聞いていたらきっと本音の言い合いになっていたに違いないと思った……。

 そう思いながら話は自然にそのことから仕事の話になってしまったが、利之は検察官を辞めて弁護士になって事務所を構えるつもりだと妻に話した計画を実行するために彼にも話した。話し終わると利之は真面目な顔で、

「まだ冤罪中心にやっている事務所を探しているのだったら、私の事務所で働いてみないか。私も定年退職になる前に県庁の検事を辞めて弁護士になろうかと思っている……私が今までやってきた裁判の中で取調官によって仕組まれた冤罪だと思うのが二つ三つあってね。検事としては情けないことだが上からの指示でやむを得なく従ったんだが、取調官もあの男が自白したというんだ。でも私は自白をさせられたと今でも確信している。だがあの弁護士にも呆れ返っているのだが、いくら国選弁護士だからって私とは最初っから争う姿勢などなく、ろくに調査してなかったんだなァ……。それで有罪判決が出たが、もし私が弁護士の立場だったらあの場合、とことんアリバイを調べて無罪放免にしてやると思うんだが、それが検事の分代では出来ない。だから今度は国選弁護士にでもなって、そういう人々を救い出してやろうと思ってね」と初めて本当の事由を直樹に打ち明けた。それを聞いた彼は、

「国選はいい加減ですからね。いくら仕事をしてもギャラが安いから、ろくに調べもしないで有罪判決になってしまう被告人には気の毒ですが、そういうケースがよくあるケースのひとつなのです。でもいい弁護士かどうかが決まるのも国選からなんです」と言った。利之は淳の言葉に頷いたが、淳はさらに続けた。 

「でも、何でまた検察官を辞めたくなったのですか?その仕組まれた冤罪の事だけが原因ではないでしょう。志穂梨ちゃんの入院費とか将来困らないだけの財産を残してやろうとしているのでしょ?判っていますよ……でもどうして良太郎の親父さんとかにその話しをしなかったのですか?そうすればその冤罪を塞ぐことが出来たのに…」と言って真面目な顔で利之の目を追うようなまなざしをして見るのだった。

 利之もそう来るだろうと思っていたのか、すぐに、

「あいつはだめだ。金のない被告だと新人の仕事にまわして自分は金になる土地売買の裁判とか、医療ミスをした医者側の弁護をしたりして、弁護士の本来の精神を忘れている」と言った。淳の記憶からはいい弁護士のイメージにしか見えなかったので仕方なかったが、そう言われてみれば良太郎が釈放した日、なぜ父親か母親が出向いて来ず新人の駆け出し弁護士に任せたのか不思議に思っていた。だが直樹はその時もきっと出なければならない裁判か被告の面接があり、そのことで行けなかったとばかり思っていたが実はそうではなさそうだ……。利之は何もかも知って淳にはあんな弁護士にさせたくなく自ら弁護士になって直樹の指導をしようと思い立っていた。だが淳の場合はあと3~4年大学に行かなければならず、それが終わってから研修をして始めて弁護士になれるのだ。司法試験だけ通ったからと言っても弁護士にも検察官にもなれるわけがない。利之もそうだが弁護士になるには、もう一度研修に行かなければ弁護士としてのバッチは貰えない。そして事務所を探すか、自分で開くしかするのだが、自分も今問題になっている天下りだと言われることは間違いない。だが司法関係者が再就職するとなるとやはり弁護士にしかなれない。どっちにしても民間に戻って淳を教育して行くのもいいだろうと覚悟を決めた。淳は志穂梨のために一刻も早く弁護士になりたくて今は不良から立ち直り真面目になった…。そう思いながら利之は

恋の力とは凄いものだと思っていた。自分の時もそうだったが、満希子と一緒なら北海道の最北の番外地の果てまで付いて行こうと決心していた。しかしそんな事はしなくても各地を転々と10年間ぐらい転勤ばかりしていたが、それでも最果ての番外地には行ってない。北海道には転勤はあったが札幌止まり。それ以上の北には行っていなかった…。ただ一度だけ札幌転勤の際に満希子を連れて番外地まで車をかっ飛ばしたが、それは新婚旅行の変わりに夏休みを利用してドライブに連れて行った夫としては当たり前の事だった。そういうことを思い出しながら志穂梨と松本淳が結婚してくれたらどんなにいいだろうと思っていたのは利之だけではないかと思うと頭を振りながら思考を元に戻そうとした。だけどそれだけは運命に任せるほかないのだが、洋では少し年上過ぎて、後で志穂梨が後悔するのではと思えてならない。愛があれば年の差なんてどうにでもなるのだが、利之はそれでも志穂梨には年相応の相手を見つけてほしかった。だが彼女はまだ10代だ。「好き」と言う言葉の意味と『愛』と言う言葉の意味の違いを知っていたら簡単に『好きです』とは言ったり洋と抱き合ったりしない。だが洋の方はどうだろう……?29歳だと聞いているが、もう立派な大人だ。その辺のことは淳より判っていると思い見ていたが、どうもこちらの思い違いをしていたようだ。

 だがどっちにしても親の思い通りには行かなくなってしまった…。それは和美も一緒だろうが、何も好き好んで障害者を彼女に選ばなくてもいいだろうと普通の親なら誰でも思う。だが和美は日頃から交通事故で手足が不自由になったり洋が志穂梨に言って聞かせてくれた中途障害になった女性と婚約者の話は和美も聞いたが、その話を聞いた時彼女は洋にも淳にも、

「恋愛は自由だからあなた達が一生涯この女となら愛せると思う女性と結婚しなさい。お母さんは何も言わないわ。例え障害者になってしまった女性でもね」と言って物分りのいい母親になっていたのだ。そして突然に洋は十代の高校生の……それも昔、和美の心を利用して贈収賄という途轍もない事件を調べ上げて行ったが、それが裏切り行為になってしまった、あの忌まわしい事件の彼のとった行動、あの事件の背景が脳裏に妬き付けられている限り許し難い、そして今でも憎いと思っている男の孃と自分の息子が愛し合っているなんて判った以上、二人を心から認める理由にはいかない……しかしそれが分かった以上、許して置く事が出来ない過去がある限り物分りのいい母親でいられなかった。和美は悩んだ……。『どうするべきか?』……和美は考えた挙句、彼には今も会いたくなかったが、田原利之を携帯で呼んだ。利之は病院の隣にある喫茶店にいたので和美の電話の声に驚いていたが、

「和美さん……?どうかしたのですか?今、淳君と病院の外の喫茶店で昼御飯を食べているところですよ……。君からTEL掛けて来るなんて珍しいね。どう?これから会えない?」と誘ってきた。和美は戸惑いながらも考えて、

「淳…そこにいるの?病院の食事を食べないで……病院食のおいしくないのは解っているけどカロリー計算ちゃんとしているんだから……まったくもう……」と独り言のように言っていたが、彼女はそんなことを言うために電話を掛けたのではない。そう思いながら携帯電話を耳に当て直して雑談をしながら病院の隣にある喫茶店へ急いで行き扉を開けると周りを見回して彼等を見つけた。そして淳のところまで来ると食べている物を見て、

「コーヒーだけならいいけれどサンドウィッチが多いわね」などと言って貶した。

 そして淳の隣に席を取りウェートレスにコーヒーだけを頼み、そしてウェートレスが行ってしまうのを待って利之と淳の顔を交互に見比べて

「洋の事だけど……」と切り出した。利之と淳は顔を見合わせて『今頃になって何を言い出すかと思えば……』と思って和美の顔を見たが、和美は超真面目で二人を見ていた。そして、

「志穂梨さんと付き合っていると聞いて驚いているんだけれど、あなたも二人の交際を認めているの?」と切り出した。利之は突然の事で淳を見たが、今『その通り、認めているよ』と言ったらさっき話していた弁護士事務所を一緒に開こうとしていた話もなくなってしまう。

 だが兄弟二人とも同じ女性に恋してしまうことはよくある事だ。自分には兄弟はいなかったが琴乃と満希子は姉妹で利之を奪い合い、彼は満希子を選んでしまったのだった…。

 だが今、目の前にいるこの淳が志穂梨を心から愛していると、そしてもし志穂梨がどうしても洋を『愛していない…』と言うのなら淳を応援してもいいのだが、実際はそうでなく志穂梨と洋は恋愛関係になってしまったのだった…。そういう二人を日頃見ていなかった和美は、どうしても女の子の方が洋を誑かしていると思ってしまい彼等の年の差を考えると認めたくなかったのだった。そういう和美に淳は、

「僕のことを心配してくれていたんだね。僕が失恋ぐらいで自殺をし損なって足を駄目にしてしまったから……。今度兄貴が志穂梨と結婚したいなんて言ったら本当に自殺し兼ねないと思っているんだろう?あの時はそうだったけれど今は違う。別に志穂梨が兄貴と結婚しようが別れようがなんとも思っていない……」と言い強がって見せた。利之も和美も強がりを言っている淳に本当は略奪したいという気持ちも働いているのではないかと思って同時に淳の目を見たが、立ち直りの速さには誰にも負けない彼は彼らの心配をよそに明るく振舞っていた……。しかしこのままでは終わる理由がない。そう思っている淳の母親と利之に突然淳が、

「でも良太郎のことはどうするんだろう?志穂梨はあいつの事が好きだったみたいだから…」と言って残りの珈琲を飲み干して車椅子を自分で漕いで喫茶店を出て行った。後に残った利之と和美は珈琲を飲みながら、どちらかが話し掛けてくるのを待っていたが流石に利之も昔の事は言い出せない。しかし和美は洋の事で来ているので、

「さっき電話では話せなかったけれど、あなたの娘さんは高校生よ…。いくらあなたの子供でないからと言っても法律上は親なんですから恋人の歳が一回りも離れていたら誰だって反対するものなの」と利之に怒って言った…。利之は『なんだ、その話か?』と思ったが、真面目な顔して、

「君の意見は子供を信じてない言い方だけど、あの二人を見ていると、今反対したら家のことなど考えないで駆け落ちをすると思う。ましては洋君は医者だから私と一緒ですぐにでもそれを利用した職に就けることが出来る……。例えば無医村に行ったら尚更の事……そう思うから反対はしないことに決めたんだ。それに反対すればするほど恋の炎は燃え上がっていく……」と喫茶店の外の景色を見ながら静かに言った。そして目を閉じて、

「本当は僕も淳君が志穂梨を射止めてくれた方がいいと思っていたが、親の思惑通りには行かないのが残念だと思っている。でも淳君には将来立派な弁護士になって弱い者の立場に立って考えてほしいと思っている」と言ってウェートレスに珈琲のお替りを追加したが和美は目の前にいる昔の彼に、

「あなたは一向に変わってないのね。だけどこれだけは認めてあげてもいいわ。恋については誰よりも上手だっていう事をネ」と言って利之の前で初めて和美が笑った。 

 それは利之にとって名誉な事かどうか判らなかったが、検察官としては不真面目な事に値するのでちょっと周りを見て安心した。誰一人知人とか、そば耳を立てて聴いている者はいなかったからだ。その姿を見て和美は利之が何を気にしているか解ったので、

「バッチを取ればお役人だという事がわからないわ。でも今は取らない方がいいかもね。あっそうだ。背広の襟の裏側にそのバッチの表をつければ……これでただの勤め人にしか見えないわ」と言って付け直してくれた。

 利之は素直な気持ちになって「ありがとう」と言ったが、和美は「そんなことは当たり前よ。外に出れば誰でも身分を知られないようにするものなの」と言って、そして話を元に戻そうとして切り出した。

「ところでさっきの話の続きだけれど、あなたはこのまま『放っとけば……』と言ったけれど母親としては放っとけないの。だからこうして会いたくないのに会う決心をして電話を掛けたんじゃない」と言って相手の様子を窺った。しかし利之は和美の深刻そうな顔を見て、

「今、ほかに打つ手はそれしかないよ。洋君が家出でもされたらこのМ病院の後継者は誰がなるのかが問題になってくるんだよ。まだそこまでは行かないにしてもいずれは遺言状を書くんだろう?んん、違った?」と聞いた。

 和美はさすがに何も言い出せず戸惑っていたが、どうしてそこまで知っているのか、『きっと淳がそういうことを喋って教えたのだろうか?』と思ったが、利之はそれも察していたのだろうか。更に、

「淳君はその事は話していない。でも調べれば直ぐ解る……。それに患者の中には早耳と言う人がいるのでね。そういう情報は直ぐに流れ出すし、君は知らないようだけれど医師同士でも『次の副院長はきっと洋君だろう』と噂して居るんだよ」と静かに言った。それを聞いた彼女はどうして患者の間でそんな根も葉もない噂が飛んでいるのか患者には関係ないことなのに、患者は病気を直してもらえば、それで善いのではと思うのだが、それだけでは面白くないので、噂好きの人達が集まれば噂話に華を咲かせつまらない話でも面白くしているのだが、彼女はそこまで皆の心理が働かなかった……。でも和美はそういういい加減な話は昔っから嫌いであまり聞かないようにしている。だから聞いてないのだが夫の隆則が幾分か知っているはずなのに和美には教えてくれなかった。

 それにしても遺言書と聞いて思い出したが彼女の父も書いてなかったので彼が急病で倒れて死んだ時、親族一同は誰が病院を相続するかでもめたことを思い出していた。

 だが結局医者と結婚することが決まっていた和美が全財産を相続したのだったが本当言うと後ろめたい所もあったのは確かだ。

 しかしあの頃は汚職事件の方も片付いてなかったので、親戚の方も遠慮して遺産がいくらあるのか聞くことも出来なかったというよりか、今で言うマスコミの目を気にして聞くことすら憚り(はばか)、現在に至った。でもこの病院と自宅だけでも当時の価格で10億円ぐらいの値打ちがあるのだから、今の価格だと病院の土地だけでも30億円以上は見とかないといけないだろう。そうなると淳の取り分は現金と古いが自宅しかないのだった……。けれども和美はその自宅を将来はマンションに建て直す計画をしていたが淳のために少し早いが、その計画を実行しようと思っていたのだった……。なぜそんなに急ぐ必要があるのか自分にも解らないが、自殺を図り今は下半身麻痺で車椅子の生活を余儀なくしなければならなくなった馬鹿息子の淳のために少しでも財産を負担しないで済むように親の立場で考えていた和美は法的な手続きがあるのかないのかを聞くために来たのだった。

 そのために昔の事は水に流して会う決意をしてきたが、それをこの目の前にいる男はどう思っているのだろうか……?と思った。そしてまだその相談には全然言ってないのにコーヒーを先に飲み干してしまった利之は、さっさと何も言わず勘定板を持ってレジの方に行きお金を払っていたが和美も慌ててレジに行き、

「また奢ってもらっては悪いわ。30年前も奢ってもらっているけれど、今回は淳の分もあるから私が払います」と言うと利之は紳士らしく、

「女に払わせるわけにはいかないよ」とキザに言って財布から1万円札を取り出してお釣りを貰い喫茶店を先に出て行った…。和美はそういう彼の後姿を見て、

「そういうところも変わってないわね。昔のまま……」と外に出てから言った。

 そして、

「これで腕を組んで歩けば昔に戻れるような気がするわ」と昔を思い出して彼女は言った。

 しかしそれはお互いの立場、利之は検事を辞めて弁護士になると言いながらまだ検察庁の検事であったし、また和美はМ総合病院の理事長で院長夫人でもあった。その2人がまたこうして30年の時を得て自分達の子供達の恋によって廻り合わせてくれたのも何かの縁かも知れないが和美はそれを嵐の前触れだと思った。実際は違っていても、その時はそう思いたかった。

 一方洋は志穂梨との事は遊びではなく本気で考えていたのは確かで彼女とならこの病院を捨てても一緒になりたいと思うようになっていた……。

洋は今まで誰かをこれほどまでに愛した事など一度もなかったので、どうすればいいのか分からなかったが、自然と志穂梨の側にいたのだった。そうすることによって彼は安心していられたが、洋が狙いでこの病院に勤務して来た若い看護婦達には妬きもちを妬かれたり嫉妬心で意地悪を他の患者に当り散らしたりしていたが、年配の看護婦からは洋にやっと出来た彼女に喝采を送った……。

志穂梨はそういう中で点字を覚え洋が飼っている盲導犬になるはずの犬を病院に連れて来て、

「まだ訓練前だけれど、いずれは立派な盲導犬になるはずだよ」と言って盲の彼女にその犬を手で触らせた。志穂梨は触る前に名前を聞いたが、洋は、

「それが……」と言い澱んで、「ドラえもん……なんだ」と言って志穂梨の手を犬の背中に触らせた。『ドラえもん』と聞いて志穂梨は噴出したが洋も大笑いした。

 そして二人して暫く笑っていたが、やがてどちらからともなく唇を求めてキスをしていた。それが終わると志穂梨は熱いものが込み上がって来て、それが涙になって頬に伝わっていたが、洋はそういう突然の出来事に戸惑って、

「ごめん。君の唇があまり可愛かったもので……つい……」と言い訳して抱き寄せた。でも志穂梨は嫌がりもしないで洋の顔を触ると、

「先生の顔が見たい。淳の顔は覚えているけれど、先生の顔は見たことないもの。いつかは淳の声と先生の声を問い違えてとんでもない事言ったけれど……」と最初の時の事を思い出して言った…。洋もあの時の事を思い出して、

「実は僕も『可愛い顔して……とんでもない子だ‼』と思っていたんだ」と言ってクスクスと笑って優しく抱きしめたが、彼女も優しく抱き返して、その愛に応え、

「あたし嬉しかったの。だって『目が不自由になったって、心は自由だよって…。だから人を好きになるのも自由だ』と教えてくれたのは先生ですもの。その先生に愛されるなんて……」と頬に涙が伝わって後の言葉が途切れた。彼は頬に伝わる彼女の涙を手でそっと拭って、

「結婚しよう…。今、直ぐじゃなくてもいいから、高校を卒業してからでもいいから……結婚しよう…」と言って洋は男のけじめをつけようとしたのだった。

だが、志穂梨にはそんな考えは毛頭なく突然のプロポーズにどう対応していいのか解らず、それこそまた泣くばかりで洋は慌てて慰めようと彼女を優しく抱きしめて、おでことか頬に、そして唇にもキスを何度となくしていた…。彼らは本当の恋人になって行った…。

 犬のドラえもんは何もしないで彼等を見守っていたが、熱い思いは犬にも伝わるのだろうか?……

 やがて志穂梨は泣き止んで犬の背中を撫でたり『ドラえもん』の名前の以来を聞いたりしていたが今日の洋は先生としてではなく志穂梨の見舞い客として来ていたので時間に関係なく居られるのだった。

 その日はそうして終わったが、洋が淳の見舞いに来たのはその後の帰りしなだったので淳も犬を見て、

「それ『ドラえもん』だよね。へェ~志穂梨に見せに来たんだ。んで、何か言ってなかった?」と聞いた。すると洋は何食わぬ顔をして、

「『可愛~い~♥』と言っていたよ。名前を聞いて大笑いしていたけれど……」と言って、淳の目を見るのを避けた。今日は志穂梨と抱きあってキスまでして来たから淳の顔をまともに見られるはずがない。犬は何も言わなかったが洋の態度で志穂梨の病室で今まで何をしていたのか大体察しが付いた。淳は洋の顔を見ながら、

「やれやれ、志穂梨の心まで略奪してしまうとはねぇ…。もう俺は知らない。後は志穂梨をめぐる男同士の戦いをするしかないんだよ。良太郎と……まあ、志穂梨の愛を兄貴が略奪して占領してしまった今となっては、良太郎もあきらめるしかなさそうだけど、精々幸運を祈るよ」と意味あり気に言った。

 それは洋も気になっていたのだが、志穂梨とどういう関係か知りたかったのだ。

 だが淳もそのことを良太郎から聞いていたので洋に隠さず話したが、小さい時に彼の親と志穂梨の親同士が決めたと言う許嫁で良太郎が何らかの資格を取り金に困らなくなったら、そして志穂梨も20歳になっても彼以外好きな人がいなかったら、仮に互い被告人のことで争っていても反対しないで結婚させようと決められていた、というなんとも言いがたい話だと淳は聞いたことを話した。

 その時は良太郎も意味が分からずに両親に従ったが志穂梨の方は3歳だったので何も覚えていないと言う……。

 しかし良太郎は中学から高校にかけて不良化し、喧嘩早い彼は他校生と直ぐに暴力沙汰の喧嘩になり、そのたびに補導されては園田夫婦に迷惑掛けて、警察沙汰になるほどの喧嘩もして両親も勘当される状態になり、やがては許婚と結婚できないのに気づき志穂梨の両親、特に田原利之の方が検察官だけに婚約は取り消すことを園田に言った…。

 園田もそれを認めていたので言い理由の仕様がなかったが、志穂梨の心は複雑な気持ちだったに違いない。

 何故だか分からないがこの一年間の間に淳と知り合い、事故で光が見えなくなった今、洋が医者としてではなく男として見てほしいと言い出し、自分の知らない所で何かが動き始めていたのだ。今の志穂梨は良太郎への思いも消え洋に愛を感じ始めていたのは確かだが、淳はそれも偽りではないかと思いたかった。

 しかしこれまで恋愛だけは何度やってもうまく行った試しがない洋は今度の恋愛に敗れたら何を仕出かすか判らないが、多分今度も酒を飲んで大暴れするか、両親に『もう結婚なんかしないから、見合い話もしないで下さい。僕はもう一生独身で生きて行きます』と宣伝するのは目に見えているのだった…。

 思えば一年前も母の知り合いでお節介妬きの近所のおばさん、名前は絹子という50代だがちょっとした知り合いで眼科には白内障の診察と糖尿病の合併症の緑内症の診察をしているのだが、お節介妬きでいつまで経っても結婚しない洋にお見合い写真を診察室に持って来ては、

「この子知り合いの娘さんなんだけれど今年○☓短期大学を卒業したばかりで主人の会社に就職している人なの。気立てはいいし、育ちもいいし、何せ今の子にして珍しく趣味がクラシックしか聴かないらしいのよ。だからもしよかったら洋さんに『どうかなぁ~』っと思って持って来たんだけれど……」と言って見せに来た。  

 だがそのたびにうんだりしていた洋は、

「おばさんまたですか?何度言ったら判るんですか?『僕は当分の間、結婚はしません』と言ったはずです。それなのに見合い写真を持って来て……」と言っていつもだったら渋って断っていた。だが今日の洋は嬉しそうな顔は隠し切れず、そして『彼女が出来たとなんて言ったら、この人どうなるんだろう』といたずら心に似た何かが込み上がって来て、

「僕にも彼女が出来ましたから、そんな見合い写真などもう要りません」とさり気なく言ってそのおばさんの反応を診た。

 彼女は「あら、そう…」と言いながら、聞き間違いかと思い目を見開いたが、洋のニコニコ顔をしているところを見ると本当らしく聞こえ絹子おばさんは驚いて、

「じゃあ、あの噂本当なの?ねえ、え~ええ‼まさか十代の高校生の女の子を洋さんが射止めてしまったという噂…、その彼女っていうのが淳君の彼女になるはずだったのを横取りしたという噂も本当なの?」と甲高い声で聞いた。

 洋は本当の事とそうでない事を一度に言われたので一瞬ドキッとしたが、

「ええ、10代の女の子を愛してしまった事は本当ですよ。だけどその横取りという言葉は当て嵌らないからやめて下さい。ただ彼女が病院に運び込まれた時は患者として診ていたのですが、日々が経つにつれて彼女も僕も好きになってしまっただけです。でも本当は淳の彼女だったわけでもないのに、淳が勝手に彼女にしていただけなんですから、横取りという言葉は当てはまらないのでやめて下さい」

ときつく釘を刺すように言った。

 だが好奇心旺盛で困ってしまうほどその言葉を大げさに他の人々に噂を流してしまう絹子に、そんな話をしてしまった洋は後から『言うのではなかったァ』と後悔したが、淳が少しでも志穂梨を諦めてくれたらいいと思って言った事なので別にその噂が拡大しても構わないと思ったが志穂梨の両親に相談もなしにそんな話をしてしまった自分を後で責めた……。

 だが1ケ月経ってもこれ以上の噂は立たず、自然消滅しつつある噂に洋は内心『ホッ』としていたが、その反面、何故これ以上の噂が飛び出さなかったのか不思議でたまらず首を傾げていたのは確かだった…。

 でもよく考えたらそういう古い噂をいつまでも話していくよりか新しい噂が次々に出てくるのでいつの間にか消滅して行ったとしか考えられないので安心していた洋だが、これであの絹子も見合い写真など持って来なかったら洋にとっては大万歳だった…。

 でも志穂梨の両親、特に父親の利之の方が洋より弟の淳の方が好みらしく弁護士としての彼の成長を楽しみにしていた所もあったので洋としては少し嫉妬を感じていたのは確かだった。

 しかし娘の志穂梨は本気で洋を愛してしまった彼女を今更ながら淳に取り戻して来いとは言えず、複雑な趣で見守るしかなかった。

 そして利之にはその時も弁護士の園田との昔の約束を忘れてなかったが、その約束を破ることは友情をも破ることではないので事故を起こした際に解消していた。 

 園田にとっては良太郎の学校内での暴力がバレたと思っていたが、そうではなく志穂梨の方から事故の後利之に、

「憎い…、あんなやつと結婚したくない!いくら許婚だか何だか知らないけど両眼共に眼を潰されて倒れて人々が私の周りに集まって来ても、あいつはそのままオートバイで猛スピードを上げて逃げたのよ!あたしは知らなかったけれど目撃した淳も友達数人も言っていたし学校の先生も言っていたわ‼」と良太郎の両親に言った。

 弁護士の両親もそれには何もいい理由が出来ず黙っていたが、志穂梨の心は晴れた理由ではない。そして最後に止めを刺すように、

「あたし好きな人が出来たからもう良太郎とは縁を斬りたいと思っていたの」と涙も見せずに言った。

 園田夫妻はその話を聞いていくらか安心していたが利之の方から、

「この際だから慰謝料の話でもするが……」と言って一生涯掛けても払えない額を言ってから、

「娘はあの通り目が不自由になって歩く時も介護者が必要になって来るんだ。当然、結婚したいと言ったらさせるつもりだが君らにその結婚費用を払えとは言わない。結婚しても介護をしてくれる人々の費用だけは払ってくれと言っているだけだ」と言って園田弁護士の顔をじっと見ていた。

 園田は息子のした事を詫びていたが反対に利之は被害者の父親として、どうしても許せないので金で解決しようと一生涯の保障を支払って貰おうと思っていた……。

志穂梨自身もそうだったが、そんな事よりか淳もストーカーの件で起訴されるものと信じていた彼女や園田弁護士と違って、検察官の父は違った見方をしていた…。つまり加害者は1人に絞ったのだ……。

 そして淳は目撃者として交通事故の一部始終を見ていたと判断したのだ。だからストーカー未遂事件の件のみで事情聴取はしたが、犯罪性がないのと初犯だったので警察も解ってくれたのか直ぐに釈放したのだった…。 

 だが園田弁護士はそのことを知り、やはり鬼検事と言われている田原利之でも身内になる者には甘いと思ったが、相手がこの町では有名な総合病院の院長の長男と一人娘との恋愛関係になってしまったと聞いては娘可愛さに何とかあの悪と縁を切り娘の幸せを願いたいという親心から来るのだろうと園田は思った。

 園田とて娘を持っている親だ。そのぐらいの事は判断できる。しかし何億円もの大 

 金を払うとなると家と事務所を売るしかないのだ。妻も弁護士だけにそれを許してくれそうもないだろう……。

 何か手立てがない理由ではないのだが、交通事故の場合は重度ほど被害総額が大きくなるものだった。

 だが志穂梨の場合重度の障害者だと言えるか、どうかが問題である。それを裁判で争いたかったが良太郎は、

「そんな事をしても俺の罪は軽くなるわけでもないし、スピード違反は避けられそうもなかったし、第一父さんや母さんの弁護士生命に、これ以上傷を付けたくなかったんだ。それに志穂梨のあの一言で罪を認めざるをなかったんだよ。でもあのとき本当に淳が言ってくれたように俺の方が夕日がまともで視野が遮られていたのは確かだけど、それをいったとしても志穂梨の目が見えるようになるわけでもないし……」

と父親が面会の時に初めて言った…。やっと真実を話してくれた。でもそれは有罪判決が決まったあくる日だったが直ぐに控訴をする事は出来る。

 だが良太郎は、  

「そんな事をしなくても、もういいよ。どうせ刑務所に入ってるのは後半年だからね。そんな事をしていたら半年が一年に延びるよ。それにもう俺と志穂梨、結婚出来ないんだろう。だからもういいよ」

とさびしく言った…。

 父親はわが息子が何故そうまでして自分を苦しめるのか理解に苦しんだ。

でもあの日、天気は快晴で朝から晴れて夕方園田自身も事務所まで車を走らせていた時、確かに西日が眩しく普通のメガネからサングラスに掛け直したぐらいだった。

 だから良太郎1人だけではなく、彼みたいに夕陽に向かって車、またはオートバイを飛ばしていて人身事故にあった件数を調べたが2件か3件もなく良太郎の事故1件のみだった。

しかし全国的な資料で調べてみれば何かが解るのではと思い保険会社や知り合いの交通課の巡査に資料を頼んで取り寄せてみたが結果は思わしくなく無駄骨だった。


      第  9 章

 やがて事故から二年の歳月が過ぎ、良太郎の刑務所暮らしから半年が過ぎやっと刑期を終えた彼だが、快く迎えてくれたのは父親の園田弁護士と妹の美菜子だけで淳は兎も角も母親もいなかった。良太郎は何故母親が来ないのか、あれほどわが息子の事を心配していた母が…と、不思議に思っていたが美菜子の黒い喪服を見てしゃべらなくても察しがついた。

 母は志穂梨の莫大な慰謝料を田原に請求されて、その上息子は実刑判決が言い渡されて弁護士としてのプライドも名誉も著しく傷つけられてしまった。

 しかしそれだけならまだ娘の美菜子の将来のために頑張り甲斐があったが、その美奈子も週刊誌からスクープを暴露されてしまった。それは志穂梨も全くと言って知らなかったが、美奈子は売春をやって小遣いを男から貰っていたのだ…。

 しかも一人の男性に対して五万~十万円が貰えるのだから辞められなかった。

親がそれだけの小遣いをくれないのだから仕方ないが、そんな大金を美菜子は自分の服や靴、そしてアクセサリーに使ってしまっていたのだった。

 母親はそんなこと事態全く知らず部屋も覗いた事もなかったが、最近の高校生の売春が原因で妊娠し中絶して、その事が親にバラされて自殺や家出をしてしまうというケースを聴き自分の娘と重ねて想像し、最近娘と話は全くなかった…。その事を気にして娘の部屋のドアの隙間をそっと覗いて見た。

 案の定きれいにはなってはいたがロッカーが2つも増えていた。不思議に今なら娘の美奈子が帰って来ないと思ってその増えた二つのロッカーの中身を調べたが想像以上の額の服と靴ばかりがあるのに気付き、最近朝帰り増えている事といい、ひょっとして売春しているのではと直感した。

 親が月々やっている小遣いではとても買えないものばかりで、その上最近は刑が確定し刑務所に入っている息子の事と、あの事故の被害者、田原志穂梨の損害賠償と慰謝料の事で頭がいっぱいだった。

 その上に今度は娘の売春疑惑。

 その事で母親の園田女史は夫に相談しようとしたが、夫に言ったらすぐに娘の部屋に問い正しに行って言い争いになり結果は美菜子の方が家出してしまうかも知れない。

 それを思うと半月ぐらいで強度のノイローゼになってしまった。

 それだけならまだ心療内科でも行って相談していたら救えたかもしれないのだが、そんな事が判ったら娘の事だけではなく自分にも生活スタイルや弁護士活動が出来なくなると思い込みスキャンダル一家になってしまう。弁護士として失格だ。

 そしてどうこう悩んでいるうちに、さらに追い討ちを掛けるように各社の週刊誌がトップに『あの有名な弁護士一家がまたまたスキャンダル発覚!今度は愛娘の売春‼』と大きくゴシック文字で書かれ、写真ま8載せられていた。

 そうなると美奈子も開き直って売春を認めたが母親にとっては認めたくなかった。

わが子2人ともどうして不良の仲間になってしまったのか?応えは1つしかなかった。

 それというのは仕事であまり家庭を顧みなかった事への子供達の反逆でもある。

だが裁判と被告の面会とテレビの出演とで子供の教育どころではなかったのは確かだ。 

 振り返ってみれば自分達の仕事が楽しくて自分が母親である事も忘れ、子供達の事など考えずに近所の子供好きの人々に預けていたのが子供達を不良化にしてしまったと言ってもいいケースだろうと自分で気が付いた。

 その事が解った園田佳代夫人はもう生きる気力もなくなり二十階建のあるビルの屋上から発作的に自殺を図った。

 遺書はなかったが、息子の判決が決まった時点から夫人の様子がおかしかったという園田氏は夫人の自殺をあくまで息子の事故の処理の事で悩んで夫人の秘書や自分の秘書に、

「自殺してまで良太郎を守りたかったなんて……」

と言って涙を流したが、娘は自分の牲だと解っていたので号泣して、

「お母さんごめんなさい」

と幾度も誤って死体にすがり付いて離れようとはしなかった。

何故そんなに娘が誤るのか?

 妻が死んだ本当の原因を全くと言っていいほど知らなかった園田には娘が肩を震わせて泣いている姿を初めて見た。

 美奈子にとって母親の存在感がないのではと思っていた父親は日頃から週刊誌なんて言う類の本は読んだ事がなかった。息子の時もそうだったが、有る事、ない事を書き立てているのは知っていたが内容は全くと言って知らなかった。

 その割に妻は仕事の合間にああいう書物を読んでいた。だから芸能界からも依頼が来るようになっていたが、すべて妻の活躍で自分は何もしていない。

 園田にしてみれば極一般的な弱い者の立場に立った弁護士でいたかったが、妻はそういう人道援助的な弁護士だと生々しい殺人事件か強盗殺人で国選しかなく、

「金がないからやった」という被告人から、

「裁判費用なんて払えない」と言われても払えないのが現状で、その費用が払えるのは僅かだと聞いていた。

 だから妻は大企業のテレビ会社や芸能プロダクションの顧問弁護士として有名になったのである。

 そのお陰で家のローンも月々払って返せたが、子供達の事は母親として考えていなかった甘い部分もあった。

 しかし一度田原検事に息子が小学校の高学年の時ある喧嘩の事で少し注意はされたが、その時も父親が出て来て、

「男なら喧嘩ぐらいは誰でもするさ。問題はその喧嘩の内容だけど、何が原因でけんかになったんだ」と普通ならいう所だが、それをいう事が出来ず、

『今更それを言ってどうなる。やってしまった事は仕方ない事だ』とあまり気にも留めていない様子もあった。

 だが中学に入った頃になると万引きの味を覚えてしていた良太郎だが、ある日、警備人に見つかって捕まり親を呼んで親子ともども叱られたが、その時も父親の園田の方はちょっと良太郎を叱っただけで、後で店員に見つからない方法を教えてやったぐらいだった。

 しかしそれでも同じ悪さはしないで新しい悪さを思いつき次から次へとエスカレートして行った良太郎はある日とうとう警察に補導されてしまった。

 その時は直ぐに家に帰されたが、その日から何かある度に週刊誌にある事ない事を書かれ、

『あの有名弁護士の息子、また暴力事件!今度は少年法が適用か?』

とゴシック文字でデカデカと書かれて写真まで顔は暈してあるが写されて載っていた。

 その度に父である園田圭介が警察の方に出向いては知り合いの記者にも出食わしては、警察に文句を言われて、その記者にも嘲笑され馬鹿にもされていた。

 それでも父親はきっときつい目で記者を睨み付け

『息子が悪いのではない。この社会がいけないんだ』

と何度となく思った事か知れない。

 しかしその暴力事件は大抵相手も高校では札付きの不良だったのと、被害が少ないので家に直ぐに帰される事が多かった。

でもある日、とうとう何人かの怪我人が出るぐらいの大喧嘩をし、警察に捕まったが、その時ある少年課の刑事に、

「また喧嘩か。今度は何故喧嘩になったのか言ってもらおうか」と聞いた。


 良太郎は、

『こんな刑事に俺の気持ちなんて分って堪るか』

と思って最初は黙秘を続けていたが、その刑事らしい人物もそういうのは心得ていて、

「俺も昔は喧嘩には強い方だったが、強い者を相手にしていたから捕まらなかったんだよなァ。だから君の気持ち少しは判るんだが、でも怪我人が出ているからね。今度は刑事裁判になって少年院に入ってもらう事になるが、君の御両親はそれを許してくれるかなァ?」と意味あり気に言った。

 両親と聞いて異様な顔で相手の顔を見上げたが、それは刑事ではなく偶然外で暴力事件で怪我人も出て、その犯人は『園田良太郎』と聞いて中に入って来た田原利之検察官だった。

 良太郎はその声に聞き覚えがあったので、顔を確かめたが顔を見て慌てふためいていた様子だった。取調室に一緒にいた少年課の刑事もびっくりして、

「そんな大げさなァ‼かすり傷の喧嘩でも傷害罪が適用するんですか?だったら昔、子供の頃、皆かすり傷ぐらいの喧嘩はやっていましたが、あれも皆傷害罪だったんですか?」と慌てて言った。

 検事もクスクス笑って、

「まァ、そういうことになるのかな。お前も昔で良かったなァ。でも最近の親はそう言って相手の親を訴えてくる奴が増えているそうだ…。喧嘩に負けて悔しさ交じりに傷害罪で訴えて来る親がね。今日も一件そういうのがあったがそれが幼稚園の出来事でね。園児同士が些細な事で口論をして最後には殴り合いの喧嘩になったが、負けた方の親がその喧嘩に勝った方の子供と親、そして通っている幼稚園の園長及び先生を訴えて来てね。その親の言い分は突き飛ばした際にこけて膝を擦り剥いたという事で、その喧嘩に勝った子供を傷害罪で訴えてきたんだ。」と言って疲れた顔をした。  

 少年課の刑事は疲れた顔をした検事に気を利かして椅子を勧めたが、検事は尚も立ったまま、

「だが私は負けた方の親に言ってやった。『それなら弁護士を立ててやったら?』と言ってお前の母親を紹介してやったんだ。

 でもその親は情けない顔をして、

『そうしたいが金がない』と言ってね。だから私は察しが付いたんだが、『子供を出しに金を人稼ぎする気だなァ』と思ってその夫婦に『この喧嘩は喧嘩両成敗が適用されて子供の喧嘩はよほどの怪我でないと傷害罪にならない』と言ってやった」

と言って良太郎のうつむいている姿をちらっと見た。      


 そして彼の顔の傷と服装の乱れを見て、

「相手の高校生の方が悪いにしてもお前の場合は傷害罪に適用される過剰防衛としか言いようがない。判っていると思うが、相手のほうが重症だ」

と言い、そしてひとり言のように、

「『これで志穂梨との事はなかった事にしてもらう』と園田夫妻にも君にも言えそうだ」と言って取調室を後にした。

 良太郎は真っ青になったが、その時、表で途中からだが話しを立ち聞きしていた良太郎の母親とすれ違った際に田原に凛とした姿勢で言った。

「あら、それどういう意味かしら?」と…。田原は落ち着き払って、

「志穂梨の方から言っていますし、私もそういう親戚がいる事で検察官を辞めたくないのでね。どうせ辞めなければならないのなら、もっと貴女達弁護団と勝負してから辞めたいと思っていますから」とお世辞たっぷりな顔をして言った。

 彼女とはその時、ある事件の事で有罪か無罪かでもめていたが、そういう事は検事と弁護士の間ではよくある事だ。


 しかし志穂梨と良太郎の場合は一生の問題であり、娘もこの頃では、

『あんな馬鹿が許婚だなんて恥ずかしいわ。それに出来たら大恋愛して結ばれた方が幸せになれるのに。今のままでは、それも出来なくなるわ。だからお父さん、何とか解消できないの?』目が見えていた時からよく言っていた。

 しかしこればかりは相手の同意もなければどうにもならない

 だからこの際、園田女史に直接言ったが、彼女も今の良太郎を見ていると自分自身も母親を辞めたいという思いに絶たされていたので承知しざるを得ない。

 しかも良太郎には母親から志穂梨を諦めるように説得するつもりだとあっさり承知してくれた。

 その間にも良太郎はその夜一晩留置場に泊まる事を承知させたが母親も息子には、いい罰だと思い、その経験がないから、また同じことを繰り返すのだと認めたくないが、そのまま帰って行った…。

 その3年のちにあの事故が起き志穂梨の可愛かったあの大きな瞳も潰されてしまうほどの大惨事に遭い両眼共に失明したが、オートバイを乗っていた自分よりも、ストーカーをしていた松本淳の方を憎んでいたはずだった。  

 だが何故か彼の兄貴と恋仲になってしまったと妹が刑務所の面会の時に話してくれた。 

 それですっかり諦めが付いたが、なぜ淳の兄貴なのか?確かに淳に似た面長で目鼻立ちがはっきりしたハンサムな優しい男だと聞いているが、志穂梨とは一回りも離れている。 

 淳を選んでくれれば田原のおじさんだって喜ぶのに……。(淳が司法試験に合格している事は大学中が知っている事だった)と思いながら良太郎には叶わぬ夢となってしまった志穂梨との事も自分を責めた。

 それよりどうして志穂梨の目の損害賠償と慰謝料を払っていくか、田原が母に突きつけた莫大な慰謝料と賠償金。半分は母親の生命保険とかテレビ出演料で返してくれたが、残りの半分は一生掛けて続けられる仕事を探して働いて返して行こうと刑務所の中で決心していたのだった。




 

    第  10 章


 やがて事故から2年の歳月が過ぎ、良太郎の刑務所暮らしから半年が過ぎやっと刑期を終えた彼だが、快く迎えてくれたのは父親の園田弁護士と妹の美奈子だけで淳は兎も角も母親もいなかった。良太郎は何故母親が来ないのか、あれほどわが息子の事を心配していた母が…と、不思議に思っていたが美奈子の黒い喪服を見てしゃべらなくても察しがついた。

 母は志穂梨の莫大な慰謝料を田原に請求されて、その上息子は実刑判決が言い渡されて弁護士としてのプライドも名誉も著しく傷つけられてしまった。

しかしそれだけならまだ娘の美奈子の将来のために頑張り甲斐があったが、その美奈子も週刊誌からスクープを暴露されてしまった。それは志穂梨も全くと言って知らなかったが、美奈子は売春をやって小遣いを男から貰っていたのだ…。

 しかも一人の男性に対して五万~十万円が貰えるのだから辞められなかった。

親がそれだけの小遣いをくれないのだから仕方ないが、そんな大金を美奈子は自分の服や靴、そしてアクセサリーに使ってしまっていたのだった。母親はそんなこと事態全く知らず部屋も覗いた事もなかったが、最近の高校生の売春が原因で妊娠し中絶して、その事が親にバラされて自殺や家出をしてしまうというケースを聴き自分の娘と重ねて想像し、最近娘と話は全くなかった…。その事を気にして娘の部屋のドアの隙間をそっと覗いて見た。

 案の定きれいにはなってはいたが、ロッカーが2つも増えていた。不思議に今なら娘の美奈子が帰って来ないと思って、その増えた二つのロッカーの中身を調べてみたが、想像以上の額の服と靴ばかりがあるのに気付き、最近朝帰りが増えている事といい、ひょっとして売春しているのではと直感した。

 親が月々やっている小遣いではとても買えないものばかりで、その上最近は刑が確定し刑務所に入っている息子の事と、あの事故の被害者、田原志穂梨の損害賠償と慰謝料の事で頭がいっぱいだった。その上に今度は娘の売春疑惑。

 その事で母親の園田女史は夫に相談しようとしたが、夫に言ったらすぐに娘の部屋に問い正しに行って言い争いになり結果は美奈子の方が家出してしまうかも知れない。それを思うと半月ぐらいで強度のノイローゼになってしまった。

 それだけならまだ心療内科でも行って相談していたら救えたかもしれないのだが、そんな事が判ったたら娘の事だけでは。なく自分にも生活スタイルや弁護士活動が出来なくなると思い込みスキャンダル一家になってしまう。弁護士として失格だ。

 そしてどうこう悩んでいるうちに、さらに追い討ちを掛けるように各社の週刊誌がトップに『あの有名な弁護士一家がまたまたスキャンダル発覚!今度は愛娘の売春‼』と大きくゴシック文字で書かれ、写真まで載せられていた。 

 そうなると美奈子も開き直って売春を認めたが母親にとっては認めたくなかった。

わが子2人ともどうして不良化になってしまったのか?

 応えは1つしかなかった。それというのは仕事であまり家庭を顧みなかった事への子供達の反逆でもある。

だが裁判と被告の面会とテレビの出演とで子供の教育どころではなかったのは確かだ。 

 今、振り返ってみれば自分達の仕事が楽しくて、自分が母親である事も忘れ子供達の事など考えずに近所の子供好きの人々に預けていたのが子供達を不良化にしてしまったと言ってもいいケースだろうと自分で気が付いた。

 その事が解った園田佳代夫人はもう生きる気力もなくなり二十階建のあるビルの屋上から発作的に自殺を図った。

 遺書はなかったが、息子の判決が決まった時点から夫人の様子がおかしかったという園田氏は夫人の自殺をあくまで息子の事故の処理の事で悩んで夫人の秘書や自分の秘書に、

「自殺してまで良太郎を守りたかったなんて……」

と言って涙を流したが、娘は自分の牲だと解っていたので号泣して、

「お母さんごめんなさい」

と幾度も誤って死体にすがり付いて離れようとはしなかった。

 何故そんなに娘が誤るのか?妻が死んだ本当の原因を全くと言っていいほど知らなかった園田には娘が肩を震わせて泣いている姿を初めて見た。

 美菜子にとって母親の存在感がないのではと思っていた父親は日頃から週刊誌なんて言う類の本は読んだ事がなかった。息子の時もそうだったが、有る事、ない事を書き立てているのは知っていたが内容は全くと言って知らなかった。

 その割に妻は仕事の合間にああいう書物を読んでいた。

 だから芸能界からも依頼が来るようになっていたが、すべて妻の活躍で自分は何もしていない。

 園田にしてみれば極一般的な弱い者の立場に立った弁護士でいたかったが、妻はそういう人道援助的な弁護士だと生々しい殺人事件か強盗殺人で国選しかなく、

「金がないからやった」という被告人から、

「裁判費用なんて払えない」

と言われても払えないのが現状で、その費用が払えるのは僅かだと聞いていた。

 だから妻は大企業のテレビ会社や芸能プロダクションの顧問弁護士として有名になったのである。

 そのお陰で家のローンも月々払って返せたが、子供達の事は母親として考えていなかった甘い部分もあった。

 しかし一度田原検事に息子が小学校の高学年の時ある喧嘩の事で少し注意はされたが、その時も父親が出て来て、

「男なら喧嘩ぐらいは誰でもするさ。問題はその喧嘩の内容だけど、何が原因でけんかになったんだ」と普通ならいう所だが、それをいう事が出来ず、

『今更それを言ってどうなる。やってしまった事は仕方ない事だ』とあまり気にも留めていない様子もあった。

 だが中学に入った頃になると万引きの味を覚えてしていた良太郎だが、ある日、警備人に見つかって捕まり親を呼んで親子ともども叱られたが、その時も父親の園田の方はちょっと良太郎を叱っただけで、後で店員に見つからない方法を教えてやったぐらいだった。

 しかしそれでも同じ悪さはしないで新しい悪さを思いつき次から次へとエスカレートして行った良太郎はある日とうとう警察に補導されてしまった。その時は直ぐに家に帰されたが、その日から何かある度に週刊誌にある事ない事を書かれ、

『あの有名弁護士の息子、また暴力事件!今度は少年法が適用か?』

とゴシック文字でデカデカと書かれて写真まで顔は暈してあるが写されて載っていた。

 その度に父である園田雅治が警察の方に出向いては知り合いの記者にも出食わしては、警察に文句を言われて、その記者にも嘲笑され馬鹿にもされていた。

 それでも父親はきっときつい目で記者を睨み付け

『息子が悪いのではない。この社会がいけないんだ』

と何度となく思った事か知れない。

 しかしその暴力事件は大抵相手も高校では札付きの不良だったのと、被害が少ないので家に直ぐに帰される事が多かった。でもある日、とうとう何人かの怪我人が出るぐらいの大喧嘩をし、警察に捕まったが、その時ある少年課の刑事に、

「また喧嘩か。今度は何故喧嘩になったのか言ってもらおうか」と聞いた。

 良太郎は、

『こんな刑事に俺の気持ちなんて分って堪るか』と思って最初は黙秘を続けていたがどこかでその声を毎日聞く声音だったのでうつむいたままだったが 、その刑事らしい人物もそういうのは心得ていて、

「俺も昔は喧嘩には強い方だったが、強い者を相手にしていたから捕まらなかったんだよなァ。だから君の気持ち少しは判るんだが、でも怪我人が出ているからね。今度は刑事裁判になって少年院に入ってもらう事になるが、君の御両親はそれを許してくれるかなァ?」と意味あり気に言った。

 両親と聞いて異様な顔で相手の顔を見上げたが、それは刑事ではなく偶然外で暴力事件を犯して怪我人も出てその犯人は『園田良太郎』と聞いて中に入って来た田原利之検察官だった。

 良太郎はその声に聞き覚えがあったので、顔を確かめたが顔を見て慌てふためいていた様子だった。

取調室に一緒にいた少年課の刑事もびっくりして、

「そんな大げさなァ‼かすり傷の喧嘩でも傷害罪が適用するんですか?だったら昔、子供の頃、皆かすり傷ぐらいの喧嘩はやっていましたが、あれも皆傷害罪だったんですか?」と慌てて言った。検事もクスクス笑って、

「まァ、そういうことになるのかな。お前も昔で良かったなァ。でも最近の親はそう言って相手の親を訴えてくる奴が増えているそうだ…。喧嘩に負けて悔しさ交じりに傷害罪で訴えて来る親がね。今日も一件そういうのがあったがそれが幼稚園の出来事でね。園児同士が些細な事で口論をして最後には殴り合いの喧嘩になったが、負けた方の親がその喧嘩に勝った方の子供と親、そして通っている幼稚園の園長及び先生を訴えて来てね。その親の言い分は突き飛ばした際にこけて膝を擦り剥いたという事で、その喧嘩に勝った子供を傷害罪で訴えてきたんだ。」と言って疲れた顔をした。 

 少年課の刑事は疲れた顔をした検事に気を利かして椅子を勧めたが、検事は尚も立ったまま、

「だが私は負けた方の親に言ってやった。『それなら弁護士を立ててやったら?』と言ってお前の母親を紹介してやったんだ。でもその親は情けない顔をして、『そうしたいが金がない』と言ってね。だから私は察しが付いたんだが、『子供を出しに金を人稼ぎする気だなァ』と思ってその夫婦に『この喧嘩は喧嘩両成敗が適用されて子供の喧嘩はよほどの怪我でないと傷害罪にならない』と言ってやった」

と言って良太郎のうつむいている姿をちらっと見た。      

 そして彼の顔の傷と服装の乱れを見て、

「相手の高校生の方が悪いにしてもお前の場合は傷害罪に適用される過剰防衛としか言いようがない。判っていると思うが、相手のほうが重症だ」と言い、そしてひとり言のように、

「これで志穂梨との事はなかった事にしてもらうと園田夫妻にも君にも言えそうだ」

と言って取調室を後にした。

 良太郎は真っ青になったが、その時、表で途中からだが話しを立ち聞きしていた良太郎の母親とすれ違った際に田原に凛とした姿勢で言った。

「あら、それどういう意味かしら?」と…。

 田原は落ち着き払って、

「志穂梨の方から言っていますし、私もそういう親戚がいる事で検察官を辞めたくないのでね。どうせ辞めなければならないのなら、もっと貴女達弁護団と大勝負してから辞めたいと思っていますから」とお世辞たっぷりな顔をして言った。

 彼女とはその時、ある事件の事で有罪か無罪かでもめていたが、そういう事は検事と弁護士の間ではよくある事だ。

しかし志穂梨と良太郎の場合は一生の問題であり、娘もこの頃では、

『あんな馬鹿が許婚だなんて恥ずかしいわ。それに出来たら大恋愛して結ばれた方が幸せになれるのに。今のままでは、それも出来なくなるわ。だからお父さん、何とか解消できないの?』と言っている。しかし相手の同意もなければどうにもならない

だからこの際、園田女史に直接言ったが、彼女も今の良太郎を見ていると母親を辞めたいという思いに絶たされていたので承知しらざるを得ない。

 しかも良太郎には母親から志穂梨を諦めるように説得するつもりだとあっさり承知してくれた。

 その間にも良太郎はその夜一晩留置場に泊まる事を承知させたが母親も息子にはいい罰だと思い、その経験がないから、また同じことを繰り返すのだと認めたくないが、そのまま帰って行った…。

 その1年のちにあの事故が起き志穂梨の可愛かったあの大きな瞳も潰されてしまうほどの大惨事に遭い両眼共に失明したが、オートバイを乗っていた自分よりも、ストーカーをしていた松本淳の方を憎んでいたはずだった。  

 だが何故か彼の兄貴と恋仲になってしまったと妹が刑務所の面会の時に話してくれた。 

 それですっかり諦めが付いたが、なぜ淳の兄貴なのか?確かに淳に似た面長で目鼻立ちがはっきりしたハンサムな優しい男だと聞いているが、志穂梨とは一回りも離れている。 

 淳を選んでくれれば田原のおじさんだって喜ぶのに……。(淳が司法試験に合格している事は大学中が知っている事だった)と思いながら良太郎には叶わぬ夢となってしまった志穂梨との事も自分を責めた。

 それよりどうして志穂梨の目の損害賠償と慰謝料を払っていくか、田原が母に突きつけた莫大な慰謝料と賠償金。半分は母親の生命保険とかテレビ出演料で返してくれ 

 たが、残りの半分は一生掛けて続けられる仕事を探して働いて返して行こうと刑務所の中で決心していたのだった。

そういう事を思い出しながら、良太郎は志穂梨のその後の事が気になり、美奈子に聞いたが彼女はただ、

「幸せに暮らしているんじゃない?あたし達と違って彼女は真面目だったんだもん。それに…お兄ちゃんよく言ってたじゃない。『あたしより女らしく育てられているもんなァー』って。あの言葉通り女らしく幸せに暮らしていると思うわ」

と空想の世界のように言った。

 良太郎はなんだかその言葉に気になったが会いに行くわけにもいかず、妹の言葉を信じるしかなかった。





エピローグ


 その後半年が過ぎ、父と妹の美奈子が迎えに来た。しかし良太郎は福祉の勉強を夜間学校に通いながら日中はアルバイトをしたいという決意は変わらず、父も昔授触っていたところを紹介したが、自分で見つけると言ってきかない。 父親は仕方なく夜間学校の受講料だけは仕送ることにした。受講申込書に印鑑と名前だけ書いて……。  それから住むアパートも連帯保証人になってくれた……。

 そして別れ間際に父親は、

「心配だけはかけるなよ」と言い、美奈子は、

「お兄ちゃん、頑張ってね」と言って別れた。美奈子には兄がなぜこの街に居たいのかちゃんとわかっていたのだ。

 そうして最初の一回は生活費と受講料を送ったが、あとは受講料だけ仕送り、学校が夜間学校だけに日中はコンビニでアルバイトをして生活費をなんとかしていた。

 そうしているうちにふっとしたところでヘルパー募集という垂れ幕を見つけて、「どうしようか?」と迷っていたが、授業の時に先生から聞いた言葉が、「障碍者との係わり方を覚えておくのも大切です。まったく彼らは一人、一人違う」と教えてくれたのを思い出した。

 そこへ手話サークルみたいな人が出てきて手話通訳をしながら数人が出て来たのを見かけた。皆、障碍者で手話を教えていた女性は良太郎の姿を見て、「どうしたの?」と優しい顔で聞いた。

 良太郎は驚いたように下を向き、

「仕事を探していたら垂れ幕に気が付いて、ヘルパーさん大募集なんですね」と聞いた。するとその女性は、

「ジャニーズ事務所の人かと思ったわ」と、とぼけて言っていたが、皆も寄ってきて、

「本当だ‼サイン頂戴‼」などと言った。淳ならノートを見せつけられたら『松本潤』と書くかもしれないが、そこは良心の強い良太郎で嘘はつけない。

「いや、仕事を探していたらヘルパー大募集の垂れ幕が目に入って……」と本当の事を言った。

 それを聞いたら早速、責任者の人を連れて来た彼女。出て来たのがおばさんみたいな人で体型がポッチャリ体型…。良太郎の顔を見て驚いた。そして、

「園田さんの息子さんね…名前は何だたって?」と思い出そうしていた。良太郎は黙って下を向いていたが、

「昔のチャンバラ俳優で杉良太郎の名前を借りて名付けたという園田良太郎君ね」と言って大笑いした。名前の由来を聞いてなかった彼だが、聞いていたら恥ずかしくなり、『なんという親父だ‼』と思ったに違いなかった……。『自分も松本淳と変わらないなぁ』とも思った…。ただ違うところは今の時代偶然にも有名になった人か大昔の時代の人の違いだけだ。

 そして責任者の名前を聞いた。斎藤洋子と名乗って歳は聞かなかったが親と一緒ぐらいだろうと思った。もしかしたら親父が昔授触っていて紹介したかったのはここかもしれなかった。そう思いながら自歴書は書いたが、丅大法学部中退とは書かなった…。現在通っているK福祉専門学校 夜間部とだけ書いた。

その後半年の月日が流れた。

                  一部 完

なお本にする前に直樹のところを淳にして下さる事をお願いします。

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海……変わらぬ愛 森 幸 @mori_yuki1009

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