第 6 章
運命というものは誠に言って解らないものであり、ひとつ道を間違って踏み込んだら迷路みたいに抜けられない……。
松本和美の青春時代もそう言うすばらしい恋をしたが、彼は彼女が希望していた医学部の生徒ではなく法学部で将来は超エリート公務員の検察官か裁判官かもしくはエリート弁護士を志して恋など目もくれず頑張っていた…。
当時和美は経済学部を学んでいたが、家が大きな病院の理事をしている父親の後を継がなければならないためによく医学部や法学部のセミナーに出入りして講座だけでも聞いていた。
と、言うのは和美が一人娘で将来は女医になって病院の後継者になる予定だったが、二浪してどうしてもなれず限界を感じて経済学部に入ったのである。そこで知り合ったのが2回生上の医学部で苦学生の旧姓、大内隆典と金持ちで坊ちゃんというあだ名で通っていた法学部の今は名前さえ思い出せない人(仮の名前をT氏としよう)と出会った。
T氏はハンサムでスポーツは剣道部で割りとスッキリしたタイプだったが、女の子が騒ぎ立てていると必ず法を持ち出す冷たいタイプでもあった。それでも女の子が寄って来るので最後は諦めて優しい顔をするのだが本当はくせ者である。
和美はそのT氏に出会って初めて話したのは大学の合コンでの帰り道、遅くなって家路を酔っている友達の介護をしながら歩いていると突然セダンが一台自分達の前に止まってあまり酔ってない和美だけを見ながら、
「家まで送りましょうか?君の家、僕の下宿の近くみたいだから……。いつも見かけているんだけれど声を掛けられなくて……」と言い助手席のドアを開けてくれた…。
その好意を和美はどう受け止めていいか迷っていたが和美の悪友達が4人ほど側に寄って来て、
「送ってもらえば~♪。酔っていてどこ行くか判らないわよ~♪」と言っている…。
本当はその悪友達の方がよっぽどアルコールが回っていて危なかしい足取りだったので、
「あたしは結構です。それよりこの人達を自宅まで送ってあげなければ家路に辿り付けないかも………」と言いながら如何にも心配そうに宥めていた。
するとT氏は本当に酔っている3人を呆れ返るように宥めて、
「やれやれ、この3人には僕、高校時代から同級生で知っているんですが、まさか僕と同じ大学に入学できるとは思いませんでした。学部が違うけど……ああ申し送れましたが僕は法学部の……」
と自分から自己紹介していた…。
和美はその丁寧な言葉使いにすっかりT氏に魅かれていたが今思えばT氏の方は、ただ和美が自分の同級生のお蔭で家に帰れなくなっていたのを見兼ねて言ってくれただけだったのかもしれない。
でもあの時は本当に自分の事を心配して言っているように聞こえたのだが彼にはもう結婚を前提に付き合っている彼女がいたのだった。そんな事はずっと後になって、ある汚職事件で解るのだが今は酔っている友達を一人一人家に届ける事に専念していた。
そして酔っている皆を何とか家に届けて彼と二人だけになった時、和美は『ホッ』として車の中で暫く黙って窓から見える色取り取りのネオンを見ていた。するとT氏は気を利かせてくれて「ラジオでも聴きませんか?」と言ってスイッチをオンにしてくれた…。丁度リクエストの言い回しが終って曲が流れ出していた……。
流れてきた曲は『ガロ』の『学生街の喫茶店』だった。でも和美は今まで音楽と言うものはクラッシックしか聞いた事がないので、
「あのう……この曲、何て言う歌ですか?」
と何気なく聞いた。それを聞いてT氏は思わず和美の顔を横目で見たが、
「ああ、『ガロ』の『学生街の喫茶店』ですよ。今まで受験勉強ばかりしていたから、こんな歌聞くヒマなかったんですか?」
と聞いた。和美は仕方無しに「ええ」と言ってから、
「聴くヒマがないというより聴いた事が一度もなかったんです……。なんと言えばいいか解りませんが…、両親がいつも音楽と言えばモーツァルトとか、ベートーベンとか、メンデルスゾーンとか、ああいうクラッシックしか聴いてはいけないと言われて来ました。でも、たまにはこういう曲もいいものですわねェ」
と言いながら笑った…。するとT氏は彼女に合わせるように、
「モーツァルトは名前しか知りませんが、ベートーベンは『運命』とか『英雄』とか『田園』で有名ですよね」
と言って話題を合わせてくれた。和美はニッコリと微笑み、
「そしてメンデルスゾーンは『夏の夜の夢』の最終楽章の『結婚行進曲』ですわ」
と言って鼻歌で聴かせた。
そう言う話をしているうちに和美の家の近くまで着いてしまい適当な所で、
「ここで下ろしてください。私の家ここの角を曲がった所ですから」と言って、
「送っていただいてありがとうございました」
と頭を下げながら車から降りた。
そして車が見えなくなるまで見送り、見えなくなってから角を曲がって家路を急いで帰って行った。
しかし何もなかったとは言え、午前0時を曲がっていたので当然の事ながら両親が心配していたが、
「ただいま‼」
と言って帰った娘の顔を見たら『ホッ』とした様子が窺われる。
父は、
「どうしてこんな時間まで帰って来れなかったんだ。公衆電話でもすれば迎えに行ってやったのに」
と言っていたが、母は反対にのんびりした態度で、
「いいじゃありませんか?あなただって今帰ってきたんじゃありませんか?まあ、二人揃ってよく似た父娘です事」
と言いながらあくびをしていた。
でも和美も父親の服を見て大体の察しがついたが、家でも病院でもいつもタフな服装でいた父が、その日に限って研修医の歓迎会か何かに行っていたのだろう…。背広姿にネクタイは少し緩んで曲がっていて、おまけにバーの女の子か誰かにワイシャツの襟や背中に口紅もつけていたので妻に怒られていた最中だった……。
そこへ和美も午前様で帰ってきたので、『これで助かった』と思った父親だが、ワイシャツの肩にも口紅が付いていたのでは話にならない。
でも門限を守れなかった和美はいい理由はせず、そこにいた父親に、
「ごめんなさい」
と素直に謝って自分の部屋に駆けて行った。
その日はそれで収まったが、でもどうして家の前まで送ってもらおうとしなかったのか、そうしていたらT氏を両親に紹介して将来結婚も出来たのかも知れないのに、あんな紳士的な人は医学部にだって少ない存在にすぎないと思った。
その理想の男性が法学部にいるなんて、ちょっと以外だと思ってみたものも、新聞で見る限り過激派が多いのは、やはり法学部の人々で当時は学生紛争の真っ只中だった事もあってどこの国立大学でもイメージが悪かった。
そんな事を思い出したらあの人もやはり政府が決めた安保条約に反対して紛争に参加するのかと思っていたが、彼は意外と正義感が強く、そう言うところに入らずひたすら真面目に法律の勉強をしていた。
その甲斐があってか大学在住中に司法試験に合格して持ち前の正義感を生かした仕事を捜さなくても検察官か弁護士か裁判官になれるのだった。
その事を知った和美は『弁護士になって欲しい……そうすれば病院の顧問に雇ってもらえるように父に話してあげてもいいのに……』と願ったが、彼は大学卒業と同時に弁護士より検察官の道に進んでしまった…。
そんな事よりもっと驚いたのはT氏の検事になってからの初仕事は、兼ねてからの婚約者だったA家の主人が政治資金を利用して賄賂工作をしているという情報にいち早くキャッチして、これを国税局や警視庁に告白。元々これまでに国税局も何度かA家の脱税を調べていたが証拠が出て来ずに家宅捜査も出来ないでいた。
T氏はA氏の孫娘と婚約を白紙にしてまで罪は罪として国会議員にあるべき人が犯している犯罪を見過ごす事は出来ないと思い密告に踏み切った……。
この密告で、まさか大学で知り合った松本和美の父親が経営している病院の名前まで出てくるとは思わなかったT氏は検察官としての第一歩を華々しい形で踏み出したが、収賄罪のA氏は、
「どこかの党の陰謀だ。このわしを落としいれるための罠だ‼」
と言ってから『はっ』と気がついた。
そして信じていたはずのT氏の顔をじっと見て、
「それともお前が裏切ったのか?」
と検察官になり立ての彼に食って掛かった……。
それを見ていた事務官はA氏を押さえつけようとしたがT氏は静かに、
「いいですよ。そんな事をすればあなたの立場が悪くなりますからね……」
と冷たく言い放してニッコリ笑った…。
その笑みですべてを諭したA氏は肩を落として贈賄の相手を数人ほど教えたが、その中に見覚えのある苗字を見つけた時、少し首を傾げた。
そして一度あっただけで印象が強く残っていた松本という苗字に目が留まったが『同姓だろう』と思いあまり気に留めず、ただ検察官として犯罪を見過ごす事が出来なかった……。
その為に自分の親兄弟がどういう事になろうと知った事ではなく、検事職という仕事に命を掛けていた所があった。だから国税局と共謀して調べていたが段々現望が明らかになりH総合病院の事理長の保坂直通等、ほか数人の逮捕状が用意された。
松本直通はいつか不正が明らかになって逮捕されると思っていたが、いざ逮捕状を目の前に引き付けられると妻や娘にどう言い訳していいか、病院は今頃きっと警視庁の調査二課の刑事が事務所を検証し調べている事を確信して和美の顔を見て微笑みさえ浮かんでいた。そして潔く手錠を掛けられて連行された父は、
「お母さんや病院のことを頼む……。あいつが捕まった時からそういう気がしていたんだが、あの段階ですべてを和美に話して自首するべきだった……」
と言い残したまま、表に待たせてあった警察の車に乗り込んだ。
和美は早速病院の方に行ってみたが、もう何もかも国税局の人々が証拠の物は持っていった後で会計室の資料は殆ど持って行かれてしまった。
病院の事務長も院長も逮捕され取引先の製薬会社の社長までもが、この脱税や贈収賄に関わっていたということで逮捕された。
しかしこの騒ぎの中、一際凛々しい姿で立っていたT氏の顔を見たときは和美も驚いたが、どうしてそこに検察官になったばかりの彼が居るのか直ぐに呑み込む事すら出来なかった…。
国税局の一人が彼に近づいて来て何かを耳元で伝えるとT氏は難しい顔で頷いたが、そのとき初めて和美に気がついた…。その時彼は相変わらず和美に礼儀正しい所を見せて一礼したが、彼女の方は悔しい思いというより情けない思いの方が強く、また時間が経つに連れてT氏への憎しみも強くなってきた…。
そして和美は彼らが帰った後、病院の経営をその日から一切任されたが、今まで帳簿なんて触った事も見た事もなかった。残った書類や帳簿を見て驚いたがこの帳簿を見る限りでは赤字経営になっていたのだった。しかしそれは間違いの帳簿で本当は赤字ではなく随分前から黒字経営だったのだ。
それに気がついた彼女は何故父が、こんな手の込んだ脱税をしたのか、その脱税した金を何故政治家の裏金になっていたのか、そんな事をすれば誰かが告白すればボロが出て直ちに自分達の営業に悪影響が及ぶ危険性があるのに、何の利益があるのか解らなかった彼女には父が言っていた、まだ会った事もない政治家に会って、その辺の所を詳しく聞きたかった和美……。
でも父は政治家の汚職事件に関わっていた事は何も言ってくれず、ある朝突然警視庁と国税局の人々が逮捕状を見せつけられて、初めて気が付いたが、ただ父はいつかこういう時が来ると思っていたのだった。だから母や病院を『頼む』と和美に言い残して警視庁の車に乗り込んだ父だった。
この時、和美は偶然にも簿記一級の資格があったので何とか経理の仕事は一応任せられることになったが、母親はそのショッキングな出来事から1ヶ月マスコミの対応にどうすればいいのか解らず和美にも相談出来ず、それに和美は彼女で病院のこれからの対応に負われていて家で何が起こっているのか解らなかった。
マスコミも近所の連中も悪い噂しか流さないし皆信じられなくなっていた母親。
でも『娘は一生懸命病院の信頼を取り戻そうと必死で頑張っているのに、もし私がここで倒れたらどうなるのだろうか……夫さえ何事もなかったように戻って来てくれたらいいのに……』と願いながら毎日娘の帰りだけでも家の中で待っていたが、とうとう度が講じて急に激しい頭痛が伴って救急車を呼んだ。
その時にはもう意識が薄れていたが近所の人がそれを知らせてくれたそうだ…。
和美がその事を知ったのは事理会議の最中で看護婦が呼び出してくれたが、その時初めて新米医として入ってきた大内隆典に気付いた。大内の方は和美に気づいてなかったが年配の外科医が彼を紹介した。
和美はその時24歳になっていたが、相手もそのぐらいの歳で母親の病気の時も主治医になってくれた。
でも母の病名はくも膜下出血、病状は脳死状態で運び込まれたが、当時は聞きなれない病名だったので医者達も説明に苦しんだ。
だが相手はいくら汚職事件に関わったとは言え、まだこの病院の実質的に管理をしている事理長の娘だ。ここは緊張に説明しなければならない。そう思って死の宣告をしたが母はまだ47 才だった。娘は突然のこの告知に一時的に呆然としていたが、無意識に母親の温もりのある手を握り締めて、
「まだ心臓が動いているのよ!それなのに脳波が動いてないなんて!そんなバカな事はないわ‼」
と言い切っていたが、本当は医学的な事は何一つ知らない。
隆典も何とか医者としては助けてやりたかったが脳死を蘇らせても今度は植物状態になってしまうのが興だ。だから助けなかったが人間としては助けた方がよかったのか、脳死も人の死なのかと隆典自身も心の中でよく議論していた頃があった。
だが最近になって脳死も人の死と言う議論に達してきたが、それまでは脳死は人の死ではなく心臓死だけが人の死になっていた。
だから人工呼吸器や心電図などを付けなければならないのだが、それをすれば大金がいる。だから自然死を望むのがいいのかも知れないが、人によっては今死んでしまったら困るという人もいる。
そういう人は珍しいのだが、ほとんどの人は突然に死が忍び寄るもの だと信じている。
和美もその一人に過ぎなかったが医者に言われて見れば、そういう死も在って当然のように聞こえた。
そして自然に死なせる前に和美は親戚の人を呼び最後の別れをしたが、ほとんどが母方の親戚が来て和美に励ましの言葉をくれたが、父方の親戚は誰一人として現れなかった。皆、父の汚職事件を気にしてマスコミを避けていたのは明らかだが、母をこんなにしたのは他でもない汚職をして今まで隠していた父の牲だった。
しかし他の政治家や汚職事件に関わった奴はもうとっくに保釈金を出して拘置所を出してもらっているのに彼だけがまだ拘置所にいるので弁護士に頼んだ。
妻と娘に心配かけたくなかった彼だが妻の事を思うと一刻も早く病院に行き謝りたかったのだ。
それに父は顔が知られている実業家で外国に逃亡する理由がなかった。という事で保釈金の相談に来た弁護士は和美にその事を先ず言って彼女の返答を待っていると以外にも早く冷たい言葉が返ってきた。
「ええ、でもその話はこの書類の山を先に片付けてからにしてください。父のために病院を潰すわけにはいかなくなったの。何十人の患者を見殺すわけにはいかないの。父もこの病院の経営者だったのだから知っていたはずでしょう」
と言いながらまた山積になった書類の一枚に目を通していた。
そして暫く黙って見ていた弁護士は、
「その書類なら私が何とか見て印鑑のいるものやあなたのサインのいるものは分けて置きますから、あなたはお父上の為の保釈金を銀行に行って下ろしてあげて下さい。その足で拘置所に行けば、まだ間に合います。お母様を早く楽にさせたいのでしょう……。だったらなお更その方がいいでしょう。お母様はきっとお父上様の声を聞くまでは逝かれないのではないのでしょうか。私はそういう気がしてなりません」
と言って更に一言耳元で付け加えた。
「これは医師の大内先生の言葉ですが…『ここ2~3日は持ちますが、それ以上は心臓にかなりの負担が掛かるので、それ以降持たそうとするのなら植物人間になるしか方法がないのです。その方があなたのお母様にとって酷だと思います…』とあなたの伯母様やご親戚の人達に言っておられましたよ」
と親戚の立場になって言って、
『死ぬ前に会せてやりなさい。あなたの言いたい事はわたしには手に取るように解ります。でもここは目を瞑ってお母様を一刻も早く楽にさせてお上げなさい』
と言っている目に見えた。
この時は随分と迷った割には決断が早く、それに母の置かれている病状を知っていた事もあったので保釈金を銀行から取り寄せてこれを拘置所に持って行って釈放してもらったが父は皆と違って喜ばなかった。
それは妻が危篤を意味していたからだが、その話は車の中では誰も口に出さなかった。重苦しい空気が漂う中、何も言わないのにスピードを上げてくれた運転士……。
そんな中、ラジオのスイッチもONにして交通情報を聞いて少しでも早く御主人の奥様が入院しているМ総合病院まで急いで走ってくれた。そして病院が見えて来た時さすがの和美も、助手席から声をかけたが、
「涙だけは見せないでね。お母さんは涙が一番嫌いだったんだから。お父さんもご存知でしょう?」
と聞いた…。
父もそれは心得ていたが、脳死状態では何も解らないのが当前だろうと思ったが娘は、
『母はまだ生きている』ということを兆強しているように聞こえた。彼女は汚職事件に関わった父を許そうとはしていない。
でも政治家に賄賂を贈り損したのは今回の場合製薬会社と病院側だ。しいて言うならば、これは父が政治家に騙されたのだ。
政治家A氏の方は汚職事件で有名になり今度の選挙はだめでもこの次の選挙で返り咲きが出来るのだが、病院や製薬会社はそういうわけには行かない。
一度信頼を失うと客は他の所に行ってしまうし、製薬会社も同様だろう。
ただし製薬会社と違うのは救急病院だけに急患が運び込まれて来た時の対応がどれだけ出来るかに掛かってくるが、そこが問題である。
その対応が今残っている医師達や看護師に掛かってくるが医師達が辞職願を出したらМ総合病院は個人病院だけに会社と同様、手形でなくても倒産してしまう。
家やマンションのような物件を手放しても、この病院だけは手放せなかった和美ではあったがどうして放せなかったのか自分でもわからない。
でも父もそうしたであろうと思ってやっていたが母の死を前にして、これでよかったのだと思った……。
しかし検察官としてのT氏はそれだけでは済まされずとことん調べていたが次から次へと不正が発覚して大物芸能人までもが、この不正に関わっていた事が明るみになり、マスコミには面白おかしく書かれるはで、大変な騒ぎにまで発達してしまった。
そんな中、和美の母親は静かに息を引き取ったが、父はその最期の時をずっと母の側を離れようとはせずに片手を両手で包み込むように握り締めていた。その姿を見守りながら涙を流していた和美…。母はこれで安心して旅立ち帰らぬ人になった。
その後和美は病院の経営を表向きは任せる事で一件落着したが、まだまだ不安があった父は和美に『なんだ、かんだ』と言ってアドバイスして教えてくれた…。
そして漸く軌道に乗り出し、あの事を皆が忘れ去ろうとしていた時、一通のはがきが和美宛に舞い込みT氏の結婚式に出席するか否かだけが書かれていたが、和美は思わずそのハガキを破り捨てた。
もう逢う事もないだろうと思っていたが、父親の裁判の時担当の検察官が告発したT氏だったために遭いたくなくても会う機会が多かった…。
しかし一審では執行猶予の判決が出た時は『ホッ』と胸を投げ下ろしたが、T氏としてはこの判決を聴いて悔しかったに違いなかった……。
ただしに二審を裁判所に上告して検察官の面目にかけて何とか重い罪を着せようとしたが、何故これほどまでに執念深くH総合病院の理事長を追い詰めるのか誰も知らなかった。父親は和美に、
「このままだと最高裁まで争う事になり兼ねないから言っておくが、T氏の両親を見殺しにしたのは他でもなく私だ」
と静かに言った。そして
「高裁で罪が重くなっても決して異議申し立てはする必要はない。私はあの時の罪だと思って償う」と言ってその父と彼の間に何があったのかは話してくれなかった。
でも二審の判決も地裁と同じだったので検察官のT氏も諦めたが、それでもT氏の顔は、
『いつかは刑務所に送り込んでやる』と言った目で和美の父を睨んでいた。
その後T氏は検察官として地方を転々と転勤していたが風の便りにしか今どこにいるのか解らなかった。
それに大学の同窓会をいつもT氏は欠席していて来ない。
和美も会いたくなかったのは確かだが心の中では会いたかったのは山々だった。
でも会えないまま25 年の歳月が流れ、和美は大内隆典を婿養子として結婚して今は二人の息子にも恵まれたが、あの時の母の担当医をした、結果久しくなってしまって結婚を和美の方から申し込んだ。
父も事理長の面目にかけても医師と娘が結婚してこのМ総合病院の後継者としてぜひ迎え入れたい人物を捜していたので丁度よかったが大内もこれで研究に夢中にやれると思っていた……。
今では二人の息子にも恵まれて幸せに暮らしていた和美だが、あの頃の事を甦らせた淳は自分の息子でありながら弁護士になりたいと言って大学は法学部に入ったのだが、まさか学生の身分で司法試験の筆紙試験に一発で受かるとは思ってなかった。でも受かってしまったものは、取り消しはできない。
だから和美は司法関係の仕事に就く事自体猛反対して来たのはこういう過去があったからだったが、でもやはり過去は過去として思い出だけに留めて置くべきだと思いつつ隆典自身も当時の事を思い出していた。
そしてT氏と言うのは和美といつも大学で話していた田原利之の事だと思い聴いていたが、そういう経緯で淳を認めないのは親として恥ずかしい事だと気付いた隆典は妻に、
「淳を認めてやりなさい。淳には彼の人生があるのだから…」
と言って司法試験が合格した事を話した。そして和美にとって何よりも信じられないのは隆典の次の言葉だった。
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