バンコクのど真ん中でスマホのバッテリーが切れそうになった話
白里りこ
愉快なタイ旅行
いやあ、参ったな!
私は今し方観光してきたワット・パクナム・パーシーチャルーンという寺院の、白い大きな塔のもとで、ちょっとした危機感に駆られていた。
タイのバンコクに一人で旅行に来た、その一日目のこと。名だたる名所を回った私は、夕飯を食べがてらぶらぶらするために、アミューズメントパークに行く予定であった。
その施設はチャオプラヤー川の向こう岸にあるし、チェックイン済みのホテルはそのもっと遥か向こうにある。いずれも、徒歩では辿り着けない距離な上、道筋はもちろん分からない。
そして現在、スマホのバッテリーが残り2%になっている。
どうしたもんかな、これ!
一人旅だから、スマホだけが相棒だった。何かトラブルがあったら、己の力とスマホの助けによって解決するしかない。ああ、スマホ。地図や公共交通機関について教えてくれるスマホ。珍しいものや美しい景色を写真として残してくれるスマホ。言葉が分からなくても翻訳してくれるスマホ。
死なないでくれ。君が死んだら私は、この右も左も分からん町で、野宿とかする羽目になる。それに食べ物の写真とかも撮りそびれてしまう。今から面白そうな料理を食べる気満々だと言うのに、写真が撮れないなんてあんまりだ。
何故、持ち歩きできる充電器を持ってこなかったかって? このスマホは私が一日中使い倒してもピンピンしている優秀なバッテリーが備わっているために必要性を感じなかったからだよ。
それなら何故、今になってこんなピンチに陥っているのかって? それには深い深い訳があるのだ。
あれは今朝──空港からバスに乗ってホテルを目指していた時のこと。降りるはずのバス停をとっくに通り越してしまっていたことに気付いた私は、急いで次のバス停で降りた。スマホで地図を開いてホテルまでの道を検索し、ガラガラとトランクを引きずりながら、正解の道を探してキョロキョロする。
そんな私に、声をかけてくれた人がいた。
見知らぬ男性である。
「何か困ってる?」
話しかけられると思っていなかった私は、やや驚いて彼を見上げた。
「あの……ここへ行きたいだけなんですけど」
男の人は私のスマホを覗き込んだ。
「ああ、それなら案内できるよ! 荷物も持ってあげる。ついておいで!」
彼は私の手からトランクをもぎ取ると、さっさと歩き始めた。
この時点で、私はこんなことを考えていた。
「私のような見ず知らずの外国人に、道案内をしてくれて、荷物まで持ってくれるなんて、とっても親切な人だなあ!」
よって私はノコノコと男性の後を追ったのだった。
彼とは英語でコミュニケーションを取っていた訳だが、私の英語力が低いこともあって、意思疎通が難しい時もあった。そこで役立ったのは、もちろんスマホである。私たちはスマホの翻訳機能を使ってコミュニケーションを図った。
やがて彼はトゥクトゥクを拾ってくれた。運転手のおっちゃんと話をつけてくれた。トゥクトゥクを降りたらホテルまでついてきてくれた。受付では二人で泊まるんだとか何とか、不思議な冗談を口にした。私がトランクを預けてホテルを出ても、まだついてきた。
いつまでいるんだこいつ。
私が疑問を抱いていると、彼は急に私の腕に自分の腕を絡めてきた。私が心底ギョッとして振り払うと、彼はこんなことを言った。
「こういうの気にする?」
気にするわボケ。めっちゃビックリした。異様に馴れ馴れしい奴だな。あれなの? タイの人って割とベタベタする文化なの? 意外。いや、こいつ、顔立ちとか肌の色とかがあまり典型的なタイ人のそれではないから、実は違う文化圏の出身なのかな。
ともあれ、私は断った。すると今度はこう言われた。
「君が好きだよ!」
ほほう、あれか。
私はあまりにも遅い気付きを得る。
あれだな、下心ってヤツだな。
私が、明らかに一人で来た比較的若い外国人観光客の女だから、目を付けたってことね。なるほど、なるほど。キモすぎ。ハゲろ。死んでくれ。
私がまた断ると、次はこうだった。
「何で?」
何でもクソもあるかバカタレ。あの程度で私の気を引けると思ったのか。自惚れも大概にしろや。
「私はあなたのことをよく知らないから」
「フゥン……」
ここで男は、方針を変えたらしい。
「とりあえず腹減ったし、美味い店に連れてってやるよ。あ、お金は君が払ってくれよな」
「……」
振ったのにまだ一緒に行動するんかい。よく分からん。飯代を払えば解放してくれるのかな? こんな奴に奢るのは至極もったいないが、それで付きまとわれなくなるなら、必要経費なのかも……。
そうして辿り着いたのは、ソーセージとスクランブルエッグだけ出すようなどうでもいい店だった。安いところで助かった……。私は心を無にして支払いをした。
ところが男はまだまだついてくる。イカレてんのか? いい加減どっか行け。しかるのち死ね。
私は、観光の時間が取れなくなるのでもう付き合い切れない、と伝えた。意味不明のキモ男に振り回されて貴重な一日を棒に振るなんざ絶対に御免だ。
すると男は、
「ここからじゃお金がなくて帰れないから200バーツくれ」
と言い出した。お前、勝手に案内を名乗り出たくせに、私のせいで帰れないみたいな言い方してんじゃねえよ。こっちは元から頼んでねえんだよ。
更にそいつは、
「やっぱ500バーツくれ」
と激しめの値上げまでして、全く引き下がらない。温厚な私も、流石に堪忍袋の緒がブチッと切れた。語気を荒げて抗議する。
「てめえ、今200バーツっつったろうが。スマホの翻訳にもそう表示されとるだろうが。何で値上げすんだよ。つーか何で私がてめえに金をやる話になるんだよ。やらねえよ!」
「いや、500バーツ寄越せ」
「やるか、そんなもん。意味が分からん」
「いいから500バーツ出せ」
超絶うざい。図々しいにも程がある。でも逃げ出したら何をされるか分かったもんじゃない。ケチって200バーツだけ叩き付けるのも不安が残る。そこで私は財布から300バーツ取り出すと、
「いいか、お前に金をくれてやるのはこれが最後だ。これ以上はビタ一文も出さない。私は忙しいんだ。とりあえず今からセブンイレブンに行くからな。あばよ」
とまくしたててスタスタとその場を後にし、ようやく男を撒くことに成功した。
無駄にちまちまと散財させられたし、時間も食ってしまったが、これも勉強代と思うことにした。奴のお陰で私は、知らん男についていってはいけないことを学んだのだ。
だが、これらのやり取りの間にちょくちょくスマホの翻訳に頼っていたせいで、まだ午前だと言うのにバッテリーが半分くらいになっていた。
誤算だった。こんなくだらん理由でスマホを使うなど、予想だにしていなかった。
その後も私は、地図機能に頼り切りだったし、写真も沢山撮った。バッテリーは順調に減り続けた。
そうして、今に至る。
全く許しがたい。あのアホンダラのスットコドッコイさえいなければ、バッテリーももう少しは残っていたはずなのに。クソがよ!!
どこかにコンセントのついた施設はないだろうか。念のためプラグで差すタイプの充電器は手荷物に入れていたから、コンセントさえあれば何とか……。
だがこの辺りは寺院の他には特に何も無い、ただの雑然とした住宅街。セブンイレブンすら見当たらないから、誰かを捕まえて尋ねることも難しい。いきなり住人に声をかけても不審がられるだろうし、周りには遊び回っている子どもくらいしかいないし……。
うーん、まずいな。何とかならんものか。
当てもなくウロウロしていると、タクシーが通りかかった。おお! 救世主だ! ラッキー! 私はサッと手を挙げて、助手席に乗り込んだ。
運転手は、白髪混じりのお爺さんであった。
「すみません、この付近でスマホの充電ができる場所を知っていますか?」
「? 〜〜〜」
何かを言っているが、聞き取れない。一応、繰り返してみる。
「スマホの充電がしたいです」
「〜〜〜?」
んん? これはもしや……英語が一言も通じない!? そうか、そりゃそういうこともあるよな……。私の想定が甘かった。反省。
よし、それじゃあひとまず、アミューズメントパーク方面に連れて行ってもらおう。そこならコンセントが見つかるかも!
私は祈るような気持ちでスマホを操作し、翻訳機能をタイ語に設定して、文面を見せた。
「アジアティーク・ザ・リバーフロントまでお願いします」
運転手はパッと笑顔になって、タクシーを発車させた。良かった、通じたみたいだ。
バッテリーは残り、1%。これがなくなればタイ語オンリーユーザーとは話せなくなる。踏ん張れスマホ。頼んだぞ。お前が何気に最後の1%で根性を見せることは分かっているんだ。
タクシーは住宅街を抜け、チャオプラヤー川にかかる橋の上を通った。向こう岸には観覧車が見えた。運転手は、「あれだね?」というような仕草をし、私は頷いて感謝を述べた。運転手は嬉しそうだった。
そうして無事に駐車場に到着した。私はお金を払うと、ついでにこのような問いをタイ語で表示した。
「この辺りには、スマホを充電できる場所がありますか?」
「〜〜?」
「もう1%しか残ってないんです」
「〜〜!」
運転手は笑い出した。そして、運転席と助手席の間にある荷物をどけて、空いた場所を指し示した。見ると、そこにあったのは──アレだ!! USBを差し込める、あの装置だ──!! こいつがあれば、私の持ってきた充電器も使える!!
こんなことなら最初からお伝えしておけば良かった!
「すみません!! 使わせてください!!」
どうぞどうぞ、という感じだったので、ありがたく使わせてもらう。運転手はノンビリと座席に座ったまま黙って窓の外を見ている。私も黙って待つ。
双方、沈黙したまま時が流れる。
どうしよう、これ、仕事の邪魔じゃないか。私はそわそわし始めたが、どうやら充電の効率が良かったらしく、じきに20%くらいにまで回復した。
私はまた、翻訳機能を用いた。
「お陰様でホテルに帰れます。本当にありがとうございました」
運転手はまた笑って、ドアを開けてくれたのだった。
こうして私は、スマホを存分に使って施設を楽しんだ。夕飯には、何かの汁に鴨の肉と苦い草と米粉の麺が入ったB級グルメと、スイーツ店で注文したドリアン・トーストと、フルーツミックス味のスムージー。私は全てしっかりと写真を撮り、施設からホテルまでのバスの乗り継ぎを調べ、バス停からホテルまでの道も調べた。
無事、到着! お疲れ!
へとへとになってベッドに倒れ込んだ私は、SNSに今日の写真をいくつか上げてから、シャワーを浴びに行った。
はあー、初めての海外一人旅、絶対に何か事件があると思っていたが、本当にその通りだった。なかなかにスリリングで面白かった。こういう刺激があるからこそ楽しめるってもんよ。自力でトラブルを解決することで自信も付くしな。
そう思えるのもスマホが生きていたからこそだ。運転手さんにはいくら感謝しても足りない。
さて、明日以降のスリルに備えて、ゆっくり休もう。
あと、もしまた海外に行くことがあったら、その時は持ち運べる充電器を用意しておこうな。
おわり
バンコクのど真ん中でスマホのバッテリーが切れそうになった話 白里りこ @Tomaten
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